京都の電車

  かっての京都市内には、最盛期は路線長が80キロに近かった京都市電があり、その他に

  京阪電鉄京津線、京福電鉄叡山線、嵐山線などに、数多くの車両が活躍していました。

  このページはその時代の京都の電車たちや、町のたたずまいの回想です。

 目    次  (2013年8月10日現在)    
 1、京都市電   (1)形式いろいろ
 (2-A)沿線あちこち  北野線 (N電)
 伏見、稲荷線  
 烏丸線 
 千本、大宮線
 今出川線 
 丸太町線 
 梅津線 
 (2-B)沿線あちこち  北大路線  
 西大路線
 九条線
 七条線 
 東山線 
 トロリーバス
 河原町線下鴨線
 四条線 
 2、京都市内の私鉄  (1)叡山電鉄 
 (2)京福電鉄 
 (3)京阪電鉄 京津線 (8月10日 4点追加)

1、京都市電

   1946年4月に初めて京都駅前で対面して以来、長い付き合いだった京都市電。

   ただ京都市電は身近すぎたためか、今になると思ったほど写真を残していないのは残念です。


  (1)京都市電の形式いろいろ

   手持ちの写真の中から車両の形式別に並べてみました。

   私が撮影を始めた昭和31年頃以降のものだけですが、御覧ください。

狭軌1形(N電)

 N電というのは1918年に京都電気鉄道を京都市が買収したとき、標準軌の市電とナンバーが重複する京都電気鉄道車を区別するため、ナンバーの頭に狭軌(ナロー)車の意味でNを付けたことから起きた通称。
 標準軌の京都市電1形はN電の幅を広くしたようなスタイルだったが、写真の手持ちがない。

 北野線廃止時に狭軌車は28両あった。

(北野線 堀川二条付近 1957.3)
200形

 私が写真を始めた1950年代後半には京都市電にも単車が残っていた。開通当時のオープンデッキの1形は消えていたが、200形、300形はまだ健在だった。

 200型は1927年から1929年に93両が作られた半鋼車で、側面窓下に短冊形の木板を貼り付けているため古い車に見えるが、実は昭和生まれで300形より新しい。寸法などは300形と変わりない。

(壬生車庫 1958.2)
300形

 この形は1925年から1926年に50両作られた半鋼車で、全長9.144m。リベットが目立つ重そうな車だが、調べてみると自重は10トン以下だったのは意外だ。

 台車の軸間距離が短いためか、とにかくよく揺れる印象の電車だった。

 200形と300形は800形や900形の増備と入替って廃車が進み、1950年代のうちに姿を消した。

(壬生車庫 1958.2)
500形

500型は1924年から40両が作られた、全長13.563mと戦前生まれの市電の中でもっとも大型の電車だった。

 1956年に中央扉を締切ったため車内がやたらに長く見えたが、輸送力が大きいことが幸いしてか、1970年頃まで使われていた。

 なお、500形の535は試験的にクロスシート化されていて、伏見線で乗車したとき驚いた記憶がある。

(河原町線 河原町四条 1961.2)
500形改造車

 500形のうち514〜517は1935年〜1936年に、試験的に全長を3mほど縮めて2扉の中型車に改造された。

 改造の目的は大きすぎる3扉車を使いやすい中型車にすることだったようだが、のちの600形の試作的な意味もあったのだろうか。

 この4両は梅津線で使われることが多かったようで、現市バス梅津車庫の所にあった留置線で一服している姿をよく見かけた。

(壬生車庫 1958.2)
600形(戦前形)

 戦前の京都市電の傑作。
 1937年から95両が作られ、ラストの686〜695は戦後、1947年になって完成した。

 1950年頃からの更新工事で、車体側面の床下機器を隠す垂下り部がカットされ、原型と印象が変わっている。

 600型の消滅は1971年。四条、千本、大宮の各線が廃止される少し前だった。

(烏丸線 烏丸三条 1962.10)
600形(戦後形)

 600型の最後の10両は太平洋戦争中に製作に着手されたが、資材不足のため、登場は戦争後の1947年になった。

 戦前型と外観で違う点は、扉間の窓が一つ増え9枚になり、車体側面下部が直線になったことが目立つ。
 資材不足の時代の生まれのため、車内も戦前型に比べると安普請の感じがした。

(今出川線 上七軒 1957.4)
700形

 1958年に生まれた700型はそれまでの京都市電のスタイルをガラリと変えた軽量車。
 浅い屋根と折戸のドア、塗色も明るく変わった。

 総勢48両が作られ、後期の25両は間接制御車だった。

 いい車だと思っていたが、美人薄命、ワンマン化されることもなく、最終の748などは約10年の寿命で1972年に廃車になった。

(四条線 祇園 1963.5?)
800形

 1950年から量産された重厚な感じのこの形式は総勢90両に及ぶ。
 その中には直接制御車と間接制御車があり、台車の違いがあり、車体のメーカーが多岐にわたりと、内訳は複雑でなかなか覚えられない。

(烏丸線 烏丸中立売 1961.8)
800形(最後期車)

 800型のバリエーションの一つ、最後ロットとなった800型。

 前面中央の窓幅が広く900型に似た顔になっている。
 台車もアルストームタイプのものを履いている。

(千本線 壬生車庫前 1957頃)
900形

 1955年から作られた一次車15両は間接制御車だったが、増備の20両は間接制御車になった。
 それまでの車両に比べ前面の中央窓と方向幕の幅が広くなったのが目立つ。
 また、800形より窓1個分だけ車体が長い。

