「ここが仁徳天皇陵か……」
 大阪府堺市。
 摂津、河内、和泉の三国の境界に位置する交通の要衝であり、戦国時代は、ベネツィアと並び称されるほどの貿易都市として栄華を極めた。織田信長の軍門に下るまでは、戦国大名達に互して自治と独立を維持した要塞都市。その血脈を今に伝え、現在も関西経済圏の重要な一角を占める、人口八〇万の大都市の中心部に、その小山は鎮座していた。
 ちょっと見には、ただこんもりした森に覆われた、小高い丘にしか映らない。あまりにスケールが巨大すぎるため、地上からその全体像をうかがうのが不可能なのだ。しかし、もし数百メートルほど垂直に登ることが出来れば、満々と水を湛えた最大幅一二〇mに達する巨大な内堀や、鬱蒼と茂る灌木によって緑の山と化した前方後円の偉容を目にすることが出来るはずだ。鍵穴、壺、昔の車などを模したとも言われる独特な形状の、全長四八〇m、全幅三〇〇m余の巨大な人工建造物。これが堺市が誇る世界最大の墓、仁徳天皇陵である。
 鬼童は、宮内庁、そして死んだはずの松尾によって強引に南麻布女子学園古代史研究部室を追い出された後、準備もそこそこに松尾データの検証の旅に出たのだった。あの、邪魔が入る寸前に松尾の残したフロッピーから拾い上げた謎の数値。一つ目と二つ目が緯度経度を表すことはほぼ間違いないとして、残る三つ目の数字の謎を解くには、現地に行ってみるよりない、と考えたのである。もちろん元のデータは既に灰燼に帰したが、あの時画面に映っていた数字の羅列は、今も鬼童の頭脳にしっかりと刻み込まれていた。「夢サーカス」の一件で、フランケンシュタイン公国でかいま見ただけの兵器をまさに本物そのままに再現して見せた鬼童の記憶力は、たかだか数十行のデータを取りこぼしたりはしなかった。その記憶を元に、鬼童は、全国に散らばるデータの中でも、最大級の数値が集中する関西、更にその中でもっとも大きな数値を示したこの仁徳天皇陵目指してはるばるやってきたのである。
「北緯三四度三三分、東経一三五度二九分、松尾のデータをそのまま読めば、三つ目の謎の数値がもっとも大きい所は、ここで間違い無いはずだが……」
 鬼童は、松尾のデータを落とし込んだ地図と目の前の仁徳陵とに目をやりながら歩き始めた。地図には、松尾データの緯度経度情報を元に、データの三つ目の数字を三段階に分類し、大きい順に三サイズの円で書き記してある。最大級を表すのが大きさ一センチの円で、ここ仁徳陵を中心として、履中天皇陵、反正天皇陵、百舌鳥陵墓参考地の御廟山古墳、西百舌鳥陵墓参考地のニサンザイ古墳など、わずか半径二キロの円内に集中している。更に東へ一〇キロ離れた日本第二の大きさを誇る応神陵を中心に日本武尊陵、仲哀天皇陵、允恭天皇陵、仲津姫皇后陵などの巨大古墳が集中する古市古墳群にも、大きな円が多数記されている。また、遠く東に屏風のごとく連なる生駒山地、葛城金剛山地の山並みを越えれば、日本最古の歴史が眠る奈良県の盆地になる。鬼童の地図では、その奈良のあちこちにも大小の円が重なり合うようにして印が打たれており、そのほぼ全てが古代の天皇陵、あるいは陵墓参考地に指定されているのである。
「あるいは松尾は、天皇陵を重点的に調査したのかも知れないな。どちらにしてもまずは実地調査だ」
