雑感、2006

 マジックを始めて、そろそろ3年目が終わろうとしています。
このサイトは1年目の終わりくらい(作り始めたのは半年くらい)のころから公開しています。
昨年はサイト公開から一周年ということでメルマガを13ヶ月に渡って配信しました。
今年は私生活で忙しくなりそうなこともあり、とくにそういった企画も考えていないのですが、
サイト運営3年目、マジックを始めて4年目にかかる今年一年について、
これまでに感じたことや思ったことをつらつらと書き連ねてみようかと思います。

やや毒。

・あるひとは「己を高めることを目的として他人を貶めてはならない」と言った。
これは、マジックではなく本業での一場面です。
なにか二つの相反するものがあって片方を否定的に評価すると、
自動的にもう片方は肯定的に評価されることになります。

この方法が便利なのは確かなのですが、しかし日常においてこれを頻用すると、
逆に自分の評価が下がりうるという危険も。
つまり「何を偉そうに」と。

その対象が特定の個人であろうと不特定多数であろうと、また有名人であろうと無名の個人であろうと、
批判するのであれば、その批判が常に自分に向かってくる、しかも自分に倍して、という覚悟が必要なんだろうと思います。
わたしは、この覚悟があっていろんなひとや団体に対する批判的文章を書き、
かつそれがエンターテインメントとなっていたひとを知っています。
そこまでいけば「芸」です。
しかし、こと奇術に関する言及および記述で、そこまでの覚悟を持っているひとをわたしはあまり多く知りません。
批判以前の単なる無礼か的はずれな暴言であるパターンも目にします。

また、何かを批判するとき、「みんながそう言ってるから」あるいは「誰かがそういってるから」という、
根拠にならない根拠で論じられることもあります。
よくあるのは「日本人には無理だ」「アメリカ人はこうだ」というパターンです。
「日本人」や「アメリカ人」をそんなに一般化できるのでしょうか?
「本に書いてあったが」というのもそれらに類するでしょうか。
いずれにせよ、こういった論の立て方をわたしはしたくありません。

わたしはこんな風に、誰かを批判することの難しさを感じてしまいます。
なので、何かを論じるとき、ついでのように誰かを批判するなんて、
もってのほかのことだとも思っています。

誰かを尊重することより、誰かを批判することのほうが数倍難しいです。

・あるひとは「マジックが嫌いなひとなんかいない!」と言った。
多くの方はお気づきでしょうが、そんなことはありません。
マジックが嫌いなひとは相当数存在します。
マジック自体が嫌いな場合もあれば、種明かしがされないとイヤなひと、
あるいはマジックをするようなシチュエーションが嫌い、また過去にマジックをするのが嫌いなひとだったから、
というような「坊主憎けりゃ」式のケースまで様々です。

とにかく、世間には確実に「マジックが嫌い」なひとがいます。

マジックをする側としては、そういったひとに対して、
どうにか好きになってもらう、あるいは敬して遠ざけるという二つの方法があると思います。
わたしは悩むことなく後者を取ります。
「面白いのに」「見ればいいのに」というのは楽しむことのできる側の理屈で、
嫌いなひとは面白くないから見たくないから触れないのです。

ただ、だからといってそういったひとを嫌うわけではありません。
あくまでそういったひとに対して無理にマジックを見せない、というだけです。
それ以外にコミュニケーションを取る方法だって、いろいろあるはずです。

また、「どうにか好きになってもらう」と考えるタイプのひとのマジックが、
多くどうにも退屈であった、という個人的経験がそういったわたしの考え方を形成したのかもしれません。

なんにせよ、相手のことを考えずにやたらめったらにマジックを見せることは、
相手にとっても自分にとっても幸せな結果を生まないことがある、という事実についての認識はしておくべきだと思っています。
敵を知り己を知れば、百戦して危うからず。

・あるひとは「僕がマジックを見せると、みんな喜んでくれた」と言った。
発言者は上のひとと同じひとです。
この二つの発言が「マジック嫌いのひとにマジックを見せない」と考えるに至ったそもそもの理由かもしれません。

あるとき、あるところでギミックコインの収集家のひとと遭遇したことがあります。
そのひとはいかに自分がすごいか、いかに自分が多くの人を楽しませてきたか、
ということを滔々と自信たっぷりに語ってくれたのですが、いざ実際の演技をみると、
たしかにギミックがすごいことはわかるのですが、現象としては到底面白いとは言えないものでした。
とはいえ、このときに曖昧な笑いをしてごまかしたわたし自身に、いまさらながらいらだち混じりのもどかしさを覚えます。

そのとき、その現象自体が楽しいと思えなかったのは、あるいはわたしがマジックを楽しむ視線で見ていなかったからかもしれません。
これは手品人であれば、少なからず覚えのあることだと思います。
その点をさっぴいても、やはり100%自分のマジックで誰かが楽しんでくれる、とは思いこまないほうが良さそうです。

