ネパ−ルの運動会(5) A Record of Nepalese Life
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頁:デザインMr.6 1998年10月9日作成

ある青年海外協力隊(JOCV)員の記録

ネパ−ルの運動会その

小尾 二郎

10、体育隊員の赴任
 1985年1月12日、朝食後洗濯と掃除を済ませて休憩していると、私の家の前に青年海外協力隊事務所の車が止まった。体育隊員の田和正志の到着である。まだ数日先だと思っていたので、早い到着に驚いた。12月の終わりから教員がストライキを繰り返していたので、学校が閉鎖状態になっていた。まもなく新学年始まるという時である。ここ数日学校へ行っていたが教員も生徒もいなかった。誰もいない学校で、日本から持ってきた絵葉書で日本紹介の掲示物を作っていた。この日はたまたま家にいた。田和隊員に同行して来たのは、事務所の職員、ネパール人のドライバー、それに近くの村に住む野山隊員である。彼はカトマンズから村へ帰るのをよろしく案内役を買って出たのである。彼らは町に行って今夜の宿を探すことになった。夕方に私の部屋で歓迎会をする約束をして別れた。
 11月の終わりに、鶏を二羽買った。街の市場で売っているのをたまたま見かけたのである。これで卵が食べられると家に持って帰ったのであるが、大家がオスを買ってきてどうするのだと言う。肉を食べるためだと言ってごまかした。私は、鶏のオスとメスの区別がつかなかったのである。ネパール人にとって当たり前のことが、私には分からない。自分の生活力のなさにいやになった。鶏は大家の作った小さな金網の小屋に入れられた。
 1羽は年末に隊員仲間が私の町に尋ねて来た時に、トリ鍋になった。ネパール全土での教員のストライキが始まり、学校は閉鎖状態となった。教員の隊員の仕事がなく、その間に中西部にいる隊員相互の活動地を訪問したのである。1羽目を肉にする時は一騒動だった。青年海外協力隊では、隊員が海外に出る前に日本で語学を中心とした訓練を3カ月ほど行う。その中に鶏の首を絞める事も入っていた。その時の事を思い出しながら、自分でやってみようと鶏を小屋から出そうとした。その時、鶏が外に飛び出した。太った日本の鶏と違って、ネパールの鶏は痩せているだけに動きが素早い。あっと言う間に、5、6m飛んでしまう。大家やインド人の下宿人も出てきての大捕り物となった。1階の4部屋のうち二部屋を私が借り、私の少し後でインド人が一部屋借りた。3人で共同生活していた。飼われている鶏なので、遠くへ逃げようとはしない。インド人の下宿人が木に登って捕まえてくれた。この場面でも私には、やはり生活力がないのである。
 田和隊員の歓迎会の準備を始めた。残っている1羽の鶏をつぶすことにした。前回のことがあるので、逃げられないように慎重に小屋から出した。つぶす作業は庭で行った。食器の洗い桶に使っている金属製の入れ物に湯を沸かした。包丁を入れる位置の首の毛を少しむしった。鶏の体温が指に伝わってくる。不安げな目を私に向ける。生きているものの命を奪う時は、やはりいい気持ちがしない。だがそうすることが自分の生につながる。この作業をすることにより犠牲になるものへの感謝の念も出る。か弱い抵抗を無視して、首を切る。首から流れる地を落とし、沸騰した湯に突っ込む。その後引き上げて、羽をむしる。残った毛を取るために、直接火であぶる。さっきまで生きていたものが物体になった。腹から内蔵を取り出し、骨付きのままブツ切りにする。
 トリ鍋だけでは肉がもったいないと、市場で手に入れた卵を使って茶わん蒸しを作ることにした。と言っても蒸し器がないので、これにも洗い桶を使った。底に深めの皿を敷き、水を入れた。皿の上にスープ用の器を入れて、そこに茶わん蒸しの材料を入れた。フタの代わりに大きな皿を使った。食器はどれも金属製なので扱いやすかった。私がネパールで茶わん蒸しを作ったのは、これ一度きりだった。 田和隊員は、自分の下宿が決まるまで私の部屋で暮らすことになった。数日後に私は、休暇を取ってインドへ旅行に出掛けることになっていた。その間私の部屋は空いているので、ゆっくりと落ち着き先を探せばいいということである。田和隊員は中西部の地方教育委員会の所属となる。ビレンドラナガールは、中西部地方の中心地で、彼の職場の事務所もここにある。だから、ビレンドラナガールに住むことになった。私は1つの学校が仕事場で、2年間移動することはない。田和隊員の仕事は、中西部地方の3県15郡にわたっている。
 この地域における体育の指導、スポーツの全国大会への引率などが彼の仕事になる。この地方の全部の郡を回ることは、交通事情を考えると非常に困難である。ネパールでは理科や数学の教員だけでなく、体育の指導者も不足している。1校に1人と言うわけにいかないので、巡回しながら指導する方法を採っている。
 青年海外協力隊の事務所の車は、スルケットに来た翌日、にカトマンズへ向けて帰っていった。田和隊員が来て2、3日後、私は校内運動会の構想を話した。スルケットへ来て直ぐの彼には何のことか分からなかったと思う。その直後に私はカトマンズ経由でインドへと向かった。