 歩きながらも鬼童は、あまりに自然なその光景に、強い違和感を覚えていた。松尾のデータがもし霊的磁場の強さだとしたら、もう少し何か異常が感じられてもいいはずなのだ。あるいは麗夢さんや円光なら何か感じることが出来るのかも知れないが、それにしてもあまりに普通すぎる……。鬼童は周囲を見回した。関西圏の大都市らしく、ほとんど古墳の際まで住宅が建て込み、多数の人間が日々の営みをこの古墳周辺で送っているのが見て取れる。これだけ人が多ければ中には円光の千分の一くらい鋭敏な霊感を持つ人間だってそれなりにいるだろう。あるいは深夜のタクシー業者などが噂するような怪異な現象が頻発してもおかしくない。だが、少なくともネットで検索してみた限り、その様な妖しい噂は片鱗もこの周辺では認められなかった。この光景を見る限り、あの松尾データの方が何かおかしいのではないか、とさえ、鬼童ですら思うくらいである。
「ひょっとして強力な結界が張ってあるのかも知れんな。平智盛は夢見人形が結界の役目を果たしていたし、「闇の皇帝」も、あっぱれ四人組が麗夢さんの力を必要としたほど強力な結界で抑え込まれていた。となると、ここも結界を構成していても不思議ではない」
 鬼童が外堀に沿ってしばらく行くと、右手に幅広い橋が現れ、その先に大きな参道が繋がっているのが見えた。そのはるか奥に、小さな鳥居が柵に囲われている。仁徳陵拝所である。一般人が入れるのはこの拝所までで、鳥居の際から広大な内堀が広がり、禁制の聖域となっていた。
「せめて古墳の方に上がれたら何か判るかも知れないが……。ん? あれは何だ」
 外堀を渡り、次の中堀に差し掛かったところで、鬼童は眼下の水面に気を取られた。近づいて左手の欄干に身を乗り出す。
「蛇、か?随分いるみたいだが……」
 随分というような数ではなかった。鬼童が見守る内にも、長い身体を苦しげにくねらせながら、次々と蛇が水面に浮かび上がってきたのだ。程なく橋の下は蛇ののたうつ姿で一杯となり、ほんの数分も経たぬ間に、何万匹いるとも知れぬ蛇で堀が埋め尽くされた。蛇達はしばらくのたうち回っていたが、やがて力つきたのか、蠢くのを止め、白い腹を向けてただ浮かぶものが増えてくる。
「アオダイショウ、ヤマカガシ、マムシもいるな。一体どこからこんな蛇が……」
 その瞬間、鬼童は凄まじい圧力を感じて天皇陵に振り返った。
「あ、あれは!」
 目の前の森に、半透明の鎌首が持ち上がった。陵の小山と比較すれば、およそ三〇〇mはあろうかという巨大な蛇の姿である。禍々しい逆三角形の頭をもたげたその蛇は、鬼童に向け、高層ビルさえ一のみにしてしまえそうな口を思い切り開いた。
「うわっ!」
 咄嗟に鬼童はその身体を地面に伏せた。その上を、音もなく薄く透けた白い顎が掠めて飛び抜ける。だが、その襲撃は一回だけで終わった。地表すれすれを飛んだ鎌首はそのまま大きくカーブを描いて上空に立ち上がり、口を大きく天に広げて無音の咆哮を上げると、そのまま東に向けてゆっくりと倒れ、地面に落ちる寸前、日を浴びた淡雪のように、すうっと消滅したのである。
「あ、あれは!」
 異様な気配を感じた鬼童は、南の方角に目をやった。そこに、今見たばかりの巨大な白蛇の姿が、折しも沈みはじめた西日に透けて、持ち上げた鎌首を苦しげに振り回す様が見えた。およそ数百m程だろうが、その姿が巨大すぎてうまく距離がつかめない。更にその西側でもやや小振りな蛇が三匹立ち上がり、仁徳陵と同じように、宙をあがいては倒れ伏し、やがて姿が消えていった。
「履中天皇陵とニサンザイ古墳、いたずけ古墳と御廟山古墳だ」
 鬼童は、およその見当を付けてその蛇の位置を割り出した。
「しかし一体何なんだあれは?」
 堀に浮かんだ無数の蛇。そして煙のように生まれて消えた巨大な蛇の頭。嫌な予感は一段と増す。あれこそ智盛や闇の皇帝も凌駕する、巨大な精神エネルギーの正体であろうか?
