私鉄の昔話

  このページでは私鉄の失われた路線、何十年前かの車両などをお目にかけます。
  リストを見ると、路面電車やローカル私鉄への偏向が目立ちますが、これは管理人の好みのせい
  です。御寛容ください。

  このページに収まらない写真を「路面電車」「ローカル私鉄」のページでアップしています。
  また、京都市電、叡山電鉄、京福電鉄、京阪京津線は「京都の電車」のページにアップしています。

  目 次  (2013年8月10日 近鉄あれこれ 追加

 北海道、
  東北
旭川電軌   東海、
  北陸
静岡鉄道秋葉  中国、
  四国
一畑電鉄
札幌市電 静岡鉄道駿遠線 岡山電軌
北海道の私鉄蒸機 豊橋鉄道 西大寺鉄道
十勝の私鉄 北陸鉄道 金石、能登線 井笠鉄道
函館市電 北陸鉄道 金沢市内線  尾道鉄道
弘南と津軽の昔 名古屋市電 広島電鉄
秋田市電 名鉄の1960年代 山陽電軌
羽後交通 名鉄岐阜市内線 中国落ち穂拾い 
山形交通 名鉄美濃町線 高松琴平電鉄
仙台市電 名鉄 揖斐、谷汲線 琴平参宮電鉄
福島電鉄軌道線 冨地鉄市内線 伊予鉄道市内線
加越能鉄道 伊予鉄道 鉄道線
土佐電鉄
 関東、
  甲信越
銚子電鉄   近 畿 江若鉄道  九 州 西鉄大牟田線
東武鉄道 日光軌道線 阪急 京都本線 西鉄北九州線 
都電 荒川線 奈良電鉄 大分交通 鉄道線
東京都電 京阪電鉄 本線 長崎電気軌道
横浜市電  京阪電鉄 石坂線 島原鉄
江ノ電 近鉄あれこれ (8月10日追加) 熊本市電
長野電鉄 大阪市電 熊本電鉄
上毛と上信 阪神電鉄 国道線 鹿児島市電
新潟交通 南海電鉄 日鉱佐賀関と宮交
栃尾電鉄    阪堺電軌
頚城鉄道 神戸市電
蒲原、長岡鉄道 山陽電
上田丸子電鉄 別府鉄道
和歌山電軌
近鉄志摩線

近鉄あれこれ  (8月10日追加)

  近鉄のような規模の鉄道となると、私などの写真では断片的な紹介しか出来ません。
  古いだけが取り柄の写真を見ていると、沿線風景も車輛も変ったものだと感心します。

  ここに並べた写真を見て気が付いたのは、大阪線など本線系の写真はついでに写した
  ものが多いことです。
  
  改軌前の志摩線などローカル線には、そこを目的に出掛けたりもしていたのですが。

(近鉄大阪線 山本 1957年11月)
(近鉄大阪線 高安 1958年6月)
(近鉄大阪線 高安 1958年6月?)
(近鉄大阪線 伊賀神戸 1973年5月)
(近鉄名古屋線 米野 1961年1月)
(近鉄名古屋線 米野 1961年1月)
(近鉄名古屋線 米野 1961年1月)
(近鉄南大阪線 河内天見 1962年12月)
(近鉄吉野線 吉野口 1967年4月)
(近鉄吉野線 薬水 1968年1月)

江若鉄道  (7月20日追加)

  夏が来ると、琵琶湖へ遊びに行くのにお世話になった江若鉄道を思い出します。

  江若鉄道は浜大津・近江今津間51キロ、JR湖西線の前身ともいうべき鉄道ですが、元は
  若狭の小浜を目指していたもので、社紋も近江のOと若狭のWを組合せたものでした。

  この鉄道は気動車の導入に中々先進的で、1931年の浜大津・近江今津全通のころから、
  当時としては大型の気動車を使っていました。

 浜大津の側線に停車中のハフ8。
 1931年、近江今津まで開業した時からの車で、この頃はトレーラーになっていました。

 浜大津駅のホーム1面1線に切欠き線があったように覚えています。
 この駅の本屋は白壁で感じがよかったのですが。

(江若鉄道 浜大津 1962年9月)
 このころの江若鉄道には、元国鉄キハ41000形が何輌かいました。

 江若鉄道に入ってキハ14から17となったこれらの車輛はエンジンを強化していたはずですが、総括制御化はされませんでした。

(江若鉄道 浜大津 1962年9月)
 三井寺車庫の端で見掛けた、江若鉄道で最後まで残った蒸機No6。
 元はナスミス・ウィルソン製の国鉄No662です。
 
 この機関車の動くところは見られませんでした。

(江若鉄道 三井寺下 1962年9月)
 こちらは明治生まれのイギリス形テンダー機を、昭和初期にタンク機に改造した元国鉄No1118。
 今、梅小路蒸気機関車館にいるNo1080の兄弟です。

 この機関車は写真を撮った一月ほど後にディーゼル機関車の置き換えられました。

(江若鉄道 三井寺下 1962年9月)
 滋賀付近を行くキニ11。
 独特の前面スタイルは、京阪電鉄びわこ号に相通じるものがあり、江若鉄道の名物でした。

 この列車は2連ですが、向う側はトレーラーです。

 撮影地の付近は今では住宅地になり、当時の面影はゼロです。

(江若鉄道 滋賀 1968年11月)
 やって来たのは、元国鉄41000形を譲受けたキハ14のようです。

 沿線の市街地化が進んだ今も、北小松付近まで来ると、このような田園風景が見られます。

(江若鉄道 北小松付近 1969年8月)
 単行で来たキハ20。元国鉄キハ07の譲渡車です。

 この付近は向って左側に湖西線の高架橋が出来、右手に小さく自動車が見える国道は拡幅されていますが、江若鉄道の線路跡も里道のような姿を残しています。

(江若鉄道 北小松付近 1969年8月)
 沿線の名所、白髭神社付近で。

 夏の江若鉄道は近江舞子などの水泳客と比良山への登山客で賑わい、増発や増結と乗客をさばくのに大童でした。

 増発列車ではC11牽引の元関西鉄道の古典客車3連が名物でしたが、私は写せませんでした。

(江若鉄道 白髭付近 1969年8月)
 ヌッと顔を現したのはキハ16を先頭にした列車。

 白髭神社の鳥居は今も水中に健在ですが、湖岸の江若鉄道の線路跡や並木は国道に奪われてしまいました。

(江若鉄道 白髭付近 1969年8月)
 夏雲の下を近江今津に向かうDTDT編成。

 ハフ8の車掌室までぎっしりの立ち客が、夏の江若鉄道らしい光景です。

(江若鉄道 白髭付近 1969年8月)

