『笹百合と不如帰』

 私の故郷の梅雨の時期には、山の裾野や叢に淡いピンク色の笹百合の花が、すてきな
香りを放って、可憐な姿で咲いていた。私は毎年、梅雨の時期になると笹百合の花の
香りを求めて、野山を歩き回っていた。瑞瑞しい緑色の叢の中に、笹百合の花の姿を
見つける度、私は毎年のように感動していた。それに何とも言い表せないあの笹百合の、香りが漂う梅雨の季節を、子供のころから密かに、待ち焦がれていたものだった。
私は長い間、笹百合のことを、山百合だとばかり思って疑わなかった。随分、私が大人になってから、すぐ上の姉から私の故郷に咲いていた、百合の花の名前は、
葉っぱが笹の葉に似ていることから、『笹百合』という名前だと教えてもらった。
 私は幼いころから花の中では、百合の花が一番好きだった。今では百合の花にも新しい品種が、多く増えていることだろう。私の故郷には、赤い色の中に黒い点々の模様の
ある、鹿の子百合や、あの当時母が畑に植えて咲かせていた、鉄砲百合などがあった。
 私は長女が生まれた時主人と相談のうえで、私が小さいころから大好きだった百合の
花のことお、忘れられなくて『さゆり』と名づけることにした。長女には百合の花の
ように気高く、優しい女性に育って欲しいという願いを込めて名付けた。
 故郷の野山に笹百合が咲く梅雨のころ、夜になるとあの何とも言えない哀愁にみちた、不如帰の鳴く声が聞こえていた。
めったに不如帰の鳴き声は、聞こえてこなかったので、いつも夜になると私は耳を
澄ませて、不如帰の鳴き声が聞こえて来ないかと、今か今かと待っていた。私はあの
何とも言えない哀愁に満ちた、不如帰の鳴き声を聞くことが大好きだった。不如帰の鳴き声の表現は、場所によっていろんな言い方があるように聞いている。私が育った
地方では、不如帰の鳴き声を「ホッチョンタケタカ」と、表現していた。
 その昔、戦国時代のころに織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の3人の有名な武将たちが、不如帰をめぐって、それぞれの思いを五 七 五に読み込んだ歌がある。信長は、
「鳴かぬなら 殺してしまえ 不如帰」と言い、秀吉は、「鳴かぬなら 鳴かせてみよう 不如帰」と言い、家康は、「鳴かぬなら 鳴くまで待とう 不如帰」と言ったという
お話は、3人それぞれの性格を現していることで、昔から有名な逸話として伝えられて
いる。私はこのお話を通して、疑問が心の内に幾つかわいてきた。なぜ、「不如帰」
なの?他にも鳥はたくさんいただろうに…。不如帰という鳥は、戦国時代の昔から、
あまり鳴かない鳥だったのだろうか?だから、「鳴かなければ殺してしまえとか、
鳴かなければ鳴かせてみようとか、
鳴かなければ鳴くまで待とうなんて言われたのだろうか?昔から不如帰の鳴く声を、誰もが心待ちにしていたのだろうか?
 あれは一昨年の夜のことだった。私は悪性リンパ腫の病気が再発して、4月の終わり
ごろから7月の初めごろまで、病院に入院しながら抗がん剤治療を受けていた。ある夜のことだった。堅く閉ざされた病室の窓の向こうから、不如帰の鳴く声が微かに聞こえて
来るのを、私の耳がキャッチした。「あっ!!あれは確か不如帰の鳴き声だ。」
とても懐かしく哀愁に満ちた不如帰の鳴き声を、私はベットの上で僅かな時間、耳に
神経を集注させて聞いていた。突然の窓の外からの声の訪問者に、心が癒された思いだった。不如帰の鳴く声に興味のない人には、夜中不如帰の微かな鳴き声など、聞こえては
いなかったと思う。
 不如帰は中型の鳥で、全体は黒色で白い斑点模様があることや、不如帰は自分の卵を
他の鳥の巣に産んで、他の鳥に育てさせることを何かの折に聞いたことがある。不如帰は、なぜ自分で卵を育てないのだろう?いくら習性だと言っても、なんだかあの哀愁に
満ちた鳴き声に似合わないような気がしてならない。
 今年も梅雨の季節がやってきた。私の故郷の野山では、笹百合がすてきな香りを
漂わせて咲いているだろうか?不如帰は今もあの哀愁に満ちた声で、故郷の山野を鳴き
ながら飛んでいるだろうか?そんな高原の村にも、静かに雨が降っているだろうか?
 私の実家の父は、丁度6月の梅雨の時期に亡くなった。今もそうだけど父が亡くなった頃も、お葬式は土葬だった。故郷で一生を送り、故郷の土の下で眠っている父母や、
兄たちのことが時々羨ましいと、思うことがある。私は悪性リンパ腫の病気になって
から、しばらく実家のお墓参りに行っていない。だから、故郷の土に眠っている父母や
兄のことを偲んで、私は、今夜心だけのお墓参りをしようと思う。

2004/06/蒸し暑い梅雨の夜/