藤原京クロニクル−序章−


耳成山
(甘樫丘にて撮影)


 藤原京という都をご存知でしょうか?
 教科書にも載っている現在の奈良県橿原市に建設された都なので、ご存知の方も少なくないと思います。
 しかし、同じ奈良の平城京や、千年王城とも呼ばれる京都の平安京に比べたら、藤原京は随分と影が薄いことは確かです。ですが、その影の薄さと日本史における役割とは、決して比例するわけではありません。むしろ、後世の二京に勝るとも劣らない重要性を持っています。なぜなら、藤原京は日本で最初の理想郷として建設された都だったのです。
 しかしながら残念なことに、藤原京はたった16年で放棄され、平城京に遷都されてしまいます。現在でも、平城京跡の華やかさに比べたら、藤原京跡の寂れぶりには世の中の無情を感じるほどです。
 そのためというわけではありませんが、しばらくの間、藤原京の物語に時間を割いてみたいと思います。


奈良県明日香村
(甘樫丘にて撮影)
1.藤原京前史@−蘇我氏の時代−
 西暦645年6月、飛鳥板蓋宮において、当時の日本の行く末を決定づける大事件が起こります。父、蘇我蝦夷によって、大臣の位を譲られていた蘇我入鹿が、政敵によって暗殺されたのです。
 世に言う「乙巳の変」です。
 日本書紀によると、首謀者は中大兄皇子(後の天智天皇)と中臣鎌足ということになっていますが、それは後に天智天皇と鎌足の業績を偉大に見せるために行われた改竄であり、実際には当時の倭国の大王である皇極天皇が企画し、その弟である軽皇子(後の孝徳天皇)が協力者と謀って実行した事件だと思われます。
 この事件の背景は、古今東西、幾つもの推測がなされていますが、私は多くの人々が否定している「日本書紀」がいうところの、入鹿が王位を簒奪しようとしていたという話が、最も真相に近いのではないかと思っています。
 蘇我入鹿暗殺と藤原京が、どういう関係なのかと思われるかも知れませんが、蘇我氏政権がそのまま存続していれば、藤原京の建設はなかったかも知れないという意味において、乙巳の変は日本史のみならず、藤原京においても重要なことなのです。
 飛鳥時代は、むしろ蘇我氏の時代と言って良いほど、蘇我氏が全盛を誇っていた時代でした。蘇我氏の事実上の初代である蘇我稲目が欽明天皇に二人の娘を嫁がせることで、朝廷における勢力を拡大し、その子である蘇我馬子が推古天皇の権威のもと、怪物じみた影響力で当時の政界を席巻していたことは、「日本書記」にも記されているところです。
 「乙巳の変」の後、皇極天皇から王位を譲られた軽皇子は天皇として、幾つもの改革を行います。これを「大化の改新」というのですが、実はその改革のほとんどが、蘇我政権下においてすでに企図され、その幾つかは実行に移されていたのです。

