ローカル私鉄の車両たち (東日本) 

  小川が集まって次第に大河となるように、小さな町から国鉄の駅までやってくる小さな鉄道。
  そんな私鉄が全国いたる所にあった時代の車達を、わずかですがご覧下さい。

  これらの鉄道の多くは便利さと速さを追う時代に合わず、失われたものになりました。
  そして、それらと共に失われたものが多かったと感じるこのごろです。
  環境破壊、地域社会の崩壊などが、これらの鉄道の消滅と時期を同じくして起きています。

  生きてゆくには、便利さを追求するだけでなく、不便さを甘受する事も必要ではないでしょうか。


  註 1、古い話で記録を亡失している上、乗り鉄で車輛の知識などゼロに近い私のことです。
       各写真へのコメントにはミスも多いことと思います。ご寛容下さい。

    2、路面電車のページにもローカル私鉄が入っています。
      そのあたりの区分はかなりいい加減です。

            各地域へジャンプ
【東日本】 【西日本】
  北海道、東北      関  西
  関東、甲信越     中国、四国
  東海、北陸   九  州

東北、北海道

  東北地方の私鉄には、現存する十和田観光鉄道や廃止された五戸鉄道など国鉄の駅と少し離れた
  旧街道の町を結ぶ鉄道や、岩手開発鉄道や小坂鉄道のような鉱山鉄道が目立ちました。
  中では津軽平野を5両連結で走る弘南電鉄が大物だったのですが、今や昔日の面影はありません。

  北海道の私鉄には運炭目的の鉄道が多く、蒸機が多用されていたのが特徴でした。
  また人口の少ない北海道では鉄道の運転回数が少なく、乗り鉄の私でも涙をのんで割愛した路線が
  たくさんありました。
  ここに簡易軌道の写真が無いのもそのためで、まことに痛恨の極みです。

 十勝鉄道は農業鉄道として十勝平野に路線を延ばし、農作物や肥料などを輸送している他に、地元の人々の大事な足も務めていました。

 写真は気動車が客車を牽引する朝の通勤・通学列車です。

 この鉄道は写真の気動車など大半が2フィート6インチ軌間でしたが、貨車が国鉄と直通する一部区間は3フィート6インチ軌間でした。

(十勝鉄道 帯広大通 1957.5)
 私のネガを何度探して見ても、、何故か定山渓鉄道の電車の写真がありません。
 代りに古典客車コロ1の写真でお許しください。

 元は明治25年に北海道炭鉱汽船手宮工場で作られ、国有化されてフコロ5670となったこの客車も、このころは払い下げられた定山渓鉄道豊平車庫の片隅に留置されていました。

(定山渓鉄道 豊平 1957.5)
 ローカル私鉄といいながら夕張鉄道の機関車は中々大きく、このコッペルの機関車もタンク機とはいっても中々重量感があります。

 そのはずで、データを調べてみると自重43トンとあり、C12に近い大きさです。

 当時の夕張鉄道にはもっとたくさんの蒸機がいたはずなのですが、今となると意外に写真を撮っていませんでした。

(夕張鉄道 鹿ノ谷 1957.4)
 国鉄根室本線新得から出ていた北海道拓殖鉄道は十勝平野北部の農業鉄道で、開通した1900年頃は森林鉄道でもあったろうと思われます。

 ここを訪れたのは1911年にノースブリティッシュ製を汽車会社でコピーした機関車、8722(写真 左側)を撮影したかったからですが、早朝の車庫には人影が無く、ようやく顔だけを写しました。

 写真の2輌の機関車は幸運にも、今も保存されているそうです。

(北海道拓殖鉄道 南新得 1957.5)
 ★印付きの以下の3点は管理人の友人が写したものです。
  ついでに・・・と言っては悪いけれど公開いたします。

 寿都鉄道は函館本線黒松内から日本海側の寿都まで16.5キロの小鉄道で、私は列車が遅れて訪問を割愛せざるを得なかった、心残りの鉄道です。

 この写真は8100形のようです。
 寿都鉄道には入替り立替り、延べ何両かの8100形が在籍していますが、撮影年月などから見て、この写真は定山渓鉄道を経て入った直後の8105と思われます。

