(2-B)京都市電の沿線あちこち

    このコーナーは市電があったころの京都の街角のスナップです。
   
    写真は線区別に並べてあります。  このページには下記の線区を収めました。

 北大路線   東山線
 西大路線   河原町線、下鴨線 
 九条線    四条線  (7月20日 追加)
 七条線  トロリーバス 

 ・北大路線 

   北大路線は京都市電の外周路線の中でも比較的後期、昭和になって開通した区間です。

   北大路線の沿線は大正の中ごろに京都市に編入された区域も多く、沿線風景は比叡山を仰ぐ北大路橋

   付近の他は、あまり京都らしさのないところでした。

   ただ、小学校3年生のころ烏丸車庫の近くで暮らした私には、今回アップした景色は懐かしいものです。

路 線 当初開通 全 通 廃 止
年 月 区 間   
北大路線 1923年10月  烏丸車庫前
  〜北大路橋西詰
1935年12月 1978年9月
 烏丸車庫の操車室の前には、いつも何台かの電車が発車を待っていた。

 操車室の向うの建物は交通局の事務所で、2,3回訪問したことがあったが、今ではその跡地にショッピングセンターが出来ている。

(烏丸車庫前 1974.3)
 烏丸北大路から東、北大路橋方をみた景色。
 電車は北大路通りを西進して来た6系統京都駅行。

 6系統は烏丸車庫の担当ではあるが、烏丸車庫の直前を通らないので、乗務交代は高野の出先事務所で行われていた。

(烏丸車庫前 1974.3)
 北大路橋を渡り、烏丸車庫に向かう6系統。

 今では電車の向う側になかなか流行っている洋食屋さんがあるが、この写真にはそのお店が見えない。

(烏丸車庫前・植物園前間 1957.9)


 600型の4系統。
 烏丸車庫で出庫したところなのか、誰も乗っていない。

 現在はこの道路の下を地下鉄烏丸線がクロスしている。

(烏丸車庫前 1957.9)
 東山三十六峰の北端、比叡山を背に大正生まれの大型車500形が北大路橋を渡って来る。

 最近、この橋は改良工事が行われたが、この付近には昔の風情が残っている。

(植物園前付近 1957.9)
 上の500形の後追い写真。
 このころの京都市電は集電装置をビューゲルにしていたが、500形には少し不釣り合いだった。

 右に見える並木は5月15日に葵祭の祭列が通る賀茂街道。

(烏丸車庫前・植物園前 1957.9)

 西大路線 

   西大路線は京都市電の外周路線の中で一番最後に開通した区間です。

   最後の開通区間 白梅町〜円町は戦時中の昭和18年に開通しています。そんな時期に開通したのは

   西大路四条から梅津線の沿線に出来た軍需工場への従業員の輸送を要求されたからです。

   以来1978年の廃止まで、西大路線は通勤客中心の地味な路線であり続けました。

路 線 当初開通 全 通 廃 止
年 月 区 間   
西大路線 1928年11月 円町〜西大路四条 1943年10月 1978年9月
 西大路通を北行する22系統。

 近年はこの近くに地下鉄東西線の西大路御池駅ができて、町の雰囲気も変わっている。

 (西大路御池 1978.9)
 西大路駅前行の2系統。朝の急行運転の時間帯でのスナップ。

 このころの京都市電は朝のラッシュアワーに急行運転をして、表定速度の向上に努めていた。

 電車は大正生まれの古豪537。
 この時代には西大路通に高層住宅がほとんど見あたらない。

 (西大路三条 1963.1)
 西大路三条での嵐電との交差風景。

 市電の停留所名は「西大路三条」だったが、嵐電は長い間「三条口」と称していた。

 (西大路三条 1978.9) (九条車庫前 1969.9)
 市電廃止が迫った日の一こま。
 市電を写そうというファンの姿も見える。

 右手に見える重機は早々と安全地帯を取り壊しにやってきたものだ。

 (西大路三条 1978.9)
 西大路線の南端、西大路駅前付近を南行する市電。

 国鉄東海道本線をアンダークロスするこの付近では、夕立などの集中豪雨のときに道路が冠水して、市電が不通になることが度々あった。

 (西大路駅前 1978.9)