・あるひとは「500円玉のシガースルー、ある?」とわたしを押しのけてディーラーに尋ねた。
あるマジックショップでのことです。

そのときのわたしはマジックを始めてようやく一ヶ月か二ヶ月、マジェイアの魔法都市さんで読んで、
「『シンブル』という道具が面白いらしい」と知り、件のマジックショップへと足を運んだのでした。
そのマジックショップの存在自体も、ひょっとしたら魔法都市さんで知ったのかもしれません。

わたしはディーラーさんに「シンブルってあります?」と尋ね、5本ばかり購入したのだと思います。
できたら実際に演じてみてもらいたい(「実演」という単語を知りませんでした)と思いながらガラスケースの中を見ていたとき、
後ろから中年男性が文字通りをわたしを押しのけ「500円玉のシガースルー、ある?」とのたまったのでした。

そのとき、わたしは「ああ、これは悪い見本だ」と理解しました。
とり・みきの漫画の中で「マニアにも悪いマニアと良いマニアがいる」という趣旨の台詞があります。
その場面がフラッシュバックしました。
「シガースルー」という単語を知らなかったにもかかわらず、今に至るまでずっとその場面ごと台詞も記憶しているのは、
そういった印象であるからにほかなりません。

マニア云々以前に、ひとを押しのけてディーラーに何か尋ねる、というのは人間的にどうかと思いますが、
以後わたしは、「こういうマジック好きにはなるまい」と思ったものです。

・あるひとは「マジックがone of themだったらいいけど、only oneだったらしんどいよね」と言った。
割と最近、ある方と話しているときのことです。

マジックは、それ自体がかなり強烈な印象を相手に与えるものです。
なので、マジックをするひとはまるでその強烈な印象が自分の内側から出たものであるかのように思いこむことがあるようです。
そういうケースをいくつか知っています。

マジックをする前にいろいろやって、しかしそれらがあまりうけず、最後に手を出したマジックがうけた、
というような状況ってイタいよね、とそんな話の中での一言だったように思います。
逆に、他にいろんな引き出しがあって、マジックがそのうちの一つだったらマジックももっと面白く演じられるよね、
とも。

マジックは上手だけれど、それを除いたところで会話してもまったく面白くない、
というのはやはり、つきあいをするのもなかなか難しいものがあります。

・あるひとは「○○って知ってる?それできる?」と言った。
よく言われます。
特に、ステージマジックやイリュージョンの類でこういったことを言われるのが多いように思います。

知ってる場合があります。できる場合もあります。
しかし、多くの場合は知らないか、知っていてもできません。

あるところで「知っていることと演じられることは別物だ」という文を目にしました。
文脈は措くとして、その言及自体は首肯されるものです。
その知識を持っているからといって誰かより優れていると考えて鼻を高くしているのは、
鼻先に「バカ」と書かれた看板を下げているのと変わりないと思います。

マジックを始めて三年目にも終わりにかかり、ひょっとしたらそんな風になっていないか、
時折我が身を振り返ることがあります。

・あるひとは「練習、練習、練習!」と言った。
言った、というよりもDVDの中で表示されていたのですが。
Michel Ammar師の「
Introduction to Coin Magic」の中だったと思います。

また、「俺は自分の身体がその手順を覚えるまで練習する」と言ってくれた友人もいます。
わたしがいくつかの手順を失敗してしまったときのことでした。

『徒然草』の有名な一節に、「物事を習得しようとするとき、多くのひとは上達してから見せようとする。
しかし、これだと上達せずに終わってしまう。そうではなく、人に見せて上達するのだ」(百五十段)というものがあります。
ジャグリングや楽器演奏などはそうだとも思えるのですが、マジックについてはこれは当てはまらないと思います。

というのも、よっぽど上手でなければ同じトリックを同じひとに何度も見せることはできない、
と考えるからです。
あるいはまた、一定の水準に達していないマジックはマジックになりません。
良くて演者の自己満足、下手をすれば単なる嫌がらせです。
せめてマジックになるレベルまでの練習はしなければならない、それまでにひとに見せるべきではない、
と考えます。

・あるひとは「ほんまに人にいつも見せとんの?」と言った。
メールマガジンに載せた手順「わたしのmugger」について、ある方に批判をいただきました。
その中の一文です。

最近、わたしは人前で何かを演じることが少なくなりました。
そういう機会が少ないこともありますが、自分は不思議なことはできても楽しいことができない、
という自覚のためです。
手順の練習はいくらできても、この練習はなかなかできません。

上述のこととも合わせ、わたしは非手品人の前で演技をすることがなかなかできません。
しかし、わたしが何かを演じることで見てくれる相手に何かイヤな思いをさせるよりは、
その方がよっぽど良いと思います。

 

こんな風なことを感じたり思ったり考えたりしています。
これらを煎じ詰めるなら一言、

傲慢になるな

となるでしょうか。
最後に。

・あるひとは「卑屈になるな、しかし傲慢にもなるな。自信を持て、しかし過信はするな」と言った。