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ピヨの物語/小さな心が傷つく時
(私のトラウマ体験)

私は食道楽で嫌いな食べ物がありません。ただ1つ鳥肉を除いては・・・
私が鳥肉を食べられないのは、一つのトラウマ現象です。 鶏がらのスープなどは全く平気で、さっぱり濃くのある味が好みだったりもします。 トラウマになった原因は、私が小学4年生の10月頃にまでさかのぼります。
当時から私は動物が大好きだったんですが、ペットと呼べる物は 「どうせ世話なんか結局お母さんがする事になるから」とお決まりの理由で飼ってもらえず 猫、犬等を見かけては触りたくて追っかけまわしていました。

そんな時にどういう訳か、学校の正門をちょっと外れたところで人だかり・・・・
気になって覗いてみると、ひよこ釣りの出店が(金魚すくいと同じような露店) 糸の先にうどんがついていて、それをひよこの入っている箱の上に垂らし食いつかせ 引き上げてひよこが15cmほど持ち上がればそれをもらえると言う物で、1回30円ぐらいだったと思います。 私はどうしてもそのひよこが欲しくて60円を使って5羽をゲットしました。
当時、捨て犬、捨て猫は見かけましたが“捨てひよこ”と言うのは見たことがなかったので 絶対、飼ってもらえると思い両親に怒られるのを覚悟で家に連れて帰りました。
案の定怒られはしましたが、露店のひよこなど直ぐに死んでしまうだろう と言う思いが両親にはあったようで「ちゃんと面倒を見る」と約束をして飼う事になったのです。
3羽のひよこは連れ帰った時からすでにかなり弱っており、1週間ぐらいで死んでしまいました。 他の2羽は餌もよく食べ2週間目には「まるっ」て感じの姿になっていました。 ところが3週間目のある日、飲み水の入った容器をひっくり返してしまい羽が濡れてしまって 1匹は早いうちに乾いたのですが、もう一匹の方はなかなか乾かず体温が下がってしまって次の日の朝 には死んでしまい5羽もいたのに1羽だけになってしまって「生き残ったこの子は絶対に死なせない」 と子供ながらに決心したのを覚えています。安直な命名ですが、名前は「ピヨ」でした。


その頃住んでいた家は6戸1棟の長屋で、庭はなくピヨは当然室内飼いでした。
少し背の高いダンボールがピヨのお家でしたが、1ヶ月もすると箱を飛び越えるようになってしまい 母がピヨの足に紐を結びテーブルの足にくくりつけていました。当時母は内職でミシンを踏んでいて、よくピヨが 踏み板の下に入り込んで潰れるのではないかと気が気ではなかったそうです。
そのうちに足にくくりつけた紐をくちばしで器用に解くようになり、やっぱりミシンの周りをうろうろして邪魔になるので、仕方なくひざの上に載せたところ 安心したように、母のひざの上で眠ってしまうようになりました。それ以来、家族が全員出払ってしまい 母がミシンの前に座ると母のひざの上がピヨの定位置になったようです。
学校から帰ると宿題はそっちのけで、まずおやつを食べて(昔から食い意地だけは立派です・・・笑) ピヨと遊んでいました。散歩をしたり光物をあっちこっちに動かしてつつかせてみたり 追いかけっこ(当たり前ですが私が鬼)したり、喧嘩させてみたり(勿論、私と) 昼寝をしたり、週1回は必ずシャンプーしたり・・・etc

