ネパ−ルの運動会(7)A Record of Nepalese LIfe
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頁:デザインMr.6 1998年12月10日作成

ある青年海外協力隊(JOCV)員の記録

ネパ−ルの運動会その

小尾二郎

   14、運動会に向けて
 9月に入り、田和隊員と運動会の細かい打ち合わせを行っていった。校長への再三の働きかけで運動会のことが職員会議の議題になり、日程だけが決まった。11月5日、6日となった。前進したと思ったのもつかの間、今度は田和が仕事で出張へ。運動会の計画は中断状態となった。九月末に田和が出張から戻り、計画を再開した。学校の仕事を終えた後、田和の職場の事務所へ寄り、運動会の話を進めるという毎日であった。
 学校にはゲーム・ティーチャーと呼ばれる教師がいる。理科の学習に健康の内容が含まれていて、そこで体育も取り上げられている。理科の教師が体育を兼ねている。だから理科を担当している教師が、ゲーム・ティーチャーをしていることが多い。体育関係の仕事はゲーム・ティーチャーがする。ビレンドラ・シールドの出場選手選びや引率もゲーム・ティーチャーの仕事になる。私の学校のゲーム・ティーチャーはビレンドラ・シールドで優勝して機嫌が良かった。昨年優勝できなかった恨みをはらしたというところか。校内運動会の準備では、二人の日本人に一番協力的だった。彼は他の教師に校内のチーム分けを提案し、選手名簿を作成した。彼の力で、ダサイン休暇前にここまで準備すればいいと思っていたところまでいった。強力な協力者の出現で、運動会の計画は一カ月前になってようやく校内で動き出した。
 ダサイン休暇中は、田和隊員とカトマンズで運動会の準備に追われた。記録用紙、得点表、プログラム、トラック図、準備物一覧、競技方法、順位カード、選手名簿用紙を作成し、必要分コピーした。運動会実施の細部案は、次の通りである。
 全校生徒を四つのチームに分ける。競技は6、7年生が一緒、8、9年生が一緒で、男女別で行う。だから100m走ならば、6、7年生男子、6、7年生女子、8、9年生男子、8、9年生女子、と4種類のグループに分かれて行うことになる。ビレンドラ・シールドの陸上競技では、男女とも行われるのが、100m走、200m走、400m走、400mリレー、走り高跳び、走り幅跳び、砲丸投げの各種目である。また、1500m走、1600mリレー、三段跳び、槍投げ、の各種目は男子のみ行われる。槍投げを除く種目に次の種目を付け加えた。男女ともに行うのが、綱引き、玉入れ、二人三脚の各種目で、団体競技である。また男子だけのものとして、障害物競走、リムころがしリレー、騎馬戦の各種目を入れた。さらになわとびリレーを女子の種目として入れた。 食欲競走は、スタート地点から30m先にテーブルと椅子がある。テーブルの上にはチヤ(ミルクティー)とパンが置いてある。テーブルまで走っていって、座って食べる。食べ終わると、スタート地点まで戻る。綱引きのチームは六年から九年までの男女混成で作り、トーナメント戦を行う。玉入れは、チーム対抗で日本のと同じルール。ネパールで広く使われているドコと呼ばれる竹で編んだカゴを、竹の棒にくくりつけて使う。二人三脚リレーは、6、7年の男女それぞれ二人で一組、8、9年についても同様の計4組で、リレーをする。障害物競走は、スタートしてすぐに木できた長椅子の上を走る。その後、ボールをドリブルして、ドコ(カゴ)が置いてある所まで進み、ドコを倒さないようにしてボールを中に入れる。そこからしばらく走り、置いてある麻袋をはいて、跳びながらゴールする。騎馬戦は日本のと同じルールで、男子の全員参加とした。
 生徒の出場は、一人1種目以上で、ビレンドラ・シールドの種目とそれ以外の種目それぞれ2種目以内とした。ただし、男子の全員参加の騎馬戦は除いた。できるだけ、多くの生徒に参加の機会があるようにするためである。得点は個人種目が、1位5点、2、3、4位が順に3、2、1点とした。4チームによる対抗なので、1回のレースには4人しか出場しない。出場すれば得点はもらえる。また団体種目を重視し、得点は個人種目のそれぞれの得点の4倍、リレー種目は6倍、男子が全員参加する騎馬戦は8倍とすることにした。
 ビレンドラ・シールドの種目とそれ以外の種目を組み合わせながらプログラムを作成した。どの種目を何日の何時に実施するというような、細かいものにはしなかった。実施する順番を決め、順々に消化していき、時間がくれば休憩を入れるし、1日目を終わることにした。
 田和の提案で、トラックは1周200mで、100m走は直線コースで取ることになった。運動会当日の教師と我々の仕事の分担をした。田和はゲーム・ティーチャーへの指導を含めたスタートとゴールを担当する審判長である。私は仕事の分担なしとした。運動会全体の流れを見るのと、どこの仕事へも手伝いに行けるようにした。ネパール人の教師がきちんと仕事をすれば私の出番はなくなるが、そうでなければ猛烈に忙しくなる。また、記録として8ミリ映画を残すことにした。撮影の担当は、野山隊員となった。
 運動会の雰囲気を出すために、行進やかけ足の音楽テープを日本の友人に依頼して送ってもらった。また休憩中にディスコをすることにした。生徒がディスコ好きなのは、彼らとピクニックに行って知っている。ピクニックとはネパール人がそう呼んでいるのだが、野外でする食事である。山や川へ気の合う仲間と、ナベや食器、食事の材料を持って行き、そこでみんなで食事の用意をして楽しく会食をするものである。そうそう生きたヤギを1匹連れていく。もちろん帰りにはヤギはいなく、参加者の胃袋に収まっている。食事の後は踊りとなる。若者はディスコとなる。一人が踊ってその周りを多くの人が取り囲んで見ているというのが彼らのやり方である。そうではなく、多くの生徒が一緒に踊るというのをやってみたかったのである。
 10月の下旬に綿部隊員から玉入れ用の玉を受け取った。完成まではいってなかったので、残りの作業はビレンドラナガールの仕立て屋に頼んだ。なんとか間に合った。その他運動会に必要なものをカトマンズで買って、スルケットヘ戻った。校内運動会についての実質的な職員会議は、運動会の5日前が最初だった。色々な議論が出てくると思われたが、ほとんど私の提案通りだったので拍子抜けした。ネパール人教師には校内運動会の経験がなく、私の言っていることがよく分からなかったというのもあったと思う。それだけにかえって私は運動会ができるのかと不安になった。でも、これでようやく学校全体が運動会に向けて動き出したのは確かである。
 生徒の四つのチームにはスルケットにある寺院や公園といった郡の代表的なものの名前が付けられ、ハチマキの色である赤、青、黄、緑の四色で区別することになった。救護は学校の赤十字の係の生徒に任せることになった。ここまでくればどんな運動会になろうともやるしかない。運動会の二日前、4時限目終了後、生徒全員で運動場の石拾い。1時間で以前と見違えるほどきれいになった。前日は授業なしで、運動会の準備である。石灰の到着が遅れ、トラック描きの作業が終わったのは夕方の5時だった。私は心に不安を抱えながら、運動会の当日を迎えるのである。


 



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