ネパ−ルの運動会 (3) A Record of Nepalese life
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頁:デザインMr.6 1998年4月26日作成.

ある青年海外協力隊(JOCV)員の記録

ネパ−ルの運動会 その

小尾 二郎 

6、引っ越し
 部屋が狭い。大家が同じ学校の教員で、下宿でも顔を会わすので、仕事をしている気になる。大家の子どもが、しょっちゅう部屋に入ってくるので、自分だけの時間がなかなか持てない。部屋に西日がまともに当たるので、熱気が夜になっても部屋の中に残っている。夜の9時でも30℃を越えている。ベッドが、木枠に細いロープを網目状に編んだものだったので、風通しがいい。暑さ対策として、布団をはがして濡れたバスタオルを敷き、その上に直接寝ることにした。それでなんとかしのげた。また街の中なので、夜遅くまで騒がしい。部屋が道に面しているので、前をたまにトラックが通る。その時、土ぼこりがものすごい。急いで窓を閉めなければならない。窓にガラスはなく、板の開き。おさまるまで、暑い、暗い部屋でじっと耐えなければならない。
 自分の部屋に対する不満は色々あったが、一番気になっていたのは夫人とのことである。自炊の話以降どうもうまくいかない。そんなある日。幼児の息子が煮立っている湯を引っ繰り返し、太ももに火傷をした。夫人はあわてて私の所へ来て、薬はないかと聞く。薬を渡して、私もその場へ行った。薬を塗って少し落ち着いたのか、薬を返して、「火傷は治るか。」と聞いた。「治る」と言って、そうならなかった場合が気になって、「分からない。」と答えた。彼女は不満そうな顔をした。それを見て、私は薬よりもその時に水をかけなければいけないという意味のことを言った。それが彼女の気にさわったようである。その場にいた親類の人の勧めで、彼女は街の病院へ連れていった。火傷はたいした事なく、治療を済ませて安心して帰ってきた。この街の病院は医者二人に看護婦4人。ベッドの数は15。ただし医者は近くの村を巡回診療するので、いつも病院にいる訳ではない。私が病院を訪ねた時の印象として、診察室は雑然としていて、病院の雰囲気はなく理科の実験室のようだった。この日の夜、夫人は夫に私への文句をぶちまけた。夫人の声が私の部屋まで聞こえてきた。ここにはもう居られない。下宿を出ることにした。
 4月末、新しい下宿先に引っ越した。街の北側で、登りばかり歩いて25分かかる。荷物運びは、人力による。荷物の下側にロープを引っかけ、そのロープを自分の額に持ってくる。ネパール式の方法である。一人の女性が、一回に50kg以上かつぎ上げ、私の新旧の下宿を四往復した。彼女は私の荷物の八割を運んだ。
 新しい下宿先は、老夫婦、長男夫婦、私の学校に通う10年生の次女、歳の離れた就学前の三男、というのが家族構成。次男はカトマンドゥの大学で勉強中、長女は結婚しているので、家にいなかった。家の周りに、田畑を持った裕福な家庭である。街から少し離れるだけに、辺りは村の雰囲気である。大家はここに移り住んで、10年にならないという。
 家は二階を建てたばかりで、彼らは二階に住んでいる。私は一階の二部屋を使うことになった。街から高さで100m位上がるだろうか、気温は街より2度ほど違うようである。近くに川がありその方角から涼しい風が入ってくる。部屋に大家が使っていたベッドが置いてあり、それを借りることになった。ベッドは窓の高さに合わせてあり、夜は涼しい風と静けさで街に比べて快適である。部屋は6畳ぐらいの大きさの大きさである。荷物を運び入れると狭くなった。日本のように押入れがないことにもよる。二部屋のうち、セメント製の方を寝室、土製の方を台所とした。ここが私がスルケットを去るまでの住居となった。
 家が新しいので、二階を人が歩くたびに天井から土が落ちてくる。角材や土がむきだしになっている。見た目も悪いので、大家の言うまま街で布を買ってきて天井に打ち付けた。布が土を受け止めてくれるので、安心である。
 近くに私の学校の数学のインド人教員が住んでいた。出稼ぎの一人暮らしかと思っていたが、家族と住んでいた。彼は10代で結婚して、と言っても自分の意思でなく親が決めたのだが、20代半ばで7歳の娘がいた。私と同年代だけに不思議な感じで彼の家族を見ていた。私は一人暮らしの気楽なボランティアで、自分の好きなようにやっているが、彼には生活がかかっているのである。 洗濯と水浴びは近くの川で済ませることにした。川での洗濯はすすぎの時に楽である。川での水浴びは抵抗があった。川の中に病原菌がいないかと不安があった。上流へ散歩に行って、山の中腹からからわき水となって川に流れているのを見て安心した。川での洗濯はその後も続けたが、水浴びは家ですることになった。川の水が冷たいのが一番の理由だ。黒く塗ったバケツを日向に一日置くと暖かくなる。休日の朝にバケツ2杯の水を日向に置く。涼しくなる前の午後3時頃にその水で庭で水浴びをする。冬の季節でも日光が当たっていると暖かいので、それほど抵抗なく水浴びができた。家で水浴びをするのは、他人の目を気にする事なくできるので、気持ちのうえでも楽だった。生活に必要な水は、家から100mほど離れた水道から運んでいた。始めは水を運ぶ人がいた。月決めで水の運び代を払っていた。その人がいなくなってからは自分で運ぶようになった。朝に20リットル、夕方に20リットル。計40リットルが食事の準備や片付け、飲み水、洗顔などに使っていた水の量である。水浴びと洗濯の水は別である。水浴びは週に1回していた。
 落ち着いて生活するとなると、家具が欲しくなった。街で家具を作っている所があり、机、椅子、本棚、トランクやカバン置き用のテーブルを買った。家具が入って部屋が更に狭くなったが、整理もついた。また自転車を買った。スルケットは盆地だから、自転車で行動範囲が広げるためである。街で中国製の自転車を見つけた。品物が少なく、今度いつ入ってくるか分からないだけに、まさしく見つけたのである。家から学校まで行く時は、下るだけなのでがんがんスピードが出て、早く着く。10分位か。しかし帰りは、上りばかりなので、自転車を押して歩くことが多くなる。30分位かかる。夏の時期には、汗だくになって帰る。
 学校は、夏の早朝学習となっていたから生活も変わった。学校が一番早く始まる6月の頃は、朝5時前に起きる。パンとコーヒーの簡単な朝食をする。パンは街に一つだけあるパン屋で買ってくる。ジャムは街で手に入らないので、みかんの皮などで手作りした。6時に学校に着く。学校の仕事は10時半に終わるので、街で買い物をして帰る。既に暑い。家に帰って、昼食を作り食べる。一日分の飲み水も沸かす。早朝学習の間は、一日三食である。昼食後、片付けてから昼寝を2、3時間。昼は暑くて何もする気が起きない。夕方起き出して、夕食を作って、食べ、片付け。夜に授業の準備をする。教科書はネパール語で書いてある。数学の教科書は、数字が多いだけにまだ読みやすいので助かる。9時か9時半頃には寝ていた。
 
