Grand Slam 緊張など今更の間柄だとは思うけれど。 それでもやはり一緒のベッドに入って彼と向き合うことは、多大な恥ずかしさと居心地の悪さ、そして一抹の罪悪感と不安を不二の心の中に呼び起こした。本当は視線すら合わせるのも避けたいのだが、このような至近距離ではそうもいかない。しかし、内心のそのような心許ない感情とは裏腹に、不二の口から出てきた言葉は、 「……手塚、変な顔」 ムードもへったくれもないその言葉に、今にもキスしようとしていた手塚は出鼻を挫かれた罰の悪そうな顔で小さく息をつく。 「仕方ないだろう。これでも緊張しているんだ」 「へぇ。キミでもするんだ、緊張なんて。そんな人間らしい反応、キミとは無縁だと思ってた。へえ……」 自らの動揺など最初から存在しなかったように綺麗に隠して。感心したように呟く不二に、手塚は端正な口元を斜めにした。 「あたりまえだろう。どれだけ――俺が待ったと思っている」 「……うん、まあね」 「ようやく念願が叶ったんだ。俺だって緊張くらいするさ」 行為を続けようとする手を押し留めて、不二は必死に言葉を捜す。 「念願ってあまり期待するのもどうかと思うよ。反動って怖いからね。いざ手に入ってがっかりなんてなったら目も当てられな――」 しかし、可愛くない憎まれ口は、強引に合わせられた唇の中に吸い込まれた。 「……っ」 抵抗する間もなく、舌先が入り込んで。 貪るように絡められ、ただ翻弄される。図らずも身体の力が抜けてしまい、胸元にぴったりと寄り添う姿勢になってしまった。彼の腕の中、まるで誂えでもしたかのようにすっぽり収まる。不二も少しは身長が伸びたが、手塚はそれ以上に伸びた。普段であれば忌々しくも思えるはずの体格差も、こうしているとなんだか少しだけ嬉しいものに思えてしまう。 ああ。すでに随分と毒されていると、ぼんやりする頭の片隅で不二は思った。 だから――だから、彼とこうなるのは嫌だったのだ。ギリギリまで引き伸ばして逃げて、できたら心に蓋をして封じ込めてしまいたかった。 そうすれば、きっと不二はもっと楽に生きていけたに違いないから。 けれど、苦しくても辛くても、彼を切り離すことだけはできなかった。不二がここまで来られたのは手塚がいたからで、自惚れでなければ、その逆もまたそうなのだ。 ・ ・ ・ ・ ・ プロテニスプレイヤーである手塚国光と不二周助。 同じ日本人――しかも同じ中学出身でありながら、彼らの仲が非常に悪いという噂はテニス界においては至極当然のものだった。すなわち、火のないところになんとやらである。 その証拠に、普段の二人は視線すら合わせない。会場や控え室ですれ違っても顔色ひとつ変えないどころか、挨拶もしない。対戦するときはさすがに向かい合い握手も交わすが、それはあくまでも儀礼的なものだった。 押しも押されぬ世界ランキング一位と二位。永遠のライバルと言って差し支えない立場の二人ならば、それも無理はないのかもしれない。元友人であっても――否、友人であるからこそ余計に手は抜けないのだろう。彼らの行動は頂点を目指す厳しさ故のもので、周囲もそれを当然のように受け入れていた。 だから。 手塚のグランドスラムがかかったこの全豪オープン決勝、試合前の握手のときに二人が言葉を交わした姿は、テニスを知る者にとっては随分と奇異なものに映った。珍しいというかなんというか。もしかしたら、雨どころか槍でも降るのではないか。 しかし、彼らが交わした会話はすべて日本語の上、至極小さい声だったため、会場の中でその内容を聞き取れた者は誰一人としていない。 「……不二、今日こそは観念してもらうからな」 レンズ越しの視線をひたと見据えて手塚は言う。 「冗談でしょ。僕はまだまだそんな気にはなれないからね」 「嫌でもなってもらうぞ。