日鉱佐賀関と宮崎交通

  今回は九州私鉄の落ち穂拾いで、日鉱佐賀関鉄道と宮崎交通の話です。

  日鉱佐賀関鉄道はニブロクの貨物鉄道、宮崎交通は元県営鉄道だった路線と、どちらも
  小さな鉄道ではありながら、それなりに複雑な歴史を持っていました。

  どちらも短時間訪問しただけで、ご覧のようにお恥ずかしい写真しか撮っていませんが、
  何かの話のタネにしていただければ幸いです。
   

 日豊本線南宮崎〜内海間約20キロを走っていた宮崎交通鉄道線は現在のJR九州日南線の前身です。

 この鉄道が変っていたのは1950年に蓄電池車の導入によって電化したことで、写真のED3も一見するとディーゼル機関車ですが、ボンネットの中身は蓄電池でした。

(宮崎交通 南宮崎 1961年12月)
 電化?に合せて作られた客車コハ300形。

 当時、車庫にはほとんど使われていないような客車もありましたが、客車の主力はこの車のようでした。
 しかし、この車も出番は少なく、ほとんどの列車は機動車改造の蓄電池車でしたが。

(宮崎交通 南宮崎 1961年12月)
 蓄電池車ジハ102他の2連。

 国鉄キハ40000形のエンジンとトランスミッションを外し、代りに蓄電池とモーターを搭載した車輛で、本来ならモハと言うべきだと思うのですが。

 私は南宮崎〜青島間でこの蓄電池車に乗りましたが、時速40`位と相当な鈍足でした。

(宮崎交通 木花付近 1960年4月)
 当時宮崎交通線には蒸気機関車が2輌ありました。

 写真のNo4はコッペルのBタンク機ですが、宮崎交通に来るまでに前歴があったのではないかと思います。

 この機関車は路線が廃止の後、国鉄に貸し出され日南線建設に使われたとの事です。

(宮崎交通 南宮崎 1961年12月)
 こちらのNo6は日本車両製のCタンク機。

 この機関車は篠山鉄道から転じて来たということでしたが、日本車両が地方私鉄向けに作った規格型のような車輛で、似たような機関車を他所でも見たような気がします。

(宮崎交通 南宮崎 1961年12月)
 南宮崎の構内で昼寝中のワフ107。

 宮崎交通ではこの頃にも僅かながら貨物列車が運転されていたようで、その時がこの車の出番でした。

 コッペルが牽引する貨物列車の写真を見たことがありますが、今なら大変な人が集まりそうですね。

(宮崎交通 南宮崎 1961年12月)
 日鉱佐賀関鉄道は日豊本線幸崎から佐賀関まで9.1キロ、九州でただ一つの762ミリ軌間の鉄道でした。

 この鉄道の本来は社名の通り日本鉱業佐賀関精錬所の製品を輸送する鉄道でしたが、1963年に廃止されました。

 写真は終点日鉱佐賀関のホームから見た車庫などの景色です。

(日鉱佐賀関鉄道 日鉱佐賀関 1960年4月)
 1960年頃の日鉱佐賀関鉄道には日に20往復近くの旅客列車が運転されていました。
 ただそれらは気動車列車ばかりで、貨物輸送はすでに廃止されており、ディーゼル機関車も写真のDB-1しか在籍していなかったようです。

(日鉱佐賀関鉄道 日鉱佐賀関 1960年4月)
 がっしりした感じのホハフ2。

 この鉄道は1946年に貨物鉄道として開業し、1948年から旅客営業を始めたのですから、更新車にしてもそんなに古めかしい車輛は見当たりませんでした。

(日鉱佐賀関鉄道 日鉱佐賀関 1960年4月)
 車庫に憩うケコキハ510形の511。
 3輌あったケコキハ510形はこの鉄道の主力で、写真の511は佐賀関〜幸崎というHMを付けて活躍していました。

 ケコキハと言う変った形式はどんな意味なのかよくわかりませんが、この車の前所有者 大隅鉄道からの形式に由来するようです。

(日鉱佐賀関鉄道 日鉱佐賀関 1960年4月)

加越能鉄道

 加越能鉄道は鉄道線の区間と、軌道線の区間がありました。

 前者は1972年に廃止され、一部の車輛は最近まで鹿島鉄道などで使われていましたが、
 後者は万葉線として存続しています。

 万葉線には低床車が導入され、雰囲気も一新されているのは嬉しいことです。

 高岡駅前付近の単線区間を行くデ5025。
 富山地方鉄道笹津線や射水線でお馴染の5010形の仲間です。
 この形式が最後まで残ったのは加越能鉄道で、最後は除雪車として使われていました。

 昔も今も高岡駅前付近が単線なのは、ダイヤ設定上苦しい所だと思われます。

(加越能鉄道 高岡駅前付近 1969年7月)
 米島口の車庫前で乗務交代を待つ伏木線のデ7052。
 当時の加越能鉄道の主力は富山地方鉄道のデ7000とほぼ同じ形態のデ7000、7060、7070などでした。

 写真に写っているのは伏木港行ですが、この路線は1971年に廃止されています。

(加越能鉄道 米島口 1969年7月)
 流行のファッションの若者のそばを越ノ潟行のデ7072が通過します。

 この写真を撮った頃は高岡駅前と越ノ潟間全線通し運転の他に、伏木港行や中新湊までの区間運転があり、結構頻繁に運転されていました。

(加越能鉄道 高岡駅前付近 1969年7月)
 中新湊付近を行くデ7053。

 この付近は工場地域で、当時の加越能鉄道はそれらの工場従業員の通勤輸送にも大きな役割を果たしていたようです。

(加越能鉄道 中新湊付近 1988年10月)
 終点 越ノ潟で発車を待つデ7061。
 右手、奥の方に連絡するフェリーが見えます。

 ここへは何度か行きましたが、電車からフェリーに乗り継ぐ人を見たことはありません。
 フェリーの目的は自動車の利用なのでしょうか?

(加越能鉄道 越ノ潟 1988年10月)
 アーチ状の飾りが優雅なボ1。

 元は富山港線の前身だった冨岩鉄道の車輛で、冨岩鉄道の国有化後、富山地方鉄道に払い下げられ、さらに高岡軌道線に移ってきたものです。

 この車輛は撮影当時にはまだ籍があったようですが、果たして動けたのでしょうか?

