国  鉄

  一鉄道ファンが国鉄について語ろうとするのは蟻が象の姿を探ろうとするようなものですが、
  その辺はお許しいただいて、国鉄時代の一齣をご覧ください。

    なお、内容は管理人の思いつきで随時入替えています。

目 次  (2013年8月10日現在)
 1、京都駅  (8月10日追加)
 2、山陰本線幡生口 12、北陸本線 杉津 
 3、北宇智辺り 13、宮津線の夏
 4、蒸機特急 14、中央西線 上松
 5、室蘭本線 社台 15、梅小路機関区
 6、優等客車 16、特急つばめ
 7、ローカル線の主役 17、九州寝台特急
 8、冬の北陸本線 18、松浦線のC11、キハ02
 9、瀬野・八本松 19、山陰本線 亀岡
10、筑豊本線 20、東海道本線 山科
11、京阪神国電 21、電化前の山陽本線

1、京都駅   (8月10日追加)



(東海道本線 京都 1957年11月)
(東海道本線 京都 1957年11月)
(東海道本線 京都 1961年8月)
(東海道本線 京都 1961年8月)
(東海道本線 京都 1962年5月)
(東海道本線 京都 1961年7月)
(東海道本線 京都 1956年8月)
(東海道本線 京都 1961年8月)
(東海道本線 京都 1962年5月)
(東海道本線 京都 1967年9月)


2、山陰本線幡生口

  1968年春に山陰本線の西端まで行った理由ははっきり覚えていません。
  山陰本線の東端に住んでいたことがある私には、その反対側に興味があったのでしょうか?

  訪ねて見た山陰本線の幡生に近い辺りは、D51の牽く普通列車と気動車が行き交う長閑な
  区間でした。

 山陰本線の西端に当る小串・幡生間は大正初期に長州鉄道の手で開通し、大正末に国有化された区間です。

 現地に立った時にはそんな歴史は全く知りませんでしたが。

(山陰本線 梅ヶ峠付近 1968年4月)
 「梅ヶ峠」はウメガトウと読みます。
 峠をトウと読むのは中国地方ではよく見掛ける地名です。

 当時、数少なくなっていたD51牽引の旅客列車。
 このあたりの蒸機列車は旅客も貨物も長門機関区のD51が牽いていました。

(山陰本線 梅ヶ峠付近 1968年4月)
 梅ヶ峠付近の山陰本線は海から少し離れた平凡な丘陵地帯でしたが、線路際をふらふら歩いていると貨物列車が来たのには慌てさせられました。

 貨物列車の時刻は調べてなかったのです。

(山陰本線 梅ヶ峠付近 1968年4月)
 キハ58系3連の綺麗な編成の列車。
 この時代、山陰本線のこのあたりでの急行と言うと「さんべ」が思い浮かびます。

 「さんべ」には客車編成の夜行もありましたね。

(山陰本線 梅ヶ峠付近 1968年4月)
 上の列車の近景。

 この写真を見て今さらながらに、1968年では急行形気動車にも非冷房車があったのか気が付きました。
 
 私の冷房車乗車経験で印象が強いのは、1964年の夏だったかに乗った名鉄5500系です。

(山陰本線 梅ヶ峠付近 1968年4月)
 海岸沿いを行くD51牽引の旅客列車。

 事前に地図を見て、入り江越しに撮影が出来そうだな・・・と思っていた通り、眺めはいい所でしたが、写真の方はさっぱりでした。

(山陰本線 吉見付近 1968年4月)
 上の写真で列車が通っていた付近です。

 この付近は下関の近郊地域でもあって運転密度も高く、朝夕には蒸機牽引の客車列車が何本か見られました。

(山陰本線 吉見付近 1968年4月)
 海を見下す吉見付近。
 失礼ながら、本線らしからぬ線路状態です。

 朝の蒸機列車がひとしきり通過したあとは、気動車の世界になりました。

(山陰本線 吉見付近 1968年4月)
 一時はローカル線でよく見たキハ45ですが、意外に早く姿を消しました。

 やはり、片運転台と1エンジンの非力さが地方線区では使いにくかったのでしょうか?

(山陰本線 吉見付近 1968年4月)
 前後がキハ10系+35系、真ん中はキハ26?
 この頃の地方線ではこうした混合編成の列車をいくつも見ました。

 これは好きこのんでやっていた訳でなく、編成あたりの出力を平均化する目的もあったそうです。

(山陰本線 梅ヶ峠付近 1968年4月)


3、北宇智辺り 

  40年ほど前の一時期、何度か北宇智付近に通いました。

  関西唯一のスイッチバックということ、C58等の蒸機が見られることなどがその理由だったと
  思いますが、我ながらよく飽きもせずに行ったものです。

  今回はその中から何枚かをまとめて見ました。
 ゆっくりと吉野口への勾配を登るキハ10系。

 手前に見えるのは引上げ線で勾配はゼロ。
 こうして見るとスイッチバックで高さを稼いでいたことがよくわかります。

(和歌山線 北宇智 1968年3月)
 北宇智から吉野口に向かう列車が出発。

 此処からしばらくが20‰の登り勾配で、C58の頑張りどころ。
 貨物の繁忙期には補機も活躍した区間です。

(和歌山線 北宇智 1968年3月)
 引上げ線に入る列車。

 ホームに直立して列車を監視する駅員がいるのがお分かりでしょうか?
 列車の発着のたびに見たこのシーンはいかにも国鉄らしい光景で、今も忘れ難いものです。

(和歌山線 北宇智 1970年2月)
 今では姿を消した信号扱い所の前を通過するキハ30系の天王寺行。

 今は無人駅となった北宇智ですが、当時は信号掛など何人もの職員が勤務していたようです。

(和歌山線 北宇智 1970年2月)
 和歌山行の列車が引上げ線から五條に向かって出発して行きます。

 今の和歌山線の列車は大半が105系の2連ですが、当時はキハ30系かキハ45系の2〜4連が多かったと思います。

(和歌山線 北宇智 1968年1月)
 北宇智を通過して和歌山に向う急行しらはま?

  現在のホームはちょうどこのあたりに位置が変りましたが、当時のホームは右手の一段高い所にありました。

(和歌山線 北宇智 1967年5月)
 吉野口に向かうC58牽引の貨物列車。

 ここは急勾配といっても勾配は20‰。
 しかし、出発直後に勾配に差し掛かるので、蒸気機関車にとって難路だった事でしょう。
 このC58は発車時点から全力を振り絞っていました。

(和歌山線 北宇智 1968年3月)
 白煙とともに勾配を登るC58。

 北宇智付近は特に絶景というわけでもありませんが、背後の金剛山系に雪がある季節には信州かと思うような景色になります。

(和歌山線 北宇智 1970年2月)
 当時の和歌山線では少なくなっていたキハ10系の列車。

 線路の傍らの立っているキロポストは王寺から31`を示しています。

 この写真を写した日は同行者がいたようです。
 私のようなモノ好きに付き合って下さる方もいらっしゃったのですね。

(和歌山線 北宇智 1968年3月)
 北宇智の隣駅、五條で見た28677。

 この頃は五條付近での入替作業は余りなかったはずで、補機としての仕事もどれだけあったのでしょうか。

 それでもファンとしては待機している機関車を見るのが楽しみでしたが。

(和歌山線 五條 1967年4月)


4、蒸機特急 

  蒸機が牽く特急などは遥か昔の話ではありますが、私のようなオールドファンには忘れ難い
  ものです。

  以下に並べた写真はこれまでに何度かアップしたものですが、再登場させました。
  しばらく、昔話にお付き合いください。

 山科に向かう上り勾配に備えて、2分停車の間にも石炭を均し給水する職員たち。

 この写真では架線柱などは姿を見せていますが、まだ架線は張られていません。撮影年月は?付きです。

 それにしても、こんな場所まで入ってもお咎めが無かったとは、ファンにとっては気楽な時代でした。

(東海道本線 京都 1956年3月?)
 京都駅で8時30分の発車を待つ「かもめ」。終転博多には19時10分着(大阪〜博多10時間)です。

 関西〜九州間の特急としての「かもめ」が運転され始めたのは1953年3月。
 写真の頃のハザはすでに軽量客車化されていたと思います。

 写真のC624はこの頃梅小路区の配置でした。

(東海道本線 京都 1956年3月?)
 朝もやの中を加速するC59107。
 はるか広島までのロングランの始まりです。.