鶏とは思えない飼い方でしょ?でもピヨは、鶏とは思えない行動をよくしていたのですよ。
それはピヨにとっては大事件だったのですが、まだ鶏冠がない頃の事です。 鳥は光る物に興味があるらしく、父が寝転んでタバコを吸っているのを見ていて
吸い込んだときにタバコの火が赤く光るのが気になったらしく、光った瞬間“パクッ”って 咥えたのです。父もビックリ、ピヨもビックリ、あまりの熱さに『ビィ〜ー〜』と叫んで 垂直に50pぐらい飛び上がりそれから・・・・・・一目散に台所にいた母の下に走って行き 母の足元で「ひぃーひぃー」と鳴きながら地団太を踏んでいるのです。 まるで「熱いよー、ママ助けて!」とでも言っているようでした。
ピヨのあまりの慌てぶりにただ事ではないと察した母がどうしたの?と 声をかけると、ピヨは母の周りをぐるぐる走り回って訴えつづけているのです。
一部始終を部屋の入り口で見ていた私も慌てて台所に行き タバコの火を咥えた事を伝えおろおろしていました。
ピヨを捕まえ抱き上げると、くちばしを開いたまま舌をだして「ひぃ〜」と哀れで元気のない声。 母がぐい飲み用のお猪口を用意してくれたので、とりあえず冷水を入れ ピヨの前においてあげると、開いたままのくちばしを自分で冷水につけて 火傷をしたと思われる舌を冷やしていました。流石にその日は舌が痛くて餌を食べられなかったようでしたが、 次の日にはいつもと変わりなく餌をつついていたので、火傷は思っていたほど重傷ではなかったようです。


その日以来、ピヨの方からは父に近づかなくなりました。 父は「なんでもかんでも考えなしにつっつくからや、やっぱり鶏やな」 等と言いながら撫でていましたが、父が近づくとピヨは母のもとに直ぐ避難してしまうようになりました。

ピヨの一番幸せなときは、夕食が終わった後ちゃぶ台に座っている母のひざで眠る事 だったと思います。鶏が警戒心を全く持たずに眠っている姿ってどんな格好だと思います?
・・・もうこれ以上伸びないと言うほど首を伸ばしきって、 頭がひざから落ちて畳に付き、羽はだらりと力なく体からずれ落ちて 全身の力を抜いてしまうんですよ。間違えてのびっきった首をポンと叩けば即死です。 ここまで人間を信頼してくれるピヨが、私は、可愛くって仕方ありませんでした。

ピヨは雄鶏だったので成長したら時を告げるようになりました。 誰にも教わっていないのに野生の血ってすごいですね。最初は「コケ〜、コケ〜」から始まり「コケコ〜〜」になり「コケココ〜〜」 次が「コケッココ〜〜」最後には「コ〜ケッコッコ〜〜」と立派に鳴くようになりました。
でもその頃にはピヨは、自分が鶏である事を知らないんじゃないかな? とよく思っていました。だって犬を撃退しちゃうんですよ。
ある日、外で自由に散歩させていると3,4ヶ月の柴の子犬が近づいてきたのです。 ピヨはいきなり戦闘体勢!!突然飛び上がり犬の鼻先めがけて先制キック炸裂、 続けて目頭を突っつく、子犬はビックリしたのと痛さでキャンキャンと鳴きながら 飼い主の下へ退散する。という鶏とは思えない武勇伝があるのです。

そんなピヨを手放さなくてはならなくなったのは、一人前に鳴けるようになってから 1ヶ月ほど経ってからのことでした。ある日の朝突然に両親から 「ピヨを貰ってもいいって言ってくれる人がいるから、その人に上げるからね。 ピヨも大きくなったし、好き勝手に土の上を歩きたいだろうから広い庭のある田舎の方がいいでしょう。」
あまりにも突然の両親の言葉に納得できない私は、「どうして?なぜ?ピヨ、どうして?」 私には他の言葉が見つからず登校時間になるまで「どうして、なぜ?」を繰り返し両親に尋ねました。 「学校から帰ってきたらちゃんと教えてあげるから早く学校に行きなさい」と 母に急かされ私はしぶしぶ学校行きました。
この日の授業なんてほとんど上の空で、ピヨの事ばかり考えていました。 「もしかしたら、帰ったらもうピヨは居ないかもしれない。でも、なぜ急に。」いくら考えても堂々巡りでしかありませんでした。 とにかくピヨに会いたい、ピヨと一緒にいたい。と時間がたつに連れ思いは深まるばかりでした。
全ての授業がやっと終わり私は友達に「バイバイ」と言うのも忘れ一目散に 家に帰り、ピヨを探しました。
いつも居るはずのピヨの小屋にピヨがいないのです。 途端に涙が溢れてきて泣きながらピヨの名前を叫びました。 「ピヨー」「ピヨー」「なんで、ここに居ないの」
「ピヨォ〜〜〜!」