11、同居生活
 20日間の旅行を終えインドからカトマンズに帰ると、昨年の9月に実施した内田クレペリン検査の判定結果が日本の研究所から届いていた。報告書は日本語だったので、ネパール側への報告のための英訳を行った。青年海外協力隊事務所の職員の協力を得ながら、1週間かかって終えた。教育省ともう一か所に報告書を提出した。英訳が終わりかけた頃、根を詰めて作業をしたことの疲れからか、体調を崩した。少し回復したようなので、しんどいながらもスルケットに帰ることにした。高校卒業認定試験が終わり、学校が再開されている時期だったので、学校の仕事が気になっていた。あわただしいカトマンズでの暮らしよりは、スルケットで規則正しい生活をしている方が健康の回復には良いと思った。以前ならば病気の時はカトマンズにいて、身の安全を何としてでも確保したかっただろうが、1年余りのネパール生活で地方にいる方が落ち着くと思うように私の心が変化していた。
 病気はインド旅行の疲れもあったのか、回復に時間がかかった。スルケットに帰った翌日から下痢に襲われた。2日間はベッドに寝たままであった。その間に20回便所へと通った。助かったのは、大家がレンガとセメントで新しい便所を作った事である。以前の畑の中の草で囲まれ、穴に板を渡したモノと比べると、格段の違いである。用をたした後、水で流せば便は、便所の下に掘られた大きな穴へと流れていく。バケツ式水洗便所と言ったところか。臭い匂いに悩まされないし、衛生面もいい。でもこの便所のために、下宿代が値上がりした。1日に何回使っても快適なだけに、それもいいかと思うことにした。
 スルケットに戻って3日目の夕方、だいぶ回復したので学校へ行った。学校の様子を知りたかったのと、私が帰ってきているのを伝えるためである。授業が再開されて、1週間経っていた。ゆっくりとしたペースなので、授業にそれほど穴をあけていないことに安心した。私が担当する生徒は、9年生と10年生になっていた。しかし、まだ授業をするまでは体力が回復していなかったので、しばらくは下宿で静養である。仕事を始めるのに更に4日かかった。これが私がネパールにいる間になった病気の中で一番大きなものだった。ネパール暮らしで大きな病気をしなかったということでは幸運だったと思う。スルケットには小さな病院しかなかったし、首都のカトマンズに出るのには時間がかかる。結局は、自分の健康は自分で守るしかない。野菜などの食べ物は生では食べないようにしていたし、飲み水については必ず沸騰させたもの飲むように注意していた。
 私がスルケットに帰った時、田和隊員はいなかった。大家に1階で1つ残っていた空き部屋を借り、そこに荷物を置いていた。数日後に、田和は陸上競技の全国大会の引率から帰ってきた。2人の男の奇妙な同居生活が始まった。彼が新しい下宿を見つけて引っ越すまでの1カ月続いた。田和に言わせると居そうろうということだ。夕食は私が2人分作って、一緒に食べていたから、そんなものだろう。2月の終わり頃、再び校内運動会の話をした。田和は、全国大会では選ばれた一部の選手しか参加していない競技会に疑問を持っていたようだ。彼は乗り気になってきた。2人の間で話は進んでいった。
 2人で考えた運動会の方針は、できるだけ多くの生徒を競技に参加させ、運動することの楽しさを教える。ネパールにある道具を使う。金をかけない。といったことである。多くの生徒を参加させようというのは、スポーツをするのは一部の選ばれたものだけというネパール人にある感覚を変えてみようということである。だから、玉入れや2人3脚のように、みんなが楽しく参加できるレクリエーション的なものを取り入れることになった。ネパールにある物を使い金をかけないというのは、工夫次第で楽しめることを示したかったのと、我々がいなくなった後もネパール人だけで運動会が行われるようになればいいとの考えからである。
 3月に入ってネパールの全国規模での教員のストライキが10日間行われた。この間に私はネパールガンジへ行って、黒板用のベニヤ板などを買いに行った。運動会ように必要な品物を準備するための市場調査を兼ねての動きである。行きは飛行機で。スルケットの飛行場に4時間半待たされた。その日の夕方と翌日の朝に買い物をし、帰りはバスに乗った。午前中のバスの席が取れなかったので、午後のバスに乗った。途中の町まで行って、そこで宿泊。次の日別のバスで、ベリー川まで出た。フェリーが壊れていたので、丸木舟に乗って対岸に渡る。バスが待っていて、それに乗って帰ってきた。バス旅行でほこりまみれになった。ズボンの色が変わってしまった。フェリーが動いていれば2時間の道程を5時間半もかかった。翌日から誰もいない学校で、黒板作りを始めた。学校は用務員が交替で宿直にあたっている。彼らに部屋を開けてもらう。授業で使うグラフ黒板も作った。黒板用のペンキはカトマンズで買って既に運んであった。