 「かもめ」の牽引機にはC62が使われていた時期もありましたが、私は「かもめ」の牽引機というとC59が思い浮かびます。

(東海道本線 京都付近 1958年3月)
 山崎のカーブ付近に差し掛かった「かもめ」。
 この写真を撮ったのは姫路までの電化があと2ヶ月に迫った頃だったのに、ファンには一人も出会いませんでした。

 このあたりで下り「かもめ」を撮るのは、機関車の正面が逆光になるのが難だった事を覚えています。

(東海道本線 山崎付近 1958年1月)
 「さちかぜ」という特急は1957年から1958年に掛けての短い期間しか存在せず、すぐに「平和」に改称されたので、印象が薄い列車でした。

 この列車が特急らしい列車になったのは、1959年に20系化され「さくら」になった時からではないでしょうか。

 牽引しているC6243は広島2区の機関車。綺麗に磨かれていました。

(山陽本線 尾道付近 1958年8月)
 「あさかぜ」は関西を深夜に通過するので、私とは縁が薄かった列車です。

 この写真も尾道鉄道を訪ねて下車した時、尾道鉄道の発車まで少し時間があったので、たまたま写せたものでした。

 この時の「あさかぜ」編成はまだ20系ではなかったので、編成を写しておけば面白かったのですが。

(山陽本線 尾道付近 1958年8月)
 この写真の場所は現在は広島市内になり住宅も多いところですが、50年余り前は長閑な所でした。

 やってきた下り「かもめ」の機関車は下関区のC6225。
 付けているヘッドマークのデザインが大鉄局のものと違います。

(山陽本線 五日市付近 1961年9月)
 ナハフ11をしんがりに山陽本線を下る「かもめ」。
 行灯形のテールマークが無ければ特急らしさのない列車です。

 もっとも、この写真を撮影して1月足らずで、「かもめ」はキハ80系に置き換えられ、特急と呼ぶのにふさわしい列車になりましたが。

(山陽本線 五日市付近 1961年9月)
 鹿児島本線の「はやぶさ」。
 牽引するC6112は鹿児島区の機関車で、博多〜西鹿児島をロングランしていました。

 撮影地の原田は特に景色がいい所でもありませんが、鹿児島本線と長崎本線の列車が通過するので、沢山の列車が見られます。

(鹿児島本線 原田付近 1963年7月)
 離合する気動車から写した「はやぶさ」。

 こうした前方の展望は機関車牽引列車では得られなかったもので、その点では電車や気動車を有難く思ったものでした。

(鹿児島本線 渡瀬付近 1963年4月)


5、室蘭本線 社台 

  振り返って見ると、私には北海道の国鉄の写真はあまりありません。

  乗り鉄に忙しかった私は一ヶ所でゆっくりする時間を取れず、国鉄の写真を撮るのは
  駅でのスナップがせいぜいでしたから。

  ただ例外的に、室蘭本線社台で午前の数時間を過ごしたことがありました。
  曇天でがっかりしたのですが、今回はその時の写真を集めてみました。

 この頃は蒸機牽引の普通列車は少なくなっていたので、この列車を見た時は少々感動しました。

 この列車の列車番号は不明ですが、写真の機関車C57104は岩見沢一区の配置機でしたから、室蘭・岩見沢間の列車ではなかったでしょうか?

(室蘭本線 社台 1972年7月)
 上の列車の追い写しです。

 今さらながらに気が付いたのですが、7月というのに客車の窓が全部閉まっています。
 涼しい北海道ならではですね。

(室蘭本線 社台 1972年7月)
 D51111が牽く貨物列車。

 このナンバーは私の写したD51の中で一番大きなものです。
 (D51は欠番があったので国鉄の保有台数1115輌とは勘定が合いません)

 幹線だけに線路沿いのハエタタキが賑やかです。

(室蘭本線 社台 1972年7月)
 様々の貨車で混成された列車。

 私などの年齢の人間は貨物列車というとこんな編成が思い浮かぶのですが、この写真を撮った頃にはこうした形態の列車はすでに数少なくなっていました。

(室蘭本線 社台 1972年7月)
 走行中の蒸気機関車の足回りは見飽きしません。

 でも蒸気機関車のメカニズムについては、クロスヘッド、メインロッド、リターンクランク・・・などと暗唱していた少年時代の方が今よりも詳しかったと思います。

(室蘭本線 社台 1972年7月)
 延々とつながる石炭貨車。

 北海道の石炭車は九州の2軸車とは違って大柄なボギー車で、それが北海道に来たことを感じさせてくれました。

(室蘭本線 社台 1972年7月)
 これは通過列車を待避していた貨物列車が発車する場面。

 社台で過ごした数時間に何度か、貨物列車が特急や急行を待避する場面を見ました。
 この付近ではそれほどに貨物列車が多かったのでしょうか。

(室蘭本線 社台 1972年7月)
 寝台車を連ねた客車列車。

 この頃の室蘭本線で寝台車を連結した列車というと急行「すずらん」位しか思いつきませんが、この列車とは編成も通過時刻も違います。

 この列車の正体は不明のままです。

(室蘭本線 社台 1972年7月)
 キハ80系時代の特急「北斗」。
 気動車特急は架線がない区間で写した方がすっきりします。

 この頃の室蘭本線には「おおぞら」のように札幌からさらに先の方まで行く特急もあったのですが、いつのまにか函館・札幌間の「北斗」「スーパー北斗」だけになりました。

(室蘭本線 社台 1972年7月)
 コンテナ列車と運炭列車の出会い。
 機関車を見るとD51とDD51と、51同志の出会いでもあります。

 DD51はこの頃にD51と代りつつありましたが、それから40年経った今も健在なのは立派なものだと思います。

(室蘭本線 社台 1972年7月)
6、優等客車 

  若い頃、京都駅で中年の男性から「三等の切符売り場はどこにあるのですか?」と尋ね
  られて、面喰ったことがありました。

  それは国鉄が一、二等制に変った直後だったので、1960年6月の事だと思います。
  当時、イやロと記号が付く客車は、私など青二才には近寄りがたい存在でした。

  今回はそんな高嶺の花だった車輛を幾つか並べました。食堂車は何度も利用していて
  高嶺の花でもないのですが、往時の雰囲気から優等車の仲間に入れておきましょう。

 オロ31は1960年頃までは準幹線で見かけた車輛です。

 全長17m級のダブルルーフ車とあって見掛けは古めかしく、優等車としての貫録は不足でしたが、シートはさすがに転換クロスだったような記憶があります。

(山陽本線 姫路 1958年3月)
 狭窓ごとに白いカバーの懸ったシートが優等客車らしく見えたスロ34。

 この写真を拡大して見ると車番はスロ3414、配置は大ムコとあるのですが、列車は何だったのか見当が付きません。

(東海道本線 京都 1963年1月)
 2シートに1ケの大窓が並ぶオロ40。
 この列車のサボには「快速」とあるので、姫路〜鳥羽間の参宮快速だったようです。

 参宮快速は1961年10月の時刻表によると京都発8時52分、鳥羽着12時06分と、今の近鉄京伊特急と比べても中々の快速でした。

(東海道本線 京都 1963年1月)
 特別二等車の元祖、スロ60。
 この形式は60という数字が示すように鋼体化改造車の扱いでしたが、実態は新車同然だったようです。

 特別二等車、いわゆる特ロの車内は恐れ多くて、ゆっくり覗いたことがありません。

(東海道本線 京都 1961年8月?)
 まだ非冷房だった時期のナロ107(鹿カコ)。
 この車は客車時代の「つばめ」に使われていたようです。

 ナロ10は後に冷房化改造が行われてオロ10に変りました。
 南国j鹿児島で冷房がなかった時代、夏場の車内はさぞ暑かったことでしょう。

(鹿児島本線 鹿児島 1963年7月)
 9両しかなかった2,3等合造寝台車 ナロハネ10。
 写真は名古屋〜長野間の夜行準急「きそ2号」に使われていたもので、長野客車区の配属だったはずでした。

 この車は後に1964年にロだけ冷房化し、1969年になってハを冷房化します。
 国鉄の等級間差別は厳しかったですね。

(中央本線 名古屋 1961年1月)
 急行「安芸」に組み込まれていたマシ292。
 瀬戸内海を見ながらの食事は楽しかったことでしょう。

 ダブルルーフのマシ29はモデルをやる人の間では、今でも人気が高いようです。

(呉線 仁方 1962年5月)
 特急「つばめ」に組み込まれていたオシ17。

 オシ17は車体幅が2950ミリに拡大されたということで、客用テ−ブルが全部4人掛けになり、定員が40人に増えました。
 それだけに、座った感じはそれまでの食堂車より少し狭苦しく感じましたが。

(東海道本線 京都 1957年11月)
 広窓の二等室と狭窓の三等室の組合せがアンバランスな感じのスロハ32。
 半分はオロ40で半分はオハ35と言えばいいのでしょうか?