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「ピヨ〜」私が泣き叫んでいると母が二階から降りてきて「なにを泣いてるの、ピヨだったら二階にいるわよ」 私は急いで二階に駆け上がりピヨを抱きしめました。ピヨにしてみれば気分よく寝ていたのに迷惑な奴・・という感じでしたがもう二度とピヨに触れない、会えないと思っていたので嫌がられてもつつかれてもしばらく抱きしめたままで固まっていました。
私が落着いたのを見計って、ピヨを何故手離さなければならないのか母が話してくれました。 当時私たち家族は、九州から大阪に引っ越してきて1年程しかたっておらず、田舎者の私達家族はこの地に慣れるのに苦労をしていた頃でした。今でこそ隣の住人が何をしていようが我関せずと言う社会になっていますが、当時はまだまだ向こう3件両隣、ご近所さんと仲良く出来ないと村八分状態になっていた頃で、 新参者には地域に溶け込むまでは厳しい状況でした。
そのような時に家の裏の方にすんでいる町内会の人から、「時間かまわず朝の3時頃からどこかの鳥が鳴いて寝てられへん、野中の一軒家じゃないんやから勘弁して欲しいわ」と苦情の声があがっていたそうなのです。きっと肩身の狭い思いを母はしていたんでしょうね。
そのうちに4件先のお宅でブロック塀を修理していた左官屋の人が「鶏、持って帰ったろか」とご近所さんに申し出てくれたと町内の人から母に話がきたそうなのです。
両親は随分悩んだのだろうと思いますが、 これからずっとこの地に住むわけですから余計な争い事は極力避けたかったのでしょう。 結局、その左官屋さんがブロック塀が出来上がったときにピヨを連れて帰ると言う事になったのです。
まだまだ幼い私には、大人の勝手としか思えなかったのですが「父親の威厳」と言う物が色濃く残っていた頃なので父の決定は絶対でした。父としては家族を守る為の決断だったのです。 あれから数十年たった今、私はまだ人の子の親ではありませんが、やっと当時の両親の気持がわかるようになりました。そして、どうすれば雄鶏が鳴かずにいられるかもつい最近知りました。
ピヨの話に戻しましょう。ブロック塀は明後日には出来上がると言う事でしたので、ピヨと一緒にいられるのは明後日の朝まで、何も知らないピヨはいつもと変わらず、私と遊んで、母のひざで眠って大好きな牛乳、レタス等をもらって幸せそうでしたが、もう二度と人のひざの上で眠る事は無いんだろうなと思うと、その姿が余計に哀れで可哀相で、せつなくて仕方ありませんでした。
ピヨとのお別れの日はあっという間にきてしまい、ピヨにしてあげられることは、もう左官屋さんに可愛がってもらえるようにお願いするだけになってしまいました。 左官屋さんが片付け始めた頃を見計ってピヨを小さな小屋に入れ、母に頼んで買ってもらったレタスを半分を持ち、「ピヨ、お別れだよ。元気でね、可愛がってもらうんだよ、ピヨならきっといっぱい友達できるからね。・・・・ごめんね飼ってあげられなくて・・・ピヨ」と涙をこらえて声をかけました。
朝から何で小屋に入れるのかと不思議そうに「コココッ」と首をひねるピヨ。ねぐらになっていた小屋ごとピヨを左官屋さんに渡し、「レタスが好きなんです これをあげてください。」とレタスを渡して「あの〜、牛乳なんかも喜んで飲むのでできればときどきあげてもらえませんか?お願いします。」と言った時にその左官屋さんは、 「この鶏かいな?小屋ごと持っていっていいんやな、それにしても何か細っこい鶏やな〜。 こんなん潰しても美味ないやろな。」
私は、この人がなにを言っているのか訳が解らず「潰すって何の事?」と聞き返すと「雄鶏なんか潰して食べるしか他にどうしようもないやろ、直ぐには潰せへんけどそのうちな。」私は耳を疑いました。「ピヨを食べちゃうんですか?・・・えっ!何で」私は同じ質問を何度もしたのだと思います。あまりのショックにその場面の会話や様子がぼやけていて今でもはっきりとは思い出せないのです。取り敢えずその人は「レタスはちゃんと鶏にやるわ、片付けの邪魔やからもうあっちに行き」と、まるで私を追い払うように言い放ち不機嫌そうでした。