(寿都鉄道 寿都 1957.7)
 ★ 明治20年代にボールドウィンで作られた9040形。日本では初期のコンソリデーションです。

 私が訪問した時には曇天で庫内は暗く、写真が撮れなかったと言う私のボヤキを聞いて、夏に訪問した友人が自分の写した写真をくれたものです。

 昭和30年代の北海道には、当時でもすでに車齢約60年の古典機が生きていました。
 この機関車はその後もこの状態のままで、再起出来なかったようです。

(羽幌炭鉱鉄道 築別 1957.7)
 ★同じボールドウィン製でもこちらはモーガル機の7221。
 運輸工業の専用線で、入替などに使われていたものです。

 軽量で悪条件の線路でも使いやすいアメリカンタイプの蒸機は北海道向きだったのでしょう。
 北海道炭鉱鉄道が7200形を25両と、明治時代としては非常に大量に購入しているということは、そのためかと思います。

(運輸工業  琴似 1957.7)
 釧網本線磯分内駅から分岐していた日本甜菜製糖磯分内工場専用線の7271。
 こんな機関車の存在をなぜ知っていたのか、今となっては思い出せません。

 7270形は1900年ブルックス製のアメリカンスタイルの古典蒸機。
 キャブやテンダーの形にブルックス製の特徴がある・・・というのは書物からの受売りです。

 この専用線にはもう1両、ランケンハイマーというメーカー製の小型蒸機もいました。

(日本甜菜製糖磯分内工場 1957.5)
 日本で最後まで残った炭鉱は釧路にある太平洋鉱山です。
 釧路臨港鉄道はその鉱山で採取した石炭輸送を主目的とする鉄道で、釧路市内に10キロ弱の弧を描く路線があり、もう少しで環状線になりそうでした。

 この鉄道の機関車は、細いボイラーと大きな炭庫に特徴のあるスタイルのこの機関車など、自社発注のものばかりだったようです。

 この写真を撮るため、5月と言うのに氷雨の降る中で立っていたことを思い出します。

(釧路臨港鉄道 臨港 1957.5)
 雄別炭鉱鉄道の旅客営業区間は釧路から北西の雄別炭山まで44キロ余りと、かなり長い路線でした。

 路線が長いだけに、写真のC56タイプの自社発注機1001が貨物列車に活躍していましたし、コッペル製のタンク機関車やC11などの蒸機、キハ21タイプの気動車もあり、混合列車も運転されるなど、面白い鉄道でした。

 この鉄道は私の乗った時は雄別炭鉱鉄道でしたが、廃止直前の1969年頃に雄別鉄道に改名しています。

(雄別炭鉱鉄道 雄別炭山 1957.5)
 乗り鉄の私ですから、この鉄道も当時の終点大夕張炭山までは往復しました。
 ただ、残念なことに写真は客車を2,3枚撮っただけです。

 それというのも、この鉄道で出会った機関車は9600ばかりだったので、ありふれた9600を写すにはフィルムがもったいない・・・などと、今思えば罰当たりなことを考えていたためです。

 もっとも、写真のナハ1はこの鉄道オリジナルのストーブで暖房する客車だったようで、その点ではよく写しておいたと思っていますが。

(三菱石炭鉱業大夕張鉄道 清水沢 1957.4)
 三井芦別鉄道は炭鉱鉄道とは言いながら、時刻表にも掲載されていて、蒸気機関車の他に気動車も使われていました。

 路線長9キロほどのこの路線にはC11は適任だったようで、旅客列車にも貨物列車にもと、意外に頻繁な運転をこなしていました。ただ、所要時間は約30分と鈍足でしたが。

(三井芦別鉄道 頼城 1957.5)
 三菱鉱業美唄鉄道も時刻表に掲載されていましたが、旅客列車の運転は日に数往復しかありませんでした。

 この鉄道が珍しかったのはEタンク機を重用していたことで、国鉄から払い下げられた4110形や自社発注の類似機が活躍していました。輸送量の多いこの鉄道には、自社発注の9600もあったように記憶しています。

(三菱鉱業美唄鉄道 美唄 1957.5)
 今は無い国鉄羽幌線の築別から出ていた羽幌炭鉱鉄道の8110。

 古典機関車ファンならすぐ分かるボールドウィン社独特のスタイルのこの機関車は、1887年生まれ。東海道本線の御殿場越えを振り出しに、大正年間から北海道に転じて道内を転々とした後、羽幌炭鉱鉄道に払い下げられて、余生を送っていました。

(羽幌炭鉱鉄道 築別 1957.5)
 明治の末期に東海道本線で活躍した8850形。
 残念なことに写真の8865号はボルジッヒ製の基本型ではなく、国内でコピーした車両ですが。

 この三井鉱山奈井江鉄道は専用鉄道だったのですが、実際には従業員とその家族以外にも、私のような訪問者でも乗ることができました。

(三井鉱山奈井江鉄道 三井奈井江 1957.5) 
 日本最北の私鉄だった旭川電気軌道でピカイチだったモハ1001。
 1955年、日本車両製の、ノーシルノーヘッダーに張り上げ屋根と当時としてはなかなかのスタイルの車でした。