 のちに直接制御車のうち16両がワンマン化改造され、1900形に変身、そのうち15両が広島電鉄に受け継がれた。

(東山線 東山七条 1960.1)
1000

 1000形は600形を引伸ばして3扉車にしたようなスタイルで、全長13.8mと京都市電で一番大きい車輛で、32両あった。

 1949年に誕生した時は3扉だったが、写真は1956年に中央扉を閉鎖した後のものなので、なおさら胴長に見える。

 ビルの少ないこの頃は、この場所からも東山が見えている。

(四条線 四条西洞院 1957.8)
2000形

 1964年に登場した京都市電最後の新車。
 デビュー時はブルーとクリーム色の新塗色と、二つ目玉のヘッドライト、連結運転用の連結器が目新しかった。

 新塗色も連結運転も短い期間で終わったが、その当時の姿は高橋弘さんの写真集「路面電車 懐かしい仲間たち」で見られる。

 僅か6両の仲間だったが、大半は伊予鉄道松山市内線に残れたのは嬉しい。

(烏丸線 烏丸七条 1974.3)
2600形

 2000型と同時期に出場した600形の改造車。
 ワンマン化改造された1600形とは異なり、ツーマン、2両連結用に改造された。
 改造といっても、車体の延長などかなり大掛りな工事がなされ、元の600形からかなり大きくなっている。

 しかし、連結運転の期間は短く、連結器を外して単行で使われたのち、烏丸線廃止後まもなく廃車になった。

(烏丸線 烏丸三条 1974.3)
1600形

 1966年から登場した600型のワンマン化改造車。

 外観上の改造は前照灯の2ヶ化や行き先表示窓の上にワンマンカー表示窓を設置などで、後部扉の中央部への移設は小型車で床下機器が詰まっていたため行われなかった。

 600型のデザイン上の特徴だった、窓の上下の半円形のリブは残っていたが、それがかえって可哀想に思えたのが当時のファンの心境だった。

(丸太町線 裁判所前 1976.3)
1800形

 1968年からほとんどの800型がワンマン化改造されて1800型に化けた。

 外観の変化は後部扉を塞いだ代わりに中央部に扉を設置し、前面の前照灯を2個化、ワンマンカー表示窓を取り付けるなどだった。

 1800型は両数も多く、1978年の京都市電全線廃止まで使われたので、多くの方々の写真が残っている。

(丸太町線 丸太町橋 1976.3)
1900形

 1970年に900形の直接制御車をワンマン化した車両。

 ワンマン化工事の内容は1800型と同様のものだが、前面中央窓の幅が広い900型のイメージは残っている。

 この1900型は大部分が広島電鉄に引取られたのは有名。

(東山線 馬町付近 1978.4)
トロリーバス300形

 京都市営トロリーバスで18両と最大勢力だった300型。
 
トロリーバスは電車とバスの中間的な存在だが、京都市では電車路線の一部として扱われていた。

 1932年に四条大宮〜西院で開業し、1958年に段町へ、1962年には松尾橋までと路線を伸ばしたトロリーバスも、1969年にバス化された。

(南広町 1969.9)


  (2-A)京都市電の沿線あちこち

    このコーナーは市電があったころの京都の街角のスナップです。
    写真は線区別に並べてあります。私の好みで伏見線と北野線への偏重が目立ちますが、悪しからず。

       このページには下記の線区を収めました。

 丸太町線  北野線 (N電)  伏見線、稲荷線  烏丸線
 千本、大宮線  今出川線 
    撮影場所などは記憶違いがあるかも知れませんがご容赦下さい。
    また、停留所名や線名は公式名でない場合があります。


   丸太町線

     
     丸太町線は京都市街のやや北寄りを東西に走っていた路線で、京都御所を隔てた北側に今出川線が並行
     していました。

     丸太町線と今出川線は開通時期も同じころで、白川線を介して繋がっていて、廃止も同時、と、兄弟のような
     路線でした。

路 線 当初開通 全 通 廃 止
年 月 区 間
丸太町線 1912年6月 千本丸太町〜烏丸丸太町 1930年3月 1976年4月
 丸太町橋を渡る2系統。

 こうして見ると、この橋の前後にはかなりの勾配があったことに気が付く。

(丸太町線 丸太町橋付近 1976.3)
河原町丸太町電停に停車中の西行2系統。

 この交差点は線路が直交するだけの単純な形状で、渡り線は無かったはずだ。

(丸太町線 河原町丸太町 1976.3)
 京都御所の南縁に沿い、銀閣寺向って東行する12系統。

 自動車が我が物顔で車道に入っている。

 12系統は京都の中心部 四条河原町から東の銀閣寺を経て西の西大路四条に至る系統だったが、私の生活圏とは離れた存在だったので記憶が薄い。

(丸太町線 裁判所前 1976.3)
 京都御所の南側に沿って東に向かう12系統。
 写真は裁判所前停留所の西行安全地帯から写している。

 付近の景色は今もあまり変わりないが、赤レンガ造りだった裁判所は改築された。

(丸太町線 裁判所前 1976.3)
 烏丸丸太町電停に着いた西行2系統の電車と乗降客。

 廃止が迫ったこのころでも利用者は多かった事を思うと、市電を簡単に廃止してしまったことが惜しまれてならない。

(丸太町線 烏丸丸太町 1976.3)
 こちらは烏丸丸太町交差点西側の風景。

 このあたりの丸太町通は明治時代に開通した区間だけに、車道が狭く歩道も分離されていなかった。

 中学1、2年生の頃この近所で暮らした私は、写真に見える書店でよく立読みしたものだ。

(丸太町線 烏丸丸太町 1976.3)

   今出川線

     京都市街の北部を東西に走っていた今出川線は大正初期に市電の第一期区間として出来た部分と市電
     最後の開通区間を含む路線でした。

     東端は銀閣寺に西端は北野天満宮に近く、叡山電鉄出町柳駅にも京福電鉄北野駅にも近い今出川線は
     もっと利用されても良い路線だったと思います。

     京都市がLRT復活構想の候補地に今出川通りを挙げているのももっともです。

路 線 当初開通 全 通 廃 止
年 月 区 間
今出川線 1912年11月 千本今出川〜今出川大宮 1958年9月 1976年4月
 加茂大橋の上を西行する22号系統を北側の歩道から見た眺め。

