午後になって急速に発達した入道雲が、真っ黒に空を覆った途端、大粒の雨がまさに滝のように地上へと降り注いだ。不断に雲のあちこちがフラッシュを焚いたように真っ白に輝き、車の中にいても腹に響くほどの轟音が、おどろおどろしく聞こえてくる。
「申し訳ない麗夢さん、まさかこんな天候になるとは……」 
 プジョーカブリオレの助手席で、警視庁警部榊は、その大きな体を小さく縮こませて、右側でハンドルを握る少女に詫びた。
「大丈夫よ榊警部。これ位」
 碧の黒髪を揺らして、悪戯っぽい笑顔が榊に返る。
「にゃうん」
「くうん」
 後部座席から心配げな鳴き声のハーモニーが聞こえてくる。
「あら、貴方達まで信用してくれないの?」
 麗夢は、前足をちょこん、と全部シートにかけて覗き込む二匹の子猫と子犬ーアルファとベータに言った。すかさず頭の中に、
(前見て! 前!)
と促すイメージが流れ込んでくる。
「判りましたぁ」
 麗夢は苦笑してハンドルを握り直した。
 現在の位置は、大阪府と奈良県の府県境にそびえる標高九六七・二mの高峰、葛城山の南。今は国道三〇九号線と名前を変えた、水越峠の東側である。
「榊警部、もうすぐ大阪ね」
「トンネルの向こう側が晴れていればいいんですけどね」
 榊は地図を広げて場所を確認した。国道三〇九号線は、大阪府と奈良県を結ぶ幹線道路の一つであり、南北に横たわる二上山から金剛山に至る千m前後の山々を横切る、古代からの主要幹線道路である。かつては、標高五一七mの水越峠を越えるつづら折れの細い道に、ひっきりなく車が行き交う難所の一つであったが、一九九七年五月に完成した全長約二・四キロの水越トンネルにより、飛躍的に交通の便が良くなっている。
 ところで麗夢と榊が、遠く東京を離れて関西に出向いているのは、榊の依頼した仕事の関係であった。奈良県に住む知人から、最近夢魔の被害が疑われる酷い悪夢に悩まされて困っている人がいる、と榊に相談が持ちかけられたのが初めだった。
 榊には、いわゆる「怪奇事件」に強いという定評がある。これも、麗夢に死神博士の事件解決を依頼して後の、数々の実績に裏打ちされた評判なのであるが、そのためか、本来は精神科か宗教の役割だろうと言う類の相談事が、このところ榊の元に寄せられることが増えてきていた。この一件も、そんな榊の噂を伝え聞いて寄せられた事件のひとつなのである。そしてこれを解決したらしたで、また榊の株が上がってしまうのだから、榊としても痛し痒しと言うところであるが、現実に困っている人を放置しておく訳にもいかず、有給休暇を得たを幸い、こうして足を運んできたというわけだった。
 ただ、今回はもう一つ、裏の目的がある。そのために、実際は夢魔かどうかも判らない段階から声をかけ、さほど乗り気でもなかった麗夢を、半ば強引に連れ出してきたのである。ついこの間、南麻布女子学園という高校で一体何があったのか、実のところ榊は通り一遍なことしか聞いていない。鬼童の親友という一教師の事件も、当時は自殺ということだったのでわざわざ榊の耳に届くこともなかったからだ。だが、事件終結直後、鬼童から、事件のあらましと共に、麗夢の心に相当強いダメージがあったことを聞いていた。あの自信の塊に見える男が、半ば途方に暮れながら自分に相談を持ちかけたことに驚きつつも、榊は、これは時間にしか解決できない問題だ、と理解した。程度や形は違えど、自分もまた、長い因果な商売の中、やはり同じように落ち込んだり無力感に苛まれたりしたことは、一度や二度ではない。それでもこうして今まで刑事を続けてこれたのは、時の癒しの力に支えられてきたこともあるだろう。だからこそここは、せめてそんな傷心が癒えるまで少しでもそれを紛らせるようにし向けてやりたかった。本人に直接その事を告げても、きっと「心配しないで」と朗らかな笑顔でやんわり拒絶されることはほぼ間違いない。実際、鬼童との会話のあと、出向いた探偵事務所で、いつもと変わらない麗夢の姿に、榊は一瞬拍子抜けすら覚えた位である。しかし、しばらく話をする内に、こうしている分にはさして普段と変わらないように見える麗夢が、時折何かもの悲しげに遠くを見つめ、心ここにあらず、と言うような様子を見せることに榊は気付いた。だからこそ、抱えてきた奈良の事件を依頼する際、自分も行くことを麗夢に承知させたのである。