 九条線 

路 線 当初開通 全 通 廃 止
年 月 区 間   
九条線 1933年8月 大石橋〜九条車庫 1939年2月 1978年9月


   七条線は東山線とつながる泉湧寺道から九条通を西へ約4キロ、西大路九条までの区間で、京都市電の

   外郭線の一部を形成していました。

   この線の沿線は昭和初期までは全くの田園地帯で京野菜の九条ネギの産地だったのが、市電開通後に

   次第に都市化してきたそうです。
   

 九条通りを西に向かう7系統。

 7系統はこの先の九条大宮交差点で、東寺の塔を左に見ながら右折する。

(九条大宮 1969.6)
 大石橋交差点を九条通りから竹田街道へ左折する臨時電車。

 この電車は九条車庫から伏見線への送込みだったと思う。

(大石橋 1969.8)
 九条河原町停留所に停まる16系統。

 この頃の16系統は九条車庫から東山線、北大路線経由で烏丸車庫までの運転だった。

(九条河原町? 1973.5)
 九条車庫前停留所に集まる乗客。
 この人たちはおそらく、後ろの電車から前の電車に乗り換えているのだろう。

 九条車庫前では、後の電車が先行する電車に追い付くと、こんな光景がよく見られた。

 (九条車庫前 1969.9)
 九条線の九条河原町と東福寺の間は長い陸橋で、鴨川、京阪電鉄、国鉄奈良線をまとめて渡る。

 陸橋を渡り終えて、東福寺電停に近づいた辺り。
 近年まで、この付近の架線柱はきれいに残っていたのだが。

 紅葉のシーズンにはこの付近は東福寺への観光客で大混雑となる。

(九条河原町・東福寺間 1973.5)
 ドッコイショと坂を登って泉湧寺道停留所にたどり着いた市電。

 九条線の東端 泉湧寺道付近は東山の山麓とも言うべき地域で、九条線では最高地点になる。
 名刹泉湧寺へは、この停留所から少々歩かねばならない。

(泉湧寺道 1969.9)

 七条線   (2013年5月20日 3点追加)

路 線 当初開通 全 通 廃 止
年 月 区 間   
七条線 1912年11月 烏丸七条〜七条大宮 1934年10月 1978年9月


   七条線は東端の東山七条から七条通を西へ約4キロ、西大路七条までの区間です。

   この線の烏丸七条から東側は三十三間堂や国立博物館などがあり、清水寺や八坂神社などに向かう利用者も

   多い区間でしたが、西半分は比較的地味な区間でした。

 七条西洞院から七条堀川に向って来る1900形。

 西本願寺に近いこのあたりは仏具店などの多い界隈だったが、最近ではそうした店もあまり目立たない。

(七条堀川 1977年9月)
 七条大宮に停車中の1800形。
 この停留場の近くには平安高校があるので、高校生の乗降が多かった。

 平安高校は何時の間にか校名が龍谷大平安と変ったので、高校野球のニュースなどを見ると戸惑ってしまう。

(七条大宮 1977年9月)
 七条壬生川付近を行く2600形。

 2600形は600形の車体を延長し、連結運転が出来るように改造したものだが、連結運転は短期間で終わったので、その姿は写せていない。

(七条壬生川 1977.9) 
 
 東山線との交点、東山七条は名刹 智積院の門前。

 東山連山の山裾になるこの付近の標高はほぼ50メートル。
 七条線はここから西へ勾配を下って行く。

(東山七条 1978.5)
 三十三間堂前停留所にやって来た京都駅行6系統。
 京都駅へ向かう乗客が殺到する。

 この付近から写真の奥の方へはかなりの上り勾配で、秋には道の左側に見える国立博物館のイチョウ落葉で、市電がスリップすることもあった。

(三十三間堂前 1978.4)
 この停留所は七条京阪という人もいたが、七条大橋が正しい。
 京阪電鉄七条駅との平面交差もあり、車掌さんにも「七条京阪前」と言う人がいたが。

 写真は京阪電鉄の踏切付近から東を見た風景で、東山七条の智積院が遠くに見える。

(七条大橋 1970.2
 烏丸七条停留所に停車中の8系統。
 8系統は九条車庫〜九条車庫間、京都の旧市内の南半分を周る循環系統だった。

 七条通のこの付近は小さな商店が並んで中々賑やかだったが、今では京都駅ビルに客を奪われたようだ。

(七条烏丸 1977.9)
 1961年までは狭軌の北野線とクロスしていた七条西洞院を過ぎて、京都駅行4系統が行く。

 4系統はこの少し先、七条烏丸で右折して京都駅に向かう。

(七条西洞院 1977.9)
 堀川通を横切る市電。

 後方の寺院は興正寺。その隣の真新しい建物は興正寺会館。
 この角度で見る景色は今も大きく変わっていないはず。

(七条堀川 1977.9)
 七条大宮を過ぎて七条堀川へ向かう8系統。
 8系統は九条車庫〜東山七条〜西大路七条〜九条車庫と循環する系統だったが、四条通や烏丸通など中心街を通らないので、少々影の薄い系統だった。