(加越能鉄道 米島口 1969年7月)
 加越能鉄道加越線は北陸本線石動から分れて庄川町まで、路線長20キロ弱のローカル私鉄でした。
 
 戦時中に富山地方鉄道に統合され、戦後は金沢まで伸延の計画もありましたが、それは夢物語で終わっています。

 写真のキハ173は元国鉄キハ07で、廃止後は関東鉄道に転じました。

(加越能鉄道 本江付近 1969年7月)
 屋敷林に囲まれた砺波平野の家々の間を行く、前面2枚窓の気動車。

 加越線の気動車はほとんどが1形式1輌で、同じ形状で2輌があったのはこのキハ125、126くらいでした。

 この2輌は加越線の廃止後関東鉄道鉾田線に移り、鹿島鉄道廃止まで走り続けた車です。

(加越能鉄道 本江付近 1969年7月)
 加越線最後の新車だったキハ187。

 3ドアで液圧式の大型車でしたが加越線では10年も使われない内に職場を失い、関東鉄道に引き取られました。

 この頃の関東鉄道は利用客の急増に対応するため、中古車の出物があれば次々と買い込んでいたようです。

(加越能鉄道 本江付近 1969年7月)
 加越能鉄道加越線の廃止は1972年9月。
 
 沿線に特に絶景も無かった加越線でしたが、こうして単行で走るキハ126?の姿を見ると、この車が晩年鹿島鉄道でキハ430形として走っていた景色を思い出します。

 この車は東武鉄道妻沼線のキハ2000形とよく似ていました。

(加越能鉄道 津川付近 1969年7月)

近鉄志摩線

  最近運転を始めた近鉄の特急50000系は「しまかぜ」という愛称を付けられました。
  今回はそこからの連想で近鉄志摩線の昔の写真をアップしました。

  志摩線は志摩電気鉄道として1929年に開業し、1944年から三重交通となり、1965年に
  近鉄志摩線となり、1970年3月に1435ミリに改軌、1500Vに昇圧しています。

  ここにアップした写真は、1969年12月半ばから改軌工事のため運休するという話を聞き
  12月初めに慌てて出掛けたときのものです。

 改軌工事中の鳥羽駅でのモニ5922。
 いかにもローカル私鉄の車らしいこの電車は志摩電気鉄道開業時からのものですが、改軌後は廃車となりました。

 後方では建築中の新しい鳥羽駅が見えます。

(近鉄志摩線 鳥羽 1969年12月)
 志摩線の線路は鳥羽駅を出ると急カーブの続く狭い軌道敷に入りました。

 この付近の線路は移設されたり、水族館が出来たりして様子が変っています。

(近鉄志摩線 中之郷付近 1969年12月)
 これも鳥羽の近く、志摩赤崎辺りの光景。
 路地裏を行くような面白い雰囲気でしたが、高速運転はとても無理な線形でした。

 電車は下の写真と同じモニ5925です。

(近鉄志摩線 志摩赤崎付近 1969年12月)
 これは賢島旧駅の風景。
 停まっているのは志摩電鉄から引き継がれたモニ5925。
 近鉄では元三重交通志摩線の車輛は5900番代に纏めていました。

 線路はこの先の小さな車庫があった真珠港まで延びていましたが、後ろの方に建設中の賢島新駅が出来た後に廃線になりました。

(近鉄志摩線 賢島 1969年12月)
 建物は今も残っている旧賢島駅本屋。

 改軌後も旧駅のホームは何年か、普通列車用のホームとして使われていた記憶があります。

(近鉄志摩線 賢島 1969年12月)
 賢島の手前、志摩神明付近を行くモニ5925。
 普通列車には主に志摩電鉄引き継ぎのこの車などが単行で使われていたようです。

 写真の付近は海沿いの景勝地ですが、運転回数が少なかったので写真は僅かしか写せませんでした。

(近鉄志摩線 志摩神明・賢島間 1969年12月)
 こちらは中之郷付近を行くモ5931を先頭にした2連。

 モ5931は三重交通時代に作られた割にスマートな車だったと思いますが、この写真ではその面影は分らなくて申し訳ありません。

(近鉄志摩線 中之郷付近 1969年12月)
 中之郷の可愛らしい車庫に憩うモ5941。

 ノーシルノーヘッダーで張上げ屋根の近鉄大阪線モ2250形などに似たスタイルですが、実は開業時からの旧型車を車体更新したものでした。

(近鉄志摩線 中之郷 1969年12月)
 単行で走るモ5941。
 お客が乗っている様に見えないので回送だったのかも知れません。

 モ5941はこじんまりしてモデル向きの車でした。志摩線の改軌後は同じ1067ミリゲージの養老線で働いていたはずです。

(近鉄志摩線 志摩神明・賢島間 1969年12月)
 終点賢島に近い海沿いを行くモ5920形?の2連。

 この付近の線路位置は改軌後も、複線化されただけで大きくは変っていないようです。

(近鉄志摩線 志摩神明・賢島間 1969年12月)
 海を背にした志摩線。

 この写真を見ると、日帰りで短時間の撮影だったのにこんな所までよく登ったものだと、若かった時代が懐かしくなります。
 今の私ではとても撮れません。

(近鉄志摩線 志摩神明・賢島間 1969年12月)

旭川電気軌道 

  日本で最北の私鉄と言われていた旭川電気軌道が1972年末に廃止されて以来40年余。
  懐かしいことに、社名はそのままでバス会社として存続しています。

  この鉄道を訪ねたのは1957年5月と1972年7月の二回に過ぎませんが、いかにも北海道
  らしい沿線の雰囲気は今も忘れられません。

 1927年開業当時からの車輛というNo10が車庫の隅に停まっていました。

 この車は工場の火事で傷ついたものを自社で復旧したという話でしたが、見たところは廃車寸前という印象。
 正面のクロスした補強材は「そこまでやるか」という感じでした。

(旭川電気軌道 1972年7月 旭川追分)
 このNo20は1930年、旭山公園への支線開通に合わせて用意された車輛ということで、路面電車タイプの半鋼製単車でした。

 晩年は屋根の上に作業台を取り付け、モヤとして使っていたようです。

(旭川電気軌道 1972年7月 旭川追分)
 No101〜103は戦後生まれで、旭川電軌の中心的な車輛でした。

 100形は貨車を曳いて走ることも多くかったためか、連結器テコが上作用式になっています。

(旭川電気軌道 1972年7月 旭川追分)
 この写真は旭川電軌を初めて訪ねた時のもの。

 石炭を満載した貨車をNo103が牽いて、道の中央をゆっくりと走っていました。
 No103のモーターは50馬力×4だったと思います。これで貨車を牽引するのは少し力不足だったかも知れません。