石舞台古墳
(奈良県明日香村にて撮影)
 政府の中央集権化構想は、すでに推古天皇の時代からありました。「日本書紀」に記載されている冠位十二階の制などは、隋書にも倭国の官位制として著述されています。また一方で、その冠位十二階のうち高位を与えられたものが蘇我氏の与党たちであったことから、冠位十二階の制は蘇我氏主導で行われたことがわかります。遣隋使の派遣なども、中国の中央集権制がいかに制度化されているか、その情報収集のために行われていたものであり、何事もなければ、このまま蘇我氏による倭国の国家改造が進められていたでしょう。
 また、現在の皇族の先祖である蘇我時代の王族たちの多くが飛鳥とその近辺に居住していました。しかし、居住地が飛鳥であるにもかかわらず、彼らのうちで飛鳥の地に葬られたものはほとんどいません。それに比べ、初代の蘇我稲目を始め、実際にそこに葬られたかどうかはわかりませんが、暗殺された入鹿も生前、飛鳥に墓を造っていたと言われます。蘇我時代の王族は、蘇我氏という枠の中に閉じこめられていたと考えていいでしょう。そして、その枠からはみ出たものは、朝廷に属することもできず、時代の狭間に消えていくしかなかったのです。
 「日本書紀」に、蘇我氏が王族をないがしろにし、王位を窺っているというのはあながち間違いではなかったのではないでしょうか? ただし、蘇我氏−蘇我入鹿の目指していたのは、おそらく祭祀指導者的な大王位ではなく、中国風の皇帝だったと考えます。
 もし、蘇我皇帝が実現していたら、おそらく大王は政治権力から離れた祭祀指導者としてのみ、皇帝のもとで存在を許される存在になっていたと思われます。仮に、蘇我入鹿がそこまで考えていなかったとしても、蘇我氏がいるかぎり、王族は永久に蘇我氏の囲いの中から抜け出せません。
 蘇我氏は、仏教の普及に尽力しましたが、仏教は隋王朝の宮廷内で熱心に信仰されていただけでなく、高句麗国の国教でもあり、おそらく国家の近代化に必要不可欠な規範として導入されたと考えられます。しかし、その一方で、異なる信仰の導入は、それまでの信仰の影響の低下を意味します。そして、それは取りも直さず、日本固有の信仰の祭祀指導者である大王の影響力の低下をも意味するのです。
 おそらく、蘇我時代の初期、稲目や馬子が仏教の導入に熱心だったのは、国家の規範としての仏教に期待してのことだったでしょう。国家の規範を仏教に求め、仏教道徳に沿った法律を制定していくことで、国家秩序を強固なものにしようとしたのだと考えられます。しかし、その一方で、仏教が政治勢力化することには全く反対であり、蘇我馬子は仏教の経典や建築物としての寺院や仏像の建設には熱心でしたが、生きた仏教とも言うべき僧侶や尼僧の招請などにはほとんど無関心でした。
 しかし、倭国において仏教が広まるにつれ、僧侶や尼僧が渡来し、朝廷の内側にまで食い込むようになりました。そして、そうした仏教勢力の浸透によって、それまでの日本の信仰が徐々に影響力を低下させていったことは想像に難くありません。また、その中での中国式の国家統治システムの導入は、政治的な存在としての大王の地位の低下をも感じさせざるを得なかったに違いありません。
 中国において、むしろ支配者の交替は当然のことです。事実上の倭国の支配者である蘇我氏や、蘇我氏の首領である蘇我入鹿、そして蘇我氏を支持する人々が、王朝交替を意識したとしても当然だったと思います。また、大王一族側としても、国家の主催者である地位の低下と、その地位を奪われることの危機感は年を追うごとに強くなっていったでしょう。推古天皇の死後、大王はほとんど蘇我氏のお飾り状態であり、実権は蘇我蝦夷・入鹿の父子に握られており、先代の舒明天皇にしろ、夫の後を継いで大王に即位した皇極天皇にしろ、目に見える業績はほとんどありません。皇極天皇が、皇位を守るため、蘇我氏の排除に着手したのは当然と言えます。
 実のところ、蘇我皇帝は私の推測の域を出ないものであり、蘇我入鹿の真意がどこにあったか、後世の人間はわずかな証拠から想像することしかできません。しかし、少なくとも王族たちの一部に、自分たちの存在を脅かすものとして、蘇我氏というより蘇我入鹿が、その目に映っていたことは確かだと思います。また反対に、実はこのとき、すでに国家の主催者としての地位は、蘇我氏に乗っ取られていたという考えもあります。少なくとも、飛鳥に住む人々には、王族よりも蘇我氏のほうが、より支配者として相応しいものに見えていたでしょう。「日本書紀」には、蘇我入鹿らが自分たちの子を「ミコ」と呼ばせていたと言われますが、入鹿たちが呼ばせたというより、周囲の人々が自然とそう呼んだというのが真相ではないでしょうか?

