何処まで来たのか、何処まで行くのか何も分からないままペダルに掛ける足を下ろせずにいる。
いっそこの朱の世界に溶けてしまう事が出来たらどんなにいいか。
満たされた時が思い出の中にしか活きることができないのなら
僕は何故ここにいるんだろう。
ここに残る意味はなんだったのか。
目の前に広がるのは残酷なまでの朱。
それでも僕は求めずにはいられなかった。
君と見たあの小さな夕焼けを。
もう一度ここに映し出せたなら、
君の生まれた10月7日を最高の記念日として祝うことが出来る、そんな気がして―――
REFLECT T 〜Happy birthday dear Tezuka〜
信じられないものを見たとき人は冷静になれるものだと僕が知った出来事だった。
朝の苦手な僕がまだはっきり覚醒もしないうちに制服を身に着けることは日課になっている。
ぼんやりした思考のまま白いシャツに手を通しボタンをかける。
少し細めの腰にベルトをしっかり止めた辺りから一日の始まりを自覚し始める。
10月に入ってすぐ衣替えがあり一週間前まで半そでを着ていたというのに、重苦しい学ランを羽織らなければならない。
詰襟のフォックを堅苦しく止めることに未だ窮屈な感が拭えないほど秋は深まってはいなかった。
「校門まではこのままでいいか。」
正しい着こなしをすることは別に嫌ではなかったが、敢えて自分から整えたいと思うほど僕は正確この上ない人間でもない。
クローゼットを閉める直前に扉の裏側にある姿見でいつも一応身なりのチェックを入れる。
その頃には漸く思考もはっきりして起きる義務への憂鬱な気分から開放される。
だから見間違いではない。
仮に寝ぼけていたんだとしても、それなら次の瞬間誤認だったことに気付くだろう。
夢でもない・・はずだ。
鏡の中の僕が今、僕ではないことは明らかだった。
「君、誰?」
オカルトとも呼べるこの状況に感情的になれず、落ち着いてられるのは鏡の中の僕のせいだろうか。
いや、僕とはあまりにかけ離れた姿をしているその彼を「僕」と形容するのは正しくはないのだが。
彼は驚く表情を微塵も見せず、まっすぐ僕を睨みつけている。
揺るがないその瞳が僕を自然と冷静にさせた。
もしかして僕が見えてるように、彼には僕が映っていないのか。
それとも彼にとっては珍しくもないことなのか。
しかし彼が僕に返した台詞はこれが超常現象だということを認めざるを得ないものだった。
「お前こそ誰だ。どう見ても俺ではないように見えるが。」
「それは・・こっちが言いたい・・よ。君は僕じゃない。」
彼は確かめるように後ろをちらっと振り向いてもう一度僕を見つめる。
「お前は鏡の向こうにいるのか?・・・驚いたな。」
「驚いた?そんな風には見えないけど。」
「いや・・・実に戸惑っている。」
鏡の中の彼は全く説得力がないほどに淡々としているが、これを驚愕しない人間などいたら会ってみたい。
つまり騒ぎ立てて事を荒立てるタイプではないということか。
「そっちこそやけに落ち着いているが、こういうことはよくあることなのか?」
彼に映る僕も僕が見ている彼と同じらしい。
「こんなこと、初めてだよ。僕だってものすごく戸惑ってるんだ。」
「そうなのか?全く動じてないように見えるが。」
彼の出で立ちから学生であることが分かった。
高校生かな。・・にしては身長が低く感じる。
どう見ても僕とあまり変わらないような気がする。でも実際はもっと高いのかもしれない。
だって顔つきは大学生と言っても通りそう。でも大学生なら学ランなんて着てないだろうし。
やっぱり高校生かな。とにかくこちら側と時間の差がなければこれから学校へ行くはずだ。
「その姿、学校・・行くんだよね?」
「ああ。」
「僕も行かなきゃ・・じゃあ・・この辺で。」
「ああ、そう・・だな・・・」
クローゼットを閉めようと扉に手を掛けた。
現実逃避―――
この不可解な現象を解するよりも、とにかくこの場を離れて事を穏便にすましたい。
お互い学生、学校という都合のいい逃げ場を利用して早く日常に戻ろうというわけだ。
結局人間というものは未知の出来事に遭遇した時冷静になれるのだとこのとき悟った。
いや、なれるのではなく、なろうとするのが正しい言い方かもしれない。
僕はここにきて初めて落ち着き払った自分の態度が恐怖というものだと気が付いた。
逃げなきゃ・・
何かの映画で見たようにいきなりこいつが僕の腕を掴んで鏡の中に引きずり込むかもしれない。