……あの約束を覚えてないのか?」 「…………」 「俺は今日おまえに勝つ。そしてあのときと何一つ、おまえへの気持ちは変わっていない」 手塚の言葉に、不二は弾かれたように顔を上げた。 「おあいにく様。試合する前から勝手に決め付けないでくれる? 第一キミがグランドスラムを達成するのはまだ早いよ。僕がきっちり阻止してあげる」 ふふっと楽しげに笑うその表情は妖艶にして可憐。 不二のファンは女性も多いが、同じくらい男性も多い。テニスプレイヤーとしては華奢な体躯、その容姿は昔と変わらずどこまでも綺麗で愛らしい。 「できるものならやってみろ」 少しの動揺も見せずに頷く手塚は、まさに王者の貫禄だった。 この数年の間、手塚の戦績に土をつけたものは目の前に立っている不二周助のみ。不二がいなかったら手塚はもっと早くに日本人初――かつ最年少でのグランドスラムをいとも簡単に達成していたことだろう。 しかし、その不二はこの半年右腕の故障で戦線離脱を余儀なくされていた。久々の復帰の舞台が、この全豪オープンである。ブランクなどまったく感じさせないテニスで、不二は大会を勝ちあがった。しかもメルボルン会場のハードコートを不二は一番の得意としている。 決勝のカードは大方の予想通り。だが、その勝敗の行方を占う声は大きく割れていた。不動の強さを誇ってきた手塚がようやく念願の栄光を手にするのか。それとも怪我からの復帰で勢いづいている不二が、得意のコートでその華麗なプレイを見せ付けるのか。 世界中が注目する一戦――その火蓋は今まさに切って落とされた。 「え……、手塚、それって……」 告白というには、あまりにさらりとした言葉。 まるで明日の練習メニューを告げるような、そんな淡々とした面持ちで手塚は自分の想いを不二の前で口にした。部活が終わって偶然二人きりになったとき――季節は春、そして二人は中学三年生だった。 「おまえが好きだ、不二」 そう言って手塚は長い指で不二の髪の毛にそっと触れて息をつく。 「ああ……やはり、思っていた通り柔らかいな」 「……っ」 びくりと身を硬くした不二は、その手を乱暴に振り払った。 「やめてよ、僕……男だよ。キミ、一体何を言って……」 「解っている。だが、俺はおまえが好きだ。そして、できればおまえにも俺のことを好きになって欲しいと思っている」 「そんな……無理」 無理だよ、と不二は唇の中で繰り返す。 手塚のことなんて、とっくに好きだった。一年生のとき、初めて彼のテニスを見たときから、三年になる今まで。ずっとずっと彼のことを視線で追っていた。惹かれていた。 だけど、その想いはきっと思春期の一過性のもの。手塚に気持ち悪いと思われるのは嫌だから、一生言わないでおこうとそう決めていた。 想いを隠すことが辛くなかった訳ではない。けれど、それがお互いのためだと思っていた。 なのに、どうして―― 「どうして、そんなこと言うのさ……」 「おまえが好きだから」 苦渋の問いかけに返ってきた言葉は、あまりにさらりとしていて。しかし、レンズ越しの深い眼差しはまっすぐに不二に注がれていた。 ああ……と不二は思う。 そうだ。手塚がそう言ったなら、きっとそうなのだ。冗談や勘違いなんかではないのだろう。 けれど―― けれど、それに飛びついて縋ってしまうには、あまりに不二は自信がなかった。今は本当の気持ちでも、人には心変わりというものがあるから。そして失望されるのが怖い。手塚はただでさえよく告白されるのだ。不二と付き合いそれに失望して、やっぱり可愛い女の子がいいと言われたら、自分は立ち直れなくなってしまう。 きっと、一度手塚を心の中に入れたら、不二はそれで埋め尽くされてしまうだろう。手塚だって不二を心の一部には置いてくれる。けれど、不二は全部を彼のため空け渡してしまうのだ。 