ネパ−ルの運動会(6) A Record of Nepalese Life
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頁:デザインMr.6 1998年11月14日作成

ある青年海外協力隊(JOCV)員の記録

ネパ−ルの運動会その

小尾二郎

   12、映画会、再び
 5月の中旬に、γグロブリンを打つ用事があった。カトマンズへは陸路で行くことにした。この時は、ベリー川のフェリーが動いていた。途中野山隊員の学校により、映画会の話をした。私がフィルムをカトマンズから運び、野山が返却することになった。その後バスでネパールガンジ経由でカトマンズへ行った。カトマンズの用事を済ませ、10日後飛行機でスルケットに戻った。先ず、ベリー川の状況を聞いた。数日降り続いた雨の影響で増水し、昨年よりも早くフェリーが使えなくなったとのことである。気が重くなったが、フィルムを運んできたのだから歩いてでも野山隊員の学校へ行くことにした。
 翌日から五日連続、郡の役所に通った。一日目は簡単に映画会の話をして帰った。顔見せだけである。二日目に郡知事から許可を得るために彼に映画を見せる話。三日目、女性訓練センターへ行き、映写機を借りる話。センターからは街の中で使うのはいいが、故障の心配があるので街の外へ持ち出されるのは困るとの返事。とりあえずこの日映写機を借り、夜に郡知事に映画を見せて彼から郡内での上映の許可を得た。映写機の持ち出しについても、彼が協力するとのことであった。四日目、郡の役所へ行ったが、映写機の話に進展は無し。五日目、今日こそ話をつけようと郡の役所へ行ったが担当官は不在。待つこと3時間余り、彼の自宅へも行った。ようやく姿を見せた。彼は女性訓練センターへ連絡し。やっとこさで映写機の街の外への持ち出しの許可を得た。発電機については、女性訓練センター所有のものを郡知事が使用中で、それを借りることになった。
 またこの日、偶然石田隊員が私の下宿に現れた。彼はネパール東部の学校で理科を教えているが、ネパール西部の隊員の訪問調査を続けている途中であった。彼も、野山隊員の学校へ同行することになった。翌日石田隊員が私の学校を訪問。授業終了後、郡知事から映写機と発電機を受け取る。試動してみると、フィルムは回ったが音声はゆっくりであった。といって代わるものはない。これでいくしかない。画面は動くし、音声も聞き取れるのでなんとかなる。また機械を運ぶために街でトラックを探したが見当たらなかった。歩いて行くつもりでポーターを連れて学校に戻った。石田に郡知事の車を使うことを言われ、二人で頼みにいった。引き受けてくれた。助かった。
 車を待ったので、出発は昼前になった。車でベリー川まで行く。車を降り荷物を持って川辺までの急坂を降りるのが面倒。丸木舟で川を渡る。向こう岸近くの浅瀬で降りる。太ももまで水に浸かりながら荷物を岸まで運ぶ。その後バスに乗り継ぐ。バスを降り、少し休憩。涼しくなってからポーターを雇い、歩く。1時間で到着。川を渡るのとバスの乗り継ぎに時間がかかり、着いたのは夕方であった。乾期ならば3時間の道程を、7時間かかって行った。でも、石田が同行したので、精神的には楽だった。野山隊員と会い、さっそく映画会の準備。この夜は近くの小学校で。会場作りは野山に任せた。校舎の壁にスクリーン用の紙を付け、邪魔が入らないように映写機の周りにベンチで囲いを作る。以前に映画会をしたことのある石田の指示である。映画の話を聞いて村人が集まってきた。村人は真剣に見ていた。自分たちが見慣れた農村風景が出てくると歓声があがった。続く二日間は野山の学校で上映した。石田は次の訪問地へと向かった。
 ビレンドラナガールへ戻る時、野山が同行した。この日の早朝、野山の学校の生徒がビレンドラナールへ向けて出発していた。遅れていたビレンドラ・シールドの開催が決まり、それに参加する選手たちである。帰りは行きよりも乗り継ぎがうまくいって、すんなりと帰ってきた。
 一日の休養日をおいて、夜に私の学校の運動場で上映した。この日の夕方からビレンドラシールドが始まった。上映のときに事件。学校に電気が来ていない。街は電灯で明るくなっているのに。学校が電気代を滞納して、電気を止められてしまったのだ。直ぐに電気を通すようにネパール人教師が連絡したが、技師がいず、だめだった。それで郡知事の所へ、あの発電機を借りに行った。電気のある街で出力不足の発電機を使うという情けないことになってしまった。この夜のネパール人教師は協力的だった。昨年の1回目の映画会とはだいぶ違った。次の日の夜も学校で上映した。
 また郡知事からビレンドラシールドの会場で映画会をして欲しいとの要請があり、一晩だけ行った。競技終了後、ポールを2本立て、そこに大きめの布を張り付けた。競技を見ていた人々がたくさん集まった。スクリーンの裏側にも多くの人が座っていたので不思議に思い見にいくと、スクリーンが布一枚だったので裏側に左右逆になって映画が見えていたのである。大勢の人に見せるのに好都合なスクリーンの作り方だったのである。
 この後、フィルムは野山隊員によってカトマンズの日本大使館に返却された。またビレンドラシールドで私の学校が優勝した。選手として出場した生徒たちと一緒に記念写真を撮った。その後、生徒たちは街を凱旋パレードした。夜は学校で祝勝会があり、生徒たちは歌やディスコを楽しんだ。
 