待ってるのは暗黒の闇、そこで悪の支配者であるこの男に僕はいいように弄ばれる。
奴隷になるのか、それとも売り飛ばされて見世物にされる・・いやその前に
殺されるかも―――
瞬時にして魔境物語〜地獄編〜を作り上げた僕は、彼が学生らしいことや僕と同じように驚いていた事などすっかり忘れて
目の前の魔人から逃れないとこの命が危険だと必死だった。
一刻も早くここを閉めよう。
逸らした目の端に僕とは正反対に真っ直ぐ見つめてくる彼の姿が映った。
その顔が徐々に扉の影に消えていく。
最初で最後だろうか。それとも彼はまた現れるのだろうか。
そんなことは分からないが、とにかく僕はこの場を離れようと思った。
「おい――」
心臓が飛び出そうになった。
完全に扉が閉まる時、硬直するように僕は手を止める。
逸りだした心音が更に加速して動き出し、ドクンドクン・・・あまりの揺れに胸が苦しいとさえ感じた。
もうすでに視界から彼の姿は消えていたが、まだそこにいるのだろう。
「まだ、なにか?」
僕はあくまでも冷静を装って僅かな隙間から漏れでた声に扉を開くことなく答える。
「いや、お前・・・名前は何て言うんだ?」
思わず生唾を飲み込んだ。
そんなことを聞いてどうするつもりなのか。
まさか彼はまたここで僕に会うつもりでいるのか。
「不二・・・不二周助だよ。・・・君は?」
「手塚国光だ。」
いつの間にか震えだしていた手にぐっと力をいれる。
「じゃあ・・ね。」
「ああ。」
何故自分の名前を言ったのだろう。
何故彼の名前を聞いたのだろう。
この事実から逃れようとする反面、どこかで予感する僕がいた。
またきっと彼に会う。
そう、それが僕達の運命―――?
闇の様にどこまでも深い黒の瞳が僕の脳裏にいつまでも光沢を残した。
「ただいま!」
キッチンにいるだろう母に声だけを掛けて、ろくに顔を見せることもせず僕は自室に駆け込んだ。
先日初めて参加した秋の構内ランキング戦で見事レギュラーを勝ち取った僕に、今日真新しい青学ユニフォームが届いたのだ。
1年でレギュラーを取ったのは今回僕一人、普段の練習が特別メニューにになった事を除けば、何が変わったわけでもない部活動。
下級生であることには違いなく、当番も雑用も当たり前のようにやってきた。
元来、上に立って人を引っ張るタイプではないから、レギュラーと言っても誰かの指示に従って付いていける今の状況がありがたい。
押しのけて伸し上がろうとか、そんな欲もないし。
だけどレギュラー専用のユニフォームはそれなりに嬉しかった。
このジャージに身を包むことはやはり入部時からの憧れでもあったし、どうせなら勝ちたいと臨んだランキング戦だったから。
自然と気持が浮かれていたのだろう。
乱暴と取られても仕方がないようなドアの閉め方。
階下で母さんが「どうかしたの?」と声を上げた。
「ごめん。ちょっと勢い余っただけ。」
言い訳しつつも早速袋からだしたレギュラージャージを両手で掲げて、裏返したりまた面向けたりと満足極まりなかった。
学ランを脱いでそっと手を通してみる。
内側に刺繍された「不二」という二文字。前身ごろを捲って確認してからファスナーを閉めた。
似合ってるかな・・・
僕は自分の姿を見ようとクローゼットに手を掛けた。
そして思い出す。
「あっ・・・」
部活が始まるまでは気になってたのに、練習が始まると今朝の奇妙な出来事なんて考える間もなく、そのまますっかり記憶の果てに追いやってしまっていた。
そしてレギュラージャージを手渡され、るんるん気分で帰って来てしまった。
自分で思う以上に有頂天になっていたのかなあ・・。
それはそれで少々子供っぽい自分にショックを受ける。
けれどそんなことよりも、もしまた彼がいたらどうしようと僕は再び怯えにも似た感情を抱きだした。
だってこれを「怖い」と思うのは当然の事ではないか。
あまりに非現実的な出来事過ぎて解釈のしようがない。
しかも彼は闇黒の魔人かもしれないのだ。
誰か呼んで来ようか・・でも家族を巻き込むようなことになったら・・・。
あくまでも仮想だったはずの魔境物語が僕の中では既に現実になっている。
僕は恐怖に震える手にぐっと力を込め、ゆっくりとクローゼットを開けた。
そこは何ら変わらぬいつもの様子を見せる。
棚の幅に合わせて並べられた文庫本の数々、下の方には中学受験用の参考書やパソコン用の資料が収まっていた。
日常使わない物を種類わけにした小さな収納ボックスが作りつけの棚の上に並んでいる。