 この鉄道は本線ではパンタ集電でしたが、車両の片側には車庫内で使うためのポールを付けています。

(旭川電気軌道 旭川四条 1957.5)
 定山渓鉄道のED5001。
 不思議なことに私のネガには定山渓鉄道の電車が見当たりません。

 この鉄道は定山渓温泉への観光客の足だったため、私鉄には珍しい二等車まである一方、沿線の鉱石等の輸送もかなりあったようで、この機関車は1957年に作られましたが、定山渓鉄道廃止後は長野電鉄へ、さらには越後交通へと転々としました。

(定山渓鉄道 豊平 1957.5)
 夕張鉄道は夕張炭田で産出した石炭を小樽方面に搬出するための鉄道でした。

 石炭という重量物を運ぶため、夕張鉄道の機関車は中々大きく、この夕張鉄道発注の11形などは私鉄の機関車というと入替用クラスのタンク機しか知らなかった私を驚かせました。

 この機関車と同形の14号機は個人の手で保存されているそうです。

(夕張鉄道 鹿ノ谷 1957.4)
夕張鉄道の気動車 キハ251。
 北海道で初めての液圧式気動車でした。

 この車両は夕張鉄道が廃止されてから鹿島鉄道で長い間使われていたのは御存じの通りです。

(夕張鉄道 鹿ノ谷 1957.4)
 国鉄黒石線を受け継いだ弘南電鉄黒石線時代の姿。

 弘南黒石駅にホームを新設し国鉄から引き継いだキハ22が乗り入れていましたが、やはり利用者は少なく1988年に廃止されたのは残念です。

(弘前電鉄 黒石 1991年8月))
 弘南電鉄は弘南線、大鰐線を合わせて約30キロと、東北最長の私鉄です。

 私の訪ねた時代の弘南線は、朝のラッシュ時に5両連結の列車が走るなど大変活気がありました。

 このころの弘南線は1500vに昇圧して間がなく、昇圧のために他社から購入したセコハン車両が多い点では琴電に並ぶ存在でした。
 写真の車両も元は西武の車だったはずです。

(弘南電鉄 津軽尾上 1963年5月)
 今は弘南電鉄大鰐線となっているこの線は1953年に弘前電鉄として開業した比較的新しい私鉄です。

 写真のモハ100形は、弘前電鉄開業時に秩父鉄道の木造車を簡易鋼体化したもので、いかに資材の乏しい時代だったにしても、お世辞にも良い車とは言えませんでした。

(弘前電鉄 大鰐 1963年5月)
 本州最北の私鉄 津軽鉄道の終点 津軽中里に憩う当時の新鋭キハ24000形。

 この当時まだ使われていた木造客車などと比べると、この気動車はじつに立派な車両に見えました。

(津軽鉄道 津軽中里 1963年5月)
 南部縦貫鉄道は開業まで紆余曲折が続き、開業後も接続する東北本線の移転や十勝地震による被害などへの対応に苦労した甲斐もなく、2002年に廃止されました。

 しかし、今もこのキハ102などが保存されていることに地元の人々の鉄道に寄せる思いを感じます。

 このキハ102はドア配置など、国鉄のキハ01形と似ています。

(南部縦貫鉄道 七戸 1991年8月)
 今の駅名では三沢・十和田市間14.7キロのこの鉄道は、最近では東急の中古ステンレスカーのたまり場になっていますが、ナローからサブロクに改軌した時は自前の新車を入れるなど、中々の勢いでした。

 写真の車両の行き先板は「古間木」とあります。
 この時期は現在の駅名に改められる前で、起点が「古間木」、終点が「三本木」でした。

(十和田観光鉄道 十和田市 1960年11月)
 山形交通三山線は国鉄左沢線から分岐するローカル私鉄でした。

 訪問時には乗客が意外に多く、羽黒三山の参拝者はこんなにいるのかと驚いたのですが、結局1974年に廃止されています。

 写真の車は1926年の開業時から使ってきたモハ101。この頃は入替機として使われていたようです。
 車体と不似合いに大きなパンタが御愛嬌です。

(山形交通三山線 羽前高松 1963年5月)  
 山形交通高畠線は奥羽本線糠ノ目から二井宿まで約11キロの短い路線でした。
 山形交通には、この近くに2.6キロともっと短い尾花沢線もありましたが、乗り逃がしたのは残念です。