13、ネパールの交通事情
 運動会の方針や準備を田和隊員と進めていたが、実施するには、困難な点が二つあった。私が1年を通してスルケットで生活する中で明らかになったことである。一つ目はネパール人教師の協力が得にくいと思われることである。二つ目はスルケットの地理的条件である。
 私がやろうとしている校内運動会はネパール人が今までにしたことのない方法である。自分たちが経験していないことには拒絶反応を示すのではないかと思われた。そこで、近在の、といっても片道一日以上かかる所もあるが、野山、下田、柴の理数科教師隊員3人に協力依頼の手紙を3月の時点で書いた。日本人だけで運動会を準備及び実施をして、運動会をネパール人に見せるという方法である。これではネパールでの活動としてまたネパール人がする活動としては疑問であるが、第一段階としてはそれでいいと判断した。日本人だけなら計画を進めるのは楽である。また、ネパールガンジとスルケット間の道路が使える時期に、理数科教師隊員のいる学校を順番に巡り、運動会を隊員の手で実施していくというものである。私はおもしろい案だと思ったが、日程などの問題でつぶれてしまった。 ネパールの空を飛んでいる飛行機は、いずれもカトマンズを拠点として、インド国境近くの町へ行く44人乗りと、19人乗りの2種類である。便数から見ると、ネパール各地へ飛んでいる19人乗りの方が主流である。フライト・スケジュールは、乾期と雨期で異なる。雨期に山岳地帯へ飛べなくなった飛行機が、スルケットのような低い地域に回るために増便される。それが乾期に入ると、山岳地帯へ飛行機が飛ぶようになる。スルケットまでの道路は、雨期の間に崩れたりしているので雨期が終わってもすぐに使えない。となるとスルケットの交通はかなり制限される。ビレンドラナガールは中西部地方の中心地で、政府関係の事務所が増え、他の土地から来ている役人も増えている。それで仕事で移動の多い役人の席を確保するために、飛行機のチケットの売り出しに制限が付けられるようになった。雨期明けの、飛行機以外の移動方法は徒歩しかない。二日かけて、ネパールガンジ近くまで出て、そこからバスに乗るのである。
 インド国境沿いを走るバスもすんなりといかない。10月に私は飛行機の席が確保できずに、一度そのバスに乗った。午後2時にネパールガンジをバスは発った。3時間半走って、広い川に着いた。バスを降りる。乾期ならばバスに乗ったまま川を渡るのだが、雨期は無理である。ポーターの少年が乗客の周りに群がる。浅い川を歩いて渡る。知り合いのネパール人から、川を渡るときにガラスで足を切ったという話を聞いていたので、靴をはいたまま渡る。ネパール人は慣れているのか速い。私との距離はどんどん開いて行く。ようやくに岸に上がると次は、深く流れの速い川を渡し舟で渡る。川を渡り終えるのに30分。対岸にバスが待っていて、乗り込む。辺りは暗くなりかけていた。暗くなっては川は渡れない。だからバスが早く出発したと納得。午後6時バス発。2時間後またバスが止まり降りる。川には吊り橋がかかっている。バスを降り、歩いて橋を渡る。また別のバスに乗り換える。8時過ぎに町に着き、夕食。9時バス発。途中、土砂崩れの現場に出る。ブルドーザーで整地中であった。バスは一時間止まっていた。翌朝7時半、カトマンズ着。ネパールガンジから17時間半の旅であった。