Ne-ga1.jpg
(手作りのグラフ黒板)

 田和隊員の協力で、私の学校の時間割に体育を入れた。1週間に1日、彼が私の学校へ教えにくることになった。彼や私の希望であり、2人で半年後に実施しようとしている校内運動会をにらんでのことであった。男の子は喜んで体育の授業を受けるのだが、女の子は普段スポーツから縁遠い生活をしているので、嫌がって逃げ出して消えてしまう者が多かった。我々の願いは子どもたちに体を動かすことや運動する楽しみを体感してしてもらうことである。授業だからといって、強制的にさせるのは好ましくない。少数だが、運動の好きな女の子もいる。彼女たちから徐々にスポーツが広がっていくことを期待するだけであった。体育の授業は珍しく、しかも外国人が教えているということで、休講の生徒などの取り巻きで田和隊員の授業は人気の的であった。
 7年生約50人の生徒への体力測定の実施も田和隊員の協力を得た。1検査ずつ生徒に付きっきりで指導していたので、時間がかかり丸一日つぶした。生徒に記録を任せたところ、無茶苦茶な数字が入っていて参考にならなかった。検査の方法を示したという点では評価できても、記録を残すという点では失敗した。ただ、身長と体重の記録は使えた。後日、ネパール人教師の協力を得て、他の学年に実施した身体測定の結果と合わせて記録として残すことができた。
 私も休み時間や授業のない生徒に、なわ跳び、騎馬戦、二人三脚などを教えた。ドッヂボールやハンドベースボールも教えてみた。ドッヂボールは、ルールが簡単だから人気があった。ボールが当たるたびに、
「マリョ(だめ)。」
という歓声があがった。
 3月の末に、田和隊員が新しい下宿に引っ越した。彼は郡知事の車に目を付けたようで、それを借りることになった。ビレンドラナガールの町で見る車はバスやトラックを除けば、その1台だけである。ドライバーはいなくて、郡知事自身が運転している。ネパールの地方の小さな町では自動車を運転できる人は本当に限られている。田和は私に、車を運転してくれと言う。確かにネパールに来る前、日本で運転していたが、ネパールではまったく運転していなくて、1年以上運転席に座っていなかった。道はカーブが多く、見通しの悪い狭い道である。ネパールでももちろん車の免許証が必要である。私は持っていなかったので、無免許運転であった。地方のこと、どうということはないだろう。
「まあ、いいか。」
というところで引き受けた。私の下宿から田和の新しい下宿を何回か往復して、引っ越しを終えた。何事もなく終わってやれやれと思い、車を郡知事に返しに行った。家の敷地内に入れようとした時、ハンドルを切り損ねて囲いの柱に車をぶつけてしまった。バンパーが前輪に食い込んで動かなくなった。郡知事にあやまったところ、何のとがめもなかった。知事の家の使用人と思われる人が角材を持ってきて、曲がったバンパーを直し、車は動くようになった。知事はボンネットを開けて中を見ていた。ネパールで手に入るもので、不思議な修理をした跡が、2、3か所見えた。郡知事の車はいためてしまったが、我々には引っ越しも済んだことで、まあよしとする1日だった。これで田和との同居生活は終わった。





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