 背後に大文字山が聳える。

 この橋の上は、8月16日の送り火の夜には大変混み合う所だ。

(今出川線 加茂大橋付近 1976.3)
 河原町今出川東側の停留所から発車した東行の22号系統の1800型。

 この写真を見直すまで、ここに三菱銀行があったことを忘れていた。

(今出川線 河原町今出川 1976.3)
 600形の最終ナンバーの20系統、千本北大路行。

 戦時中に作り始めた600型の最終バージョン10両は戦後になって完成した。このグループは側面の窓が1ケ多いなど、基本型と異なる点が多い。

 余談だが、写真左奥、自転車が見える辺りが今出川線開通以前の北野線終点だった。今出川線開通で北野線は路線が縮まったわけだ。

(今出川線 北野 1958.1)
 こちらは登場して間もない700型。

 よい車両だと思っていたが、軽量化のためか天井が低く、夏季の車内は暑かった。
 エヤコンなど夢だった時代である。 

 写真の20系統は市街の中心 四条河原町と市街の西北方面を結ぶ路線だった。

(今出川線 北野 1961.7)

   千本、大宮線 

     千本線、大宮線の一部は明治末から大正の初めに、市電の最初期の路線として開業しています。

     千本、大宮線というのは通称で、北半分の千本線と南半分の大宮線が四条大宮で繋がり、ほぼ直線の
     路線となっているため、千本、大宮線と総称されていたようです。

路 線 当初開通 全 通 廃 止
年 月 区 間
千本線 1912年6月 壬生車庫〜千本丸太町 1922年9月 1972年1月
   大宮線  1912年11月  四条大宮〜七条大宮  1937年5月  1972年1月
 
 
 京都市電の最高地点で千本・大宮線の北端、千本北大路停留所に着いた21系統。

 この辺りの海抜は約80メートル。
 千本・大宮線の南端、東寺辺りは約20メートルだから、千本・大宮線の南北では高低差が約60メートルある。

(千本線 千本北大路 1971.9)
 千本北大路から南への下り坂の途中にある千本十二坊停留所あたりの光景。
 十二坊とは近くにある上品蓮台寺の塔頭に因む地名。

 千本線はこの付近が最急勾配区間で、市電は喘ぎ々々登る。
 この様子を見るたびに、市電の50馬力モーター2個は馬力不足だと感じていた。

(千本線 千本十二坊 1971.9)
 乾隆校前停留所で電車を待つ、大原女姿の女性。
 かっては京都の街中でよく見かけた姿だ。

 千本線も昭和に入って開業した今出川通から北の付近は、車道と歩道が分離されている。
(千本線 乾隆校荷 1971.9)
 千本通のこの辺りは商店が並び映画館もあって、西陣地区の中心として、ちょっとした繁華街になっていた。

 しかし、この付近は大正元年と古くに市電が開通した所だけに、道路は狭く歩道も無かった。

(千本線 西陣京極 1971.9)
 出世に験があるという出世稲荷の前の電停。
 最近では街角で和服のご婦人を見ることも少なくなった。

 社寺の多い京都だが、豊臣秀吉が聚楽第の中に祀っていたというこのお稲荷さんは、そんなにビッグネームではない。

(千本線 出世稲荷 1972.1)
 建築当初は京都鉄道の本社も兼ねていた二条駅舎。

 市電の車体に広告を出しているイノダコーヒは今も盛業中。

 梅小路蒸気機関車館の一角に、この駅舎が残されているのは嬉しい。

(千本線 二条駅前 1972.1)
 千本通を真っ直ぐ南下してきた千本線は、三条から四条の間は東南方向に斜行する後院通に入る。

 京都市内の道は東西と南北がほとんどで、斜行する道は珍しい。

(千本線 千本三条 1972.1)
 電車と自動車が輻輳する壬生車庫前。
 左手の三角屋根が運転指令所で、マイクで系統の変更などを指示していた。

 壬生車庫は明治末期に京都市電が開業した時からの古い車庫だったが、跡地は住宅公団の団地になっている。

(千本線 壬生車庫前 1972.1)
四条大宮から大宮通を南に向かう300型の17系統。

 17系統は九条車庫発、九条車庫着の、九条車庫担当の7系統、8系統を補完する系統だった。

(四条大宮 1957.6)
 四条大宮交差点を南下する 5系統。

 壬生車庫と九条車庫の車両が多いこの交差点で、5系統は数少ない烏丸車庫の担当車両だった。

(四条大宮 1957年頃)
 