 ローカル線にも二等車の連結が求められた時代には、このような車も必要だったのですね。

(山陰本線 京都 1957年8月)
 信越本線横川の構内で見掛けたスヤ3921。
 3軸台車がいかにも優等客車らしい雰囲気を醸し出しています。

 この車輛の前身はお召し列車の供奉車だったということですが、この時は横軽間工事関係職員の宿に使っていたようです。

(信越本線 横川 1962年11月)


7、ローカル線の主役 

  若い頃、次々に現れる気動車は蒸気機関車を追い払う悪役に見えました。
  しかし、今考えるとこの悪役のお蔭で存続できたローカル線も多かったことと思います。

  今回はそんなローカル線の主役だった気動車達を偲んで見ました。

 二俣線にいたキハ071。

 特徴のある面構えのキハ07はキハ42500の時代から山陰本線で見慣れてはいましたが、思わぬところでトップナンバーに出会いました。

(二俣線 遠江二俣 1961年4月)
 電気式気動車から改造されたキハユニ16。

 液圧式の前に出現した電気式気動車は試作的なもので終わり、キハ10系が普及すると液圧式に改造され、さらには郵便荷物車などに改造されるなど、少数派の悲哀を味わっていたのではないでしょうか。

(呉線 仁方? 1962年5月)
 キハ10系は片町線のような都市近郊区間でも見られました。
 と言うより、当時の片町線の非電化区間はローカル線そのものでした。

 写真の防賀川トンネルは片町線の名所で、今も健在です。

(片町線 上田辺付近 1969年7月)
 レールバスは中途半端な存在だったと思います。

 可愛らしいスタイルには好感が持てましたが、朝夕のラッシュ時は乗客をさばききれず、総括制御できないなどの問題がありながら、何故こういう構造の車輛が作られたのでしょう?

(臼ノ浦線 佐々付近 1968年4月)
 キハ10系は中央本線のような勾配の多い線区でも使われていました。

 勾配区間ではキハ10のDMH17エンジンは非力だったと想像されますが、蒸機列車と違って煙に悩まされることは少なく、その点は喜ばれたでしょう。

(中央本線 上松付近 1967年10月)
 キハ20系はローカル線乗りつぶしで、度々お世話になった車輛です。

 かなり無理をして軽量化を図っていたキハ10系と違って、このキハ20系からは車内も広くなりシートなども客車に準じたものとなって、キハ10系に乗った時に感じたようなせせこましい感じは減りました。

(宮津 丹後由良付近 1967年8月)
 北海道の冬に対応するため、デッキ付きに小さな窓で出現したキハ22。

 北海道旅行では何度か御厄介になった車輛ですが、当時の北海道では急行形気動車が足りなかったのか、急行にこの車を使っていたのはイマイチでした。

(函館本線 五稜郭 1972年8月)
 今のいすみ鉄道、元の木原線でお目に懸ったキハ36。

 木原線というとレールバス キハ01が投入されたような閑散線というイメージがあったので、キハ30系の重連は意外でした。

(木原線 上総中野 1980年8月?)
 キハ30系もこうして5両連結となると中々迫力があります。
 1984年の電化よりも10年以上前の、奈良線宇治川鉄橋風景です。

 この時代の奈良線は気動車が1時間に1往復走る程度のローカル線で、架線柱の無い鉄橋の上空はさっぱりしていました。

(奈良線 宇治付近 1970年9月)
 山陰本線のローカル列車に働くキハ45。

 キハ45系シリーズは近郊形気動車と称されていましたが、多くは作られなかったようで、後継のキハ47系に押されてか早々と消えてしまいました。

 私はパノラミックウィンドウのこの前面スタイルが好きだったのですが。

(山陰本線 吉見付近 1968年4月)


8、冬の北陸本線 

  この冬は寒い日が多く、寒がりの私はあまり撮り鉄にも出掛けておりません。
  しかし、振り返ってみると若い頃には冬場の写真も少しは撮っていました。

  と言う事で、今回は雪景色の写真を並べさせていただきます。
  雪景色と言っても日帰りで行けた北陸本線米原付近のもので、北海道の冬景色など
  とは比べ物にもなりませんが。

 雪中に奮闘するD50300。
 雪の白と機関車の黒が墨絵のようでした。

 この頃の米原機関区にいたD50には何故かラウンドナンバーの機関車が多く、今でも200、300、350などを覚えています。

(北陸本線 坂田付近 1968年2月)
 バック運転でやってきたのは上の写真と同じD50300。

 撮影地の坂田付近は線路沿いの神社など今も昔の雰囲気が残っているようで、再訪したいところなのですが。

(北陸本線 坂田付近 1968年2月)
 北陸本線の交直接続区間の蒸機にはD50が多く、D51はあまり見ませんでした。
 その中で、このD51785は何枚かの写真が残っています。

 ところがこの機関車、1967年の車輛配置表では長野にいたことになっており、何時から米原に来たのか?と、首をひねっています。

(北陸本線 坂田付近 1968年2月)
 これもD51785。田村で待機中の所です。

 交直接続区間の米原・田村間では、蒸気機関車は下り列車が正位運転、上り列車はバック運転でした。

 米原・田村間が長距離なら田村で方向転換したでしょうけれど、短距離だからバック運転で済ませたのでしょう。

(北陸本線 田村 1968年2月)
 米原経由だった時代の特急「白鳥」。

 「白鳥」は1972年に電車化され、1975年には湖西線経由に経路変更と変遷を重ねましたが、写真はキハ80系時代の姿です。

(北陸本線 田村付近 1968年2月)
 雪にまみれた急行「くずりゅう」。
 この列車は北陸の人達には米原始発と言う点で便利だったようです。

 新幹線と北陸本線を連絡するという点では、この列車も現在の特急「しらさぎ」の前身と言えるかもしれません。

(北陸本線 田村付近 1968年2月)
 雪の合間の坂田を通過する特急「雷鳥」。

 まだ新しく食堂車も入った堂々たる編成は「特急」と言う言葉に権威があった時代ならではのものです。

 末期の「雷鳥」は草臥れた車輛も多く、「特急」らしからぬ姿でしたが。

(北陸本線 坂田 1968年2月)
 この頃の北陸本線では、まだ客車列車が珍しくはありませんでした。

 それなのに特にこの列車を写していたのは、手前のノーシルノーヘッダーのオハ35らしい客車が目に付いたからでしょうか。

(北陸本線 坂田付近 1968年2月)
 雪を蹴立ててやって来た特急「しらさぎ」。

 撮影した頃の「しらさぎ」は今日のように頻発されておらず、日に一往復だったと思います。
 他に急行や準急があったにしても、優等列車の運転頻度は現在と大違いでした。

(北陸本線 坂田付近 1968年2月)
 この写真だけはこれまでと違って田村・敦賀間が新線電化される前のもの。

 柳瀬トンネル経由の旧線が近江塩津経由の新線に切り替えられる前に・・・と出掛けたものの、予想外の雪と寒さでロクな写真も撮れずに逃げて帰ったのは苦い思い出です。

(北陸本線 刀根 1957年2月)


9、瀬野・八本松 

  セノ・ハチとはだれから聞いたのか、語呂がいいので早くから覚えていた言葉でした。
  これは言うまでもなく、山陽本線瀬野から八本松への上り勾配区間を指しています。

  しかし、列車では何度も通ったこの区間も、実際に沿線を歩いたのは一度だけの事で、
  行ったと言えるほどでもないのですが、約11`の往復は結構くたびれました。
  今回は下手な写真ですが、その日の思い出話です。
  

 勾配の起点、瀬野の一駒。

 ホームには通過するキハ82系特急かもめと、待避中の普通列車が見えます。
 構内にはこの区間の補機 D52も待機しています。

 山陽本線のこの付近が電化されたのはこの写真を撮った1月後だったはずです。

(山陽本線 瀬野 1962年5月)
 瀬野機関区で待機中のD52。
 当時の瀬野区には補機用のD52が10数両もいたようです。

 このD52は一部に戦時中に作られた姿も残るものの、全般的にはよく整備された力強い姿でした。

(山陽本線 瀬野 1958年11月)
 これは八本松に向う列車が瀬野を出て、上り勾配に差しかかる付近の風景だったと思います。
 本務機のC59は盛大に白煙を上げています。

