ネパ−ルの運動会 (2) A Record of Nepalese life
http://www5.kcn.ne.jp/~jkobi/Nr1+un2.html
This page is written only in Japanese.
頁:デザインMr.6 1998年4月8日作成.

ある青年海外協力隊(JOCV)員の記録

ネパ−ルの運動会 その

小尾 二郎 

4、ネパールの学校
 私がいた学校は、ビレンドラナガールの街の中心にあるジャナ職業高校であった。私がいた二年の間に職業教育が少なくなり、「パブリック・ハイスクール」という名前に変わった。盆地にある学校なので、山国ネパールのイメージとは違い大規模な学校である。運動場も広い。生徒の中には街に下宿しながら学ぶ者もいる。在籍の生徒数は約800人で、5年生から10年生までいる。
 ネパールの1年生から10年生が日本の小学生から高校生に相当した。今は少し変わり、12年生まで延ばす動きがある。当時は、1年から5年までが小学校、6、7年が中学校、8年から10年間でが高校である。小学校は授業料が要らないが、義務教育の制度は確立されていない。3年生までは教科書が支給される。4年生以降は教科書を買わなければならないし、6年生以降は授業料が必要である。小学校の教員の給料は安いが、全額政府負担となっている。しかし、中学高校の教員の給料は一部しか政府が負担しない。授業料から教員の給料が支払われる。高校には10年生まで、中学校には7年生までの生徒がいると思えば分かりやすいかと思う。小さい子どもは、1年生からの学校もあれば私のいた学校のように5年生からと、それぞれで違う。小学校は5年生までのと3年生までのがある。以前は3年生までが小学校だったので、その形が残っていると思われる。
 ネパールのすべての人が貧しいのではなく、裕福な人もいる。カトマンドゥや町では、私立の学校があり、授業料が高くてもそこに通っている子どもがいる。一方農村や山岳地帯では、家が貧しいとか近くに学校がないなどの理由で、学校に行けず働いている子ども達が多い。貧富の差が大きい状況である。学年末に進級試験があり、それに合格しないと次の学年に進めない。それが1年生からある。1年生から2年生になる時に、約半数の子どもが学校をやめていく。試験に合格せず、学校に見切りをつけるものと思われる。そして10年生を終了するのは、入学者の30%に達しないという調査結果もある。10年生終了時に高校卒業認定試験があり、それの合格者が大学に行ける。大学への進学率は、4、5%というところである。
 私の学校には職業教育があった。これは日本で言うと技術家庭に相当する。普通校だとこの教科はない。体育は理科と一緒になっていて、「おまけ」のように扱われている。音楽、美術といった実技教科はない。10年生を例に教科を挙げると、英語、ネパール語、理科、数学、経済、地理、それに職業教育。一日7時限の勉強で、7つの教科を毎日1時限ずつ勉強する。2時限が英語ならそれが毎日繰り返される。日曜から木曜まで7時限、金曜は4時限まで。土曜はネパール休日で休み。ここで一つの問題がある。4時限までにあるものと5時限以降のものに、1週間で1時間の差が生じる。地理ならそれを担当する教員がいる。ある学級には週に7回行くが、ある学級には6回となる。学習の進度に差ができるが、あまり気にならないらしい。遅いほうに合わせればいいことなのだから。授業が始まっても教師が教室に来なくて生徒が職員室へ生徒が呼びにきても、担当の教師は休講にすると言って茶店に行ってしまうこと事もある。
 学校は10時に始まり、夕方四時に終わる。毎日朝礼があり、学年別に整列して国歌を歌う。授業と授業の間の休み時間はない。1時限の終わりが2時限の始め、というように、授業の終わりの鐘が授業の始めの鐘である。1時限目の始まりは一つ、2時限目は二つというように用務員が鐘を鳴らす。5分位ずれることがよくある。担当の教師が休めば休講。自習課題もなく、生徒は外で遊んでいる。放課後のクラブ活動はなし。好きな生徒、というよりも余裕のある生徒は、夕方涼しくなるとバレーボールやサッカーをしに再び学校に来る。生徒達が自主的に毎日やっている。
 学校の新学期は12月中旬。地方により気候が大きく異なるので、新学期や長期休みは地方によりばらばらである。スルケットは暑い方なので夏休みが長い。夏休みというより雨期休みで、7月初めから8月中旬まで。10月には、日本の正月に当たるネパール最大の祭りダサインのために二週間休みとなる。身内に会うために故郷へ帰る人が多い。学年末試験後は成績処理のため二週間は休みになるし、高校卒業認定試験の会場として学校が使われる1月から2月にかけての約一カ月間も休みとなる。そしてネパールには祝祭日が多い。また、インドのインディラ・ガンジー首相が亡くなった時もそうだったし、世界の要人が死ねば国全体が喪に服して休日になる。国王が他国を公式訪問するのにネパールを出入りする時も休日になる。なんだかんだと、とにかく休みが多い。
 3月の末、突然空が黒くなり、黒板の文字が見えなくなった。学校には電灯はない。それで勉強を続けることができないので、休校となった。日本では考えられない休みである。生徒が帰った後、強風が吹き大雨になった。雨はあられに変わった。子どもの握りこぶし位のも交じっている。あられが学校の木に当たり、木が折れた。ネパールで「フーリー」と呼ばれる嵐の初体験だった。フーリーは乾期の終わり頃に発生する。
 ネパールでは日本と暦が違う。ネパールの新年は4月半ばである。といってもその日が祝日で休みになるだけである。翌日から、私の学校は夏時間となった。早朝6時15分始まりの11時終了である。それが一カ月後には更に30分早くなるのである。暑さを避けての措置であるが、遠くから通学している生徒にとってはそれこそ早起きをしなければならないので大変である。もっとも、5月は一番暑い時期なので、昼間に勉強するのもしんどいことなのだが。
 インド国境近くでは、学校の教員にインド人の出稼ぎが多い。ネパール人とインド人にとってネパール、インド両国はパスポートなしで自由に出入りができる。そういうこともあり、私の学校では数学の担当は、二人のインド人に私の三人であった。私が1年目に担当したのは、5年生と8年生それぞれ1学級と6年生2学級であった。