 右手の樹木が茂っている辺りは龍谷大学の入口。

(七条大宮付近 1977.9)
 梅小路機関区には最寄り停留所だった七条壬生川。

 今でも梅小路蒸気機関車館にはこの付近のバス停が近い。
 この辺りの町並みは今もあまり変わっていないようだ。

(七条壬生川付近 1977.9) 
 山陰本線の下を潜り抜けた4系統が顔を出す。

 撮影の頃には御覧のように山陰本線は高架になっていた。

 地平時代の山陰本線を写していないのは汗顔の至り。

(山陰本線交差付近 1977.9)
 西大路線と七条線の市電がT字に接続する西大路七条。

 安全地帯には乗客も多い。

 電車は東行の8系統。後方には西大路線の電車が顔を見せている。

(西大路七条 1977.9)

 東山線 

   京都市街の東端を南北に走る東山線は京都市電で最後まで残った路線の一つ。
   沿線には清水寺や八坂神社など観光地が多く、京都駅からこの区間に至る6系統はよく混んでいました。

   また、この線には京福電鉄叡山線と京阪電鉄京津線との平面交差があったのですが、私は意外なことに
   その付近であまり撮影していません。

 

路 線 当初開通 全 通 廃 止
年 月 区 間
東山線 1912年12月 東山三条〜渋谷通 1943年7月 1978年9月
 東山線のこの付近は1913年に開通した古い区間。

 写真の奥のほうで小高くなっているのは琵琶湖疏水を渡る徳成橋。
 橋の手前、左手には川端警察署がある。

(東山二条 1978.8)
 京都市電の最後が近付いたころの東山仁王門停留所。

 戦前には、ここから左に分岐して平安神宮の前を通り、京阪電鉄京津線蹴上に至る路線もあった。

(東山仁王門 1978.8)
 京阪電鉄京津線とクロスする東山三条交差点を北上する1800形。

 手前の線路は京阪電鉄京津線のもの。
 京津線が地下に潜ってから十年以上になる。

(東山二条 1978.8)
 交差点の真ん中に交通整理の警官が立ち、古豪500形の6系統京都駅行が東大路を南下する。

 このころ、後方に見える八坂神社の社門が改築中だったことは全く忘れていた。

(祇園 1958.3)
 東山五條電停を発車する700形の6系統。
 この辺りは春秋には京都で一、二の混雑する所だ。

 正面に大きな甍を見せる寺院はなくなり、跡には清水焼関係の展示場が出来ている。

 東大路通りはこの付近が最高地点で電車はここから坂道を下る。

(五條坂 1963.3)
 上の写真の右奥から反対側を見た景色。
 安全地帯の電車は600形の7系統北行。

 この日はお盆の休日で大谷本廟への参拝者が多いはずだったが、なぜか人影がまばらだ。
 安全地帯の向こうに鉄道写真家高橋弘さんのお宅が見える

(五條坂 1961.8)
 五條坂停留所を出て大谷本廟前を過ぎる900形。

 現在のこの場所は、頭上に国道1号線の高架橋が出来て東山の山並みは見えず、、醜悪な景観になってしまった。
 こんな場所に高架橋を造った人の感覚が疑われる。

(五條坂 1964.1)
 東大路通りを南行する7系統。
 写真のNo935は900形のラストナンバーだった。

 現在では、写真の左手の築地塀の屋敷はなく、跡にはホテルが建っている。

(馬町付近 1958.3)
 東大路通りを北に向かう7系統。
 街路樹の松並木は珍しい。

 この辺りは平日なら女子大生がたくさん見られる華やかなところだが、写したのが春休み中だったのは残念。

 もっとも、私はギャルより鉄に関心があった。それは今も同じ。

(東山七條付近 1958.3)
 東大路通りを北に向かう8系統。

 左後方の大楠は今も健在で、この辺りの町並みは線路が消えた今もさほど変わりがない。

(今熊野付近 1969.6)

