ネパ−ルの運動会(8) A Record of Nepalese Life
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頁:デザイン Mr.6 1999年 1月10日作成

ある青年海外協力隊(JOCV)員の記録

ネパ−ルの運動会その

小尾二郎

15、校内運動会
 運動会1日目。前日の教師間の約束で、できるだけ早く学校に集まることになっていたので、9時前に学校に着く。驚いたことに机や椅子が並べられていて、会場はほとんどできていた。準備は放送設備の設置にかかっていた。一人の教師が電線が必要だと言う。数日前にそれを聞いていたのに忘れていた。下宿まで取りにいく。仕事がたくさんあるのに、無駄な時間を使わねばならないと、焦りながら往復。40分もつかってしまった。
 学校に戻ると、どうも様子がおかしい。街に電気がきてなかった。発電所が仕事をしていない。早くも障害である。バッテリーを使うことになった。手間取って開始予定の10時を過ぎても配線の仕事をしていた。郡知事は時間通りに来ていた。彼も作業の間、待たされた。この間に私はボランティアの生徒を集め、仕事の分担とそれぞれの内容を指示した。各チームのキャプテンを集め、チームで決まっている色のハチマキを渡した。スタートの合図用の笛、ストップウォッチをそれぞれ担当の教師に渡す。下宿までの往復で遅れた仕事をやり終えた。
 11時前、開会式が始まった。国旗の掲揚後、国王、女王の写真へのプザ(お祈り)。生徒が整列して入場行進となった。生徒は250人ぐらい。予想よりも多くの生徒が来ていた。運動を嫌がって欠席者が増えると思っていたが、これだけ来ているならいい。教師が叩くネパール太鼓に、日本からの行進曲のカセットテープを同時にかける。この二つが全然合っていない。生徒はのっしりとした歩き方。葬送の行列のようで、運動会の感じがしない。田和隊員と顔を見合わせて苦笑した。生徒が運動場に並んだ後、校長のあいさつ。私は彼のあいさつが好きである。短くていい、余計なことは言わない。続いて準備体操。太鼓に合わせて行われた。日本人が教えたものをネパール流に変えてしまった。リズム感のなさがなんともおかしかった。開会式が終わって生徒の退場となる。これは素早く終わった。ここまで30分。時間の遅れを少々取り戻した。
 100m走はネパール人にとって慣れた競技である。安心して見ていられる。自然な形で競技が動き出した。この後、障害物競走の選手を集め、行進曲のテープをかけ、入場行進させた。この後数競技つきっきりで指示するうちにネパール人教師が勝手にするようになった。生徒にとっての初めての競技は、田和が説明しながら試走、試技を競技の前に行った。障害物競走もそうであったが、ルールが分かっていなくてやり直しがあった。競技が数回済んだところでネパール人に任せたが、ルール違反があってもそれを認めてしまうところがあった。まだ競技から我々は目を離せないのである。障害物競走は競技中に順位がくるくる入れ替わり、競技の内容も見ていておもしろくて盛り上がった。
 400m走はセパレートコースで行ったが、女子が不慣れでアウトコースからインコースへ入ってくるという違反があった。昼には暑くなったので、校長の提案により1500m走は夕方に変更した。走り高跳びの後、2時過ぎに休憩にした。休憩中にディスコの曲をかけた。踊り手は一人、二人でその周りの観衆が多数。
 競技の再開は三時過ぎ。遅くなった。私は競技前の準備に奔走している。綱引きは思ったよりも力が入った。この日一番の競技だったと思う。ネパールにもこの競技があり、「ラッサカッシ」という名前が付いている。玉入れも楽しかった。「タマケル」という名前が付いた。「ケル」は遊びやゲームを意味するネパール語である。「タマ」というのもネパール語にあって、タケノコを意味する。竹を使うから丁度いいじゃないか、という話になった。700個以上あった玉も運動場にばらまくと少なく感じられた。二つのチームは100個以上入れた。日本式にみんなで玉の数を数えたので緊張感が出た。昼にできなかった1500m走をやり、時間の都合でこの日の競技を終了した。5時になっていた。進行がもたもたしているのに、半分終わった。それが意外である。競技の進行と共に、徐々にネパール人はこちらのペースにのってきた。街で夕食を済ませ、今日一日の満足感をもって下宿に帰る。
 二日目、9時半に学校へ。教師はいなかった。早くに来ていて準備し、朝食のために帰ったのか。ボランティアの生徒がいたので、彼らと準備をする。そうしている間に教師や生徒が集まってきた。10時半、生徒を集め準備体操をする。昨日と違い楽しそうである。やはりエライサンの前では緊張するのだろうか。
 11時、競技開始。三段跳びの間に、次のなわ跳びリレー用のロープを準備する。リムころがし用のリムがないのに気づいた。リムころがしリレーはできず、変更になった。ネパールのゲームの「カパルディー」になった。スポーツのアジア大会で行われたカバディーと同じもの。ネパールでは私には、カパルディーに聞こえた。これは鬼ごっこの一種。ネパールのゲームだから、競技の中にこれを入れなければならないと、ネパール人教師が言っていた。私にはほとんど言い訳にしか聞こえなかった。どんなゲームか知らないので、競技の進行を手伝うことはできない。ネパール人教師が審判になったので、ゆっくりと見学。私には、ルールがはっきりせず時間がかかり、見ていて退屈した。1時間かかって競技が終了。昼休みとなった。
 昼休みに生徒はディスコ。昨日より踊り手が多く、少々盛り上がった。気がつけば観衆の中に最終試験の終わった10年生の姿がちらほら見られた。彼らも運動会に参加したかったものと思う。
 2時に競技を再開。走り幅跳びに続いて800m走。走っている途中の一人の生徒が、気分が悪くなって倒れる。昼休みにディスコをしていて休憩していなかった。無理だったのだ。しばらくして回復、たいしたことはなかった。11月で過ごしやすい気候になったとは言え、昼間は暑い。食欲競走は非常に好評だった。熱いチヤ(ミルク・ティー)を飲むのに苦しんでいる姿が笑いを誘う。運動場の中央で競技をしているので、よく見えるようにと観衆がトラック内に入ってくる。しかし、ボランティアの生徒が押し戻して人員整理する。運動会を通してボランティアは、競技の準備と片付け、人員整理とよく仕事をした。