手塚の存在だけで空っぽになった自分など、きっと彼にとってもなんの魅力もないだろう。それに不二だってそんな自分は嫌だった。 手塚のことは好きだ。 けれど、そう言って正面から向き合うだけの強さが、今の不二にはまだなかった。 そう「まだ」だ。 いつかはきっとそうなりたい。いや、ならなくてはいけない――彼のためではない、自分のために。そして、そのときもまだ、手塚が今のように自分を想ってくれているなら、そうしたら―― 「じゃあ、手塚。約束しよう」 不二の言葉に手塚は僅かに瞳を見開いた。 「キミが……キミがプロになってグランドスラムを達成したら、いいよ。僕はキミのものになる。キミのことを好きになる」 「不二……」 手塚は不二の言葉をしばらく黙って考え、大きく溜息をつくと、 「随分と気の長い話だな……」 「そう? キミのやる気次第だと思うけど。それに人一人の人生を狂わせようって言うんだから、そのくらいして貰わないと」 「人生……?」 怪訝そうに口元を斜めにする手塚に、不二は「そうだよ」と亜麻色の髪を揺らして笑った。 「そうだよ。あいにくホモになる予定は僕の計画にはなかったんだ。うっかりなっちゃって、すぐに心変わりされるのも嫌だしね」 「そんなものする訳ない。俺は不二が好きだ」 「あー、はいはい。口ではなんとでも言えるから行動で示して」 「…………」 思わず言葉に詰まる手塚に、不二はふふっと笑ってみせる。 「無理なの、手塚? テニスで世界を目指すのは決まってるんだから、頂点と一緒に僕のことも手に入れてみなよ。僕のことが本当に好きだったら」 ね? と首を傾げて、不二はふわりと微笑んだ。 「ああ、わかった」 きっぱりとためらいなく頷いた手塚。 だが、次の瞬間、彼はその漆黒の瞳を再び大きく見張ることになる。 「もっとも、僕も簡単に落ちる気はないから。全力でキミのこと阻止させてもらうけどね」 ・ ・ ・ ・ ・ 「やっぱり……好き、だなあ」 微かに掠れた不二の言葉に、手塚は「ん?」と顔を上げた。 ついでに毛布を引っ張りあげて、きっちりと顎まで不二の身体を覆ってくれる。 手塚は優しかった。行為の最中も、こうやって終わった後も。 優しくて、そして余裕がなかった。性急な動作も、それでいて精一杯の気遣いも、すべてが愛しくて涙が出そうになった。 やっぱり、好きだ。彼のことが。 どんなに自分を誤魔化しても、できるだけ離れてみても何も変わらなかった。好きな気持ちは減るどころか年月を経るごとにどんどん増えていっぱいになっていった。 手塚が好きだ。大好きだ。 しかし、不二の唇から出た言葉は、 「やっぱり好きだなあ、テニス」 きちんと目的語を明確にされ、手塚は当てが外れ心底がっかりしたかのように肩を落とした。 「なんだ、俺のことではないのか」 その様子があまりに可笑しくて不二は笑う。 一頻り笑いを納めてから、ふっと真剣な顔つきになると、 「去年はずっと怪我と戦ってて、正直、もう止めたいかなって思ったこともあったんだけど。でも、キミとテニスをしてね、やっぱりテニスって面白いなあと思った。同時にちょっと口惜しいかな。第二セットの最初のミスショット……あれ、ほんと口惜しい。流れを完全に持っていかれたよね」 「ああ……俺も第三セットが悔やまれる。サーブミスもあったし、本当にまだまだだな。おまえのブランクと疲れがなかったら、正直危なかった」 「……バレてたの?」 驚いたように瞳を見張る不二に、手塚は「当たり前だろう」と息をついて、 「後半、ずっと右肩が下がっていた。早く医師の診察を受けた方がいいな」 「そのつもりだったところを、問答無用で誰かさんに攫われたんですけど?」 不二の言葉に、手塚は僅かに顔を赤らめた。 「仕方ないだろう。