甘樫の丘
(奈良県明日香村にて撮影)
 そして、ついに皇極天皇は弟の軽皇子とその与党に命じ、蘇我入鹿の暗殺に成功します。
 蘇我入鹿暗殺の首謀者が、皇極天皇であるというのは、その後の軽皇子への生前譲位が何の問題もなくあっさりと行われ、かつ、孝徳天皇の政権下においても、皇極天皇は大きな影響力を持っていたことからわかります。むしろ、孝徳天皇は皇極天皇の傘の下で政治を行っていたと言っても過言ではありません。
 また、乙巳の変の実行犯が中大兄皇子ではなく軽皇子であるというのは、その後の孝徳朝において、重用された人物のほとんどが、孝徳天皇と縁がある人物ばかりだからです。中臣鎌足も中大兄皇子より、むしろ孝徳天皇のほうにより関係が強いのです。
 一方、蘇我入鹿が暗殺され、蘇我本宗家があっさり滅亡してしまったのは、蘇我氏の影響力の低下が原因と考えられます。実際のところ、蘇我氏の全盛は、蘇我馬子という怪物じみた個性によって支えられていたものであり、馬子亡き後、その勢力が下り坂に向かうのは当然でした。これは、約900年後の戦国時代、織田信長が本能寺で自死した後の織田家や、武田信玄が死んだ後の武田家に類似しています。安定とは程遠い世相において、自派の勢力拡大とその維持には、要となるべき個人の強力な個性の存在が不可欠なのです。入鹿の暗殺で、蘇我政権の屋台骨であった東漢直氏がさっさと裏切ってしまったのは、その証拠でしょう。実際、それ以前に、馬子の死後、蘇我氏一族である境部摩理勢が蘇我蝦夷と対立し、ついに蝦夷は摩理勢を攻め滅ぼし、入鹿は厩戸豊聡耳皇子(聖徳太子)の子、山背大兄皇子を攻め滅ぼしています。蘇我蝦夷と入鹿には、反対派勢力を抑えるための権威が不足し、それらの対処のために武力を用いるしかなかったのです。
 しかしながら、軽皇子らは蘇我入鹿による山背大兄皇子の斑鳩宮襲撃にも関与していました。この事件も、皇極天皇の意志が関わっているものと言われており、蘇我入鹿は皇極天皇も軽皇子も自分の与党であることを全く疑っていなかったのでしょう。王族はもはや蘇我氏あってこその存在であり、そんな彼らが自分を裏切るなど想像もつかなかったに違いありません。
 しかし、皇極天皇ら王族たちにしてみれば、蘇我入鹿の勢力は脅威以外の何物でもありませんでした。とくに、皇極朝において、次の大王と目されていた人物は、舒明天皇と蘇我馬子の娘の間にできた古人大兄皇子でした。もし、彼が次の大王となったら、蘇我氏の影響は再び揺るぎないものになったでしょう。少なくとも、後何十年のあいだ、蘇我氏主導の政治体制は変わらず、入鹿にその意志はなかったとしても、その次の世代に、朝廷の主催者の地位は蘇我氏に乗っ取られたかも知れません。
 蘇我入鹿の死によって、蘇我政権は崩壊し、蘇我蝦夷は入鹿の死の翌日に、甘樫丘の邸宅に火を放って自害しました。古人大兄皇子も後に殺害されます。
 ただし、入鹿の命が潰えても、入鹿が企図した国家形成まで潰えたわけではありませんでした。皇極天皇から大王位を譲られた軽皇子こと孝徳天皇は、その朝廷を難波長柄豊碕宮に置きます。しかし、現在の大阪府大阪市に置かれたこの宮の構想は、実は蘇我入鹿が企図していたもの思われる記述が「日本書紀」にはあるのです。瀬戸内海という中国大陸、朝鮮半島への航路のすぐそばに宮を置くことにより、内陸の飛鳥よりも中国からの情報が吸収しやすくなります。また、海路を利用することにより、人材や物品の移動もたやすくなるのです。

難波長柄豊碕宮大極殿跡と大阪城
(難波長柄豊碕宮にて撮影)
 また、「日本書紀」などを読むと、「大化の改新」という政治改革が突然行われたかの印象をうけますが、そのようなことは考えられず、むしろそれ以前から「改新」はすでに進んでいて、その功績を全て大化年間の出来事として集約したと考えたほうが自然です。
 こうして、馬子以来、蘇我氏が進めてきた倭国の国家構想は、蘇我入鹿を殺したものたちによって成し遂げられることになったのです。
 しかし、大化体制とでも言うべき政権は、孝徳天皇と皇極天皇の対立により、崩壊します。難波と飛鳥に分断された政権は、やがて孝徳天皇側が徐々に衰微することにより、再び飛鳥の皇極天皇政権に収束していくのです。
 もし、蘇我入鹿が暗殺されず、難波遷宮が入鹿の手によってなされたいたら、おそらく政権が飛鳥に戻ることはなかったのではないでしょうか。なぜなら、難波はこのあとも日本の政権内において重要な位置を占め、聖武天皇の時代にも一旦都となり、平清盛は大坂ではありませんが、同じく瀬戸内海に面する兵庫の福原に遷都します。さらには、豊臣秀吉によって大坂城が築かれ、現在に至るまで、大坂は日本の重要地でありつづけます。ちなみに、大坂城はこの難波長柄豊碕宮のすぐ側に建てられたのです。
 もし、蘇我入鹿が暗殺されず、そのまま蘇我政権が続いていたら、日本は奈良でも京都でもなく、大阪を中心に発展していたに違いありません。そうなれば、おそらく藤原京が建設されることもなかったでしょう。
 「乙巳の変」は、それゆえに藤原京にとって大切な出来事なのです。
 しかし、藤原京遷都までには、今後もさらに紆余曲折があります。次回は、そうした藤原京の建設までを見ていきたいと思います。
つづきますので、よろしくです。
2005/12/04