(旭川電気軌道 1957年5月 旭川四条付近)
 旭山公園近くの専用軌道?を走るNo103。

 旭川電軌の線路はいわゆる道端軌道的な区間が多く路面電車のような印象でした。
 しかし車輛は高床式ばかりで、すべての停留所にプラットホームがありました。

  (旭川電気軌道 1972年7月 旭山公園付近)
 1930年に開業した東旭川線の終点 旭山公園駅。
 中々瀟洒な北海道らしい駅舎です。

 最近 人気の旭山動物園はこの近くにあるはずですが、この写真を撮った頃は無名でした。

(旭川電気軌道 1972年7月 旭山公園)
 旭山公園に至る東旭川線と東川に至る東川線の分岐駅旭川追分付近でのNo103。

 遠くに小さく見えるのは旭川追分駅と停車中の旭川四条行き列車です。

(旭川電気軌道 1972年7月 旭川追分)
 ノーシルノーヘッダーのスマートな車体をダークグリーンに装って、旭川電気軌道ピカイチの車だったNo1001。

 1955年日本車輛製のこの車は1両だけの存在でしたが、今も保存されているとの話なのは嬉しいことです。

(旭川電気軌道 1957年5月 旭川四条)
 旭川四条駅に停車中のNo501。
 No1001に続いて増備された車輛なのに、ずらりと並んだ小窓などから、もっと古い車のような印象を受けました。

 電車の背後では石北本線の高架工事中です。

(旭川電気軌道 1972年7月 旭川四条)
 旭川追分車庫にいた無番の除雪車。

 札幌や函館の市電には今も残るササラ電車ですが、この電車は撮影後数カ月で、職場を失いなってしまいました。

(旭川電気軌道 1972年7月 旭川追分)

熊本電鉄

  熊本電鉄は私が私鉄探訪を始めた最初の鉄道で、誠に懐かしい鉄道です。

  この鉄道は914ミリ軌間の蒸気鉄道から1067ミリ軌間の電気鉄道に変った古い路線だけに、
  初めて訪問した頃にはいろいろな車輛があって、見飽きませんでした。

  初訪問以来半世紀以上が過ぎたこの鉄道が、今後も健在であるよう祈っています。

 この車は名鉄から来たモハ41。

 終戦直後、名鉄が新車の配給を受ける代償に地方私鉄に提供した車輛の一つですが、元は名鉄と合併した各務原鉄道辺りの車ではなかったでしょうか?

 当時は地方私鉄を訪ねると、こうした大手私鉄からの車輛によく出会いました。

(熊本電鉄 室園車庫 1956年3月)
 ロクサンの元祖の様な切妻スタイルがユーモラスなモハ59は菊池電気軌道時代からの木造車を改造したものだったとか。

 切妻スタイルは工作がしやすいためか、地方私鉄の自社改造車では時々見掛けました。

 ところで、この撮影地は藤崎宮前か北熊本かも知れません。記録亡失で申し訳ないことです。

(熊本電鉄 室園車庫? 1959年3月)
 元広浜鉄道の買収国電、国鉄で初代のモハ90形です。
 全長約12mの小型車ながらまとまったスタイルで、熊本電鉄では70形となって長く使われていました。

 写真の車は国鉄から譲られた形態のままで保管されていて、まだ車体にはモハ90003と記されていました。

(熊本電鉄 室園車庫 1956年3月)
 上のモハ90003が整備された後の姿。

 モハ70形は60馬力4ヶモーターで機関車代りに手頃だったからか、貨車牽引に使われることが多かったようです。

 同僚の71は車籍はありませんが、今も保存されていて貴重な存在です。

(熊本電鉄 北熊本 1959年3月) 
 写真のコハ32は1923年の改軌、電化の際に貨車から客車に改造した車輛だそうです。

 そういえば熊本電鉄の貨車はボギー台車を履いていたので、木造車体を乗せれば客車化も容易だったかも知れません。
 ただ、改軌前の3フィートゲージ台車をどのように利用したのか疑問ですが。

(熊本電鉄 北熊本 1959年3月)
 屋上に作業台を載せた異様な形態のモコ1は元宇部鉄道の買収国電を譲受けたもので、当初はモハ14と名乗っていたとのこと。

 単車の国電とは珍しい存在でしたが、国鉄時代にはほとんど動いていなかったようです。

(熊本電鉄 室園車庫 1956年3月)
 大きなアーチバー台車が目立つ有蓋貨車。

 車体に大きくヤ4と書かれていますが、その意味が分りません。
 ヤとは「屋根付き」=有蓋車の意味でしょうか?
 
 この貨車には車掌室も付いているので、国鉄流ならワフとなりそうですが。

(熊本電鉄 北熊本 1959年3月)
 台地を降りて来たモハ101は熊本電鉄自社発注だった中形車。

 この付近は台地の上から菊池の町の眺望が開け、熊本電鉄の車窓風景で一番の場所でした。

 何度も訪ねた熊本電鉄ですが、菊池まで乗ったのはこの時が最初で最後でした。

(熊本電鉄 広瀬? 1979年4月)
 藤崎宮前行のモハ502。
 静岡鉄道の100形を譲り受けたモハ500形は6両あって、撮影当時は熊本電鉄のエース格でした。

 この区間(御代志〜菊池)が廃線となったのは1986年。以来、もう27年になるとは・・・。

(熊本電鉄 広瀬? 1979年4月)
 側線で一休み中のモハ502。
 ノーシルノーヘッダーに両開き扉と近代的な装いですが、これが静岡鉄道の自家製だったとは驚きです。

 車輛がスチール製で溶接などがやりやすかった時代は、中小私鉄でも思いがけない大工事をやっていたものですが。

(熊本電鉄 菊池? 1979年4月)

札幌市電 

  札幌市電に初めて乗ったのは1957年5月。札幌にも遅い桜が咲き始めていました。

  当時の札幌市電は路線長が25キロ近くになり、最盛期を迎えようとしていた頃です。
  車輛も札幌スタイルが生まれつつある一方で戦前からの単車もありと、バラエティに
  富んでいました。

  ここではそんな時代の札幌市電をご紹介いたします。

  注、撮影場所の()内は鉄友がご教示下さった地名です。有難うございました。

 1957年当時、戦前製の単車は150形や170形など、かなりの数が残っていたようです。

 角ばった小柄な単車が新しいボギー車に混じって忙しげに走っていた姿も、中々いいものでした。

(札幌市電 一条線(東四〜五丁目) 1957年5月)
 まだ新製間もなかった320形。昭和32年製だから320形となったとか。
 前面の中央窓が大きいこのスタイルは大阪市電3001形に共通しているように感じます。

 撮影場所は当時の札幌の中心だと思いますが、それにしてはひっそりした感じを受けました。

(札幌市電 三越前 1957年5月)
 当時の札幌市電は定山渓鉄道のターミナルの豊平駅前にも足を延ばしていました。

 東京都電6000形をコンパクトにしたようなこの500形は、戦後製で札幌市電初のボギー車。
 全国に類似車が多い運輸省規格型の車です。

(札幌市電 豊平駅前 1957年5月)
 500形に続いて作られた600形は1957年当時の主力のようでした。
 ただ、長い車体に前後の2ドアは使いにくかったのか、のちに後部ドアをふさぎ中央ドアを新設していました。

 撮影場所は一条線の沿線だったとは思うのですが、今では想像も付きません。

(札幌市電 一条線(西20丁目付近) 1957年5月)
 この550形は600形より後の生まれですが、ナンバーが小さいのは車体が小柄だからでしょうか。
 前面2枚窓、前と中央の2ドアという札幌市電のスタイルはこの形式から始まりました。

 この車を見ると横浜市電1500形を連想するのは私だけでしょうか?