 また次のような経験もした。カトマンズからネパールガンジへ飛行機で飛んだ後、空港でスルケット行きの飛行機に空席がないかを尋ねた。1週間先まで満席であった。近くにいた人に、街にある県庁に行くように教えられた。どの飛行便にも政府の役人用の席が確保してある。その席に空席があれば、外国人ボランティアも使えることになっている。県庁へ急ぎ、そこで事情を話し空席の確認をした。四日後しかなかった。スルケットの近くに居て、それまで待つのは辛い。カトマンズへ戻り直行便でスルケットへという手もあるが、席が取れるかどうか分からない。バスとトラックを乗り継いでその後歩くと二日でスルケットに着けるとの話を得た。夕方発のバスがあるので、直ぐバス乗り場へ急いだ。6時過ぎ、バス発。1時間後、バスは止まった。バスはここまで。草葺きの宿に泊まる。ビレンドラナールの近くの村まで帰るという人が通りかかった。少年のポーターを見つけ、一緒に歩いていくことにした。しばらく歩くと、トラックが来た。荷台に乗り込む。道はでこぼこで振動が激しく、座っているのも大変だが歩くよりははるかに楽である。1時間で、川に出た。トラックはここまで。川を歩いて渡る。対岸まで約100m。水は太ももまできた。岸に上がり、車道を離れ山道へと入った。少休止を何度かとる。夕方、車道の宿場町に着いて、そこに泊。翌日早朝に出発し、歩くこと4時間でベリー川に着いた。丸木舟で川を渡る。また歩き始める。しばらくしてビレンドラナガールからジープが一台来てベリー川の方へ行った。そうちジープが引き返してきて、乗せてもらった。車にそれなりに乗れて、幸運な方だったと思う。
 雨期や雨期明け直後のスルケット周辺の交通機関は当てにならない。飛行機を予定してて、それがだめになった場合の痛手は大きい。だから運動会に必要な物は、できるだけ早く、乾期の車道が使える間に運ぶことにした。また教員のストライキが行われ、長期の見通しが立たず、いつ運動会が実施できるかという日程の不安もあった。しかし、機会がある度に校長に私の意向を伝え続けた。四月には、田和隊員がカトマンズへ行った時に、市場調査をしている。五月にビレンンドラ・シールドの日程が決まっていない時には、それの代替案として校内運動会を提案したこともある。六月にビレンドラ・シールドが、実施されたことから流れてしまった。私がカトマンズへ行った時に、看護婦隊員に運動会当日、救護の協力を依頼した。田和隊員が、カトマンズで職業訓練でミシンの使い方などの指導をしている綿部隊員にハチマキと玉入れ用の玉を作ってもらえるように依頼した。実習生の練習になると、引き受けてくれた。夏休み前に校長から、運動会の日程で女王の誕生日に関連してその前後に実施してはとの提案があった。その時期には車道が使える状況にない。他の隊員に応援に来てもらうのが困難である。とにかく、私の学校での実施を第一に考え、巡回運動会はあきらめることにした。協力を依頼した隊員には、7月に隊員がカトマンズできるだけ顔を揃えた時に、事情が変わったことを伝えた。カトマンズで綱引きに使う太めのロープを買った。またハチマキはできあがっていた。ロープとハチマキは7月に田和隊員がスルケットに帰る時に運んだ。


 




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