(端から見たら、若い娘を同伴してのんびり旅行を楽しむ好色中年男に見えるかもしれんが……)
 榊は苦笑しつつも、まあそう思われても構わない、と思った。実際、さっき訪ねていった旧友宅では、随分訝しげな視線を向けられて閉口したものだが、その仕事も無事終えた今となっては、それはそれで良いかも知れないとさえ思いもした。
 円光さんや鬼童君には申し訳ないが、今日のところは麗夢さんを独占させていただこう。
 榊は、さっきまでの苦笑をにやりとした笑みに替え、大阪で美味しいものでも奢りましょう、と麗夢に持ちかけて、プジョーを西に向けさせたのである。
 その道も半ばに至り、目の前に、杉木立の丘へ半円状に暗い穴を見せるトンネルの入り口が見えてくるところまで来た。このトンネルを抜ければ、そこはもう大阪府、である。
「知ってますか、麗夢さん? このトンネル、『出る』らしいですぞ」
「出るって何が?」
「幽霊ですよ、幽霊! 何でも昔この山は姥捨て山だったそうで、その幽霊が出るという話なんですよ」
「にゃうん?」
 別に何も感じないけど、と後部座席からアルファが言った。ベータもしばらくくんくん鼻を鳴らしていたが、胡散臭げに榊を見るばかりである。
「だから噂なんだって。大阪府警の交通課の若い連中から聞いただけだよ」
 榊は苦笑して後ろの二頭に弁明した。さすがに奈良と大阪を結ぶ幹線道路だけあって、交通量はかなり多い。真夜中ならともかく、この真っ昼間に霊も怪奇現象もないものだと榊も思う。だが、トンネルに入って間もなく、榊は自分が実はそんな事象にしょっちゅう出くわす運の悪い男だという事を、再確認させられる羽目に陥った。
 苦笑する榊の目が、突然飛び込んできた明るい光に、一瞬完全に幻惑された。
「何だ対向車の奴、こんなトンネルの中でハイビームのまま走るなんて非常識な」
 水越トンネルは対向一車線のあまり広いとは言えないトンネルである。対向車のライトが上向きであれば、確かに危険な程まぶしい。麗夢は即座にパッシングで注意を促した。すると、ほぼ同時に相手もパッシングを返してきた。ライトアップはそのままである。
「何考えてるのよあれ?」
 むっとした麗夢がもう一度パッシングを繰り返した。今度もまた、ほとんど同時にまぶしい光が断続的に目へ飛び込んだ。
「本当に困った奴ですな。大阪府警に連絡して一つお灸を据えてやりましょうか」
「ちょっと待って! 警部、あの車、何か変だわ?」
「変ですって?」
 榊は取りだした携帯電話を手にしたまま、まぶしい前方に細めた目をやった。そして、程なく麗夢が変だと言ったわけを理解した。相手は対向車線ではなく、こちらの車線を逆走しているではないか。このまま進めば、正面衝突は避けられない。
「一体どういう積もりだ?」
 麗夢は少しスピードを落とし、再度のパッシングと警笛で注意を促した。だが、相手はやはりこちらと同時にパッシングを返し、警笛まで同じように鳴らしてくる。
「仕方ないわ。見たところ対向車線を走る車はなさそうだし、とにかく避けましょう」
 麗夢がハンドルを右に回すと、プジョーが滑るように対向車線へベクトルを変えた。すると、正面の車もまた同じようにハンドルを切ってきた。避けるつもりが全くない。プジョーがまた元の車線に戻ると、全く同じく道を変え、あくまで正面から突っ込む気のようだ。
「どう言う積もりだ。とにかくこのままでは危ない。止めて下さい、麗夢さん。一つ、はっきり注意してやらないと駄目なようです」
 この時点で、榊はまだ、相手が危険行為にのぼせ上がった年端もいかない若者あたりだろう、と思いこんでいた。こういう悪質ないたずらには、その場できついお灸を据えてやらねば、どこかでまた同じ馬鹿をやって、ついには取り返しの付かない事態を招くに違いない。榊は、こちらが停車したら逃げるかも知れない、とも思ったが、そのとき追いかけるかどうかは相手の出方次第と、腹をくくった。
「了解!」
 麗夢は、後方の安全を確かめると、ハザードランプを点滅させて左脇に車を停めた。対向一車線のトンネル内で停車するなど非常識もいいところだが、前から来る車が横紙破りとあっては、こちらもそれ相応に動かざるを得ない。ところが、相手の車もまた、全くこちらに習うように、車を右肩に停車させた。