(札幌市電 一条線(西五丁目付近) 1957年5月)
 国鉄函館本線をオーバークロスして市内北部に向かう鉄北線の560形。
 この頃の鉄北線は北24条までだったはずですが、その後新琴似まで延長しました。

 560形は前面のスタイルや雨樋の位置などが550形と変っています。

(札幌市電 鉄北線 1957年5月)
 580形は札幌市電が一つの頂点に達した頃の車輛ではなかったでしょうか?
 集電装置はZパンタになり、ドアエンジンが付き、弾性車輪を履いていました。

 車庫を案内して下さった職員がこの車を誇らしげに説明して、わざわざ撮りやすい位置に移動してくれたことが忘れられません。

(札幌市電 交通局 1957年5月)
 札幌市電には何両かの貨物電車がありました。
 このNo5もその一つで戦前製の単車を改造したもののようですが、中々格好良い貨車でした。

 長い冬に傷んだ路線の補修に忙しい季節だったからか、この日は何度も貨物電車を見ました。

(札幌市電 一条線(西六〜七丁目) 1957年5月)
 こちらは札幌名物 ササラ電車。
 5月になり除雪の仕事から解放されて、一息付いている所でした。

 この車が除雪している現場を見たことがないのは残念です。

(札幌市電 交通局 1957年5月)
 札幌市電には散水車もありました。
 未舗装の道路が多かった時代には各地の路面電車に散水車があったものです。

 撮影場所は札幌駅前。
 札幌駅はまだ地平で、駅ビルも今と比べるとささやかなものでした。

(札幌市電 札幌駅前 1957年5月)

島原鉄道

  島原鉄道は明治の末以来100年余の歴史のある鉄道です。

  以前は諫早から加津佐まで島原半島をほぼ一周する80キロ近い路線がありましたが、
  今では諫早〜島原外港間43キロ余に短縮されました。

  私が島原鉄道を初めて訪ねたのは1959年3月。まだ蒸機列車もあった時代でした。

 軽快な感じのキハ200形。
 この車は島原鉄道オリジナルのものではなく、国鉄から元中国鉄道の気動車を譲り受けたものでした。

 撮影場所の島原湊は後に南島原と改名されましたが、車両基地が存在する事は今でも変わっていません。

(島原鉄道 島原湊 1959年3月)
 前面2枚窓がクハ86を思わせる、島原鉄道独自の気動車キハ4500形。
 国鉄キハ45000を前面非貫通にして両運化したような車でした。

 撮影地の大三東は有明海を望み、ホームの下はすぐに海だったような記憶があります。

(島原鉄道 大三東 1959年3月)
 国鉄キハ20系に準じた新車キハ2000形。
 この車両から長崎や博多への国鉄線乗入れを始めていました。

 今の鉄道各社も利用者を増やすために、もっと民鉄とJRとの相互乗入れを増やすべきではないでしょうか?
 安全設備とかの問題もありましょうが、昔は案外柔軟に対処していたと思います。

(島原鉄道 島原湊 1959年3月)
 キハ55系の島原鉄道バージョン、5500形。

 国鉄乗入れ時に国鉄車と見分けが付きやすいようにと、車体に三本線を描いたそうですが、私はこの三本線を見ると猫のヒゲを連想しました。

(島原鉄道 島原湊 1964年3月)
 島原鉄道で最初の気動車だったユニ101。
 昭和初期に作られた気動車としてはかなり大きな車だったと思います。

 撮影当時のこの車は”ユニ”でトレーラーになっていましたが、元来はキハニ101でした。

(島原鉄道 南島原 1964年3月)
 旧国鉄の木造客車を譲受けたナハニ14188。
 当時の島原鉄道はこんな客車も使うほど、朝のラッシュ時の乗客が多かったようです。

 この車両は国鉄時代にはナハフだったようですが、この頃は荷物合造車になっていました。

(島原鉄道 島原湊 1959年3月)
 C1202が牽くこの混合列車は加津佐から来たものだったと思います。
 C12は戦後導入された島原鉄道の主力機関車で、5両在籍していました。

 邪馬台国島原説の宮崎康平さんはこのC12導入時に島原鉄道の役員だったことは有名です。

(島原鉄道 島原湊 1959年3月)
 島原鉄道には古典ロコも沢山いたことで有名でした。
 これはクラウスの特徴あるスタイルの蒸気機関車。元は鉄道省1400形です。

 撮影の頃はまだ車籍はあったはずですが、動いた様子は見られませんでした。

(島原鉄道 島原湊 1959年3月)
 朝の島原湊構内は賑やかでした。

 朝の仕事を終えたC1202が一息つくかたわらを、出勤してきた人たちが職場に向かいます。

(島原鉄道 島原湊 1959年3月)
 島原鉄道は歴史が古いだけに在籍車両も多かったのでしょう。
 島原湊駅の構内には貨車や客車、今では使ってなさそうな郵便車など、数多くの車輛が留置されていました。

 もっと撮りたかったのですが、フィルムに制約されてデジカメのようには写せませんでした。

(島原鉄道 島原湊 1959年3月)

南海電鉄 

  日本の私鉄中最古の鉄道である南海電気鉄道の話となると、浅学非才の私の手には
  余るのですが、皆さまの話題の種にでもなればと古い写真をかき回してみました。

  南海電鉄沿線は私の暮らす地域から外れていたので、京阪や阪急ほど乗ってないのが
  実情ですが、それだけに南海の伝統的な姿には魅かれるものがありました。

 戦前から戦後にかけて南海本線で活躍した名車 2001形。
 20メートル車、800馬力の大型車で、1936年に出現した日本初の冷房電車もこの形式の仲間だったそうです。