 雨の休日とあって人気のない大宮通を300形がやって来る。

 町屋が並ぶこの景観が今も残っていたら…と惜しまれる。

(大宮線 大宮松原付近? 1958.1)
 島原口停留所に着いた7系統、九条車庫行。
 7系統は九条車庫発、九条車庫行の完全な循環運転だった。

 背後の凝った塀と木立は淳風小学校の前庭。

(大宮線 島原口 1971.9)
 七条大宮交差点を左折する京都駅前行 10系統。

 10系統は昔はN電が名乗っていた。
 写真の10系統はN電廃止の代替に設定されたもので、京都駅前〜千本・大宮線〜北野白梅町と、N電に近い経路を走っていた。

 背後の古い建物は龍谷大学の一部。

(大宮線 七条大宮 1971.9) 
 国鉄東海道本線、山陰本線をひとまとめに越える大宮跨線橋。
 この跨線橋の完成で大宮線が全通した。

 50年前のこの付近は瓦屋根の中に東寺の塔が霞んでいるばかり。ビルの影もない。

(大宮線 東寺東門前付近 1958.3)
 7系統の1600形が大宮跨線橋を降りて来た。ちょうど新幹線も通りかかった。

 私はこの拙い写真1枚しか、新幹線と市電の出会いを写していない。

(大宮線 東寺東門前 1971.9)
 国鉄を大宮跨線橋で越えて南に降りたところに東寺東門がある。

 この辺りは毎月21日の弘法さんの縁日には大変な人出で、市電の停留所にも整理員が出ていた。
 市電は無くなっても21日の賑わいは今も変わらない。

(大宮線 東寺東門前 1971.9)
 古くからの京都のシンボル 東寺の塔(木造建築では世界最高)を見て大宮通へ入る7系統。

 ここは撮影名所で、この角度からの写真を多くのファンが撮影している。

(大宮線 九条大宮 1971.9)

   北野線 

     北野線は京都電気鉄道が明治年間に建設した古い路線ですが、昭和36年と比較的早期に廃止されました。

     廃止当時はまだ路面電車廃止の動きがそれほど強かったわけではなく、車輛や設備の老朽化と、北野線が
     京電の建設したままの1067ミリゲージで標準軌の京都市電の中で異端だったからだと思います。

     二条城前の堀川に沿った付近を残していたら観光客にも喜ばれたでしょうが、今となっては夢物語です。

路 線 当初開通 全 通 廃 止
年 月 区 間
北野線 1895年9月 堀川中立売〜堀川下立売 1904年12月 1961年8月
 北野線の終点に京都駅行が停車中。
 その向うを行くのは今出川線の電車。

 今出川線が開業する前の北野線終点は今出川通を越えた松の木がある辺りだった。

(北野 1961.1)
 上の写真と反対に、北から南を見た北野終点。

 当時の北野線は日中でも7,8分毎位には走っていたはずで、客も結構乗っていたように思う。

(北野 1961.2)
 終点北野まであと一息のN電。

 この付近は毎月25日の北野天満宮の縁日にはたくさんの露店が出て賑わっていたのだが、最近はどうだろうか。

(下ノ森 1961.3)
 下ノ森停留場付近にはささやかな商店街があった。

 スーパーマーケットやコンビニが無い時代、嵐電北野線沿線からこの辺りまで買い物に来る人もいた。

(下ノ森 1961.3)


 のんびりと東堀川通を行くN電。

 堀川通の四条と中立売の間は堀川を隔てて広い西堀川通が並行しているのだから、電車の走る東堀川通にはN電を残していたら…と、夢想したことがある。

(堀川下立売 1957.10)
四条西洞院と四条堀川の間の三線区間に入ったN電。

 こうして見ると1067ミリ軌間はいかにも狭く見えて、国鉄の大きな車輛がこの軌間の上を走っていても大丈夫かな・・・と、心配になったものだ。

(四条西洞院 1961.7)
 日曜の朝とあって閑散としている西洞院五条交差点を、N電が悠々と通過する。

 こうして見ると、コンクリートの建物が少ないことに驚く。

(西洞院五条 1961.3)
 廃止が近付いた頃のN電の車内風景。

 運転台は客室より一段低くい。

 客室は足を延ばせば対面の客に当りそうに狭いが、吊革はちゃんと2列あり、車内照明の白熱灯にはシェードが掛かっていた。

(N電車内風景 1961.7)
 四条堀川停留所に差し掛かる京都駅前行のN電。
 手前の柵は堀川の上に張り出した、反対方向への電車の乗降場。

 現在の写真の場所は、瓦屋根の家はなくなり川は暗渠になるなど変わり方が大きくて、センターポールに書かれた「四条堀川」の文字が無ければ、何処だか分らない。

(四条堀川 1961.6)
 標準軌とサブロクの電車が線路を共用する四条通りの三線区間から、サブロク専用軌間の堀川通りへ入る北野行のN電。

 N電の集電ポールは小柄な車体に比べて、ずいぶん長く見える。

(四条堀川 1961.6)

 京都駅前ターミナル。
 烏丸線のターミナルは現在のバスの降車場付近になる。
 ここがループ線だったのを見た人はかなりの年になっている。

 北野線の向こう側の松本旅館はビルに建て替えられ、新阪急ホテルと並んでいる。

(京都駅前 1961  (7月1日 追加)
 京都駅前を発車した北野行が関西電力京都支店の前を過ぎる。
 もともと、このビルは京都電燈の本社ビルだった。京都電燈は京福電鉄の母体でもあり、鉄道に縁が深かった。

