ここは 「フレイレの理論による夜中での実践」
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1998年4月1日作成
 パウロ・フレイレの理論より ー実践と評価、提言−
                    小尾 二郎
 
 (1)パウロ・フレイレの理論の概要
 パウロ・フレイレは、ブラジルの教育学者で長年、識字教育の実践にかかわってきた人である。彼の教育理論は世界的に大きな影響を与え、各国の識字教育の実践の場で活用されている。彼の理論は以下の3点にまとめられる。
・課題提起型の教育
 子どもに対して行われている教育は、子どもが成人した時に必要と思われることを教員側が選択して教えている場合が多い。子どもの頭が空で、そこにばらばらに切り離された知識を一枚ずつの硬貨であるかのように貯めていく。これをフレイレは、「銀行預金型」の教育と呼んで批判した。
 それに対して、成人への教育ではこのような方法では進めにくい。子どもに比べて、記憶力が衰えているという面があるが、生活での経験が豊富である。生活に関する問題の解決方法を経験的に知っている。指導者が一方的に伝えるのではなく、互いの経験を語り合うことによって学習者が相互に学んで行くのが効果的である。フレイレは、話し合いの材料を示して行く方法を「課題提起型」の教育と呼んだ。この場合教員の存在は指導者というよりも意見の調整者としての立場になる。また、この方法により社会における自分を客観視したり、現実の社会を批判的に見られるようになっていく。そもそも文字の読み書きのできない自分の存在それが社会の矛盾なのだから。
・生活に関連した重要な単語
 成人にとって、文字を覚えていくことは緊急の問題である。その効果的な方法として、自分の生活に密接な関連のある単語を通して文字を学んでいくというのがある。ブラジルの農村地帯でフレイレが実施した識字学級では、「雨」「土地」などの単語が選ばれている。日常に使わない言葉は覚えたとしてもすぐに忘れてしまうが、生活の言葉は自分の経験と重ねられて記憶に残ることが多い。これらの言葉をその地域の生活の状況に重ねて絵や映像にし、課題提起の中心にする。そして文を書くのに必要な文字を覚えられるような構成になる教材を作成するのである。
・社会変革へ
 識字教育の目的は、文字の読み書きが実際にできるようになるという技術的な面以外に、社会の状況や自分と社会の関係を分かるようになるということがある。差別や抑圧を受けて来た人々にとって、それがどのようなものであるかは彼らが一番よく知っている。自分たちが住みやすい社会はすべての人々にとってそのような社会である。抑圧されてきた人人が、自分たちがおかれている状況を認識し、既成のものを越えて、新しい社会を創造する行動へ結び付けていくのである。
 これは、子どもの時に教育を受けられなかったことをマイナスとし、それをゼロに戻す取り組みではなく、マイナスからプラス、つまり子どもたちへの教育を越えるものとして成人への教育をとらえている。

 (2)パウロ・フレイレの理論の教材化
 パウロ・フレイレの理論を元に日本における識字教育の教材を考えてみた。生活に密接な関連がある重要な単語を構成するために、本校の文集より選んだ。ここ夜間学級では、毎年文集を作っている。1986年から1991年までの6年間のものより生活に関連のある言葉を580語余り選び出した。それらの言葉から重要と思われる単語と五十音の組み合わせから、29の単語を決めた。重要な単語に入りにくい文字があったので、数個の単語を私が追加した。それは以下のようになった。

1課わたし、おや    2課はたらく、かいもの 3課ひと、えき、を 
4課あめ、はれ、てんき 5課くろう、せいかつ  6課やま、ふるさと
7課つち、ほね     8課せんそう、へいわ  9課ゆき、よる  
10課むすめ、けっこん   11課りょうり、にる   12課さがす、きっぷ 
13課なみだ、ぬぐう   14課もじ、べんきょう 