 高畠線は田園地帯を行く、特徴の少ない沿線でしたが、途中の高畠駅の立派な石造駅舎は特筆ものでした。

 写真のモハ1は高畠鉄道時代からの生え抜きだったと思います。

(山形交通高畠線 高畠 1963年5月) 
 私は可愛らしい電車というと羽後交通雄勝線の車がこの思い浮かびます。

 羽後交通雄勝線は奥羽本線湯沢から派生する約12キロのささやかなローカル私鉄でしたが、1928年の開業時から電化されていました。

 もっとも、1971年には赤字減らしのため電化を止め、一足先に廃線になった横荘線の気動車を使っていましたが。

(羽後交通雄勝線 西馬音内 1963年5月)  
 奥羽本線横手から出ていた羽後交通横荘線のキハ2。

 当時流行のこのスタイルの車は全国各地見られましたが、この車は写真で見えない側に荷台が付いていたのが少々ヤボでした。

 横荘線は矢島線(現 由利高原鉄道)とつないで、横手から羽後本荘を結ぶ計画だったのですが、目的を達せないまま1971年に廃止となっています。

(羽後交通横荘線 横手 1963年5月
 栗原鉄道は第三セクターに経営を変えながらも2007年まで存続したので、よく知られた鉄道でした。

 1921年に細倉鉱山の製品などの輸送のために762ミリゲージの鉄道として開業以来、1998年の鉱山閉山後もよく頑張ってきたものです。

(栗原電鉄 若柳 1972年4月)
この鉄道、秋田中央交通と名前は大きいのですが、実態はバス会社で、鉄道は奥羽本線一日市(現八郎潟)から五城目までわずか3.8`でした。

 電化されているというものの、1969年の廃止まで電気機関車がガソリンカーのなれの果ての客車を引いていました。

(秋田中央交通 一日市 1963年5月)
 以前は30キロ余りの軌道線も保有していた福島電鉄も、今やバス主体の福島交通となり、鉄道は10キロ弱のこの飯坂線だけです。

 車両も今では中古のステンレスカーばかりの飯坂線ですが、この写真のころには自社オリジナルのものがほとんどで、写真の1202などはローカル私鉄としては上等のものでした。

(福島電鉄 桜水 1961年11月)

関東、甲信越 

  関東、甲信越のローカル私鉄にも、過去のものとなった路線が増えました。
  新潟県のように、40年ほど前には5社もあった私鉄が全滅した県もあります。

  現存の鉄道でも、銚子電鉄や上信電鉄、上毛電鉄などの経営は大変なようです。
  自動車のない私から見ると、ガソリン税をもっと上げて私鉄への補助金にしてほしいところです。

  「昔は良かった」というつもりはありませんが、各地のローカル私鉄の消滅は地域社会の消滅に
  つながっているような気がします。

 粘着式の鉄道としては日本一の急勾配の80‰区間を行く112。
 箱根登山鉄道のチキとかキキという形式と車番の関係はよく理解できません。

 スイスにはこれより急な勾配の鉄道がありますが、毎日この坂道を上がり降りしているこの電車は大したものです。

(箱根登山鉄道 湯本付近 1969.10)
 山峡の交換駅で単行の108が対抗列車を待つ、静寂のひと時。

 近年の観光客増加に対して増発も増結もままならない箱根登山鉄道では、こんな長閑な光景も少なくなったのでは?