(京都駅前 1961.3)
 京都駅から少し西に走ったN電は、西洞院通へ右折し、北へ向かう。

 この付近の現状は道路新設などの結果、こんな町屋が並んでいたとは想像もできないほど変わっている。

(西洞院塩小路 1961.3)
 西洞院通りを北へ進むN電は西洞院七条で標準軌の七条線と交差する。
 ちょうど今、N電は七条線の軌道を横断している。

 この交差点の四隅は全部町屋だったのが、今では全部失われた。

(西洞院七条 1961.3)
 七条通を渡るN電。
 文字通りカビの生えた写真で失礼。

 今、この辺りを通ってみると、こんな狭い道に、よく電車が通っていられたと感心する。

(西洞院七条 1961.3)
 平安京名残の地名、一条から九条までの通りの名のうち一番影が薄いのがこの近くの六条通。

 後ろに見えるのは植柳小学校。

(西洞院六条付近 1961.3)
 西洞院通の家々の軒先すれすれにN電が通る。

 この辺りの西洞院通は西本願寺に近く、仏具関係の仕事の家が多かったという。

(西洞院六条付近 1961.3)
 西洞院通を五条に近づくと室町の京呉服問屋街に関係のある店か、風格のある老舗が増えてくる。

 今ではこれらの町屋もほとんどが消えた。

(西洞院五条付近 1961.3)
 自動車もまばらな五条通を横切るN電。
 渋滞が続く現状からは信じられない光景だ。

 五条通は防火帯として、戦時中に民家を強制立ち退きさせた跡で、現在は国道9号線などの一部。

(西洞院五条 1961.3)
 軒の低い町屋が延々と続く西洞院通。

 撮影が日曜日の朝だったとはいえ、自動車が少ないのに驚く。

 昭和24年ごろ、この辺りは阪東妻三郎主演の映画「王将」の一場面のロケ地になり、N電も登場していた。

(西洞院松原 1961.3)
 西洞院通を京都駅からやってきた北野行に乗客が集まる。

 北野線は遅いとか揺れるとか言われながらも乗客は多かった。
 北野線は町の中心を貫き、沿線には商店街も多くて、市民の足としては便利なものだったからだろう。

(西洞院四条 1961.6)
 標準軌の電車に追われる四条通から別れて、西洞院通へ入ろうとする京都駅行のN電。

 背後のビルは、当時は中京電報局だったと思う。

(西洞院四条 1961.3)
 四条通の三線区間を行く京都駅行。  
 ここでN電の線路を見るたびに、国鉄の1067ミリ軌間とはこんなに狭いものか、これでよく大型蒸気機関車が横転せずに走っているな…と感心したものだ。

(西洞院四条付近 1961.6)
 四条通でのN電は気ぜわしい。

 後からくる標準軌の電車に追われるが、パラノッチを止めてあるN電は速度が出せない。
 もう少し行けばN電だけの線路に逃げ込める。

(四条堀川付近 1961.6)
 堀川通から四条通へ出てゆく京都駅行。
 
N電の架線は起点から終点まで連続していて、車掌は交差点でもポールを付け替えなくて済んだ。
 標準軌の電車はビューゲル集電だから、架線が交差点で不連続でもよかったからだ。

(四条堀川 1961.6)
 最近は進学校として名が売れた堀川高校の前を行く北野行。 (カビの生えて画像で失礼いたします)

  今では堀川高校の校舎も変わり、水が流れていた堀川も暗渠にされてしまった。

(四条堀川付近 1961.6)
 江戸時代の儒学者 伊藤仁斎の住いだった古義堂跡の前を通過するN電。

 雰囲気のよい場所だったが、向うに立つ煙突が古義堂に似合わないのが残念だった。

(堀川下立売付近 1961.6)
 この写真は松の枝が写りこんでいる点から、二条城前あたりで写したはず。

 背後の京町屋は今では姿を消し、殺風景な小ビルが増えている。

(二条城前? 1961.6)
 堀川に沿う 区間の停留所風景。

 堀川に並行して走る区間の北野方面行停留所は、うかつに電車のステップから飛び降りると川に落ちそうな、線路と川の間のせまい空間だった。

 バリヤフリーなどと言う言葉のなかった時代の話である。

(堀川中立売 1961.6)
 N電撮影の定番、堀川鉄橋を渡る北野行。

 敗戦直後、占領軍の兵士が運転士を押しのけて運転し、この鉄橋で脱線したことがあったと古老から聞いた。
 今から60年も前の話だ。

(堀川中立売 1961.6)
 散策か買い物か?若い女性をかすめて老雄 N電が通る。

 千本中立売付近はちょっとした商店街で、西陣あたりの人々の買物の場所であり、憩いの場だった。

(千本中立売付近 1961.6)
 エプロン姿の買い物客の集まる店先を行く北野行。

 この写真を見るたびに、サザエサンを思い出す。
 まさに昭和の景色である。ただし、電車は明治、大正の風景だが。

(下ノ森付近 1961.6)
 廃止が近づいたころの下ノ森車庫前に停まるN電。
 下ノ森車庫は京都電気鉄道時代の面影を残す、木造のささやかな車庫だった。

 
 車庫の跡地には児童向きの文化施設ができ、N電のレリーフがある。

(下ノ森 1961.6)
 北野終点から折り返す京都駅行

 1957年に今出川線が開通するまでの終点は奥に見える鳥居の右手にあったが、今出川線の開通にあたって、平面クロスを避けるため北野線の終点は手前に移された。

(北野 1961.6)
 今出川線開通までの北野終点。
 晴れ着姿の女性が通る。
 
 N電と言っても、この写真の頃はNは消され、欠番だらけだったナンバーも1〜28に統合されていた。
 すでに市電の1形も消え、ナンバーの重複が無くなったからだろう。

(旧 北野 1957.1?)



  伏見、稲荷線 

    伏見線は営業路線としては明治28年開業と、日本最古の電気鉄道でした。

     この線の本来は市内電車ではなく、京都と伏見という二つの街を結ぶ都市間交通機関でした。
     しかし、昭和初期に京都市と伏見市が合併したころからは、市内交通機関に変わってきたようです。
     そうした経緯から、伏見線の沿線は市電と言うのに不似合いな専用軌道区間あり、狭い道を行く併用
     軌道区間ありと、変化に富む景色が見られました。

    稲荷線は伏見線の支線として明治38年に開業しています。
     稲荷稲荷は商売の神様として参詣者が多く、安定した利用者が見込める上、距離も短いので、早くに
     支線が作られたのも当然でしょう。
     この線では京阪電鉄との平面交差が名所でした。
      

路 線 当初開通 全 通 廃 止
年 月 区 間
伏見線 1895年2月 塩小路高倉〜下油掛 1914年8月 1970年4月
稲荷線 1905年8月 勧進橋〜稲荷 1905年8月 1970年4月
 伏見線は棒鼻と丹波橋の間で琵琶湖疏水を渡る。