 砲丸投げの後、騎馬戦。この時郡知事が見にきていた。彼は騎馬戦が気に入った。運動会用にと500ルピーを学校に寄付していった。女王の誕生日の郡のスポーツ行事として、この運動会を認めたのである。学校に金が入るのは悪いことではない。男子が全員参加の騎馬戦では思っていたほど参加者がなく、1チーム5騎から7騎しかできなかった。でもこれぐらいのほうが審判はしやすかった。チームにより考えた作戦もあり、集団競技として見ごたえがあった。やはり騎馬の多いチームが勝った。騎馬戦はそのまま「キバセン」と呼んでいた。最終競技の1600mリレーの時には満足な終わりを迎えていた。1日目とは違い、我々が何も言わなくてもネパール人が勝手にするようになっていた。私がする仕事はなくなっていた。
 生徒の競技が終了後、観衆参加の食欲競走を行った。参加者が懸命に食べているのがおもしろかった。5時に全競技を終え、生徒を集め行進。運動場に整列後、成績発表。一位は赤のチーム。以下黄、緑、青の順だった。
 遅くなったので、生徒を帰せばいいと思っていたら、アナウンス担当の教師がディスコをやると言い出した。間もなくディスコ音楽がかかり、優勝したチームがやはり元気でそこから踊りが始まった。輪が広がり、どのチームもやりだした。生徒が教師を輪の中に引っ張っていく。田和隊員、二日間運動会の記録を八ミリ映画に撮り続けた野山隊員、そして私の日本人3人も引っ張り込まれた。30人ぐらいのディスコの輪ができた。その周りにも生徒たち。私がやりたかったことをネパール人教師にやられてしまった。競技が全部終わった後とは演出が憎いではないか。後でその教師に聞いたのだが、ディスコによって勝ったことも負けたことも忘れる。しこりをなくすために自分の判断でやったとのことだった。粋なことをしたものである。ディスコが終わり、帰っていく生徒の背中には満足感が見られた。
 この夜、ネパール人教師が我々のためにと、一席を設けてくれた。これも予想していなかったことである。ネパール人教師は運動会の成功に満足していた。外部の人から、運動会にいくらぐらいの金がかかったのかと聞かれた時に、少額で競技数も参加人数もビレンドラ・シールドよりも大きな大会をしかも短時間でできたことを、自慢げに言えたとのことである。この場で生徒への賞品の話になった。ネパールの慣例で各種目に賞品を出さなければならないという意見が出た。金をかけないで実施するという方針でやってきたので、田和隊員と日本の運動会の例を出し一つの競技にでも参加した生徒全員に、参加賞という形で出せばいいと主張した。スポーツの競技人口が少ないことから、賞品でつって子どもに参加させるという感覚がネパールにあるように感じていた。そういう形の参加ではなく、スポーツ自体の楽しみを味わって欲しいというのが、我々の希望であった。そして、競技で活躍した生徒よりも、二日間ボランティアとしてよく仕事をした生徒に対して何かしてやることを考えて欲しいと付け加えた。この時は、ネパール人教師から十分な同意は得られなかったが、結果的には我々の主張が受け入れられた。
 ネパール人にも酒好きがいる。酒宴は盛り上がる。普段いい加減な仕事をしている教師が楽しい踊りを披露してくれる。彼はこのために我々の学校にいるんだ、と冷やかされる。金属製の皿をリズム感よく叩く教師がいる。妙技に脱帽。飲めや歌えに踊れである。楽しい人たちである。我々日本人も歌うことになった。ネパール人とこんなに楽しく酒を飲んだのは初めてである。私は腹の底から彼らを身近な存在に感じられた。彼らは以前から私を身近な存在に感じていたのかもしれないのに、私はそれに気づいていなかったのではないか。私は自分が外国人だということで、心に壁を作っていたような気がする。そんなことを思わせた。
 酒宴はいつ果てるともなく続きそうであった。我々日本人は先に引き揚げることにした。下宿まで帰るのが面倒なので、街の宿に泊まることにした。宿で遅い夕食をとる。この日のネパール食は特に美味であった。食後はベッドに潜り込む。
 暗い部屋で横になりながら。田和隊員と二日間の出来事を回想する。リレーで第3走者なのに第1走者の後をついて走った生徒。自チームの得点が低いことを嫌がって他のチームへ行き、そのチームの選手として出場した生徒。普段の体育の授業では恥ずかしがって逃げる生徒が多いのに、チーム対抗となると自チームのために懸命にやっていた女子生徒たち。トラックに侵入する生徒たちを大声で制止するボランティアの生徒。各チームのキャプテンに個性があり、それぞれが特徴を持っていたチーム。そこには画一化された日本の学校には見られないような新鮮さを感じたこと。などなど。
 初めての校内運動会にしては成功だったと思う。先ずそれほど暑くなく、日が長く5時まで競技ができたので気候に恵まれていたこと。個人種目が多いネパールで、団体競技を重視し、6、7年と8、9年に分けたので下の学年や女子の参加の機会が多くなったこと。団体競技、男女混合競技の楽しさが感じられたのではないかということ。ゲーム・ティーチャーの協力が大きく、仕事をよくする教師をトラック周辺に集めるという仕事分担をしたこと。雰囲気を盛り上げるために放送設備を用いたこと。ボランティアの生徒が予想以上に仕事をし、進行を助けたこと。少額で実施できたので、ネパール人だけでも続けてできる可能性があること。などなどの理由からである。
 しかし、問題点もある。生徒の参加種目に制限をつけたが、チーム担当の教師が同じ生徒を多くの種目に出場させたこと。スポーツの得意な生徒が少ない現状では仕方ないと思われるが。また、日本の競技が彼らへの 押し付けになっていないかという疑問。これは私には分からない。それと、やはり準備不足である。ネパール人教師との協議や生徒への競技の指導不足がある。彼らが自分たちで運動会をやろうという気持ちになれば改善されると思われるが。我々が実施した競技の中から彼らが自分たちのものにしていって、新しいものが作られればというのが私の希望である。でも、これはネパール人の問題である。日本人が入る必要性も入れる可能性もない。我々は彼らに例示しただけである。それをどう考え、どう行動するかは彼らの判断にによる。
 思うに、運動会は多くの人の支えによってできた。競技に参加した生徒。ゲーム・ティーチャーを初めとする教師たち。八ミリ映画を撮り続けた野山隊員。はちまきや玉入れ用の玉を作ってくれた綿部隊員。そして田和隊員。彼は長期間私と行動を共にしてきた。同じ町に住んでいればこそ連日の協議ができた。協議しながらも進展の遅さに苦しんだのも確かである。団体競技重視、キャプテンとボランティアに腕章といったアイデアは彼から出た。そして、トラック描き、競技指導の一切をやってくれた。彼がいなければ運動会は成立しなかったであろう。感謝している。
 運動会を終えて、ネパール人の心にそれが何であるかは分からないが、何かを残せたのではないかと思っている。物でなく心に残る活動をと考えてきた私にとって、それは自己満足かもしれないが、一つだけできたのではないかと感じている。夜は更けても運動会の興奮はさめないが、大きな満足感を抱いたままいつしか眠りに就いたのである。
 