 背後は大阪球場。電車よりもこちらが懐かしいと言う方も多いでしょう。
 私も南海ホークスや鶴岡監督を懐かしく思う世代です。

(南海電鉄 難波 1961年7月)
 帰省客なのか海水浴客か、加太線ホームにいる乗客は現在と比べると格段に多いように見えます。

 写真のクハ102は関西私鉄によく見られた、前面が5枚窓で丸い木造車を簡易鋼体化したものでした。

(南海電鉄 和歌山市 1958年7月)
 急行マークが誇らしげな11000系の和歌山行。
 淡緑色の車体に濃緑色の帯を巻いたスタイルが新鮮でした。

 昭和11年に冷房電車をデビューさせた南海電鉄ですが、この時代には非冷房車ばかりで11000系の窓は全開です。

(南海電鉄 堺 1958年7月)
 今は廃線となった天王寺支線のローカル列車に使われていたクハ1903。

 2001形に似たスタイルですがこちらは18メートル車で、仲間のモハ1201形と手をつないで主に普通列車に使われていました。

(南海電鉄 天下茶屋 1958年3月)
 戦前に木造車を鋼体化更新したモハ1301形などによる難波〜堺東間の区間列車。
 側面窓が小さく幕板が広い、やや鈍重なスタイルのこの形式は高野線の名物でした。

 高野線の堺東に車庫があった時代の風景です。

(南海電鉄 堺東 1958年3月)(南海電鉄 難波 1961年7月)
 この写真はズームカーの愛称があった21000系だと思っていたのですが、よく見るとモハ21202等の編成でした。

 この編成はズームカー21000系と車体のスタイルは同じでも、旧型車の部品を流用した車輛だったので、口の悪いファンから偽ズームと呼ばれていたものです。

(南海電鉄 堺東 1958年3月)
 私が写真を写し始めた頃の南海電鉄には、木造車の形態を残すこんな車輛も見掛けました。

 このモハ752は高野線の堺東で何気なく写したものですが、高野線の何処で使っていたものでしょう?

(南海電鉄 堺東 1958年3月)
 南海電鉄の名物の一つに凸形電気機関車がありました。

 南海電鉄に貨物輸送が多かったのは、明治時代に蒸機運転でスタートした歴史によるものでしょう。

 あまりスマートとは言えない電気機関車が重連で走っている姿は独特の雰囲気がありました。

(南海電鉄 堺東 1958年3月)
 ユーロピアンスタイルとでも申しましょうか、丸味を帯びた前面スタイルが独特だった先代「こうや」20000系。
 鉄道友の会の試乗会に参加した時のスナップです。

 今では特急の車輛も変わりましたが、極楽橋駅の静寂な雰囲気はあまり変ってないようです。

(南海電鉄 極楽橋 1961年7月)
 試乗会の際に撮った「こうや」の車内。

 シートピッチ1050ミリ、各シートに取り付けられた読書灯など、50年以上前の車輛とは思えないインテリアで、もちろんエヤコン付き。

 良く出来た車輛でしたが一編成しかなかったため、乗客の多い夏季には代用特急に乗せられたこともありました。

(南海電鉄 極楽橋 1961年7月)



富山地方鉄道 市内線、笹津線 

  環状線の再開業や新車セントラムの導入など、最近は意気盛んな富山地方鉄道ですが、
  以前を返り見ると、市内線には東部線や山室線などもあり、市内線と直通する射水線や
  笹津線があって、今日以上の路線の拡がりを見せていました。

  今回はそんな時代の市内線と笹津線の姿をご覧いただきましょう。

 富山駅ビルから眺めた立山連峰と富山地方鉄道市内線。

 この景色も北陸新幹線工事の関係で,駅ビルが撤去されて、見られなくなっています。
 北陸新幹線開業後はどんな眺めになるでしょうか?

(富山地方鉄道市内線 富山駅前 1975年5月)
 初めて富山を訪ねた1961年の市内線には、まだ単車のデ3530形が走っていました。

 この電車は戦後生まれの単車として知られ、No3533は最近まで除雪用に残っていたので、ご覧になった方も多いことでしょう。

 ビューゲルともボウコレクターともつかない変った形の集電装置が目を引きます。

(富山地方鉄道市内線 富山駅前 1961年5月)
 射水線に使われていたはずのデ5000形を市内線で写していました。

 デ5000形は笹津線や射水線の主力だったデ5010形の試作車のような車輛で、デ5010形とそっくりの高床車ですが連結器はなく、笹津線のような連結運転は出来ませんでした。

(富山地方鉄道市内線 電気ビル前? 1961年5月)
 撮影した当時はまだ真新しかったデ7013。

 都電8000形の流れをくむスタイルで、次の世代のデ8000形が出現するまでの市内線はこの形式の独り舞台でした。
 現在でも数的には、市内線の主力はこの7000形です。

(富山地方鉄道市内線 富山駅前 1961年5月)
 富山駅前のカーブを通過した7000形。
 冷房化以前のため、屋根の上がさっぱりしています。

 駅前のこの付近の景色も、40年近くが経った今ではかなり変っているようです。

(富山地方鉄道市内線 富山駅前 1975年5月)
 富山駅前には南富山〜富山駅前間の系統用に渡り線があります。

 この停留場での乗り降りは多く、折り返す電車も多いので、安全地帯は降り場、乗り場と分離していました。

(富山地方鉄道市内線 富山駅前 1975年5月)
 単線時代の富山大橋を渡る7000形。

 この辺りは神通川に架かる富山大橋の架け替え工事と合わせて、複線化が進んでいるとのこと。

 やはり市内電車で運転間隔を維持するには、複線でないとしんどいと思います。

(富山地方鉄道市内線 安野屋付近 1975年5月)
 以下三枚の写真は笹津線の姿です。

 小集落をぬって南富山〜笹津間12.4キロを走っていた笹津線は、1933年まで存在した富山鉄道の後を引き継いで1952年に再開した路線でしたが、1975年に廃止されています。

(富山地方鉄道笹津線 袋付近 1969年7月)
 笹津線は市内線の富山駅前まで直通して乗入れるので結構利用者があった様に見えたのですが、廃止されてしまったのは残念でした。

 うまくやればポートラムのようにLRTとして残れたかもしれません。

(富山地方鉄道笹津線 袋付近 1969年7月)
 笹津線の車輛はこのデ5010形。
 角ばった高床式の車体はスマートとは言えませんが、同形車が連結して走る姿は安定感がありました。

 この電車は総括制御でなく、各車に運転士が乗っていたのが変ってました。

(富山地方鉄道笹津線 袋付近 1969年7月)

江ノ電 

  今回は2013年最初の更新ですが、それにふさわしい題材が思い浮かばず、苦しまぎれに
  前回の横浜市電とのつながりで、江ノ電の写真を並べました。

  江の電は法規上は鉄道のはずですが、その雰囲気には路面電車的なものがあります。

  数十年前には廃止を噂されたこの愛すべき鉄道が今も盛業中なのは実に嬉しいことです。

 江ノ電で面白い区間というと、路面電車好きの私としては真っ先にこの区間を思い出します。

 江ノ電を路面電車とする書物が多いのは、この区間の存在が法規上は鉄道であることを忘れさせるからでしょう。

(江ノ島電鉄 腰越付近 1969年10月)
 撮影した頃にはまだ100形の単行も運転されていました。
 この時代の方が今よりも自動車は少なかったはずですが、割り込みなどはかなり多かったように記憶しています。