 上記の29個の単語と「を」で、五十音すべてが含まれている。「を」を3課にもってきたのは、文が書けるようにとのことからである。10課で促音、11課で拗音、12課で半濁音、12課以降で濁音の学習ができるようにした。促音や拗音は、短時間で学習するのは困難と思われるので、作文などの中で学習して行く必要がある。半濁音や濁音については、「ぷ」と共に「ぱ、ぴ、ぷ、ぺ、ぽ」、「が」と共に「が、ぎ、ぐ、げ、ご」が学べると考えている。
 ブラジルで使われるポルトガル語は表音文字であり、日本語をローマ字で表したようなものである。kaの関連でki、ku、ke、koが学習できるが、日本語の「か、き、く、け、こ」の文字にはポルトガル語のような子音と母音の組み合わせで構成されたような関連性はない。一つ一つの文字がそれぞれ独立している。それで、1回の文字の提起を一つの単語ではなく、二つの単語とした。それは、言葉の学習における、重要な単語から文字にばらし、そこから単語を再構成する段階で、単語の選択の幅が広がるからとの判断からである。
 日本語では、漢字という表意文字が大きな位置を占めているので、ひらがらに関する教材だけでは、日本語全体のほんの一部にしか過ぎない。これを漢字にどうつなげていくかは、さらに大きな作業が必要である。しかし、五十音を機械的に並べたものと単語にしたものを比べると、その違いは明らかであろう。フレイレの作業は、文字に命を与える過程と言えるのではないか。また、かなを覚えることにより、作文などの自己表現が可能となり、それが学習効果を加速させると思われる。

 (3)教育実践より
 本校の一つの学級で、前述の単語を用いて、フレイレの言う課題提起型の教育実践をした。私の担当した学級は、文字の読み書きの初歩から学び始めた人が含まれている。それに中国からの帰国者、結婚による渡日者がいる。日本語の基本的な読み書きがまだ不十分な人達である。ひらがなの読み書きはできるので、ひらがなを覚えていくという必要はない。私はこの学級を週に1回2時間連続した授業を担当した。
 私はフレイレの言う、重要な単語を絵などで示すことまではできていなかったので、単語を黒板に書き、それに関する話をしてもらった。例えば、1課の「わたし、おや」では、自分の親に対する思いや思い出、あるいは親としての自分の考えなどを話してもらった。そのような話を1時間行った後、「わたし、おや」を課題として作文を書いてもらった。作文を書く中で生徒さんが分からない漢字を板書した。
 次の時間は、生徒さんの作文を漢字を抜いて書き、漢字の練習と共に作文を読んでいった。漢字の練習と共に作文の中身を教室の共通のものとしていった。基本的には課題を提起し、それについての作文による個人的な深化、それをまた全体に返すという形である。どの授業にしてもそうだが、生徒さんからの発言がなければ授業は成立しない。次の作文を使った授業にしても、作文がなかったら何もできない。つまり、教員側が一方的に授業を作っていくのではなく、生徒さんの活動が必ず入っている。教員と生徒さんの共同作業により、授業を創造していくのである。 漢字を覚えることに関しても、教員が自分の判断で選んだものでなく生徒さんが欲している漢字ということで、記憶に残る可能性が高いのではないか。二つの単語を提示してそれに関する話し合いをするのは、生徒さんの心を掘り起こすことになる。対話の中で、経験や考えが鮮明に語られていく。それらの言葉が相互学習の場となるし、作文の内容を考える過程となる。語りでは内容が豊かであったとしても作文にはそのまますべてが現れてこない。語りの骨組みが文となって出てくる。これは、文章表現をする時の難しさでもある。「作文は苦手や。」と語る生徒さんの言葉と共に、作文に現れる文字の一つ一つの重さが、子どもの時から教育を受けてきた者が書く文字の何十倍も何百倍もあると感じられる。教員は教えるという立場でなく、生徒さんの語りに対して、それを豊かにしていくために、どのような言葉を返せるかである。フレイレは、調整者と言っているが、そのことは、生徒さんの心にどれだけ入って行けるかということになるのではないか。