私は、ピヨが食べられてしまうと聞かされたショックとその人の不機嫌な態度が怖くて、のろのろと家に戻りました。 玄関のドアを閉めたとたんに涙が溢れて、部屋に入りタオルに顔を押し当てて大声で泣きました。いろんな思いが交錯し気持の整理がつかず頭の中には「潰して食べる」と言ったあの左官屋の声が、ずっと繰り返し繰り返し頭の中で響くのです。誰かが、何かが憎いのですが、それがピヨを人にあげると言った両親なのか、ピヨを守れなかった自分なのか、鳴き声が五月蝿いと言った近所の人なのか、食べると言った左官屋なのか誰を憎いと思えばいいのか解らず、泣く事しか出来ない自分が悔しくて頭の中がごちゃごちゃし過ぎてそのうちに何も考えられなくなりました・・・。
その時に漠然と「ピヨを最後まで見送らなければならない。」と思ったのです。 私は、慌ててもう一度外に出ると、そこにはもう左官屋の姿はなく出来上がった真新しいブロック塀があるだけでした。私はピヨの羽でも落ちていないかと探しましたが、何もありませんでした。ピヨが此処にいたという事実でさえ無くなってしまったかのように、本当になんにも無いように私には思えました。私の心も消えてしまったようにも感じていました。
その日は流石の私も食欲がなく、両親ともほとんど話さずにいました。私のそんな態度が、父には私が両親を責めているように見えたのでしょう。夕食の後父が「そんな風にしていても、もう人にあげてしまったものはしょうがないだろ。何時までふて腐れているつもりだ、いいかげんに機嫌を直しなさい。」 私は、その時になって初めて「あの人ピヨを潰して食べるって言ってた。ピヨが可哀相」と、また大粒の涙を流しながら左官屋とのやり取りを両親に話しました。しばらく沈黙が続いて父が「きっと、左官屋の気に触る事を言ったんだろ、意地悪されただけ。でも、あげてしまったものはもうどうされても文句を言う事は出来ないんだよ。しかたないんだ。」 私は、解ったような解らないようなどう反応すればいいのか解らず「うん」と言っただけでした。

それから、半年ぐらいは食卓に鳥を使った料理は出てきませんでした。しかし鳥は安いし味はいいし、けして豊かとは言えない当時の我が家の家計には欠かせない食材でした。私がピヨの話をしても泣かなくなった頃に、やっと鳥を使った料理を久しぶりに母が作ってくれたのです。私も鳥肉は大好きだったのでその時は美味しく食べたのですが、食事が終わる頃から何となく胸のあたりが気持悪いのです。食べ過ぎかな?と思いつつしばらく我慢していたのですが、いきなりトイレに行くまもなく食べた物全部を吐き戻してしまったのです。その時には、鳥肉を食べた事が原因だとは私も両親も気づかずにいたのですが、鳥肉を食べたときに限って吐き戻してしまう事を母が気づき「鶏ガラのスープなんかは大丈夫なのにね、鶏肉はもう止めとこうね。」 あの日以来、私は鳥肉を食べられなくなったのです。左官屋が「潰して食べる」と言った一言、その時のショックが数十年経っている今でもトラウマとして私の心に深く、深く残っているのです。

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