5、ネパール暮らしも楽じゃない
 校長が「ここにしたらどうだ。」、と言ったので彼の顔をたてることもあり、私の下宿先は同じ学校の一人の教師の家になった。学校まで歩いて3分。街の中で、市場が近く買い物もしやすい。二部屋。一つは寝室、一つは台所。カトマンドゥを出て一週間、ようやく落ち着ける場所を得た。宿屋住まいの間は荷物も広げられなかった。この家に来て三日目、自炊をすると言った時夫人が機嫌をそこねたようである。彼女にすれば自分の料理がまずいと言われたようにとったらしい。しかし私にとって自炊は、ネパールへ来る前からの予定だった。自炊の道具は日本から持ってきていた。夫人が考えるような誤解をされないように早めに宣言したのだが、人間関係の難しさはネパールでも同じである。
 私の一日の生活の流れは、6時か6時半に起床。昨日の沸かし水の残りを水筒に入れて持ち、便所へ。街中なので便所がある。穴を掘って上に板を渡し、周りを外から見えないように囲ってある。水筒に残った水で、洗顔。買い物があれば市場へ。その後近くの水道で水汲み。20件ぐらいの家が共同で使う水道が街の中に作られている。家に戻り一日分の飲み水を沸かす。朝食を準備し、食べ、片付ける。授業の準備をし10時前に学校へ行く。午前の授業を終え、昼休みは近くの茶店へ。ミルクと砂糖のたっぷり入ったミルクティーの「チヤ」と、お菓子の軽食。午後の授業をし、放課後教師らのチェスを見学し、涼しくなってから帰る。帰り道に買い物をする時もある。下宿に戻ってからしばらくして水汲み。夕食の準備、食後片付け。その後ラジオを聞くなどして、寝るのは10時頃。自炊に意外と多くの時間を取られている。
 郊外に小さな水力発電所があり、電気を供給している。乾期の終わりになると水量が少なくなるのか、送電する地域を限定している。電気がつかえるのは、隔日である。もっとも電気の供給があるのは、夜の数時間だけである。電気のない日の夜、焼き飯を作っている時、トウガラシとコショウをまちがえて入れた。容器が同じだから、暗くて分からなかった。飯抜きになるのがいやでそのまま食べた。
 週末は、水浴びと洗濯である。仕事をする日はそこまで余裕がない。国王が仮住まいをした街はずれの場所が公園になっている。そこに水浴び場があり、川からの水が絶えず流れている。男用、女用と分かれているが、囲いがある訳ではない。男はパンツ一丁で、女は腰巻ならぬ胸巻をして胸から下をかくして洗っている。今着ていた物まで脱いで洗濯をする。腹の出た、いい年をしたおっさんが座り込んでパンツを洗っているのはユーモラスである。石にこすりつけたり、踏んだりしながら、洗っている。細かいところまでは気にせずに洗っている。終われば近くの草はらに広げて干す。日差しが強いのと乾燥した気候とで、ハンカチのような薄い物は1時間位で乾いてしまう。他の物も2時間もあればいい。乾くまで、雑談をしたりラジオを聞いたりして待っている。私は待つのが面倒だから濡れた物を持って帰る。
 水浴びの時は気持ちいいのだが、帰り道の暑さとほこりっぽさは耐え難い。街にたどり着くと、暑くてしかたないのでジュースを買って飲むが、生ぬるい。昼間は電気が来ていないので、冷蔵庫が役に立たない。雨期になると、昼間も電気が来る。しかし、車道が使えないので、ジュースが運ばれてこない。皮肉なものである。


その   その


HomePages


ある青年海外協力隊(JOCV)員の記録
ネパールの運動会




ネパ−ルへの架け橋