 手前の道路は拡幅されたばかりだったようで、自動車にはめったに出会わいませんでした。

(山陽本線 瀬野・八本松間 1958年11月)
 これは普通列車だったようで、オハ35、スハ32などを連ねています。

 今の山陽本線はディタイムでも1時間に4往復ほどは走っていますが、当時の山陽本線では旅客列車と貨物列車を合わせても、1時間に1、2往復ではなかったでしょうか。

(山陽本線 瀬野・八本松間 1958年11月)
 白煙を吹き上げながら勾配を登る貨物列車。

 まだ、特急鮮魚列車など運転されていなかった時代ですが、冷蔵車の白い車体が印象的でした。 

(山陽本線 瀬野・八本松間 1958年11月)
 こちらは無蓋車を連ねた貨物列車。

 本務機のD52は広島第一機関区所属の機関車ではなかったでしょうか。
 当時の広島一区にはD52が30両近くいたはずですから。

(山陽本線 瀬野・八本松間 1958年11月)
 サミットの八本松駅に近づく貨物列車。

 逆光で機関車の顔が真っ黒に潰れてしまいましたが、私には愛着があって捨てられない写真です。
 今の時代、デジカメならもう少し巧く修正出来るかと思うのですが。

(山陽本線 瀬野・八本松間 1958年11月)
 D5228に曳かれた急行貨物列車。

 黒いボディに黄色い線を入れた急行便のワキが連なっていると、特急列車ほどではないにしても、独特の風格がある列車に見えました。

(山陽本線 瀬野・八本松間 1958年11月)
 D52の猛煙と共に勾配を登って来た列車。

 このように様々な貨車を混結した貨物列車を見なくなって何年になるでしょう。
 鉄道が物流の中心だった時代には珍しくなかった風景なのですが。

(山陽本線 瀬野・八本松間 1958年11月)
 八本松を過ぎ、瀬野へ下って行く特急は運転開始後間もない「はやぶさ」だったと思ッているのですが。

 夜明けの遅い西日本の秋の朝、低感度のフィルムではこれ位に撮るのがせいぜいだった・・・とヘボ写真の言訳をさせてください。

(山陽本線 瀬野・八本松間 1958年11月)

10、筑豊本線 

  筑豊本線の現在は、若松線、福北ゆたか線、原田線など、愛称なのか分断する前提なのか分らない
  名前が付けられていて、一本の路線とは思えない状況です。

  私は何故かこの沿線が気に入っていますので、今回は筑豊本線の写真を取り上げました。
  以前にアップした写真も混じっていますが、ご寛容下さい。

 ターンテーブルに乗った69632。
 このターンテーブルはホームからも、駅の外のヤードを渡る陸橋からも、良く見えました。

 何度か訪ねた直方ですが、この写真の頃は石炭列車も減りつつあり、隙間風が吹いてくるような感じもしていました。

(筑豊本線 直方 1968年5月)
 構内を入替運転中の69659。

 最盛期なら石炭を積んだ貨車で一杯だったはずの構内も、ずいぶん空いています。
 それでも1963年頃の直方区には50両以上の蒸機がいたはずですが。

(筑豊本線 直方 1963年7月)
 直方駅のホームから眺めた機関車達。

 ホームから機関区やヤードが見える駅は幾つもあったと思いますが、ここは機関車の数も動きも多く、見ていて飽きませんでした。

(筑豊本線 直方 1963年7月)
 C55の牽引する列車。

 当時の時刻表を見ると、門司港発筑豊本線経由原田行という蒸機列車が何本かありました。
 今の原田線、冷水峠越えと比べると今昔の感です。

 ウロ覚えですが、この列車もその一つだったと思います。

(鹿児島本線 枝光? 1968年5月)
 思わぬところで8620がバック運転する、ローカル線のような列車に出会いました。

 直方区には8620はいなかったはずで、この牽引機は若松区の機関車でしょう。

(筑豊本線 筑前垣生 1968年5月)
 最末期の奮闘を見せるD50。
 D50の最期は1971年のはずでした。

 この写真でははっきりしませんが、このD50は門デフを付けています。

(筑豊本線 筑前垣生 1968年5月)
 直方区で一休み中のD60。

 D60のお蔭で、日本にも1-D−2のバークシャーという軸配置の機関車が出来たわけです。
 のちにD51を改造したバークシャー機D61も出現していますが、残念なことに私はその姿を見ていません。

(筑豊本線 直方 1963年7月)
 D50や9600が屯する直方機関区。
 手元の1967年の車両配置表では、当時の直方区には48両もの蒸機がいたことになっています。

 ところで、手前の69632はデフがありません。
 9600はこのスタイルの方が好ましく思うのは私だけでしょうか。

(筑豊本線 直方 1963年7月)
 九州形の石炭車 セフ1とセラ1。
 私の古い写真を見て残念なのは、貨車をほとんど写していないことです。

 もっとも、その頃はフィルム代も現像や焼付けの費用も馬鹿にならず、撮影をケチっていたという事情もあったのですが。

(筑豊本線 若松 1963年7月)
 1891年に開通した筑豊本線の起点は若松。

 今の若松駅は小じんまりしたコンクリートの駅舎でおよそ起点駅らしくありませんが、先代の若松駅は写真のように、起点の駅にふさわしい風格のある建物でした。

(筑豊本線 若松 1963年7月)

11、京阪神国電

  1960年頃、かなり頻繁に国電を写したことがあります。
  しかし、ズボラで飽き症な私には、車種や類別が多くて正確に把握することが難しい国電は手に余る
  存在で、何時の間にやら撮影の足も遠のきました。

  当時に私が見た国電と言うと京阪神緩行が主で、戦前派の51系に戦後生まの70系や73系等が混じり
  そこに急電の80系が混じっていました。今思うと趣味的には面白かった時代です。

  その頃から50年、私の電車を観る目は50年前に形成されたままのような気がします。

 「急電」のヘッドマークが目立つクハ76。
 私はこの急電の記憶が乏しく、この写真を見るたびに、こんな編成もあったかいな?と思っています。

 今の新快速の前身とも言える急電が戦後復活したのは1949年。
 私が初めて乗ったのは1950年でした。すでに80系が使われていたはずでしたが、来たのはモハ51などの代用編成で、がっかりした記憶は今も鮮明です。

 当時の急電は20〜30分ヘッド、京都・大阪間はノンストップで35分の運転でした。

(東海道本線 京都 1955年10月?)
 こちらは普通電車(いわゆる京阪神緩行)に使われたクハ76。
 普通電車用として茶色一色に塗られ、口の悪い鉄道ファンから”茶坊主”と呼ばれた車両です。

 ファンが車両に付けたニックネームは、青大将、青蛙、芋虫、なまず、どじょう、海坊主、トニー谷、等々多種多様で、ファンのセンスには感心させられます。

 普通電車といっても、駅間距離が長い京阪神緩行電車は案外快速で、京都・大阪間が48分位だったはずです。これは今の京阪特急と大差ありません。

(東海道本線 京都 1956年8月)
 国電区間ではよく見かけたモニ13。
 モハ30系を改造したモニ13は関西では見ることの少ないスタイルで、関東国電の雰囲気がするように感じました。
 
 この写真のモニ13は、後ろのモハ80らしい車両の制御車として使っていたようです。

(東海道本線 京都 1956年8月)
 京都へ向かう京阪神緩行電車。
 場所は山崎駅の西、今では巨大なマンションが建っている、いわゆるサントリーカーブの付近だと思います。

 知識の乏しい私には、先頭の切妻の車両の形式が分りません。
 51系は本来の前面が半流の車両のほかに、他形式からの編入された切妻の車もありました。

(東海道本線 山崎・高槻間 1957年2月)
 山崎のカーブを過ぎて高槻までの長い直線区間は、ファンがよく撮影にやって来た場所でした。

 風をはらんだ貫通幌、 外側線・内側線共用の信号柱など、京阪神緩行独特の景色が見られる所だったからでしょう。

 線路際のこんな所で撮影出来た時代は遠い昔になってしまいました。

(東海道本線 山崎・高槻間 1958年3月)
 80系の快速。
 「急電」が「快速」に改称され、ヘッドマークが無くなり、ボディカラーも湘南色に変わった当時の姿です。