 河原町線、下鴨線 

   河原町線、下鴨線は烏丸線とほぼ並行していました。
   河原町線はすぐ東にあった、明治時代に京都電鉄が造った木屋町線に替わる路線として昭和初期に開通し、
   下鴨線の区間は戦後になっての開通と、建設の時期はずいぶん離れています。

   この沿線は京都一の繁華街があるかと思えば下鴨神社付近の住宅地を通るなど、様々な表情がありましたが
   何故か、私はこの沿線をあまり写していませんでした。

路 線 当初開通 全 通 廃 止
年 月 区 間
河原町線 1924年10月 河原町今出川〜河原町丸太町 1929年1月 1977年10月
下鴨線 1956年10月  河原町今出川〜洛北高校前 1956年10月 1977年10月
 塩小路通を京都駅前に向かう5系統。次は終点京都駅前。

 この系統は烏丸車庫の担当で、河原町通、北大路通、千本大宮通と京都市内をU字形に走っていた。

 手前に見える線路は河原町線と伏見線の連絡路。

(塩小路高倉 1969.8)
 こちらは錦林車庫が担当の2系統。

 この系統の方向幕は「銀閣寺」となっているが、実際の運転区間は銀閣寺から先も白川通、丸太町通、西大路通を経て西大路九条まで延々と続いていたが、終点まで乗り通す人など無かっただろう。

(塩小路高倉 1969.8)
 伏見線との分岐点 塩小路高倉に差し掛かる古豪500形。

 左手前へカーブしている線路は伏見線で、2系統や5系統など河原町線の電車は直進する。

 右に看板が見える「金時屋煮豆店」は今もあるようだ。

(塩小路高倉 1969.8)

河原町五条停留所の辺りは繁華街でもなく、住宅地でもなく、これと言って特徴がない一角だった。

 この付近は京都電気軌道が開通させた木屋町線に替って、昭和初期に建設された区間だ。

 写真の反対側には明治村に移築された教会があったのだが、写していなかったのは残念だ。

(河原町五条 1977.9)
 四条河原町交差点の北側の風景。
 手前を左右に通るのは四条線のレール。

 電車は800形は登場してまもない、ツーマンの原型のままの姿だ。

(河原町線 河原町四条 1961.2) 
 京都市電500形は大正末期から昭和初期に作られた、京都市電最初のボギー車。

 単車ばかりだった当時、この車はさぞ大きく見えただろう。
 写真の時代は中扉を閉鎖していたので、約13.5メートルの全長が一層長く見えた。

(河原町線 河原町四条 1961.2)
 拙い写真だが、私には思い出の多い写真。
 河原町通のこの付近には昔懐かしい看板が並んでいる。

 架線を吊るビームが片持ちなのは祇園祭の山鉾巡行の邪魔にならないため。

(四条河原町 1977.9))
 河原町通を北上する5系統。

 廃止を控えた河原町線の路盤には、かなりの痛みが見える。

(河原町線 河原町荒神口 1977.9)
 この場所は昭和36年に開通した下鴨線に含まれる区間。
 ただし、公式には下鴨線という名はなく、河原町線の一部だったはずだ。

 余談だが、手前のワーゲンのデザインは、今見ても古さを感じない。

(河原町今出川 1976.3) 
 葵橋を渡る2000形。
 登場時にあった連結器は撤去されている。

 この葵橋は1956年の開通時には電車専用橋だった。
 もっとも、橋脚は道路部分まで作られていて、電車の開通後2年ほど後には車道も完成したが。

(葵橋東詰付近 1977年9月) 
 葵橋の東詰にある一風変わったデザインの家庭裁判所は、市電を写した沢山の人々の写真の背景に何度も登場する。

 だが、この建物も何時の間にか建替えられている。

(葵橋東詰付近 1977年9月) 
 下鴨神社のかたわらを行く1800形。

 前面窓を開け放しているこの写真を見ると、この日は残暑が厳しい日だったと思い出す。

(葵橋東詰付近 1977年9月)
 下鴨本通を北行する2600形の5系統。

 40年余り前には、この付近の道路は下鴨本通と立派な名前で呼ばれていても、道沿いには元は農家だったらしい家も残っていた。

(下鴨神社前付近 1977年9月)

 四条線 

   四条線は八坂神社の社門前の祇園から、昔は阪急京都線のターミナルだった四条大宮まで、約3キロの
   短い区間ではありましたが、京阪電鉄との平面交差あり、狭軌の北野線との3線区間あり、と変化に富む
   沿道でした。