たくさんの洋服が畳み仕舞われているその上にはコートやジャケット、パンツが吊り下げられていた。
そして―――扉の側面にある姿見・・・
恐る恐る鏡の向こうを見遣ると、そこには着なれないジャージに身を包んだ僕が映っていた。
一気にぐんと圧し掛かっていた肩の重みが抜け落ちると同時に、はぁ〜っと長い安堵の溜め息が漏れる。
いつの間に汗など掻いてたんだろう。じわりとべたついた額を拭ってもう一度覗き込むように鏡の中を見た。
やっぱり僕だ。
こうなればあれは悪い夢だったのだろうか、と疑問に思えてくるあたりが僕も案外簡単な奴だと思えてならない。
本当のところよく分からないが、このまま何事もないならば深く考える必要もない。
そう結論付けた僕はレギュラージャージ姿の自分に眼を向けることにした。
少し大き目かな。でも似合わなくはないな・・。
くるりと回転して鏡に背を向ける。
そのまま後ろを振り返れば背中にあるのはSEIGAKUのロゴ。
実戦ではまだ何の活躍もしてないものの、このジャージに手を通すことができたのはやはり名誉なこと。
レギュラー取りは実力重視、試合の結果如何で容赦なく入れ替わる。
部活を引退するまで二年弱、責めてこれを脱ぐことがない程度には頑張らないと。
ちょっぴり気合を入れて鏡に向き直った。
「ひっ・・」
僕は声にならない声をあげて、まるで金縛りにあったかのように鏡の中の人物に身体の自由を奪われる。
そこには闇黒の魔人、手塚国光が僕を射抜くように見つめていた。
「すまない、驚かせたようだな。」
鼓動が耳に響くほど心臓が大きな音をたてる。
「ところで一つ聞いていいか?」
「ぼ、ぼ、僕は食べても美味しくないよ。」
ここまで来たら冷静もへったくれもない。
慌てる上等!どうであろうと逃げ切ったほうの勝ちだと、それが逃げ道になるのかどうか分からなかったがとりあえず思いついたことを口にのせた。
「何の話だ?」
「僕をどうするつもり?こ、殺すの?」
「殺すだと?」
「それとも生き血を吸って魂を支配するとか。ま、まさか僕だけでなく家族も狙ってるんじゃ・・。」
魔人は僅かに目を瞠って、呆れたと言わんばかりの台詞を吐いた。
「お前、サイコスリラーの見すぎじゃないのか?」
「サイ・・。」
「確かに説明も付けられないこの状況、恐怖を感じるのも仕方ないが、生憎俺は極普通の人間だ。」
「・・・・・」
普通の人間だと言われても、何を根拠に信じればいい?
騙されていると言ってしまえばそれまでだ。
彼の瞳の色は闇のように暗く深い黒。見つめられると動けない。
でも・・・何故だろう?どこか光が見える。強い眼差しには何をも揺るがせない意思のようなものを感じる。
恐怖と共に彼に魅かれる自分がいる。
まるで吸い込まれるかの如く僕は鏡に手のひらをあてた。
引き合うように彼も自分のそれをあわせる。
鏡を隔てて僕達の手のひらがちょうど合わさる形になった瞬間伝わってきた不思議な感覚。
一枚の紙の表と裏のようにぴったり相俟ったような・・・。
彼に抱いたよくない感情が少しずつ払拭されていく。
彼は僕が探していた―――
「て・・づ・・」
何かに操られるように彼の名前を唇が綴りかけたその時―――
「おいっ!!」
急に大きな声で鏡の向こうの手塚が叫んだ。
何事かという声に僕もはっと現実に戻る。
「な・・に・・?」
食い入るようにとはまさにこのことか。
僕を映しだす彼の目はさっきまでとは変わり驚きが隠せないほど見開いて、その視線を鏡を越えた僕に突き刺してくる。
僕というより僕が羽織っているレギュラージャージの上着を見ているのか。
襟元をくいっと引っ張って問う。
「これ?・・どう・・か・・したの?」
「お前、青学のテニス部なのか・・?」
ごくりと唾を飲んだ。
そういえば彼が着ている学生服。
ありがちな学ランなんで気付かなかったが、詰襟にある校章は明らかに青学のもの。
「まさか・・・君も青学の生徒・・なの?」
「ああ・・・。」
僕達の間に微かに走った緊張感。
同じ学校の生徒だったなんて。
どういう経緯でこうなったのか、何故鏡を通して僕達は出会ったのか。
この手塚国光という人物が何者なのか。
「ねぇ、君は高等部の生徒なの?」
「いや・・・おそらくお前と同じだろう。中1だ。」
「なっ!!!」
先程までとは全く違った意味での驚きだった。
あまりに落ち着きはらった風貌、もう少し背が高かったら絶対中学生では通らないだろう。
僕は絶句して開いた口が塞がらなかった。
「老けていて悪かったな。」
こいつは透視までできるのか!?