 撮影したのは寒い朝で、写真の編成の前面には雪が残っています。
 この場所は現在の島本駅のあたりですが、当時は長閑な田園地帯でした。

(東海道本線 山崎・高槻間 1958年3月)
 片開き扉以外は101系とよく似た外観の72系最終バージョン。
 すでに大手私鉄では数々の高性能車が登場していた時代であり、この車は国鉄の吊り掛け車で最後のグループになりました。

 長年、3扉、セミクロスシート車で編成されていた京阪神緩行電車も、この頃から4扉、ロングシートに変わってゆきます。

(東海道本線 山崎・高槻間 1960年05月)
 このころの京阪神緩行には、70系の中間車がかなり入っていたはずです。
 しかし、3扉、セミクロスシートの70系が中間車に入っても、両端を51系で挟んだ編成ならば、一見してあまり違和感はありませんでした。

 それが、上の写真のように4扉車が混じり、それも先頭に立つようになると”京阪神緩行も落ちたな”と感じたものですが。
 
(東海道本線 山崎・高槻間 1961年10月)
 クロハ69が入った編成も最期が近付いた時期の光景です。

 写真の付近は今では住宅や工場が増えて、撮影地点の特定は困難になってしまいました。

 神足〜山崎間 4.0キロは今も同じ。
 この区間には阪急の新駅計画もあり、JRもこの区間にもう一つ駅を造っても良い位です。

(東海道本線 神足・山崎間? 1962年3月)
 京都駅の電留線に停まっていた吹田工場改造のクモハ73035。

 新幹線工事も進んできたこの時代になると、悪名高かった63形の末裔も101系に置き換わりつつありました。
 その中で、101系と比べても遜色ない車体に更新された、写真のような73形もありました。

(東海道本線 京都 1963年9月)

12、北陸本線 杉津 

  北陸本線には失われた車窓風景がたくさんありますが、中でも海を見下ろす杉津は圧巻でした。

  夜行列車で出かけ、夜半の杉津に下車して、沿線を彷徨った一日は終生忘れられそうにありません。

  ただ、感動した割に写真はパっとしませんが。


 誕生して間もない頃の特急「白鳥」。
 青森行と上野行を併結している下り列車です。

 当時の「白鳥」は大阪を8時5分に出て、杉津通過は10時30分頃。
 今の最速の「サンダーバード」は約1時間も早くなっていますが、そのかわり杉津の展望は見られません。

(北陸本線 杉津付近 1961.11)
 DF50を前補機にした上り貨物列車。

 本当は希少機のDD50が撮りたかったのですが、ネガを見直してもDD50の適当な写真が見当たりません。

(北陸本線 杉津付近 1961.11)
 上の写真の貨物列車を後追いで写したもの。

 DF50とD51のエンジン音と排気音が合わさると、付近はなかなかの騒音に包まれました。

(北陸本線 杉津付近 1961.11)
 上の写真の貨物列車の最後部。
 前補機と後補機が付いた長大な列車でしたが、換算重量はどれ位だったのか?
 
 現車は50両ほどだったと覚えているのですが。
 

(北陸本線 杉津付近 1961.11)
 杉津を発車した下り列車。
 次のトンネルに入るまでに出来るだけ加速しようとしています。

 この区間のD51は集煙装置や重油混燃装置などの有無でバリエーションが多様でした。

(北陸本線 杉津付近 1961.11)
 下り貨物列車の後補機。

 鉄道が物流の主流だった時代にはこの区間の貨物列車の運転数は実に多く、旅客列車が1日に約20往復だったのに対して、貨物列車はそれ以上だったはずです。

(北陸本線 杉津付近 1961.11)
 杉津を出た下り列車。
 D51単機の牽引ですが、現車6両程度ではそれで十分だったのでしょう。

 この辺りは、現在は北陸自動車道に奪われています。

(北陸本線 杉津付近 1961.11)
 敦賀湾と杉津の集落を望みながら行く下り列車。

 杉津の村から駅までは200メートル近くを登ってくる道でしたが、道路事情の悪い当時は敦賀方面への通勤・通学客が何人かいました。

(北陸本線 杉津付近 1961.11)
 このころの北陸本線のトップスター「白鳥」。

 足取りも軽く走り去った・・・と言いたいのですが、カーブと勾配の続くこの付近ではさほど速くはありませんでした。
 それでも、エヤコンがあり煤煙とは無縁の特急は別格の列車でした。

(北陸本線 杉津付近 1961.11)
 杉津駅はほとんどの時間、どの線かに列車が止まっていましたが、写真の時は珍しく線路が空いています。

 写真に見える三線だけで、貨物輸送が多かった北陸本線の列車を処理するのは大変だったと思います。

(北陸本線 杉津 1961.11)

13、宮津線の夏

今では北近畿タンゴ鉄道となった宮津線は、蒸気機関車が1972年と比較的遅くまで残っていた路線です。

この線は海水浴シーズンには9600の牽く夏季臨などもあったのですが、ゆっくり撮影に出かけたのは1967年

夏の一度だけで、それも友人たちとの一泊旅行でした。

友人たちが泳いでいる間に別行動をしたのですが、その日の暑かったことは今でも忘れられません。

 丹後由良から栗田に向かう列車。
 デッキに腰を下ろした兄弟らしい少年。今ではこうして座ることは不可能です。

 宮津線の旅客列車はC58牽引が多かったのですが、夏季臨が多いこの時期は9600やC11も見かけました。
 

(宮津線 丹後由良・栗田間 1967.8)
 派手に黒煙を噴き上げる9600が牽引する夏季臨「橋立ビーチ」。

 幸いなことに、冷房車が売りのこの列車なら窓を開けることがないので、黒煙もあまり苦にはならなかったでしょう。

(宮津線 丹後由良・栗田間 1967.7)
 宮津線の旅客列車はC58と鋼体化客車5,6両というのが定番でした。

 全線80キロを超え勾配区間もかなりある宮津線には、C58は適していたようです。
 1955年に私が初めて宮津線に乗った時は8620が多かったのですが。

(宮津線 丹後由良・栗田間 1967.8)
 由良川鉄橋を往くキハ10系。

 この鉄橋の辺りの由良川は川か海かわからないほど水を満々とたたえています。
 ここを渡るときは、冷房のない車内に涼しい風が吹き抜けました。

(宮津線 丹後神埼・丹後由良間 1967.7)
 58系の急行。
 宮津線の気動車急行は「丹後」「はしだて」「大社」などが思い浮かびますが、この列車は何だったか?

 いずれにしても、58系もまだ非冷房の時代でした。

(宮津線 丹後由良・栗田間 1967.7)
 この日、宮津線でキハ35系を見るとは意外でした。
 このキハ35は夏季の応援に来ていたものか、定期運用だったのか、今となってはよくわかりません。

 いづれにしても、夏の宮津線には増発、増結を必要とするほどの乗客があった時代でした。

(宮津線 丹後由良・栗田間 1967.8)
 55系、58系のずいぶん長い編成の気動車列車。
 この列車は「丹後」だったような気がするのですが、臨急だったかも。

 現在のようにデジカメで写していれば撮影時間などの記録が残るので、時刻表から列車の推定もできるのですが。

(宮津線 丹後由良・栗田間 1967.7)
 臨時列車「橋立ビーチ」。
 寝台列車の間合い利用で運転された列車でした。

 急行でも非冷房が多かった時代、座席指定料金を払っても冷房車は人気があったようです。

 この画像では見えにくいですが、2両目はスハネ1655と読めます。

(宮津線 丹後由良・栗田間 1967.7)
 大正末期から昭和初期に部分的に延長を重ねた宮津線ですが、この付近は一番早く1924年に開通した区間。

 地方線とは言いながら、ゆったりとした構内はいかにも国鉄の雰囲気です。

(宮津線 丹後由良 1967.7)
 西舞鶴行の列車が行く全長550メートルの由良川鉄橋は宮津線のハイライト。

 この時期、国鉄はこの鉄橋を沿線住民の便宜のために、保線用の歩み板を渡らせてくれていて、橋のたもとにそんな文言を書いた看板があったと思います。

 丹後神埼駅はこの鉄橋を渡るとすぐです。

(宮津線 丹後神埼・丹後由良間 1967.7)