 この辺りは家屋と空き地が混在していて場末という感じの所だったが、今では新興住宅地と化し線路跡は道路になった。

(伏見線 棒鼻〜丹波橋 1969.9)
 伏見線は肥後町と丹波橋の間でもう一度、橋を渡る。
 こちらも琵琶湖疏水で、本流はこちらだと聞いた。

 伏見線が走っていた頃、この辺りは酒蔵があったりして伏見らしい眺めだったが。

(伏見線 丹波橋〜肥後町 1969.6)
 伏見線は終点近くで宇治川派流を渡る。

 ここは幕末の寺田屋事件で知られる寺田屋が近い。

 伏見線の開通当時はこの橋の右手、下油掛町が終点だった。

(伏見線 京橋〜中書島 1969.8)




 京都タワーに向けて左折する9系統。

 ここから京都駅前まで約300mは伏見線と河原町線の電車が重複する区間。

(伏見線 塩小路高倉 1969.8)
 伏見線の塩小路高倉停留場は伏見線が高倉陸橋方に分岐したあとにあった。

 背後を行く600形は河原町線の電車。

(伏見線 塩小路高倉 1969.8)
 新幹線をくぐった京都駅行が高倉陸橋を登る。
 子供のころ、ここで目の前の汽車を見るのは楽しかった。

 新幹線ホームには0系が、在来線には旧客が見える。
 奈良線ホームにちらと見えるのはキハ35?
 鉄道ファンには良い時代だった。

(伏見線 京都駅八条口付近 1969.8)
 
 京都駅八条口停留所には留置線と乗務員の詰め所があり、伏見線の基地になっていた。

 明治時代、京都電気鉄道の手で伏見線が開業した頃にはこの近くに自家用の火力発電所があったそうだ。

(伏見線 京都駅八条口 1969.8)
 南行と北行の電車が離合する大石橋交差点。
 ここで伏見線と九条線が交差する。

 この付近は京都駅からそれほど離れておらず、京都タワーが辺りを睥睨している。

(伏見線 大石橋 1969.8) 
 700形と800形が行き交う札ノ辻停留所。

 札ノ辻とは各地でよく見る地名で、ここも昔は高札場があったらしい。

(伏見線 札ノ辻 1969.8) 
 稲荷線との分岐点、勧進橋停留所前を京都駅方面に向かう市電。

 電車の右手に屋根とベンチを備えた待合所があった。
 こうした待合所は阪堺電軌にも現存する。

(伏見線 勧進橋 1969.8)



 稲荷線の終点、稲荷。
 単なる「稲荷」なのは、全国のお稲荷さんの総本家の社前にふさわしい停留場名だ。

 稲荷線は伏見線勧進橋停留所から別れる、0.7キロほどの短い支線だが、初詣のときは大変な混雑で、稲荷停留所には案内係の職員が立ち、京阪電鉄や国鉄奈良線と乗客誘致を競っていた。

(稲荷線 稲荷 1970.2)
 上と同じ稲荷停留場だが、撮影時期が8月の昼下がりとあって、停留所で発車を待つ700形がいかにも暑そうだ。

 この停留所は琵琶湖疏水の流れの上にあったのだが、全然涼しくはなかった。。

(稲荷線 稲荷 1969.8)
 京阪電鉄の通過を待つ市電。

 京都市電と京阪電鉄の平面交差は4ヶ所あった。
 その中で稲荷の交差点が一番目立たなかったのは専用線同志のクロスだったからだろう。

 クロスする京阪車輛の右の建物は信号扱い所。

(稲荷線 稲荷付近 1969.8)
 京阪電鉄側から見た稲荷交差点の景色。

 細かい話は忘れたが、この平面交差では何度か、京阪電鉄と市電との衝突事故があったそうだ。

 京阪電鉄にしてみれば、市電廃止は有難かったことだろう。

(稲荷線 稲荷付近 1969.8)
 稲荷線の800形が師団街道を横切ッて行く。
 ここはちゃんとした踏切で、警報器も遮断器も設置されていた。

 師団街道は戦前までこの近くにあった陸軍第16師団のために作られた道で、平成の世にも明治時代からの名残を残す地名である。

(稲荷線 勧進橋・稲荷間 1969.8)



 竹田久保町停留所に中書島行の市電が到着した。

 現在のこの付近は、近くに地下鉄くいな橋駅が出来たこともあって、マンションなどが増え街並みが大きく変わっている。

(伏見線 竹田久保町 1969.9)
 軌道が片寄って敷設されていたという証拠写真。

 電車化ら降りたご婦人が道路上で自動車の流れの切れ目をまっている。
 こうした停留場での市電への乗り降りは怖かった。

(伏見線 城南宮道 1969.8)
 城南宮道停留所で京都駅行を待つ人々。

 この付近の伏見線は線路が道路の東側に寄って敷設されていて、道路の西側が自動車レーンだった。
 そのため、京都駅方面への乗降場は交通障害になるとして安全地帯も作られず、乗降は非常に危険な状態で、これが伏見線廃止の一因にもされた。
 

(伏見線 城南宮道 1969.9)
 棒鼻停留所は中書島方面へ向う伏見線が竹田街道から外れて、専用軌道に入った所にあった。
 ここから肥後町付近まで専用軌道区間が続く。