   ただ、明治末に開通した区間のことで道幅が狭くて渋滞も多く、運転士泣かせの区間ではあったようです。

路 線 当初開通 全 通 廃 止
年 月 区 間
四条線 1912年6月 四条小橋〜四条西洞院 1912年12月 1972年1月
 今回は祇園祭のシーズンに因み鉾と市電のからみをアップした。

 長刀鉾をきわどくかすめて、7系統の900形が行く。

 カメラアングルのせいか鉾が傾いて見える。

(四条烏丸 1963年7月)
 祇園祭の間だけ仮設のセンターポール区間を600形と700形が行き交う。

 鉾は月鉾。
 こうして見ると、この頃の四条通にはビルらしい建物が見えない。

(四条烏丸 1963年7月)
 この写真は600形がブレてしまった。

 鉾は函谷鉾だと思うが、町並みは今と全く変っている。
 戦災に遭わなかった京都の町並みも、日本人の手でつぶしてしまった。

(四条烏丸 1963年7月)


 祇園で折返す17系統。
 17系統は京都の町の中心部と南西部を結ぶ系統だったが、運転間隔も長く、少々影の薄い系統だった。

 写真の車輛No606は戦後に車体を更新した姿。
 更新前は車体側面が車両ナンバー付近で床下機器を隠すように垂れ下がっていた。

(祇園 1958年3月)
 祇園交差点を北へ曲がる21系統。

 車輛のNo686は600型の増備車で、戦前製の600形より窓が1個多い。
 戦争中の資材不足で完成が遅れ、登場したのは戦後になってからだった。

(祇園 1958年3月)
 真新しい700形が八坂神社の前を行く。
 700形のほとんどは今は無いナニワ工機製だった。

 今頃気付いたが、文献によると700形一次車の竣工は1958年4月のはずで、この写真の撮影年月は間違えているのかも?

(祇園 1958年3月?)


 八坂神社の楼門を背にした700形の1系統。

 1系統は壬生車庫から出て壬生車庫に戻る完全な循環系統で、その気になれば何周でも乗っていることが出来、小学生時代には良い遊び道具だった。

(祇園 1968年.3月)
 新製後間のない700形が7系統に入っていた。
 場所は四条通東向線の祇園停留所。

 八坂神社に近い四条通のこの付近でも、商店はほとんどが瓦屋根だった。

(祇園 1958年3月?)
 四条通を東に向かう700形。
 写真が悪くて系統が見にくいが、行先は「くまの」と表示されているから、21系統だろうか。

 写真の場所は今ではアーケードが出来、建物も変わって見当が付きにくいが、花見小路の少し東のはずで、写真左側に見えるお店はその後改築している。

(祇園付近 1958年9月
 四条京阪前停留所で電車を待つ人々。

 市電の線路と交差するのは京阪電鉄1000形。

(四条京阪 1963.5)


 南座を背景にした800形後期車。
 前面中央窓の幅が広い800形後期車は、前から見ると900型と見分けが付け難い。

 背後の南座は改築されたが、姿はほとんど変わっていない。

(四条京阪 1969年頃)
 「四条河原町新京極」とは長い停留所名だ。
 四条河原町と新京極、二つの停留所を統合したためこんな長い名になった。

 この一帯は京都一の繁華街だが、撮影したのは日曜日の朝早くだったので閑散としている。

(四条河原町新京極 1971.9) 
 廃止が近付いてきた頃の四条通。電車は東行する7系統。

 軌道敷内の自動車通行が認められてからの四条通は、先を争って割り込む自動車の百鬼夜行の世界となった。

 どこの都市でも一緒だが、軌道敷内の自動車通行を認めることは路面電車廃止に直結する。

(新京極付近 1971年9月)
 四条烏丸交差点から東を見た眺め。
 大丸百貨店が大きな顔をしている。

 この辺りは祇園祭の時に鉾の通行の邪魔にならないよう、センターポール区間になっていて独特の景観だった。

(四条烏丸付近 1958.9)
 四条烏丸交差点を西に向かう7系統。

 この写真では、架線を吊るビームが片持ち式に変ったことがわかる。
 これは祇園祭の山鉾巡幸のときに、ビームが妨げにならないようにしたもの。

 背後の銀行や証券会社は今ではみんな名前が変った。

(四条烏丸 1971年9月
 四条烏丸交差点を渡る1000形。

 交差点中央に交通整理の警官のお立ち台があるが、それが交通の邪魔にはならなかった時代だ。

 背後の三和銀行ビルは姿を消し、目下新ビルを建設中。

(四条烏丸 1958.9)

