ネパールの運動会(4) A Record of Nepalese Life
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頁:デザインMr.6 1998年7月3日作成

ある青年海外協力隊(JOCV)員の記録

ネパ−ルの運動会 その

小尾 二郎

8、カトマンドゥ
 6月の末から8月半ばまで、夏休みである。長期休みにはカトマンドゥを拠点として、生活する。私がカトマンドゥに行く用事は、2つある。1つは半年に一度の健康診断。これに合わせて、隊員同士の会合がある。もう1つはA型肝炎の抗体を作るための注射、γグロブリン、を打つためである。四カ月毎にこの注射を打つことになっている。私より10才年長の隊員は、過去にA型肝炎にかかったのかすでに抗体を持っていて、γグロブリンの必要はなかった。日本人も昔はこの抗体を持っていたのだが、医学の進歩でこの病気が少なくなるにつれて抗体を持つ人も少なくなっている。この病気に限らず様々な病気が日本から消えていき、今は日本列島全体が大きな保育器に入っているようなものである。だから海外へ行ったら、病原菌の多さに困り、その対策も必要となるのである。
 日本から来て、初めてカトマンドゥを見た時はのどかな風景に日本の地方の町へ来たような気持ちになった。しかし、ネパールの村での生活を経験してからカトマンドゥへ来ると、大都市に見えて来るから不思議である。
 カトマンドゥとスルケットの間を飛ぶのは19人乗りの小さな飛行機である。初めて乗る時は、タイからネパール入りしたジェト機と比べてしまい不安であったが、慣れてしまえばそれなりのものである。飛び立つ前に飴と綿が配られる。飴は食べるのだが、綿は耳に詰める。機内の気密性が良くないので上昇すれば耳がおかしくなる。私も綿を耳にしてみたが詰め方が悪いのか効果がなかった。上昇時の気分の悪さは仕方ないにしても、水平に飛ぶようになってもよく揺れる。下のほうを見ると赤茶色の土が見える。はげ山、ボウズ山が多い。ネパールの森がなくなっている状況が飛行機から見える。そのうちに、突然土の色が変わる。緑も多い。そこがカトマンドゥ盆地であった。いかにも肥沃という土地である。これだけでもここは別天地である。カトマンドゥはネパール人にとってあこがれの地である。日本では地方都市と東京ではそれほど変わらない。ネパールでは大きく異なる。カトマンドゥは土地も気候もいい。街は外国製品や品物であふれ、人が多くて活気がある。
 スルケットの南、インド国境近くの町ネパールガンジからカトマンドゥ行きの夜行バスがある。午後3時発で、早朝に着く。バスは2時間おきに止まる。止まると乗客は降り、腹ごしらえや手足を伸ばして休憩をする。バスの中で私はたいがい寝ているので、気が付けばカトマンドゥということになる。しかし、午前3時頃目を覚ましたことがあった。暗闇の中、バスはカトマンドゥ盆地の周りにある山を登っていた。エンジン音が違うのである。それまでは、インド国境近くの高度差のない道を走っていた。カトマンドゥが近づくと、自分の気持ちがそうだからなのか、わくわくしてくる。やはりカトマンドゥへ行くのは楽しみなのである。満天の星空が印象的であった。
 カトマンドゥへは、2カ月に一度位しか来ないので、少なくとも1週間の滞在となる。その間に、注射や健康診断を受け、青年海外協力隊事務所への活動報告をする。必要なら金銭面を含めた支援を求める。ネパール側の所属機関である教育省との連絡を取ることもある。カトマンズには必ずと言っていいほど誰か地方暮らしの隊員が来ているので、隊員間での情報交換。また日本からの新しい情報も得ることができる。スルケットにいては日本の情報から一カ月位遅れることはよくある。和食、中華、洋食などいろいろ食べられるのも楽しみである。いろいろな食べ物がある日本での食生活にじんでいる者にとっては、ネパール食しかない地方での生活は厳しい。ネパール食とは、カレー味の野菜、豆のスープ、御飯の組み合わせである。味の変化が乏しいので、飽きてくるのである。そしてスルケットで手に入らない、仕事に必要なものや日本食を含めた食料品の購入である。ベニヤ板で黒板を作ったが、それ用のペンキや事務用品を買ったりした。食料品は、味噌、醤油、サラミソーセージ、缶詰、コンソメ、チョコレート、粉末ジュース、などである。カトマンドゥへ来る時は荷物は少ないが帰る時は多いので、飛行機の持ち込み荷物は常に重量オーバーであった。