(箱根登山鉄道  1969.10)
 銚子と犬吠埼の間には1913年に開業してすぐに止めた銚子遊覧鉄道がありました。

 銚子電鉄はその後継ぎに1923年、銚子から外川まで6.4キロを開業した、銚子の市内電車的な存在です。

(銚子電鉄 観音付近 1963.11)
 銚子電鉄は小型車がこまめに走る愛すべき鉄道ですが、なかでも可愛らしいのがアルゲマイネ製のデキ3。

 しかし、この鉄道の経営は苦しく、存続の危ぶまれる鉄道でもあります。

(銚子電鉄 中之町 1963.11)
 内房の五井から外房の小湊を目指して、1928年に上総中野まで39.1キロが開通して以来運転区間に変わりのない小湊鉄道。

 この鉄道は上総中野で連絡する いすみ鉄道に乗りいれたらよいと思うのですが。

(小湊鉄道 上総中野 1985.5)
 1928年の開業から76年余りで消えた日立電鉄。

 鮎川〜常北大田間18キロのこの鉄道は営団地下鉄からの車輛など珍車を走らせ、早くからワンマン運転を行うなど合理化に努めていたのですが。

(日立電鉄 鮎川 1972.5)
 日立電鉄の沿線には集落や大企業もあって、まだまだ利用価値があると思われたのですが、2004年に廃止されたのは残念でした。

(日立電鉄 大甕? 1972.5)
 つくばエクスプレス開業後の影響が気がかりな総武流山電鉄の古い姿です。

 写真は当時の主力車輛、元南武鉄道モハ100形です。
 当時の流山構内の面影は、今でも残っているようです。

(流山電鉄 流山 1962.11)
 この頃の流山電鉄沿線は、まだまだ田園地帯が広がっていて、単行の電車が往復していました。

 その中に非電化時代にはキハ31だった車が、サハ31として生き残っていました。

(流山電鉄 馬橋 1962.11)
 茨城交通茨城線は1926年に茨城鉄道として開業した水戸の郊外鉄道で、訪問時には赤塚〜上水戸〜御前山 28.5キロの鉄道でした。

 終点の御前山までは1,2時間ごとに1本、写真のケハ2や元国鉄キハ07などが走るだけの路線で、1966年から部分廃止を重ね、最後の廃止は1971年でした。

(茨城交通茨城線 上水戸 1963.5)
 茨城線の水戸に近い区間、赤塚〜大学前間4.3キロは電化されていて、途中の上水戸から大学前間は水浜線の電車も乗り入れていました。

 写真のモハ2は赤塚〜大学前に使われていた車輛。
 当時の時刻表によると、この区間は30分ごと位に運転されていたようです。

(茨城交通茨城線 上水戸 1963.5)
 秩父鉄道は電車よりも貨物列車が面白い鉄道で、全線約80キロに及ぶ鉄道の割に、ぱっとした電車はありませんでした。

 その中で、1959年に茶色とクリームの塗り分けで現れたデハ300は出色の車輛で、長野電鉄2000、富士急行3000などと兄弟車のようなスタイルの高性能車でした。

(秩父鉄道 寄居 1961.4)
 この頃の秩父鉄道の多数派電車だったデハ100形。

 木造車を戦後鋼体化したもので、一部は弘前電鉄に売却されています。

(秩父鉄道 熊谷 1961.4)
 貨物列車のウェイトが大きい秩父鉄道にはたくさんの電気機関車がいましたが、関西育ちの私の目を惹いたのはこのED38。

 旧阪和電鉄のロコ1001が国有化後ED38を名乗ったものです。

(秩父鉄道 熊谷 1961.4)
 上毛電鉄というとこの重そうなデハ101を思い出します。

 西桐生〜中央前橋間約25キロのこの鉄道は平行する両毛線との競争が大変だと思われます。

 ただ、路線が東武鉄道を経由して東京方面に繋がっている利点もあり、その点をどう生かすかが今後の課題ではないでしょうか。

(上毛電鉄 大胡 1961.5)
 いかにもローカル私鉄らしいスタイルのデハ5。
 撮影当時は大型のパンタグラフを乗せたこの電車が上信電鉄の主力でした。

 一時期は新車の相次ぐ投入など躍進著しい観のあった上信電鉄ですが、最近は利用者の減少に悩んでいるようです。

(上信電鉄 高崎 1961.5)
 こちらも上信電鉄の名物、1924年の電化以来の古強者 デキ3。

 私が初めて上信電鉄を訪ねたとき、乗った電車が吉井の先で事故を起こして動けなくなり、この機関車に救援されて高崎まで帰り着いた思い出があります。

(上信電鉄 高崎 1961.5)
 八高線丹生から若泉まで6.1キロをを1日に4往復していたこの線は名前は大きいですが、実質は西武化学工業の専用線で、終点の若泉は工場の構内でした。

 この鉄道は関西の別府鉄道に似て、かなり遅くまで蒸気機関車が混合列車を牽引していました。
 写真のNo5はナスミスウィルソン製の国鉄400形だったとのことです。

(日本ニッケル鉄道 若泉 1961.5)
 高原鉄道として有名だった草軽電鉄では、珍妙な形のジェフリー製の電気機関車が名物でした。
 この機関車は最盛期には十数両もあったそうで、私鉄の機関車としては異例の大量在籍です。

 もっとも、軽井沢近辺の区間列車には電車も使われていましたが。

(草軽電鉄 新軽井沢 1958.5)
 最盛期には5社を数えた新潟県の私鉄で最後まで残ったのは新潟交通でした。

 燕・県庁前間35.8キロ。
 その中には2.5キロの路面区間あり、東武や小田急の古い車両ありと、ファンにとっては面白い鉄道でしたが、私には信濃川の堤防に沿って続くカーブが印象的でした。

