あっぱれ4人組は、やっぱり原日本人の末裔だった。 |
|||||||||
「闇の皇帝」命名の謎 |
|||||||||
皆さん「徐福伝説」はご存じでしょうか? 東の海の向こうに蓬莱山という仙人の住む島があり、そこへ行けば不老不死になれる仙薬が手にはいる、と始皇帝をそそのかし、多額の遠征資金を引き出した徐福と言う方士(日本で言えば陰陽師のようなもの)の話です。伝説では徐福は無事日本に辿り着いています。その足跡を伝える徐福の墓が、日本各地にあるそうです。中でも、徐福が富士山嶺にあったという高天原王朝に辿り着き、その歴史を記したという伝説があります。宮下文書という古文書がそうですが、これを下敷きにすると、「闇の皇帝」命名の謎も解けそうです。即ち、富士高天原王朝は古えから「闇の皇帝」を信奉する原日本人の国だったが、徐福が来るまではこの神も別の名前で呼ばれていた。そこに徐福が来て、その凄まじい力の程に感じ入り、自分のスポンサーに重ね合わせて「まるで始皇帝のようだ」と言ったのが、「闇の皇帝」という「異名」の始まりだった、何てのはどうでしょう? |
|||||||||
くぐつ埴輪と日本支配権の謎 |
|||||||||
原日本人が最終的に滅ぼされたのは、大和朝廷時代になってからだと考えればいいでしょう。縄文時代、確かに日本は縄文人という原日本人が治めていました。そこに割り込んできたのが大和民族です。更に時代が進んで、大和民族は九州から大和の地に移動し、爆発的に増え始めました。この時、原日本人は大和民族に押されながらも、まだ東国で頑張っていたんでしょう。しかし、その拮抗状態がついに崩れる時が来ました。原日本人の一派で「闇の皇帝」にも密接に関わりを持つ「夢守一族」が、大和民族に味方したのです。そのために「闇の皇帝」は現在の南麻布に封印され、その力に頼り切っていた原日本人は、たちまち抵抗力を失いました。その後、大和民族の伸張と共に原日本人も徐々に東北に移動し、ようやく態勢を立て直して散々に大和政権を悩ませますが、ついに坂上田村麻呂などの名将によって終焉の時を迎えたのでしょう。 |
|||||||||
原日本人虐殺の謎 |
|||||||||
縄文時代の集落は、最大で人口500人程度だったそうです。国家、と言ったところで、現代の山間僻地にある村とあんまり変わらない規模でした。そこへ、大和民族が持ち込んだ疫病が襲います。研究によると、麻疹や結核が縄文人を襲った疫病として候補に挙がっているそうです。そんな大和民族登場と同時に現れた死病は、まさに大和民族が自分達原日本人に向けて放った呪詛攻撃に思えたのではないでしょうか? つまり、虐殺と言ったって何も集落ぐるみ焼き討ちをかけて剣や矢で皆殺しするばかりではないとすれば、この謎も解けます。 |
|||||||||
原日本人の遺伝子の謎 |
|||||||||
原日本人が遺伝的に純系である必要は必ずしもないでしょう。「闇の皇帝」を崇拝する共通の文化基盤があれば、それらの人々はたとえ人種が違っても皆原日本人、と言えます。今の日本人が日本文化を共通の基盤に持つ多様な「人種」の混血児であるのと同じように。 |
|||||||||
さて、取った上げ足をうまく落としどころに納めることが出来ましたでしょうか? かっこうとしては、言わずもがなの上げ足取りを目的としたわけでは決してありません。こんな風にあーでもない、こーでもないと理屈(屁理屈?)をこねくり回すのがかっこうの病癖なんです。 |
|||||||||
|
|||||||||
|
|
||||||||