14、中央西線 上松

   中央本線 上松付近の線路際で一日を過ごしてから、早いもので40年以上になります。

   国鉄の列車撮影を目的に出掛けることは稀だった私ですが、セノハチ、杉津、上松は特別でした。

   前に一度アップした写真もありますが、一つの記録としてご覧いただければ幸いです。

 複線化工事中の上松・倉本間を中津川方面に向う貨物列車。
 線路沿いに歩きながら、工事の始まる前に来たかったと思いました。

 上松・倉本間(正確には上松・小野ノ滝信号場間)の複線化は、この2年後です。

(中央本線 上松付近 1967.10)
 勾配を登って来るD51牽引の旅客列車。

 D51単機で客車8両を牽くこの列車は、写真の場所から目の前にやってくるまでに随分時間がかかりました。
 当時の時刻表では倉本から上松まで6.6キロに13分を要していて、かなりの鈍足です。

(中央本線 上松付近 1967.10)
 こちらはDD51牽引の列車。

 D51の牽引する列車よりも、こちらの方が少しは早かったように覚えています。もっとも、早いと言っても時速50キロも出ていたかなとは思いますが。

(中央本線 上松付近 1967.10)
 猛然と排煙を上げながら、一歩々々踏みしめるように登って来るD51。

 中央西線を通過する貨物列車は結構多かったように覚えています。まだ、この時期の物流は鉄道が主でした。

 ハーフサイズカメラで写した、カビの生えた写真で失礼しました。

(中央本線 上松付近 1967.10)
 いくら足の遅い列車だと言っても油断をしていると御覧の通り。

 上の写真を写した後、もう少し手前に引き寄せて・・・と思っていたら、みごとに木の葉が被ってしまいました。
 考えてみると、こんな写真を何枚写していることやら。

(中央本線 上松付近 1967.10)
 こちらは勾配を下り、中津川を目指す列車。

 中央本線のこの付近はカーブが連続していますから、下り勾配だからと言って早いわけでもありませんでしたが。

(中央本線 上松付近 1967.10)
 この頃の中央本線にはキハ91系やキハ57系といった、少数派気動車の急行がありました。

 強力な91系が名古屋で発車するのを見た印象は”電車並みの加速”でしたが、手元の写真の中に91系が見当たりません。

(中央本線 上松付近 1967.10)
 1等車が誇らしげなこの列車は名古屋・長野間の準急「きそ」だったか?

 準急と言っても名古屋・長野間を約6時間、現在の特急の約2倍の時間を要していました。
 やはり、複線化と電化、振り子電車の投入の効果は大きいようです。

(中央本線 上松付近 1967.10)
 木曾谷を行く気動車急行。

 この時期の中央西線の昼行優等列車は客車、気動車を取り混ぜて、「しなの」「赤倉」「きそ」などがあったはずですが、どの列車も結構混雑していました。
 特に気動車列車は窓に顔、々、々の盛況だったのを覚えています。

(中央本線 上松付近 1967.10)
 この頃はD51には食傷していて、列車写真を撮りに出かけていても、またD51か・・・と見送る事もしばしばでした。

 今思うともったいない事をしたと思いますが、その時代にはDD51やキハ58の方が魅力的だったのです。

(中央本線 上松付近 1967.10)

15梅小路機関区 

   京都に暮らしながら梅小路機関区を訪ねたのは数回で、写真もあまりありません。

   梅小路では数多くの先輩が良い写真をたくさん写していらっしゃいますので、あまりこのページに

   公表する気にはならなかったのですが、今回はネタに困ってしまい駄作をお目にかけます。

 梅小路のハチロクは東海道を登る貨物列車の補機や、膳所、浜大津などでの入換にあたっていました。

 山科で後補機を務める8620は本務機のD52に比べると華奢に見えて、これでも補機として役に立っているのか?と思ったものです。

(梅小路機関区 1958.3)
 梅小路区内で、無火機の入換などに当たっていたC12。
 こうして見ると小柄ながら精悍な好い顔をしています。

 この写真を写した少し前までは入換機にB6がいたのですが。

(梅小路機関区 1958.3)
 京都駅構内で客車の入換機として見る機会が多かったC50。

 C50は本線上ではあまり見かけない、地味な機関車でした。

(梅小路機関区 1958.3)
 初春の時候で、まだスノウブローを付けているC51。

 写真のC51205は山陰本線では何度も見た機関車です。スノウブローも雪の多い山陰地方に合わせたものでしょうか。

(梅小路機関区 1958.3)
 ターンテーブルに乗ったC54は福知山区からの来客。

 この頃、C54は在籍の8両全部が福知山区にいて、梅小路にもよく顔を出していました。

(梅小路機関区 1958.3)
 梅小路を訪ねた帰りに出会った豊岡区(だったかな?)のC55。

 山陰本線の列車を牽引すべく、機廻り中です。
 現在の京都駅の山陰本線ホームでは、機廻り線などは姿を消してしまいました。

(京都 1958.3)
 準急白兎のヘッドマークを付けたC57。
 白兎は東海道本線電化時に設定された、山陰〜東京方面の日着列車です。

 このターンテーブルが産業文化財とやらに出世?するとは予想できませんでした。

(梅小路機関区 1958.3)
 ターンテーブルが回って、白兎のHMが正面を向いたところ。
 残念ながら白兎の部分がとんでいますが。

 左後方のラウンドハウス内にはC62や「かもめ」のHMを付けたC59が休んでいます。

(梅小路機関区 1958.3)
 こちらはターンテーブル上のC62。

 C57と比べるとボイラーが太いことが良く分かります。
 それにしても車体幅に比べて軌間の狭いこと!

(梅小路機関区 1958.3)
 救援車は機関区の付き物。
 ナハ22000系の面影を残すナエ17が機関車たちの影でひっそりしていました。

 窓割から見ると、この車の元は2,3等合造車だったようです。

(梅小路機関区 1958.3)

16、特急つばめ 

   特急つばめと言うと今ではJR九州の列車ですが、私の年代の人間が思い浮かべるのは東海道
   本線の特急です。
   
   私は残念ながら蒸機時代の山科でのつばめは写せていませんが、蒸機から電車へと移り変わる
   時代のつばめを眺められたことはまだ幸せだったと思っています。

 C62牽引時代の「つばめ」
 とは言うものの、すでに電柱が建ち、電化が近づいた時期でした。

 京都停車は9時35分から37分のわずかな間ですが、乗務員は忙しく働いています。

 この写真は私が撮影を始めた初期のものですが、こんな線路内に入って何も言われなかったものだと不思議に思います。

(京都 1956年1月?)
 こちらは正式な電化開業(昭和31年11月)寸前の「つばめ」

 機関士がわずかな停車時間の間に足回りを点検しています。

(京都 1956.11)
 いわゆる「青大将」の「つばめ」

 ちょうどこの付近が昨年出来た島本駅の場所になります。
 この写真を写しに沿線7を歩いた時、同行者とここに駅があればいいのに・・・などと言っていたのですが、あれから50年経ってしまいました。

(山崎・高槻間 1958.3)
 上の列車の後追い写真。
 マイテ39の前はナロ10のようです。

 電車や気動車と違って、客車列車、特に展望車付きの列車ともなると後追い撮影が楽しみになります。

(山崎・高槻間 1958.3)
 上の列車と同じ場所での撮影です。

 この写真はこの年(昭和35年)6月からの電車化を前の、お別れ撮影のときのものですが、同じ場所で同じような写真とは智慧のない話で、汗顔の至りです。

 何度も思うことですが、今こんな場所で撮影していたら大変です。
 昔は良かったなどと言う気はありませんが、ファンにとっては有難い時代でした。

(山崎・高槻間 1960.5)
 これも上の列車の後追い。
 こちらは展望車がマイテ49の編成で、前はスロ60でしょうか。

 一度乗ってみたかった展望車ですが、私などではスハ44に乗るのがせいぜいです。
 初めて乗ったのは昭和30年のことで、当時は座席指定でなく号車指定でした。
 それとマシ35だけが私の客車時代の「つばめ」の乗車経験です。

(山崎・高槻間 1960.5)
 クロ151を先頭に、大阪に向かってラストスパートする「第1つばめ」

 「第1つばめ」は京都発が15時00分、大阪着が15時30分でしたから、この写真の撮影時刻は15時10分頃?。
 客車列車の「つばめ」ならここの通過時間はこれより約1時間遅くなり、日の短い季節には撮影が難しかったはずです。