(新潟交通 新大野付近 1972.4)
 蒲原鉄道は五泉・加茂間21.9キロの小私鉄でした。

 加茂・村松間は1985年に廃止されましたが、村松・五泉間わずか4.2キロが最近まで残っていたため、多くのファンに知られた存在です。

 この鉄道は各務ケ原鉄道からの車輛や自社の古い車を自社製のボディに載せ換えていて、各車とも似たようなスタイルになっていました。

(蒲原鉄道モハ51 村松 1958.5)
長岡鉄道の寺泊終点風景です。
 駅前からは日本海と佐渡島が見えました。

 昔、佐渡への船乗り場だった寺泊の町はこの先の砂丘の下にあり、元の長岡鉄道の寺泊終点は写真の駅からスイッチバックで下がった所にあったそうです。

 写真の電車は小田急のお古ではなかったでしょうか。

(越後交通 寺泊 1972.4)
 栃尾電鉄は晩年に長岡鉄道と合併して越後交通となりましたが、私には栃尾電鉄時代の印象が強く残っています。

 762ミリゲージの鉄道にしては大型の車輛で、快速列車も走るなど軽便鉄道らしからぬ鉄道でした。

 写真左側のモハ212はこのころ登場した新車で、スイスの登山鉄道を思わせるスタイルがユニークでした。

(栃尾電鉄 長岡 1958.5)
新潟県では頚城鉄道も762ミリゲージの鉄道でした。

 この鉄道の名物は客車改造のゲテモノ気動車ジハ5か、写真のような混合列車でした。
 混合列車の貨車の解放、連結に女性車掌が走り回っていた光景が思い浮かびます。

(頚城鉄道 百間町 1961.5)
 洒落たスタイルの富士吉田駅で一息ついている富士急オリジナル車、モハ507。
 私が訪ねた1年ほど前までは、この鉄道は富士山麓電鉄といかにも長閑な社名でした。

 中央道のない頃の富士観光には富士急行の存在が便利で、乗客も多かったと思います。
 ただ、中央本線大月から河口湖まで約27キロを1時間強と、上り勾配や富士吉田でのスイッチバックを考えても、鈍足の鉄道ではありました。
 それでも、途中から見えてくる富士山はそんな不満を忘れさすものでした。

(富士急行 富士吉田 1961.4)
 長野電鉄は複線区間も地下区間もある立派な鉄道で、ローカル鉄道のページに出てもらうのは間違いかもしれません。
 写真のクハ1052などは大手私鉄にも見られた、運輸省規格型の堂々とした車輛でした。

 写真は信州中野から湯田中への蛇行して登る区間で写したはずなのですが、私の行った日は高井富士など背後の山々は霞んでいました。

(長野電鉄 夜間瀬付近? 1970.5)
 1960年代、松本電鉄はアルプスへの山男たちの足でした。
 中央本線の夜行列車を降りて、写真のデハ3に乗り換えた経験者も多いことでしょう。

 この車はのちに、日車のローカル私鉄向け車体に更新されました。

 今の松本電鉄上高地線は終点島々の手前での土砂崩れのため、昔の15.7キロから1.3キロほど短くなったものの、ほとんどが残っているのは嬉しいことです。

(松本電鉄 新村 1958.5)
 信越本線上田から真田へ、丸子へと50キロ近くの路線があった上田丸子電鉄も、今ではバス主体の上田交通となり、鉄道は別所温泉への別所線11.6キロを残すだけです。

 写真のモハ5251は丸い戸袋窓やお椀型ベンチレータが昭和初期生まれの面影を濃厚に残していました。
 高架になる前の上田駅も、いかにも昭和の駅といった風情です。

(上田丸子電鉄 上田 1958.5)




東海、北陸 

  東海、北陸には、国鉄の支線のような小私鉄が沢山ありましたが、乗れなかった、撮れなかった鉄道が数多くあります。
  今更ボヤいても仕方ないので、撮れたものだけでも古写真を並べてみましょう。