 写真の700形中書島行は結構混み合っているようだ。

(伏見線 棒鼻 1969.9) 
 伏見は酒どころ。
 左に見える建物も酒造工場だったと思う。

 この付近と京阪電鉄丹波橋駅や伏見桃山駅は少し離れているので、市電の利用者もそれなりにあったようだ。

(伏見線 棒鼻〜丹波橋付近 1969.6)
 雨の中、濠川を渡る800形。

 伏見線廃止後40年以上経った今では、この付近の景色もずいぶん変っているようだ。

(伏見線 肥後町〜丹波橋 1969.6)
 月桂冠の酒蔵を背後に疎水を渡る。

 古びた酒蔵と700形の取り合わせが面白かった。

(伏見線 肥後町〜丹波橋 1969.6)
 酒店をかすめて市電が通る。

 酒どころ伏見らしい景色と言いたいが、酒店の周りに積まれているのはビールのケースようだ。

(伏見線 肥後町〜丹波橋 1969.6)
 狭い道の中の市電。
 このような景色は昔は全国各地で見られたものだ。

 ここで電車が離合するときに自動車が来ると大変だったが、この道を通り抜ける自動車はあまりなかった。

(伏見線 丹波橋 1969.6)
 丹波橋といっても、この付近と京阪電鉄丹波橋とはずいぶん離れている。

 そのため、ここから京都の中心部に向かう市電の利用者もかなりあった。

(伏見線 丹波橋 1969.6)
 明治28年に伏見線が開通したはこの辺りまで。

 右手の建物は老舗の菓子店駿河屋。
 現在、この駿河屋の前の電柱のあたりに、京都電気鉄道開業の記念碑がある。

(伏見線 京橋〜中書島 1969.7)
 中書島から京都駅に向かう市電。
 この線路跡は道路となり、客待ちのタクシーが並んでいる。

 左手の建物は料亭だが、今ではコンクリートのビルに建て替られて営業中。

(伏見線 中書島付近 1969.7) 
 中書島終点は京阪電鉄の中書島駅前、というより改札口の前だった。

 伏見線が淀川の船便との連絡を考えた当初の終点油掛から、京阪中書島駅まで伸びたのは開業後20年近く経ってからのこと。
 この間に淀川の水運は姿を消し、京阪間の交通は陸上に変わった。

(伏見線 中書島 1969.7)
  

   烏丸線

     烏丸線は京都駅から北へ、京都の古くからの市街を南北に貫く幹線でした。

     沿道にはビジネス街があり同志社などの学校もあるため利用者も多かったのですが、そのため京都で
     最初の地下鉄建設区間として、外周線の廃止に先立って廃止されてしまいました。

     中学1,2年の時代を烏丸線の沿線で過ごした私には懐かしい路線です。     

路 線 当初開通 全 通 廃 止
年 月 区 間
烏丸線 1912年6月 京都駅前〜烏丸丸太町 1923年10月 1974年4月

 大谷大学の前を北に向かう烏丸車庫行。
 この付近は北に向かって緩やかな勾配が続いている。

 最近はこの付近に行くことがあっても地下鉄で通るので、このあたりの景色にもご無沙汰している。

(烏丸線 下総町 1974.3)
 京都御所の中から見た烏丸出水停留所付近。
 電車は南行の京都駅行。

 何度も大河ドラマの舞台になった蛤御門はここから近い。

(烏丸線 烏丸出水 1974.3)
 丸太町通を東行する900型のラストナンバー935。
 横から見た900形は前後2扉のため、車体長が長く見える。

 この935はワンマン化されないまま廃車となり、交通局に保存されているはず。

 (この写真は丸太町線のページに入るべきだが、ご容赦を)

(丸太町線 烏丸丸太町 1974.3)
 烏丸二条を発車した4系統、京都駅行。
 この日は休日の朝とあって自動車が少なく、撮影には好都合だった。

 烏丸通のこの付近は私が中学1、2年のころの通学路だったが、今では様変わりしている。

(烏丸線 烏丸二条 1974.3)


 烏丸線の北端、烏丸北大路交差点を左折してくる715。
 
 1923年の北大路〜今出川間の開通によって、烏丸線は全線が整った。

(烏丸線 烏丸北大路 1974.3)
 着ぶくれたおばさんも横断歩道を行く紫明通交差点。この日は三月とはいえ寒かった。

 通り過ぎるのは2600形。
 連結運転を目的に600形から改造された2600型だが、実際に連結運転した期間は短い。

(烏丸線 下総町付近 1974.3)
 烏丸鞍馬口停留所に停まる1800形。

 地下鉄烏丸線の建設計画では鞍馬口駅の計画はなかったようだが、結局、写真の付近に鞍馬口駅が出来ている。

(烏丸線 烏丸鞍馬口 1974.3)
 同志社大学今出川キャンパスを背後にした1900形の4系統。

 今も地下鉄今出川駅の利用者は同志社の学生が目立つ。

(烏丸線 烏丸今出川 1974.3)
 烏丸通を南下する6系統京都駅行。

 今もこの辺りは京都御所の緑があり、蛤御門などの史跡も多い静かな地域だ。

(烏丸線 烏丸出水 1974.3)
 烏丸線を南下する6系統の700形。
 この700形は烏丸車庫配属の間接制御車だ。

 京都御所南西角の木々の眺めは今もさほど変わっていない。

(烏丸線 烏丸丸太町 1961.3)
 京都駅に向かう700形の6系統。

 京都駅から北上してきた烏丸通は丸太町通との交差点で、御所の塀を避けて数メートル西に寄る。

(烏丸線 烏丸丸太町 1974.3)
 烏丸通りを南下するNo535。
 このNo535はクロスシート化やパンタグラフ化のサンプルに使われた経歴があった。

 背後のビルは京都新聞社。
 手前の大中小と並んだ京町屋が面白いが、今はない。
(烏丸線 烏丸二条 1965.3)
烏丸通を北行する5系統の2600形。
 5系統は元は河原町通経由だったが、撮影の時期は烏丸線経由になっていた。