(山崎・高槻間 1961.10)
 「つばめ」のテ−ルマーク」を見せて去ってゆく列車。

 それにしても何故電車特急の「つばめ」は前後のHMとTMが文字だけだったのでしょう?
 客車時代からの伝統を考えると不思議な気がします。

(山崎・高槻間 1961.10)
 山陰本線の気動車と並んだ「第1つばめ」

 今では ○○20号などという特急も珍しくもありませんが、本来の「つばめ」は特別急行でしたから、第1、第2・・・と付いた「つばめ」は何か安っぽくなってしまった感じでした。

(京都 1963.1)
 パーラーカーを最後に京都を発車した「第1つばめ」
 電車特急の華やかだった時代です。

 しかし、この時代も短く、1964年10月からは新幹線に東海道本線の主役の座を譲ることになるのですが。

(京都 1963.1)

17、九州寝台特急 

   今回の更新の直前、3月13日で半世紀余りの歴史を持つ東京〜九州の寝台特急が消えました。
   時代の流れとは言いながら、まことに淋しいことです。
  
   最近のブルトレの写真の無い私は、「富士・はやぶさ」へのオマージュとして、寝台特急の古い写真の中から
   何枚かをアップして見ました。ヘボ写真ばかりですがご寛容下さい。

 初めて見た「あさかぜ」は20系客車に変わる前で、蒸機牽引でした。
 確かな記憶がないのですが、尾道に「あさかぜ」が着いたのは夏の夜が明けたばかりの5時過ぎだったと思います。

 初めて見た「あさかぜ」のヘッドマークはそれまでに見慣れていた「つばめ」などと違って、少々抽象的すぎるように見えました。

(山陽本線 尾道 1958.8)
 「さちかぜ」は「あさかぜ」の好評を受けて増発された列車で、長崎特急「さくら」の前身です。
 「さちかぜ」と呼ばれた期間は短く、「平和」に変わり、さらに「さくら」に変わって、その名称が2005年の廃止まで続きます。

(山陽本線 尾道付近 1958.8)
 真新しいED73と20系客車たち。

 「あさかぜ」、「さちかぜ」に続いて運転を始めた「はやぶさ」は、当初は一般形車輛だったのものの、すぐに20系に変わりました。

(山陽本線 枝光 1963.7)
 客車のブルーも艶やかで、長大な編成の「はやぶさ」

 この頃の「はやぶさ」の姿からは、食堂車もない最終期のうらぶれた姿は想像できませんでした。

(鹿児島本線 枝光 1963.7)
 鹿児島区のC61の牽引で力走する「はやぶさ」。

 「はやぶさ」というとC61を思い浮かびます。
 私はやや太り気味のC62よりも、スリムなC61に好感を持っていました。

(鹿児島本線 原田 1963.7)
 気動車の窓から見た離合する「はやぶさ」。

 プリントの裏に”昭和39年、渡瀬”とあるだけで、この「はやぶさ」が上りか下りかも分かりません。
 非電化で複線の区間という点では、撮影場所の渡瀬付近は正しいかと思っていますが。

(鹿児島本線 渡瀬付近? 1964.3)
 植木付近の曲線区間を駆け抜けるC61。
 オリンパスペンで写したポジフィルムが変色して、見苦しい写真になってしまいました。

 この辺りではこの頃、複線電化の新線建設工事が行われていたと思います。

(鹿児島本線 植木 1964.3)
 特急「みずほ」は1961年10月から不定期列車として運転を始めました。

 時刻表の1961年10月号には「10月1日から当分の間運転」との註記がありますが、1年後には目出度く定期列車に昇格しています。

(鹿児島本線 田原坂? 1963.7)
 当初は東京〜鹿児島間だった「はやぶさ」は、運転開始後まもなく東京〜西鹿児島間の営業区間に変わっています。

 しかし、列車が基地のある鹿児島まで行くことは変わっていませんでした。

(鹿児島本線 鹿児島 1963.7)

18、松浦線のC11、キハ02 

   C11は381輌も作られた機関車ですが、管理人の手元に写真はあまりありません。
   それというのも航続距離の短いタンク機関車で、幹線ではあまり見なかったからでしょう。

   しかし、1968年4月に訪れた松浦線ではC11と、おまけにキハ02も見ることができました。
   
   松浦鉄道となったこの付近の現状は西海鉄男様のサイトで拝見できます。

 佐々を発車した列車が盛大に白煙を上げて近づいて来ました。

 蒸気機関車の牽く列車を排煙も入れて見るには、このくらいの距離の方がいいようです。

(松浦線 佐々・小浦間 1968.4)
 上の写真の列車が接近して来たところ。

 牽引機のC11336は1946年に日本車両製の機関車だったということです。

(松浦線 佐々・小浦間 1968.4)
 こちらは正位で牽引するC11257。

 手前に75キロのキロポストが見えます。ということは、ここは佐々から佐世保方に1キロの地点。
 この距離は当時の時刻表も最近の時刻表でも変わっていないようです。

(松浦線 佐々・小浦間 1968.4)
 単機でやってきたバック運転のC11285。

 角ばったドームが示すように、戦争中に作られた機関車です。
 C11は総数381両のうち半数近くが戦時中の産物でした。

(松浦線 佐々・小浦間 1968.4)
 孤影悄然という感じのC11。

 回送か、それとも貨物列車のスジはあっても運ぶべき貨物がなかったのでしょうか。
 国鉄末期にはときどき見かけた光景ですが。

(松浦線 佐々・小浦間 1968.4)
 朝日に輝くC11。

 こじんまりしたC11ではありますが、近代的な機関車としての美しさは充分です。
 また、タンク機関車ならではのバック運転の姿も面白く、今でも人気が高いのももっともだと感じます。


(松浦線 佐々・小浦間 1968.4)
 C11と客車3両。
 これが松浦線の蒸機列車の昼間時間帯の姿のようでした。

 それにしても、そのころの私は五万分の一の地図と時刻表を頼りに、よく歩いたものです。今ではそんな根気はありません。

(松浦線 佐々・小浦間 1968.4)
 朝の多客時間帯の列車は写真のように、ハ+ハ+ハユニに増結車が追加されています。

 この頃の松浦線は気動車と蒸機列車が半々くらい。
 今の松浦鉄道ほどではありませんが、この付近の運転本数は結構多く、撮影していて退屈はしませんでした。

(松浦線 佐々・小浦間 1968.4)
 これは臼ノ浦線の列車。
 臼ノ浦線は佐々からしばらく、松浦線と並行します。
 写真の手前に松浦線のレールが見えるのですが、おわかり頂けるでしょうか?

 ちょうどいいタイミングでキハ02の列車が来ました。
 私がこの地を訪れたのはキハ02を撮りたかったこともあったのです。

(臼ノ浦線 佐々・臼ノ浦間 1968.4)
 旧 佐世保鉄道時代の名残りの臼ノ浦線、柚木線などではレールバス キハ02が使われていました。

 レールバスはこれより前に北海道や大原線(現いすみ鉄道)でも乗っていましたが、カラーで撮ったのはこの時だけです。
 臼ノ浦線はこの後間もなく、1971年に消滅しています。

(臼ノ浦線 佐々・臼ノ浦間 1968.4)

19、山陰本線 亀岡あたり 

    最近では221系の電車が大半になり近郊区間らしくなった山陰本線の京都口も、50年ほど前には
    日に3往復の急行、準急と、1時間に1、2往復の普通列車が走るだけの長閑さでした。

    先日久しぶりに山陰本線亀岡に行く機会があったので、ついでに昔撮影したあたりに寄り道し少し
    写真を写してきました。その写真は最近の話のコーナーに並べましたが、ここではそれに合わせて
    のどかだった昭和36年秋の山陰本線亀岡付近の姿をご覧いただきます。

 秋雲の空の下に佇む馬堀駅。

 今では駅周辺に住宅が並んで都市近郊駅らしくなった馬堀駅も、当時は普通列車でも機関車牽引の列車には通過される、信号場に毛の生えたような駅でした。

(山陰本線 馬堀付近 1961.10)
 キハ20などが連なる京都〜園部間の区間列車。
 こうした気動車列車が2時間に1往復ほど走って、機関車牽引の列車の間合いを補っていました。

 これらの気動車は、この頃はまだ梅小路機関区の所属だったと記憶しています。

(山陰本線 亀岡付近 1961.10)
 1等車が入ったこの列車は下の写真と同じ白兎だったかしら?