「くっ! 間に合わなかったわ!」
 突然あがった声に、鬼童は驚いて振り返った。そこに忘れようとしても忘れられぬ顔が、一段と険しい表情を刻んでいた。
「君は!」
 振り返った加茂野美里も、一瞬びくっと驚きを見せたが、すぐに冷静さを取り戻して鬼童に言った。
「貴方一体どうしてここへ?」
「松尾のデータを調査するために、あれから直ぐに飛んできたんだ」
「貴方、データを持ち出したの?!。何て事を!」
 加茂野が口を尖らせて突っかかってくる前に、鬼童はぴしゃりとはねつけた。
「見て記憶しただけだ。それより間に合わなかったというのはどう言うことだ?」
「貴方には関係ないわ! さあ、ここは危険だから、さっさと避難して頂戴!」
「関係ないとは言わせないぞ! 大体君は本当に宮内庁の職員なのか? 宮内庁の書陵部に、特別陵墓監督官なんて言う職は無いじゃないか!」
「答える必要を認めません。とっとと出ていかないと、つまみ出すわよ!」
 こうして鬼童と加茂野が言い合いを始めそうになったときだった。突然二人は、異様な気配を感じて仁徳陵の方へ向き直った。
「ま、松尾……」
 鬼童は、鳥居の下に現れた一人の男の姿を見て、思わず呟いた。鬼童と張り合う長身に精悍なマスクが笑みを浮かべている。しかし、その目は笑っていない。射込むように見つめるその目からは、物理的な圧力さえ覚えるほどの強烈極まる悪意が叩き込まれてくる。鬼童は思わず生唾を呑み込んで、その視線に魅入られたように立ちつくした。
「また会ったな、美里、それに鬼童。生きていたとは、さすがかつて俺の認めた二人だよ」
「貴方に認めてもらった覚えはないわ! いい加減その姿を辞めたらどうなの!」
 加茂野がまっすぐ一歩踏みだし、松尾を睨み付けた。すると松尾は、ふっと笑みをこぼすと加茂野に言った。
「この身体、結構気に入ったのでね。念願成就の暁にも、この身体のまま世を統治することにしたよ。君も恋人が世界を統べる大王になってうれしいだろう?」
「君が、松尾の恋人?!」
 鬼童は目を丸くして隣に立つ女性を見た。松尾のことで知らないことはない、と思いこんでいた鬼童は、そのプライベートで自分にすら秘密にしていた事があったと言う事実に驚愕したのだ。
「ん〜? 知らなかったのか鬼童。俺は来年にはそのお嬢さんと結婚するつもりだったんだぞ。相変わらずそう言う方面は鈍いと見えるな、お前は」
「け、結婚? 松尾が結婚?」
「そう驚くな鬼童。誰にだって秘密にしていることは一つや二つはある。それより俺は美里に一言詫びねばならん。ようやく真の配偶者が見つかったのだよ。君とは一〇年来の付き合いで結婚まで約束したが、そう言うわけだからあの婚約は解消だ。もっとも、側室でもいいというなら歓迎するが……」
「いい加減にして! 貴方はただの化け物だわ! 彼の姿をしていることさえ許し難いのに、口調までまねて亨の振りをするなんて許せない!」
「怒るな怒るな。今は癇癪の一つもあるだろうが、俺が世界を手に入れたときには、また考えも変わるだろうよ。だがまずは、封印された我が力を取り戻すのが先決だ。その後あの夢守を迎えに行く。うれしいことにこの山向こうに来ているんだ。探す手間が省けて助かるよ」
 夢守、と言う言葉に、鬼童の耳がピン!と立った。
「ま、まさか麗夢さんと会ったのか、松尾!」
 すると松尾は、おどけたように笑顔を閃かせると鬼童に言った。
「ほおう、鬼童、お前も知っていたのか。あの娘、今でも麗夢と名乗っているとはな。麗しき夢、か。代々の夢守に受け継がれた名前だそうだが、原日本人の大王の后に相応しい佳き名であるな」
「原日本人……あの娘達と同じ仲間か」
「おいおい、お前まで同じ過ちをしてくれるな鬼童。あれは我らの下級の巫女にすぎん。ついでに言っておくが、「闇の皇帝」とかいう物も、後世の生き残りが勝手に名付けた代物だ。あれなど此処に瞑る力と比べれば、ただの小道具に過ぎん」
 そうだ、この地に瞑るという巨大な力! 