16、サガルマタ
 1985年12月末、私はエベレスト・ビュー・ホテルにいた。名前の通り、ここからは世界最高峰のエベレストが見える。ネパールへ来たのだから、エベレストを見て帰ろうと思った。エベレストはネパールではサガルマタと呼ばれる。二日間の吹雪の後、晴れて外へ出られるようになった。積雪は60cmぐらい。宿泊先の下の村からラッセルをして、前日に道を作っておいた。今日は一日このホテルで過ごすつもりである。
 ホテルから歩いて30分のところに、空港がある。しかし、飛んでくる飛行機がなく、訪れる人が少ない。ネパール人の従業員が留守番をしている。部屋を見せてもらったが、そこからサガルマタを初めとするヒマラヤが見える。山頂付近は風が強いのか雪煙が出ていた。日なたぼっこをしながら、ヒマラヤを眺める。ぬれた靴下や靴を乾かす。気持ちよし。
 校内運動会終了後は、学年末試験があり、問題作成、成績処理と仕事をこなした。1カ月後の12月上旬に、スルケットを引き揚げた。カトマンズでの健康診断なども済み、しばらくの時間を得て、旅に出たのだった。
 誰もいないレストランで、ポット入りのインスタントコーヒーを注文し、青年海外協力隊の事務所に提出する最終報告書を書くことにした。1日で書けるものではないが、サガルマタが見える部屋で報告書を書くなんて、ネパールでの活動を終わるにふさわしい光景ではないかと、一人悦に入っていた。ネパールに着いてから夢中で生活しているうちに、気が付けば終わりを迎えていた。サガルマタは、相変わらず雪煙を上げていた。


             − 終わり −





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