い、いや魔境王国の人間ではなかったんだった・・・。
「そんなこと!!ぼ、僕は何も言ってないよ。」
適当に取り繕って得意の愛想笑いを浮かべてみるが、
「無理して笑わなくてもいい。」
「・・・・・っ」
何故、作り笑顔と分かるのだろう。
鏡たる所以か?
あまり他人に感情を読み取られることがないだけに、言葉に詰まる。
「昔から年相応に見られたことはない。それに誰に言われなくても分かっている。・・・爺くさいくらいは。」
爺くさいと言う前に少々間があった。
分かっていても認めたくない部分ということか。
ぷっ――
魔境王国の魔人でさっきまで身の危険を感じたほどの奴が、目の前で機嫌を損ねてすねた素振りを見せていることが何だか可笑しい。
僕は耐え切れず吹き出してしまった。
「くっくっく・・。」
「何が可笑しい?」
「だって・・・僕、確かに驚いたけど・・・爺くさいまでは思いつかなかったよ。」
くすくす笑う僕になんとも罰の悪そうな表情をつくる。
そして鏡越しに目が合うと、手塚も小さく吹き出してつられるように笑い出した。
鏡―――
それは自分自身の姿をそっくり映し出すもの。
目の前に映る姿が自分でないことは紛れもない事実。
だけどこの手塚という男は自分を反映しているんじゃないだろうかと思うほど違和感がない。
僕は群れを成すのが嫌いだ。だけど孤独でいることはもっと嫌だった。
だから適当に取り繕って友人を持とうとする。
けれど時々偽善じみた自分が馬鹿げて、そして酷く疲れていることに気付く。
自分本位で都合のいい考えだとは分かっている。
でも僕はいつも自分が自然でいられる誰かを探し求めていた。
他人と接していてこれほど誰かといることを意識させない奴は初めてだ。
もちろん接すると言っても実際触れることができるわけではない。
しかもついさっきまでは、怯え、逃げようとして相手にだ。
だからこそ分かる。一緒にいることにただ慣れただけの奴とは違うのだと。
同じ世界に生きる相手なのかどうかそれも分からない人間にこんなに魅かれるなんて。
同じ世界に生きる――?
そうだ、何気に話が逸れてしまったが彼は僕と同じ青学の1年だと言った。
もしかして学校に行けば会えるのか・・・。
「ねぇ、君、何組なの?僕達は実際に会ったことが――」
そこまで言いかけた僕だったが手塚がそれを遮った。
僕の僅かな期待を否定する形で。
「いや、残念ながらここ以外に俺たちに接点はなさそうだ。」
「なんで!?どうしてそんな事分かるの?」
僕の疑問に少し考えるように「ああ」とだけ言って、手塚は鏡から離れる。
ここで初めて鏡に映っている僕が手塚なだけでそれ以外の風景つまり部屋の中は僕の部屋だということに気付いた。
もちろん僕が手塚といっても違う人間なのだから本物の鏡のように同じ動きをすることはない。
鏡に背を向けて少し奥へ移動する手塚。2・3歩進んだその部屋は僕の部屋だけど、手塚の動きはそれに沿わない。
つまり手塚はおそらく彼の部屋であろう造りに合わせた動作をしているのだ。
驚いたのは手塚が「何か」に触れた瞬間その「何か」は僕の目に映し出される。
鏡の世界は手塚以外は全て僕の部屋を反射させたものだが、手塚が触っているものは僕の部屋のものでなくても見えるということらしい。
僕の空間と君の空間、その境界は漠然たるもので極めて曖昧だったが、そもそも不自然な現象の中、それをもどかしく思うことのほうが馬鹿げている。
要するに鏡の中、君だけがぼんやり異空間に浮いているような感覚だった。
手塚はバッグからビニールに入った洋服のようなものを取り出した。
白を基調にところどころ鮮やかな青と赤が見える。
まさか―――!?