 この写真の110は望遠レンズのいたずらによるものか、ずいぶん腰高に見えています。

(江ノ島電鉄 腰越付近 1969年10月)
 鎌倉行の100形が停まっているのは和田塚駅と思っていたら、由比ヶ浜だとの御教示を頂きました。有難うございました。

 以下数枚の写真はこの時期の江ノ電沿線の雰囲気を写しているように思うのでアップしました。毎度のことながら撮影場所など曖昧な事で失礼いたしました。

(江ノ島電鉄 由比ヶ浜 1969年10月)
 上の写真と同じ電車No101。

 この辺りは狭い線路敷ではありながら両側には大きな邸宅が多く、それが沿線風景にゆとりを感じさせてくれるようでした。

(江ノ島電鉄 由比ヶ浜付近 1969年10月)
 電車が来ると線路際に身を寄せ、電車が過ぎると枕木の上を歩いて行く御婦人。

 このあたりの江ノ電の線路は生活道路と一体になっている感じで、好い感じです。

(江ノ島電鉄 由比ヶ浜付近 1969年10月)
 カーブから顔をのぞかせた初代501。こう見ると今の500形と似ています。

 江ノ電で線路際が狭い所と言うと腰越付近が思い浮かびますが、この辺りもかなり際どく見えます。

(江ノ島電鉄 由比ヶ浜付近 1969年10月)
 地平駅時代の藤沢駅に停車している No108。

 こうして見ると、この100形は姉妹提携している嵐電のモボ100形とデザインに一脈通じるところがあるような気がします。
 同時代の生まれですから、当然と言えば当然ですが。

(江ノ島電鉄 藤沢 1962年11月)
 鎌倉を発車した藤沢行No306。

 横須賀線と並ぶこのあたりの風景は車輛こそ変りましたが、今でも昔の風情が残っているようです。

(江ノ島電鉄 鎌倉付近 1969年10月)
 下の写真のNo502と同時期に100形から改造された直後の300形。

 この頃から江ノ電は連接車の採用が増えてきたようです。
 当時は多客時でも2車体の連接車でさばける程度の乗客だったのでしょうか?

(江ノ島電鉄 江ノ島 1957年5月)
 これは私の江ノ電の写真では最古の一枚で、この502がデビューして間もない時の姿です。
 その後500形は改造されてヘッドライト位置が変るなど若干改造されました。

 登場直後の500形はユーロピアンスタイルが粋ですが、非冷房だったので窓は全開です。

(江ノ島電鉄 江ノ島 1957年5月)

横浜市電

  横浜市電は東京都電や大阪市電と違って、他社に譲渡されて残っている車輛がないのは
  残念ですが、その印象は今も脳裏に残っています。

  ただ、訪問したのが一度だけなので、写真も少なく、撮影地などの記憶も怪しいのですが、
  その辺はご寛容下さい。

 戦後の復興期に誕生した1150形は1500形と共に、戦後の横浜市電スタイルを作り上げた車でした。

 横浜市電と聞くと、2枚窓でウインカーランプの付けられたこの顔が思い出されます。

(横浜市電 桜木町駅前 1969年10月)
 これも1150形。
 1150形と1500形は見掛けでは区別出来ませんでした。

 この付近は根岸線のトラス橋が独特の景観を作っていて、それが市電とよくマッチしていたと思うのは私だけでしょうか。

(横浜市電 桜木町付近 1969年10月)
 昭和初期製の1000形は、撮影時点ですでに車齢40年位だったはずですが、まだまだ元気で働いていました。

 この車は何処となく名古屋市電1300形に似た感じがします。

(横浜市電 県庁前 1969年10月)
 こちらの1300形は1947年生まれの大型ボギー車です。

 この車は大阪市電1711形を思わせます。
 もっとも、終戦直後に作られた車輛は運輸省規格形の影響で、どこの都市にも似た感じの車輛が多くなったのかも知れません。

(横浜市電 県庁前 1969年10月)
 見苦しい写真で失礼ですが、坂東橋まで行った証拠写真です。

 横浜市電撮り歩きは何処をまわったのか今では五里霧中です。撮影日が1969年10月13日という点だけは間違いないはずですが。

 この頃、横浜市電の廃止は始まっていて、この日も久保山付近に行こうと車掌氏に行き方を質問したら「その線は廃止されました」との返事にガッカリした覚えがあります。

(横浜市電 坂東橋 1969年10月)
 山元町へ登る市電を見下ろすこの橋は今もあるのでしょうか。

 地図でこの橋を見付けた時は”ここは是非行こう”と意気込んだのですが、その割に写真はぱっとしませんでした。

(横浜市電 山元町付近 1969年10月)
 山元町に近づく市電、1318。

 山元町に至る3系統の市電には1300形ばかり使われていたのは、この付近の勾配に大馬力の1300形が適していたからだそうですが、本当でしょうか?

(横浜市電 山元町付近 1969年10月)
 山元町終点で一息ついている1328。
 この終点付近は普通の路面電車の終点とは違った、独特の雰囲気を感じました。

 もっとも、一度だけの訪問での印象なので、再訪すればどう感じたか分りません。旅行者の印象などは訪問した時の偶々の状況によって変わるものですから。

(横浜市電 山元町 1969年10月)
 馬車道停留場付近の1500形。

 1500形はハマのPCCカーと言われた優秀車でしたが、数少ない1372ミリゲージの車輛だったからか、廃線後に他社に転用されなかったのは残念でした。

(横浜市電 馬車道 1969年10月)
 横浜市電の名所、麦田のトンネルから出て来た1150形。

 路面電車でこのような本格的なトンネルは他には知りません。
 長崎電軌桜町付近の地下線はトンネルと言えるのでしょうか?  

(横浜市電 麦田町 1969年10月)

福島電鉄 軌道線

  1971年に廃止された福島電鉄の軌道線(飯坂東線など)は独特のローカルムードに
  溢れれる軌道線でしたが、1971年に姿を消しました。

  この軌道は福島の市内電車でもあり、福島と近郊の保原、梁川などを結ぶ電車でもあり、
  貨物列車の運転もありと、まことに面白い路線だったのですが。

 福島駅前終点の手前で先行電車の発車を待つ馬面の1108。

 この車は1067ミリゲージの車輛ですから、762ミリゲージだった花巻電鉄の馬面電車よりは車体幅が広いのは当然ですが、それでも中々の馬面です。

(福島電鉄 軌道線 福島駅前 1963年5月)
 こちらは福島駅前を発車した1113。

 上の1108もこの1113も戦前生まれの木造車を鋼体化更新した車輛でしたが、前面窓など形状には少々違いがありました。

(福島電鉄 軌道線 福島駅前 1963年5月)
 狭い道をかき分けるようにしてやって来た1106。
 この1106など一部の車輛は前面を金太郎の腹掛けスタイルに塗分けていました。

 余談ですが、パチンコ店の佇まいが面白いですね。こんな店でもお客は入ったのでしょうか?