  9、初めての映画会
 カトマンドゥの青年海外協力隊の事務所には、過去の隊員の報告書が残されていた。カトマンドゥにいる間に、先輩隊員の報告書を読み、内田クレペリン精神検査用紙が青年海外協力隊の事務所にあることを知った。内田クレペリン精神検査は一桁の数字の足し算を繰り返し、その作業の状況から受検者を判断するものである。言葉を必要としないために、ネパールで実施しやすい。先輩隊員が日本から取り寄せたが、到着が遅くなり実施できないまま放置されていた。それを実施する準備を夏休みを利用して進めた。教育省や大学の教官などに会って心理検査についての相談を行ったが、これと言った返事はもらえなかった。結局、教育省から郡の教育委員会あての私の調査への協力を要請する文書一通だけであった。しかしそれだけでも、上意下達の社会では役に立つ。夏休み明けの9月には、検査を私の学校で実施できた。また理数科教師隊員の仲間に実施を頼んで、5校で実施できた。それを11月に検査結果を得るために日本へ送った。
 ネパールへ来る前から日本を紹介する映画の上映をしたかった。また先輩隊員より、学校でチャリティー映画会を行い、集まった金を学校運営に活用した話を聞いた。ビレンドラナガールには16ミリ映画の映写機が3台あり、そのうちの一台を持っている女性訓練センターと話をつけ、借りられる手配をした。私の学校には電気が来ているので、雨期の9月ならば電気の心配もなかった。カトマンズにある日本大使館へ行き、映画のフィルムを5本借りた。郡の教育委員会にも行き、映画会実施の意向を伝えた。すると、私の学校だけでなく周辺の学校にも是非見せてくれとの話が出た。初めは私の学校の生徒だけに見せ、それと併せてチャリティー映画会として外部の人にもと考えていたが、教育長の提案を受けることにした。しかし周辺の学校には電気がなく、発電機も用意できないのでこの計画はだめになった。映画会の準備を進めている途中で、郡知事の許可が必要だと聞き、ネパール人の勧めもあり郡知事に見せた。郡知事は中央政府から派遣された郡で一番の権力者で、郡内で催しをする時は彼の許可が必要である。この時は面倒だと思うだけだったが、郡知事と知り合いになったことが、後で役に立った。
 職員会議でチャリティー映画会の話をして、教師一人に5枚のチケットを売るノルマが課された。映画代は五ルピーだった。1ルピーでチヤ(ミルクティー)が飲めたから、500円ぐらいの感じかと思う。チャリティー映画会には多くの人が集まった。やはり血縁地縁といったつながりが大きいのである。でも教師の中には自分で金を払って知人にチケットをあげたり、チケットが売れなくて学校に金を支払った者がいた。何のためのチャリティー映画会か分からなくなった。
 私は映画が珍しいだろうから、人が大勢集まるものと考えていた。しかし、ビレンドラナガールにはビデオ・デッキが3台あり、1回5ルピーの同額で見せ、商売している。ロサンゼルス・オリピックの試合も1カ月遅れぐらいで見られるという。これでは金を出してまで、映画を見ようという気にはなれない。また金もたくさん集まると思っていたので、その中から私の飛行機代の補助をして欲しいと、校長に言っていた。それが他にも伝わっていたようで、私が飛行機代のためにチャリティー映画会をすると、思っている人もいるようである。さらに映画会の時は、公務員の給料が3カ月以上出ていなくて、その直後にようやく支給されたとのことである。それでは映画どころの話ではない
。  夜は学校外の人に映画を見せるので、昼間に学校の生徒に見せた。その間私は授業をしなかった。生徒は上映している建物の周りに集まっていた。他の教師の授業にかなり影響があったと思われる。教師の冷たい視線を感じていた。大使館からフィルムを借りられる期間が2週間だったために、その間にできるだけ多くの人に見て欲しいと思っていた。相手のことを考えない傲慢なやり方だったと思う。
 9月の終わりから10月の終わりまで、ダサイン、ティハールの休暇となった。休暇明けは学校の仕事に専念した。11月になって、校長に生徒への生活実態調査をしたい旨を伝えた。学年待つ試験の最終日に実施することになった。私の学校の5年生から9年生までの500人分が集まった。10年生は、最終試験を2カ月近く前に終えている。その後は学校に来ていない。調査では、起きる時間や寝る時間、家での勉強や手伝い、将来の希望など、子どもの生活の様子が分かるようにと、実施した。項目は自分で考えた。女の子が、遅寝早起きで、家での学習時間が短く仕事の時間が多い、という傾向が見られた。調査した生徒数の男女比が、だいたい2対1で、男の子が多いことからも、女の子が学校から離されている状況が分かる。生活実態調査は、後ほど理数科教師隊員の協力で、ネパール各地で実施された。
 12月に入ると、ネパールの全国規模での教員のストライキが行われるようになった。教員と公務員の給料に開きがあり、同額にしろという要求からであった。教員はストライキ中、集会を開いたり出勤しなかったりしている。ネパール人の同僚は
、 「明日は集会があるが、あなたは来ないほうがいい。」
と教えてくれる。外国人である私の身を案じてのことである。集会がどのように進められるのか興味があったが、彼の忠告に従うことにした。教員が集会を開いているところへ警官が来て、参加者を追い散らしたという話を聞いた。ストライキの首謀者を捜して警官が学校へ来たこともあった。教員に呼応して商店やバスがストライキする時もあった。東ネパールの町では暴動ざたになったという話も伝わってきた。
 ストライキ中、隣の県の理数科教師隊員を訪ねることにした。私と一緒に車で仕事に就くための旅をした下田隊員の他に、柴隊員がいた。彼らは1週間ほど前にスルケットを訪問していた。今度は私が、ということになった。12月末の朝、7時にネパールガンジ行きのバスに乗る。7時間かかって、ネパールガンジに着いた。3時半のバスに乗る。インド国境沿いの低地を走るのだが、ここでも冬は寒い。夜の7時半、バスは止まった、今日はここまで。夜は大部屋の小さなベッドで寝た。翌朝7時半に昨日のバスで出発。途中、トラクターとトラックの接触事故で道がふさがれていた。その処理に三時間待たされた。12時半にようやく下田のいる町に着いた。地図で見る限りは近いのだが、実際に行くとなると時間がかかる。下田、柴の2人の町を訪れたが、インド国境に近い分インドの雰囲気が強くなる。ネパルガンジはほとんどインドである。北へ行くほど、標高が高くなるほど、チベットの雰囲気が強くなっていくからおもしろい。帰りに、ネパールガンジで黒板用のベニヤ板などを買って帰った。






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