  東海地方のローカル私鉄で印象が深かったのは大軽便と呼ばれた静岡鉄道駿遠線ですが、他にも遠州鉄道奥山線や
  豊橋鉄道田口線なども記憶に残っています。

 伊豆急行は戦後生まれの鉄道で、1961年12月に伊東・伊豆急下田間約43キロを一挙に開業しました。
 写真の100形は開業後間もないピカピカの姿です。

伊豆急行は観光に重点を置く鉄道らしく、開業時には1等車もあり、一時は食堂車まであって、華やかな時期がありました。

(伊豆急行 伊豆急下田 1962.2)
 伊豆箱根鉄道は東海道本線三島から修善寺まで約20キロ。

 この線は修善寺温泉への足として健在ですが、お隣の伊豆急行と違って、地味で堅実な車両ばかりという印象がします。

 写真の車も払下げ国電の改造車ですが、当時としてはそれなりに作ってありました。

(駿豆鉄道 大場 1961.4)
 これは駿豆鉄道に乗り入れた国鉄153系ですが、駿豆鉄道風景ということでここに入れました。

 駿豆鉄道への国鉄車の乗入れの歴史は古く、80系が登場した直後の1950年頃から週末に臨時電車が乗り入れていました。

 このような乗り入れはもっと行われるべきだと思うのですが、現実には減り気味なのが残念です。

(駿豆鉄道 大場 1961.4)
 豊橋鉄道渥美線は1924年の開業時から1067ミリゲージの電気鉄道で、一時期は名鉄の渥美線だったのも昔の話です。

 現在は東急のステンレス車を譲り受け、15分ヘッドに運転をしていますが、1961年当時はその半分くらいの運転数で、車両もガソリンカー改造の電車などが使われていました。

(豊橋鉄道渥美線 高師 1961.4)
 佛法僧で有名な鳳来寺など奥三河への鉄道だった豊橋鉄道田口線。
 この線は1968年に廃止されています。

 この鉄道は元々国有化され飯田線の一部となった豊川鉄道の子会社のようなものでした。
 そのためか、豊川鉄道の国有化後も、一部の車輛は豊橋まで直通していました。

(豊橋鉄道田口線 本長篠 1961.4)
 今の遠州鉄道はインバータ制御のステンレスカーが12分毎に走りますが、写真の時代でも15〜30分毎とかなり高頻度の運転で、車両も写真の日車製の2連などが揃い、ローカル鉄道というイメージとは違いました。

 ただし、遠州鉄道でもナローゲージの奥山線はローカル私鉄そのものでしたが。

(遠州鉄道 西ヶ崎 1961.4)
 遠州鉄道奥山線は浜松から三方ヶ原台地を通り、浜名湖の北方、奥山に至る軽便鉄道でした。

 この線は遠鉄浜松から約8キロの曳馬野までが電化されていて、曳馬野で電車に曳かれてきた客車を気動車に繋ぎかえるシーンが名物になっていました。

(遠州鉄道奥山線 曳馬野 1961.4) 
 今では蒸気機関車運転を観光の目玉にしている大井川鉄道ですが、写真の頃は木材輸送や沿線の足として働いていました。

 今も大手私鉄から譲り受けた車を活用している大井川鉄道ですが、この頃にも国電の払下げ車を沢山使っています。
 写真も元身延鉄道の買収国電です。

(大井川鉄道 千頭 1961.4)
 静岡鉄道駿遠線は1913年に一部が開業して以来少しづつ路線を伸ばし、最盛期には新藤枝・袋井間60.7キロと新藤枝・大手間3.9キロに及んで、大軽便と呼ばれた鉄道です。

 この鉄道の車窓には大井川の木橋や太平洋近くの松林など軽便鉄道ならではの雰囲気がありましたが、惜しいことに1970年に消え去りました。

(静岡鉄道駿遠線 DB601 大手 1961.4)
新静岡・新清水間11キロの静岡鉄道静清線は、1908年に762ミリの蒸気鉄道として開業した、古い鉄道です。

当初はお茶などの輸送を目的としていたこの線も、いまでは5分から10分ごとに走る、静岡の市内電車のような存在になりました。

 この鉄道は中小私鉄には珍しく、一時期は自社工場で車輛の製作まで行っていました。

(静岡鉄道静清線 新静岡 1961.4)


 黒部渓谷鉄道は黒部・アルペンルートの観光鉄道として有名です。

 しかし、建設以来の伝統で発電所関係の資材輸送など産業鉄道としての面も色濃く残っており、貨車や電気機関車の保有数も多く、乗車していても長大な貨物列車と度々出会うのには驚きます。

 余談ですが、私の私鉄乗りつぶしは1990年9月のこの鉄道の乗車で終りました。(当時の時刻表に掲載されていた路線についてのことですが)