 月鉾の横を行く単車 200形。

 京都市電の単車は、1961年に廃止されたN電(狭軌1形)は別として、最後まで残ったのは1959年廃車の300形で、写真の200形の最期は1957年だったと思う。

 この写真はかなり早朝から写しに行ったように覚えている。

(四条烏丸付近 1957年7月)
 祇園祭の鉾と市電を合わせて撮った写真の中の一枚で、鉾は月鉾。

 今ではビルの隙間に立つ感じになってしまった鉾だが、町屋が立ち並ぶ時代にはずいぶん高く見えた。  

(四条烏丸付近 1958.7)
 四条線の名所、北野線との3線共用区間。

 N電のゲージを見るたびに、国鉄の車はこんな軌間で走っているのか・・・と、その狭さに感心?したものだ。

(四条西洞院 1956.6)
 四条西洞院交差点を通過する20系統。

 運転席の両側の窓を開け放った姿に、冷房のなかった時代の車内の暑さを思い出す。

(四条西洞院 1971年9月)
 堀川通りの交差点を過ぎて四条大宮に向かう1600形の7系統。
 7系統も完全な循環系統だった。

 京都市電の線路網は碁盤目だったので、循環系統が作りやすかったのだろう。

(四条堀川付近 1971.9) 
 四条線の西端、四条大宮停留所。

 阪急京都線のターミナルが大宮だった時代、この停留所の付近は阪急と市電との乗換え客で賑わっていた。
 しかし、阪急が河原町まで乗り入れて以後、その賑わいは消えた。

(四条大宮 1971.9) 

 トロリーバス 

   京都市交通局のトロリーバスは都市交通の路線としては日本最古のもの。

   1932年に開業したのは1.6キロの短区間ではありましたが、山陰本線や嵐電との平面交差がありました。
   この区間は元々は市電を延長する計画だったのが、山陰本線との交差部をどうするかが問題となり、トロリー
   バスの採用となったようです。

   私が子供の頃には開業時にイギリスから輸入されたレトロバスのような車輛が残っていましたが、廃止時は
   写真の300形ばかりに変わっていました。

   トロリーバスは電車とバスの中間的な存在で、営業上どちらに含めるかは都市によって扱いが様々でしたが、
   京都では市電の路線として扱われていました。

路 線 当初開通 全 通 廃 止
年 月 区 間
トロリーバス 1932年4月 四条大宮〜西大路四条 1962年5月 1969年10月
四条大宮でUターンするトロリーバス。
 ラッシュ時のトロリーバスは、このUターンに難儀していた。

 トロリーバスの車庫は、当初は市電壬生車庫を共用していた。

(四条大宮 1969.9) 
 トロリーバスの起点 四条大宮停留所に到着する300形。

 この停留所は市バスや市電の停留所とは少し離れ、現存するお寺の門前にあって、乗換は少々面倒だった。

(四条大宮 1969.9) 
 四条大宮停留所風景。

 背後の寺院は今ではビルの狭間になり、嵐電の四条大宮駅もオフィスビルの下に替った。

(四条大宮 1969.9) 

 私がトロリーバスを写したのは300形ばかりと思っていたら、100形の写真もあった。

 100形は1ドアのバスそっくりの車体で、朝夕の通勤客が多い時間帯には渋滞の原因になったからか、早くに姿を消した。

(西大路四条 1957.9) 

 三菱重工(現在は三菱自動車工業)の工場沿いに走るトロリーバス。

 この道路にトロリーバスの前身、市電梅津線が敷設されたのは、この工場の従業員輸送のためだった。

(南広町 1969.9) 
 高畝町で折返す区間運転系統のトロリーバス。

 写真の300形は市電梅津線をトロリーバスに置き換えた後の輸送力アップのために投入された、前後2ドアの大型バス並の車だった。

(高畝町 1969.9) 
 京都の中心道路のはずの四条通りも、このあたりに来ると場末の感じになる。

 トロリーバスがこの付近を走り始めたのは1962年。この付近に住宅が立ち並び始めたのはその時代からだった。

(梅津段町 1969.9) 


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