7、ビレンドラ・シールド
 5月中旬、スルケット郡のビレンドラ・シールドが行われた。ビレンドラは国王の名前で、シールドは楯のことである。高校の総合体育大会とでもいうべきものである。ネパールの郡ごとに行われれる。学校対抗で行われる。優勝するという名誉の他に、賞金という実利もあるそうだ。審判の判定をめぐって、トラブルが発生するという話を聞いた。金がからむ以上ありそうな事である。種目は、トラックとフィールドの陸上競技とバレーボールである。
 ビレンドラナガールの郊外の広場が会場となった。ビレンドラ・シールドが始まる前日、出場選手が郡の各地から集まってきていた。学校の運動場で、私の学校の生徒と他の学校の生徒がバレーボールの練習試合を始めた。その周りで、多くの生徒が見ている。次の授業の鐘が鳴っても生徒は教室に集まらなかった。授業にならないので休校になった。ビレンドラ・シールドは1週間開催される。その間学校は休みとなった。
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(ビレンドラ・シ−ルド)


 会場の広場では雑草を刈り、1周200mのトラックが描かれていた。地面は平らではなく、山のある北側から南へ向けて傾斜していた。夏の盛りであるから、暑さを避けて、朝と夕方に競技を行っていた。選手の多くは裸足であった。フィールド競技用の砂場は、乾燥した気候で堅くなった地面に水をまいて掘り返してやわらかくしたものである。走り高跳びのバーはなく、支柱にクギを打ち付け両端に重りをつけた紐を代用していた。物がなくてもそれなりに工夫しての運営に感心させられた。だがそれ以上に驚いたのが、いったいどこに住んでいるのだろうと思わされた、観客の多さである。ネパール人にとってスポーツをすることは一般的でない。見る機会もほとんどない。だからビレンドラ・シールドはある意味でスポーツのお祭りのような雰囲気もある。
 この年のビレンド・ラシールドで、私の学校が優勝しなかったのは私にとって意外だった。スルケット郡の中では大規模な学校で、放課後に生徒が練習しているバレーボールを見ていても結構うまいのである。私が考えていたよりも競技のレベルが高いようだ。私の学校のように生徒数が多ければ、ビレンドラ・シールドに出られるのは一部の生徒である。学校で体育の授業はほとんど行われず、子ども達の自分がするスポーツへの関心がそれほどない。したくてもその機会が少ない。ネパールの生活全般を見れば、食が十分ではなく、腹のへることはする気がないというところか。いろいろと考えることはあったが、とにかく一人でも多くの子ども達にスポーツをする楽しさを分かってもらえればと思った。見る側からする側になればと、観客を見て思った。それが校内運動会への出発点となった。







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