今はそれこそが肝要であろう。鬼童は息せき切って松尾に言った。
「僕はそれを検証しに来たんだ! やはりさっきの大蛇がその力か?!」
 すると松尾は見るからに不機嫌そうな表情に変わった。
「あれが偉大なる我が力だと? 鬼童、お前の目は節穴か! よかろう、かつての親友のよしみに免じて見せてやる。これが本当の俺の力、かつて裏切りし夢守達によって分割され、封印された我が力の片鱗だ」
「駄目よ!こんな町中でそれを開放したら!」
「いずれこの世は我が支配下に堕ちる。この世に残された力を全て取り戻した時、根の国に封じられた真なる我が力が開放されれば、こんなものでは済むまい!」
 加茂野の制止を無視して、松尾は大きく両手を広げ始めた。
「止めてぇっ!」
 加茂野の右手が、左脇に隠し持っていたホルスターから西部劇のヒーローさながらの早業で拳銃を抜き放ったと見えた瞬間、乾いた音色が鬼童の耳を打った。同時に松尾の胸の辺りから黒っぽい破片が飛び、その足元に落ちた。
「効かないよ、そんなおもちゃは」
 鬼童は、松尾の足元の黒っぽい破片が蠢いているのを見た。百足だ。胴体をうち砕かれ、頭の部分三センチほどになった大きな百足がのたうち回っている。続けざまに加茂野の銃が火を噴いた。三発、四発と松尾の身体に吸い込まれていく。だが、そのたびにぱちっと異音を発して、松尾の足元に引きちぎられた百足の身体が飛び散った。やがて、一発が松尾の額に命中した。今度こそ、と加茂野は銃を引いたが、額を打ち抜かれ、致命傷を負ったはずの松尾は、全く動じずラジオ体操でも始めるような調子で、大きく腕を振り上げた。 瞬間、辺りの静寂が深まった。日常の喧噪が削り取られ、全くの無音が世界を支配した。その直後である。突然くぐもった地鳴りが仁徳陵の方角からわき起こり、それが急速に大きくなって、やがて大地を揺るがす大音響となって地面を大きくうねらせた。あちこちに巨大な地割れが走り、タイヤを取られた車が次々と自由を失って、あるものは停止し、あるものは所構わず激突して火の手を上げた。巨大な仁徳陵を覆う木々が内堀に次々と雪崩落ちて飛沫を上げる。阪神大震災にも耐えた建物達が、あるいは傾き、あるいは拉げて、たちどころにがれきの山と化していった。およそ一分間に渡って続いた破壊の序曲は、松尾が手を下ろしたことでようやく終章を迎えた。
「どうだ、少しは理解できたか鬼童」
 鬼童は、地面に四つん這いになったまま松尾を見上げ、その額の穴から顔をのぞかせた百足の頭を見てしまった。赤い縁取りの穴から蠢く触覚と足を出し、再び中へと引っ込んでいく。その途端に、内側から肉が盛り上がり、額の傷が急速に修復されていった。
「君は一体……?」
「原日本人の真の大王の力、恐れ入っただろう? では俺はまだやらねばならないことがある。また会おう、鬼童海丸。加茂野美里」
 松尾の姿がうっすらとぼけ、やがて鬼童の目の前から消えた。鬼童と加茂野は、時ならぬ直下型地震に襲われた阿鼻叫喚の地に取り残され、無念のほぞをかむばかりであった。だが、いつまでもそうしているわけにはいかない。鬼童は加茂野に振り返ると、改めて言った。
「今度こそ話してくれるだろうな」
「ええ。どうやら貴方もこの件からは逃れられない運命を持っているみだいだし……。でもその前に教えて。貴方と夢守の、その、麗夢さん、と言ったかしら。彼女とはどういう関係なの?」
「ど、どういう関係って、それは……」
 あからさまに問われて鬼童はうろたえた。さっきの松尾のようにはっきり言えれば苦労はないが、未だそこまで親密な関係が出来たわけではない。だが、加茂野は加茂野で、そんなことが聞きたいわけではなかった。
「言いたくないなら別にいいわ。それより連絡は取れる?」
「あ、ああ」
「じゃあ今すぐ法隆寺に行くように言ってちょうだい。出来るだけ早く、一刻の猶予もないわ」
「法隆寺だって?」
「そう。この戦いの帰趨は、それにかかっているわ」
 思い詰めたような加茂野の顔に、鬼童も真剣な眼差しで頷き、ポケットから携帯電話を取りだした。