それだけ必死だったんだ」 「へえ……」 「ようやくだからな。ずっと俺はおまえにこうしたかった」 亜麻色の髪を一房持ち上げ、その端にそっとキスをする。不二は瞳を細めておとなしくそれを受けながら、 「……がっかりしてない?」 「何がだ?」 「期待、し過ぎて。こんなもんかって失望してない?」 「馬鹿な。なんでももっと早くこうできなかったのかと、自分の実力不足が悔やまれるだけだ」 手塚の言葉に、不二は安心したように息を吐いて笑う。 「それならいいんだけど」 「ああ。だが、ひとつだけ不満がある」 「……?」 「けじめというのは解るが、あんなに完璧に無視しなくてもいいだろう。確かに馴れ合わないことも大切だと思うが、あれは少々堪えたな。本当におまえに嫌われているのかと思った……」 しみじみと思い返したような手塚の言葉に、不二はぷっと小さく吹き出して。 「だって、そうじゃないときっと絆されちゃうし。僕はキミほど強い人間じゃないからね」 「……?」 「こっちのこと。あー、それより早く練習したいな。今はどう考えても無理だけど」 念願と言うだけあって、手塚の情熱は不二の予想を遥かに超えていた。もちろん彼なりに手加減はしてくれたらしいが、身体の奥に疼く鈍い痛みはどうやっても誤魔化しようがない。微かに形の良い眉を顰めた不二に、手塚は見る見るうちに項垂れて「すまない」と繰り返す。 「すまない……不二。大丈夫か?」 心配そうに見つめてくる手塚に、不二は「駄目」と言って枕に顔を埋めた。 「駄目だから、ちゃんと協力してね」 「……?」 「僕は欲張りだから、キミも欲しいしテニスもしたい。こういうことができるのは、オフシーズンで練習がないときだけかな? あ、あと、前みたいに一緒に練習もしたいな。ライバルなのは変わらないけど、でも、もうちょっとキミと一緒に居られたら嬉しいし」 「不二……」 手塚が驚いたように瞳を見張る。 遮るレンズのない夜空のような瞳。不二は細い指を伸ばすと手塚の前髪をかきあげ、現れた秀麗な額にそっとキスをした。 「……好きだよ、手塚。大好き。ほんとはずっと前から好きだった」 不二の言葉に手塚は感極まったように俯いて。「ああ……」と僅かにくぐもった声で頷くと、ようやく自分のものになった小さく細い身体をそっと抱き締めた。 私の大好きな7716のchieさまより923222hit(クニミツフジhitですよ〜v)のキリ番小説を頂きました。 リクエストしたのは同じ世界で生きる二人ということで、つまりテニスでも向き合ってる手塚と不二でした。 不二君がテニスを続けるのはいろんな意見があるところですが、私の中でも手塚はプロ、不二君は違う世界にいながら手塚を支える存在・・っていうイメージが強く、それに惹かれてもいました。けどアニプリ3部作や、原作で手塚のテニスをきっかけに自分を変えていく不二君を見て、不二君もプレイヤーっていいなと思うようになっちゃったのです。 でも、ただ二人がテニスをしてるところを求めているのでなく、やっぱり基本は塚不二loveじゃなくちゃっー!なんていう思いがあるだけに自分には難しすぎる設定なんですが、ここまでステキなお話を作り上げてくださって、感謝の気持ちいっぱいです。 7716さまのお話は私が初めて読んだ塚不二で、こんなにCP小説がステキなものだったなんて!と衝撃的だったのを覚えています。chieさまのサイトがなかったら、塚不二は知らないままだっただろうし、私が塚不二サイトすることもなかったと思います(きっとドリーマーのまま・笑)。そんな大好きな、憧れのchieさまにこんなステキなSSをプレゼントしてもらって、私ってなんて幸せなんでしょう。chieさま、ステキなお話を本当にありがとうございました。ずっと大切にします。 ☆7716さまはコチラですv |