(黒部峡谷鉄道 宇奈月 1990.9)
 昭和50年、稲荷町車庫に勢ぞろいした富山地方鉄道の車輛たち。

 戦時統合により、出自の異なるいくつもの鉄道が集まってできたこの鉄道はローカル鉄道の範疇を越える規模です。

 しかし、長い間、自社発注の車輛がないことが示すように経営は楽でなさそうで、北陸新幹線開業後のあり方が気になります。

(富山地方鉄道 稲荷町 1975.5)
 加越能鉄道庄川線は北陸本線石動から庄川町まで19.5キロの鉄道でしたが、1972年に廃止されました。

 廃止後、写真の気動車の仲間が鹿島鉄道に譲渡され、最近まで働いていたのは御存知の通りです。

(加越後鉄道庄川線 福野 1969.7)
 北陸鉄道加南線の元は温泉電軌で、戦時統合により北陸鉄道となったもの。
 名前の通り、山中、山代など加賀地方の温泉町と北陸本線を結ぶ路線でした。

 加南線の寿命を縮めたのは1970年に北陸本線の特急停車駅が加賀温泉駅(旧 作見)に集約され、加南線の起点だった大聖寺、動橋が特急通過駅になったことでしょう。
 結局、加南線は1971年に消えてしまいました。

(北陸鉄道加南線 山代 1962.8)
 北陸本線小松から出る私鉄には、最後の軽便と言われた尾小屋鉄道の他に、北陸鉄道小松線がありました。

 小松線は小松〜鵡川遊泉寺間5.9キロの短い区間でしたが、小松市の外延という立地条件の御蔭か利用者はかなりあったようで、1986年まで存続していました。

 写真は昭和4年、小松線の前身の白山電気鉄道が開業した時からの木造単車500形です。

(北陸鉄道小松線 小松 1962.8)
 北陸鉄道浅野川線は北鉄金沢から内灘まで7キロに満たない路線。

 この線は住宅地の内灘と市の中心とを結んでいるため結構利用客は多いようで、石川線からの車や買収国電のお下がりなどの寄せ集めだった車輛も、今では京王井の頭線からやってきた車輛に揃えられています。

 写真のモハ3101は元伊那電鉄のもので、国鉄富山港線を経て北陸鉄道に来た車でした。

(北陸鉄道浅野川線 七ツ屋 1962.8)
 北陸鉄道石川線も先端部の鶴来〜加賀一の宮間の廃止が予定されています。
 さらにその先の金名線は運転休止から25年になります。

 雪の多いこの地方でこうして地域の足が失われてゆくのは、問題が大きいと思うのですが。

(北陸鉄道石川線 加賀一の宮付近 1975.5)
 今の北陸鉄道の鉄道路線は浅野川線、石川線を合わせて22.7キロだけですが、最盛期には120キロを超す路線がありました。

 その中で1972年に廃止された能登線は北陸鉄道で唯一つの非電化路線でした。
 国鉄七尾線羽咋から別れ砂丘にそって三明まで25.5キロのこの線は、ローカルムードの豊かな沿線だったのですが。

(北陸鉄道能登線 能登一ノ宮付近 1969.7)
 新小松から尾小屋まで16.8キロ。
 軽便鉄道らしい鉄道の最後の存在だった尾小屋鉄道は1977年に惜しまれつつ廃止されましたが、線路と車輛の一部が保存されているのは幸いです。

 気動車や貨車がたむろする新小松の構内は模型のレイアウトを見るようなたたずまいでした。

(尾小屋鉄道 新小松 1975.5)
 鉄道線の車輛が路面電車のように行き交う福井市内。

 名鉄系だった福井鉄道も、今では名鉄が手を引いて第三セクター鉄道のようになり、車輛の大半は元名鉄 美濃町線、揖斐線からの車輛に変わりました。

(福井鉄道 木田四辻 1969.7)
 福井鉄道は幾つかの鉄道が集まって出来た企業で、この南越線もその一つ。
 ニブロクの武岡軌動として始まったこの線は、本線と言うべき武生〜福井間の路線と離れ島だったためか、非常にローカル色の強い路線でした。

(福井鉄道 岡本新 1969.7)
 撮影した頃までの京福電鉄三国芦原線は、東尋坊や芦原温泉への観光客で賑わっていました。

 今ではこの路線もえちぜん鉄道に引き継がれましたが、福井鉄道との直通運転など、より便利な鉄道を目指してもらいたいものです。

(京福電鉄 三国湊 1969.7)
 九頭竜川を渡る永平寺線の電車。金津・東古市間が廃止になる寸前の写真です。

 永平寺線はこの後も東古市・永平寺間が残りました。
 しかし、2002年の京福電鉄福井支社の廃業後、えちぜん鉄道には引き継がれずに廃止されたのはまだ記憶に新しい所です。

(京福電鉄 東古市付近 1969.7)