 やたらに特急ばかりになった今とは違って、普通、準急、急行、特急の序列が厳然としていた時代で、急行や準急でも二条〜綾部間をノンストップでした。
 今の特急とは名ばかりの列車はこの区間で2、3駅止まります。

(山陰本線 亀岡付近 1961.10)
 この列車はHMから見ると、上り急行白兎のようです。
 白兎は8時00分に松江を出て京都に14時20分着。第2こだまに乗り継ぐと東京には21時00分に着くという速達列車でした。

 ただ、この列車が白兎だとすると、4両編成なのに当時の時刻表中の列車編成図には5両とあるのと合わない点が不審ではあります。

(山陰本線 亀岡付近 1961.10)
 DF50牽引のこの列車は京都発門司行の811レかと思います。
 811レは全車の1等が連結されていたはずなので、それが写っていたら間違いないのですが。

 811レは京都を9時36分に出て門司には翌日5時14分に着く長距離普通列車でした。
 当時の山陰本線には京都から石見益田、下関など、ずいぶん長距離の列車がありました。

(山陰本線 亀岡付近 1961.10)
 亀岡を出て加速するD51。

 山陰本線の貨物列車は意外に少なく、この日も半日ほど撮影している間に2往復を見た程度だったと思います。

(山陰本線 亀岡付近 1961.10)
 上の写真と同じ列車のはず。
 D51は架線のない線路をのびのびと走って行ます。

 この場所の付近は現在複線化工事の最中で、線路際には柵が並び警備員もいて写真が写しにくい状態です。

(山陰本線 亀岡付近 1961.10)
 綿雲の下を行くこの列車が何だったかはっきりしません。
 振り返ってみると何度この言い訳をしていることでしょうか。古い事とは言いながら、もう少し撮影メモなどをキチンと残しておくべきでした。

 この列車は当時の時刻表によると下り準急第1丹後かな?と考えています。あれこれと思案するのも、老ファンの一つの楽しみではありますが。

(山陰本線 亀岡付近 1961.10)
 C51264の曳く下り列車。
 山陰本線は美しく整備されたC51が見られる路線で、この日のお目当てもC51でした。

 この列車はオロハ30?が連結されているので、舞鶴線経由の913レ敦賀・豊岡行かと思います。

(山陰本線 亀岡付近 1961.10)
 上の列車の後追い撮影。

 列車数が少ない山陰本線なので、1列車ごとに2,3コマは写しました。その割合に良い写真がないのは残念ですが。

(山陰本線 亀岡付近 1961.10)

20、東海道本線 山科

   今回は東海道本線山科付近での古い写真ばかりを並べてみました。

   山科という地名に懐かしさを感じる鉄道ファンはかなりの年齢ではないでしょうか。
   山科駅西方の築堤が緩くカーブする区間は列車写真撮影に好適なため、沢山の先輩方が
   ここを訪ねて傑作を残されています。

   私が写真を始めたのは東海道本線電化完成のころだったため、山科で蒸機列車を写せて
   いないのは残念でなりません。

 つばめ牽引色のEF58が曳くこの列車は、光線の具合から見て、名古屋発鹿児島行の下り急行「さつま」のはず。

 「さつま」は岡山から伯備線k経由の大社行「だいせん」も併結した長い編成でした。

(東海道本線 山科付近 1961.10)
 東山トンネルを出た上り特急「はと」が勾配を駆け上がってきます。
 蒸機時代なら機関車があえぐ場面ですが、さすがにEF58では10‰は大した事もなさそうでした。

 午後の山科では上り列車は半逆光になります。

(東海道本線 山科付近 1958.1)
 EF58牽引の下り普通列車。

 1956年の東海道本線前線電化後、東海道本線のこの区間、いわゆる湖東線には80系電車が入っていました。
 しかし、電車の本数は意外に少なく、近距離運転の客車列車もかなり残っていました。

(東海道本線 山科付近 1958.1)
 EF15の曳く上り貨物列車。
 この時期にはEH10も活躍していたはずですが、なぜか写真が見当たりません。

 EF15もEH10も、今のEF200などと比べると非力ではありましたが、貨物列車の速度は格段に速くなっていました。

(東海道本線 山科付近 1958.1)
 堂々12連の80系下り電車。
この列車は撮影時刻から見て米原発大阪行933レだと思います。
 今の新快速の前身的な列車に見えますが、米原・京都間は各駅停車でした。

 蛇足ですが、この時代には列車番号にMやDは付いていません。

(東海道本線 山科付近 1961.10)
 短い編成にロを挟んだ編成は姫路からの鳥羽行快速に似ているのですが、草津線に入る鳥羽行快速は蒸機牽引ではなかったかな・・・と思案しています。

(東海道本線 山科付近 1961.10)
 キハ82系12連の青森・上野行「白鳥」。
 6連の青森行と上野行が併結され、それぞれの編成に食堂車が入った豪華編成です。

 撮影に立っていた場所は今は複々線のど真ん中。
 こんな場所に入っても怒られなかったよき時代でした。

(東海道本線 山科付近 1961.10)
 上り「第1ふじ」。
 「第1ふじ」は神戸発7時30分、東京着14時30分。
 東海道本線全線を走り通す特急です。

 「第1ふじ」とすれ違った電車は野洲発上郡行。もう少しで狙っていた「ふじ」と被るところでした。

(東海道本線 山科付近 1961.10)
 上り「第1つばめ」。
 当時は伝統ある「つばめ」や「ふじ」も”第1”や”第2”が附いては値打ちが下がったと思っていました。

 ところが今の特急には何十号まで出現しています。
 特急といっても、特別料金を請求されるだけの列車に成り果てた感じがします。

(東海道本線 山科付近 1961.10)
 時にはこんな列車も山科を通りました。草津線用気動車の回送です。

 草津線から京都へは朝夕に客車列車の直通運転がありましたが、ディタイムの線内運転列車は梅小路区の気動車でした。

(東海道本線 山科付近 1961.10)

21、未電化時代の山陽本線 (セノハチなど)

  山陽本線の広島までの電化は昭和37年で、全線電化は昭和39年でした。

  おかげで九州旅行の途中、瀬野・八本松でのD52の奮闘などを見ることが出来、その印象は

  いまだに忘れられません。下手な写真ですが、今回は未電化時代の山陽本線をご覧ください。
 黒煙をあげて尾道の町並みを通り過ぎるC59。

 当時の沿線の家々はさぞ煙たかった事でしょうが、公害などという言葉もあまり聞かれなかった時代です。

(山陽本線 尾道付近 1958.8)
 八本松のサミットを過ぎ、下り勾配を駆け抜ける列車。

 記録を無くしてこの列車が何だったかはっきりしません。撮影時間からすると、「はやぶさ」ではなかったかと思います。
 はやぶさの運転開始はこの写真撮影の一月前でした。
 
(山陽本線 八本松付近 1958.11)
 この写真の列車、なぜか本務機のD52はあまり煙を上げていません。
 線路際のキロポストの280という数字からすると、八本松の近くを登っているはずなのですが。
 
(山陽本線 八本松付近 1958.11)
 瀬野・八本松間では長大な貨物列車には後補機2両が付きました。

 今では115系電車がこともなげに上がる区間で、ここを電車で通ると感無量です。

(山陽本線 八本松付近 1958.11)
 瀬野からの勾配も終わりに近づいた付近の一コマ。

 D52の曳くこの列車は自転車よりも遅いくらいの速度で登ってきました。

 何度も書いていることですが、当時の国鉄職員はこんな線路際への闖入者にも寛容だったものです。

(山陽本線 八本松付近 1958.11)
 八本松駅をサミットとする山陽本線の勾配は、10キロ余りで登り切る瀬野側からの方が西条側からの勾配より格段に急です。

 そのため西条側からの下り列車は特急かもめといえども補機は付いていません。

(山陽本線 八本松付近 1958.11)
 蒸気機関車の頭上に架線がないと景色が広々します。
 思いなしかD52の表情も晴れ晴れしているようです。

 最近は蒸気機関車を運転するイベントが各地でありますが、私は電化区間での蒸機運転にはどうも興味がわきません。

(山陽本線 五日市?付近 1961.9)
 平坦区間を快走する貨物列車。
 冷蔵車が目立つこの貨物列車はすい随分長編成でした。

 ハエタタキの大きさがいかにも幹線らしい風景です。

 この付近は広島電鉄宮島線と並行していて、どちらを写すにも好都合な場所でした。

(山陽本線 五日市?付近 1961.9)
 未電化時代の山陽本線広島付近ではローカル列車にキハ10系も使われていました。

 大幹線の山陽本線でも2連の気動車列車となるとローカル線の雰囲気です。

(山陽本線 五日市?付近 1961.9)



このページのトップへ