僕の眼が大きく開眼する。
先程手塚が僕を射抜くように見つめていた時とまさに同じ顔をしているだろう。
「これを見てくれ。」
鏡の前に戻ってきた手塚がそれを広げる。
左胸元にSEIGAKUのロゴ。
ところどころに彩られる青と襟元の赤は青学を象徴したカラー。
「そ、それは・・・」
言葉に詰まる。
俯いて今自分が着ているジャージを掴んで見つめた。
彼が持ってきたものそれは今日僕が手にしたばかりの青学テニス部レギュラージャージと全く同じものだった。
けれど僕が所属するテニス部に手塚国光と言う男はいない。
それが何を意味するのか。
偶然に同じ名前の学校で同じデザインの校章、そして同じユニフォーム・・・なんてことは有り得ない。
手塚と僕は同じ青学に通い、同じテニス部に入っているにもかかわらず互いは別の世界にいる。
「な、何だかこんがらがってきちゃったよ。」
疑問符が飛び交うだけの僕とは違い手塚は顎に軽く手を添え、静かに何かを考えるように言葉を繋いだ。
「俺たちの境遇は同じ・・・ということだな。正直信じがたいが、どうやら俺とお前は異次元の空間にいることは確かなようだ。」
「異次元?」
「ああ、俺の現実はお前には存在しない世界ということだ。そしてお前の現実も俺には存在しない。この鏡の前を除いて。」
互いに存在しない世界がこの一枚のミラーを通じて繋がっている。
「ねぇ、じゃあ僕達はずっと交わることはない・・のかな。」
「今までの話を統合して考えるとそういうことだと思う。」
僕は言葉を失った。
深い喪失感のようなものを感じたんだ。
やっと巡りあえたと思ったのに。
さっきまで恐怖を感じてたくせに説得力に欠けるけど。
でも僕は気が付いた。短い時間でも伝わる思いがある。
いや、短い時間だからこそ通じ合うものの大きさが分かるんだ。
彼は僕が探し求めていた人物だということが。
一人じゃないのに一人でいるように寛げる、家族でもなく自分を曝け出せる存在。
僕が僕でいられる場所。
やっと見つけたのに、触れ合うことができないなんて。
「どうかしたのか?」
手塚は急に黙り込んだ僕を気遣わしげに覗いてきた。
『なんでもないよ。』と普段の僕ならにっこり笑って相手に気持ちを悟らすようなことはしない。
だけど僕は笑う気になれなくて、手塚に気遣うこともできず沈黙し続けた。
ショックな想いが表情に不機嫌な色を浮かべているだろう。
嫌な奴だと思うだろうか。子供っぽいと呆れるだろうか。
そんなことを気にしながらもどうしても自分の感情を隠すことが出来なかった。
でも手塚が発した言葉は僕を十分に汲み取ったもので。
「お前とは何か通じるものを感じるのにな。俺も残念だ。」
僕は俯いた顔を上げた。逸らした視線を手塚にもどした。
そして手塚は僕の眼を優しく見つめながら言った。
「だが失望するより喜ばないか。例えここでしか会えなくても俺たちは出逢えたんだ。そう思わないか?」
手塚は「俺も」と言った。
僕達が交わることの出来ない世界にいることを「残念」だと言った。
それでも彼はこの出逢いを喜ぼうと言ったんだ。
「そう・・だね。」
「おい・・不二?」
心から嬉しいと思うとき、笑顔じゃなくて涙が出ることもある。
幾分焦った彼を見て僕は慌てて訂正した。
「違うよ、手塚。僕は嬉しいんだ。君に逢えたことが。」
そう、君に逢えて良かった。
例え同じ世界にいなくても、例え触れることが出来なくても、逢えないよりはずっといい。
不思議だね、時間にすればほんのわずか。
でも僕の中では君はもうなくてはならない存在になっていた。
そして始まる――――君と僕との時が。
君に会う毎日が楽しくて話すことが嬉しくてそして何よりも心が安らぐ、そんな時間を僕達はこれから送っていく。
でもまだ知らなかった。
君と出逢った今日、10月7日が君の生まれた日だったことも、
そしてやがてくる僕達の終わりが奇しくも10月7日であることも。
僕はまだ知らなかったんだ。
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