 中京区のこの辺りはクラシカルな煉瓦造りの建物が多かったが、今では探さないと見当たらない。

(烏丸線 烏丸三条 1974.3)
廃止数日前の烏丸線、四条烏丸停留所付近。

 それにしても、後方に見える銀行や保険会社の看板は今はない名前ばかりで、驚く。

(烏丸線 烏丸四条 1974.3)
 銀行や証券会社が集まる四条烏丸付近は京都の一つの中心。
 しかし、今では撮影当時の名前のままの企業はほとんど無くなった。

 撮影は烏丸線廃止の数日前で、左に見える安全地帯はすでに撤去の準備が始まっていた。

(烏丸線 烏丸四条 1974.3)
 四条烏丸交差点を北に向かう6系統の800形。

 バックは当時の三和銀行で、特徴のあるビルだったが、目下改築中。

(烏丸線 烏丸四条 1957.7)
 銀行が立ち並ぶ烏丸四条付近から少し京都駅寄り、繊維関係の小さな商社が多い辺りを南下する1000形。

 この時期の1000形は中央ドアを閉め切って2扉化しているため、13.8メートルの車長がなおさらに長く見える。

(烏丸線 烏丸仏光寺付近 1961.3)
 東本願寺の築地塀のかげから現れた600形のNo693。

 600形の681〜690は戦争中に部品不足で製造が中断し戦後に完成した車輛で、車体長が本来の600形より窓1個分長かった。

(烏丸線 東本願寺前 1962.12)
 東本願寺の山門に敬意を払うかのように、門前を迂回する市電。

 明治末、烏丸通に市電敷設の計画が出たとき、門前を電車が通るのを嫌った東本願寺が用地を提供して市電を迂回させたとか。
 おかげで東本願寺の門前には街中では珍しい緑地帯が出来た。

(烏丸線 烏丸七条 1974.3) 
 東本願寺の山門を背景にした1900形。

 周囲の建物は変っても、東本願寺の山門や築地塀は今も変わりない。

(烏丸線 烏丸七条 1974.3)
 京都駅前に到着する700形No719の4系統。
 700形には最初に出た間接制御車と増備の直接制御車とがあるが、写真のNo719は間接制御車。

 背後の白く見えるビルは当時は丸物デパートだったが、近鉄百貨店になったあと閉店。改築してヨドバシカメラになった。

(烏丸線 京都駅前 1974.3)
 京都駅前を発車した4系統烏丸車庫行。

 後ろに見える建物、京都タワーとタワーホテルは健在。

(烏丸線 京都駅前 1974.3)
 京都駅前を出て烏丸通に向かう4系統。
 手前に延びる線路は河原町線との連絡線で、平素は使われていなかった。

 駅前広場に茂るキミガヨランを懐かしく思う人は、今ではかなりの年配の方だろう。

(烏丸線 京都駅前 1974.3)
 上の写真とほぼ同じ位置での、もっと昔の写真。

 後方左手のクラシックな建物は当時の京都中央郵便局で、その跡地にタワーホテルが立った。

(烏丸線 京都駅前 1957.6)
 京都駅正面の市電乗り場は烏丸線、東山線、西大路線と3方面に分れた中々立派なものだった。

 河原町線と伏見線の乗り場は撮影位置の背後方向に、少し離れてあった。

(烏丸線 京都駅前 1974.3)
 こじんまりした先代の京都駅を背に烏丸線を北に向かう市電。

 駅ビルの新快速の広告では、国鉄の新快速はこの頃から今と同じ15分ヘッドだったことが分かる。

(烏丸線 京都駅前 1974.3)


  梅津線

     梅津線は太平洋戦争中に出来た軍需工場への通勤の足として、資材不足の中を突貫工事で
     作られた路線でしたが、電車が走ったのは13年余の短期間で、トロリーバスと交代しました。

     沿線は田畑が広がり路盤には草が茂って、およそ路面電車らしからぬ雰囲気の中を500形の
     2ドア化改造車、通称514形が走る姿は京都市電のイメージと懸け離れていました。
     
路 線 当初開通 全 通 廃 止
年 月 区 間
梅津線 1945年2月 西大路四条〜天神川 1945年8月 1958年12月
 起点の西大路四条から折返す梅津行。

 梅津線は西大路四条と梅津間約2キロという短区間のためか、運転系統は「梅津線」と称するだけで、系統番号は無かった。

 この写真の左手に阪急西院駅がある。

(梅津線 西大路四条 1957.9)
 西院巽町付近を梅津に向かうNo514。

 梅津線の沿線では西大路四条から西院巽町の付近だけが、沿道に家が並び線路に敷石が敷かれていて、市内電車らしい体裁が整っていた。

(梅津線 西院巽町 1957.9)
 四条通りのこの付近は戦時中の速成工事で拡幅されたたもので、京都の中心部から続いているとは思えない悪路だった。

 線路脇には元は灌漑用水だったらしい水路が流れ、お粗末な木橋が懸っている。

(梅津線 四条中学前 1957.9)
 四条中学前停留所辺り。
 前方左の木々が四条中学の外周になる。

 514形が使われることの多かった梅津線だが、たまには600形も入ることがあった。
 半流の600形は田舎じみた沿線に対すると、いかにもスマートに見えたものだ。

(梅津線 四条中学前 1957頃)
 東貝川町の付近は現在では想像もできないほどの田園風景が拡がっていた。

 ここには留置線があり、朝夕だけ走る予備車が待機していた。
 梅津線がトロリーバス化された時はここに車庫が出来たことを考えると、梅津線開通当時から車庫用地が確保されていたのかも知れない。

(梅津線 東貝川町 1957.9)
 梅津終点に近い辺り、草の生えた線路上を行くNo514.

 本来の500形は3扉の大型車だったが、その内No514〜517の4輌だけが2扉の中型車に改造されていた。
 4輌というのが梅津線用に手頃だったのか、このグループは梅津線にいることが多かった。

(梅津線 南広町 1957.9)


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