 (4)評価と提言
 NGO(民間の海外協力団体)の一つであるシャプラニール=市民による海外協力の会(シャプラニールは、白い蓮の家の意)が、南アジアのバングラデシュの農村地帯で行っている識字教育活動では、学習の期間は6カ月である。この団体の活動では、すぐに識字の学習を始めるのではなく、貧しい農民が自分たちの生活を改善していくための相互扶助組合を作り、そこで、先ず生活に関する問題を考えている。話し合いの中で、自分たちの生活に関する活動を決め行っている。そのようなことを1年余りした後で、文字の必要性に気づいた時に識字教育が始まるのである。学習への動機付けを明確にしているだけに、学習への意欲は高い。その国で使用する文字の違いがあるだろうが、日本語における識字の教材はまだ不十分である。効果的な学習ができる教材開発を進める必要がある。
 私の実践では、ひらがなの読み書きが既に可能な人に対しての事であり、ひらがなの獲得には関係がなかった。しかし、フレイレの言う課題提起型の教育に関わっての取り組みであるのは確かである。成人の学習では、フレイレのいう相互に学習することが私の経験からも有効なのではないかと思われる。
 横浜に建設などの仕事に関わる日雇い労働者が多く住む町がある。そこで1978年より識字学校が毎週1回夜に開かれている。そこでの実践は、作文を書くことに中心がおかれている。作文の題材の課題提起の方法として、生活感がにじみ出た詩を用いている。ここは、学ぶ人だけでなく関わった人を含めて、活動報告形式の文集を出している。参加する人すべてが、一人の人間として対等の立場である。その文集を見ると、誤字、脱字、用法のおかしなもは、一切直されていない。東北なまりの作文も見られる。それゆえに、読み手には、書き手の心情が一層の迫力となって迫ってくる。このような事は、本校でも同じである。ただ、生徒さんが聞き覚えた言葉には、表記すると「いそいで」が「いそいれ」となるようなことが見られる。また、在日朝鮮人が書く作文には、濁点が欠落していることが多く見られる。作文を訂正することは、正しい文を覚えるのに必要な作業ではあるが、それが過重になることは要らない。
 作文を書くことは、今まで心の奥にしまわれていたことが表出することであり、それは心の重荷を取り除き、精神的な解放につながる。また作文は文化活動の一つであり、人間性の回復にもなる。様々な点で、作文は識字教育の有効な方法と言えるだろう。書かれた作文をどのように扱うかを含めて、今後も検討していかなければならない。
 さて最後にだが、夜間中学が社会的に担っていることは、大きく二つのものがあると思う。一つは、文字を奪われてきた人々が、文字を取り戻す学習をすることに協力していくことである。直接的には、現在夜間中学で学ぶ人々が対象であるが、これらの人々の背後には多くの文字を必要とする人々が存在している。中学校までが義務教育であるが、義務教育未修了の人々が、全国には少なく見ても170万人はいると言われている。この数字には、日本国籍を有する人だけなので在日朝鮮人などは含まれていない。1990年は国際識字年であり、この時の推計によると日本で文字の読み書きに不自由している人は300万人となっている。この人数から比べると、夜間中学で学ぶ人はごく少数である。夜間中学が、社会とどのようにつながっていくかは重要なことである。また、文字を学ぶ人々の状況や心情を社会に伝えていくのも重要である。
 もう一つの役割は、学校教育への関わりである。子ども達への教育は、ばらばらに切りはなされた知識の断片を覚えさせてていくという、フレイレの言う銀行預金型の教育が中心である。これでは、現実の社会を受け入れていくだけで、社会を批判的に見るという姿勢は育ってこない。夜間中学で学ぶ生徒さんは、生活で苦労をしたうえでようやくにしてつかんだ機会であったり、生活がかかっているので、真剣な態度で学習意欲も旺盛である。そのような生徒さんの姿に心を動かされるという、情的なものだけではなく、夜間中学での活動を理論的にも考えていく必要がある。夜間中学での教育は、競争や管理とは対極にあるものである。子ども達への教育で、様々な問題が論じられている。子ども達に対して行われている教育が、それだけを見ていると、当たり前になっていく。夜間中学の教育活動には、子ども達への教育に対する様々な提言があるように思われる。それは、「社会の一隅を照らす」という性質のものではなく、フレイレの言う教育を変え、社会変革を目指していく中身を持っているのではないか。
 以上が、私なりの考えをまとめたものだが、ご意見をいただければと思う。このささやかな実践が、識字教育を、また教育そのものを考える一つの資料になれば幸いである。
 

*参考文献
パウロ・フレイレ著 小沢有作ほか訳 「被抑圧者の教育学」 亜紀書房 1979年
パウロ・フレイレ著 柿沼秀雄訳 大沢俊郎補論 「自由のための文化行動」 亜紀書房 1984年
夜間中学増設運動全国交流集会編 「ザ・夜間中学」−文字を返せ、170万人の叫びー 開窓社 1986年
国際識字年推進中央実行委員会編 「2000年にむけ識字行動計画策定を」 
ユニセフ・パンフレット 「文字は翼をもったことば」 
「SHAPLA NEER NO.80」 1991.8.1

 
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