(福島電鉄 軌道線 長岡分岐点 1961年10月)
 この長岡分岐点停留所は、福島駅前方面から来た路線が保原方面と湯野町・伊達方面に分岐する所で、保原方面と湯野町方面を結ぶ線路も敷かれてデルタ線を形成していました。

 申し訳ないことに、電車が写っている線路はどの方面行きだったか、記憶がはっきりしません。

(福島電鉄 軌道線 長岡分岐点 1961年10月)
 長岡分岐点停留所では列車交換があり、乗務員の交代がありと、運転上の要衝でした。

 右側の1105は大きな「梁川」という行き先表示を付けています。梁川行は52分毎運転と、かなり運転間隔が長かったようです。

(福島電鉄 軌道線 長岡分岐点 1961年10月)
 張上げ屋根で窓も大きく、福島電鉄軌道線でピカイチの新車だった2030形の保原行。

 当時の時刻表によると福島駅前〜保原間の運転頻度は13分毎と、中々の運転密度だったようです。
 保原は今の阿武隈急行沿線でも主な町です。

(福島電鉄 軌道線 長岡分岐点 1961年10月)
 馬面の貨物電車ニモ1を先頭に、狭い道の真ん中を威風堂々とやって来た貨物列車。
 「続行あり」という標識が目に付きます。

 ローカル鉄道での貨物輸送が健在だった時代にしても、ユニークな風景でした。

(福島電鉄 軌道線 長岡分岐点 1961年10月)
 撮影場所の「長岡分岐点」は俗称のように聞こえますが、鉄道要覧にも出ていた正式な名前です。

 ここではデルタ線を使って、貨車の入替なども行っていました。

(福島電鉄 軌道線 長岡分岐点 1961年10月)
 この1118は二枚引戸のドアであることや、前面窓の高さが揃っていること、側面窓が二段であることなど、他の1100番代の車輛と違う所が多いようです。

 不勉強な私にはこれらの車輛の形式がどう区分されていたのか、分りません。

(福島電鉄 軌道線 長岡車庫前? 1961年10月)
 長岡分岐点から飯坂温泉の入り口、湯野町方面に向かう1118。
 この区間は他の区間より一足早く、1967年に廃止されました。

 道端に線路が敷設された路面電車は各地で見ましたが、ここほど見事?な道端軌道はめずらしいと思います。

(福島電鉄 軌道線 長岡車庫前? 1961年10月)

和歌山電軌

  この項のタイトルはこの線を初めて訪ねた時の社名、和歌山電気軌道から付けましたが、
  1961年から1971年の廃止までは南海電鉄和歌山軌道線でした。

  全線16キロ余、併用軌道区間も専用軌道区間もある変化に富んだ沿線は、全線複線で
  頻繁に運転され、和歌山の市電ともいうべき存在でした。

 この写真以降の3点は1958年に初めて和歌山に出掛けた時の写真です。

 写真の100形は大正生まれの木造単車。
 撮影時はポール集電でしたが、この後間もなくパンタグラフ集電に替りました。

(和歌山電気軌道 和歌山市駅付近 1958年7月)
 この1000形は昭和初期に作られた和歌山電軌初のボギー車で、大きな弧を描く前面の形が独特です。

 撮影当時の和歌山市駅付近は戦災の跡なのか、空き地や屋根の低い木造家屋が目立ちました。

(和歌山電気軌道 和歌山市駅付近 1958年7月)
 昭和30年頃、各地の路面電車に相次いで新車が入りましたが、この1000形もその流れの中の一つで、ノーシルノーヘッダーに張上げ屋根が斬新でした。

 背後はデパートが併設される前の南海電鉄和歌山市駅です。

(和歌山電気軌道 和歌山市駅付近 1958年7月)
 和歌山電軌(撮影時には南海電鉄和歌山軌道線でしたが)海南終点に近い付近の風景。

 当時の時刻表によると、東和歌山〜海南の所要時間は国鉄が15〜20分なのに対し、和歌山電軌は30分を要するものの、10分ヘッド運転で対抗していたようです。

(南海電鉄和歌山軌道線 野上電鉄前付近 1970年3月)
 和歌山の中心街を行く200形。

 和歌山電軌には系統番号は設定されていなかったようですが、和歌山市駅、和歌山駅、新和歌浦、海南と四つのターミナルを結ぶ、]字状の運転系統は中々便利でした。

(南海電鉄和歌山軌道線 京橋付近 19703年3月)
 紀三井寺付近の専用軌道を行く200形。

 向うに見える線路は国鉄紀勢本線で複線にはなっていますが、未電化の時代です。
 ここで並走シーンが撮れないかと期待したのですが、一度や二度の訪問では無理でした。

(南海電鉄和歌山軌道線 紀三井寺付近 1970年3月)
 和歌山城を仰ぐ公園前停留場を行く250形。元は秋田市電の60形で、秋田市電が廃止後に和歌山に転じて来たものです。

 写真のようなグリーンとクリームの塗分けは南海和歌山軌道線の時代に入った車輛で、和歌山電気軌道時代に入った車輛はブルーとクリームの塗分けと、区別されていました。

(南海電鉄和歌山軌道線 公園前 1970年3月)
 こちらは海南終点付近での250形。
 いかにも地方都市といった感じの街並みでした。

 250形は和歌山に転入するにあたって、車端を絞りヘッドライトを2個にするなどの改造を受けたので、秋田市電時代とは感じが変っています。

(南海電鉄和歌山軌道線 海南前前付近 1970年3月)
 新和歌浦終点に佇む300形。
 この付近は漁港めいた独特の風情がありました。

 写真の300形は広い幕板に弧を描いた前面などが200型とそっくりで、私には区別が出きません。

(南海電鉄和歌山軌道線 新和歌の浦 1970年3月)
 新和歌浦終点は観光地の和歌浦にも近いだけに切符売り場や待合室もあり、いかにも”終点”という感じがしました。

 電車はここから和歌山市駅方面、和歌山駅方面、合せて10分ヘッドの運転でした。

(南海電鉄和歌山軌道線 新和歌の浦 1970年3月)
 和歌浦口は海南方面と新和歌浦方面の分岐点。
 写真の700形は廃止された三重交通神都線から転入した車輛です。

 写真の和歌山市駅行は中々混雑しているようで、これだけの利用者がありながら、撮影の翌年に廃止されたのは予想外でした。

(南海電鉄和歌山軌道線 和歌浦口 1970年3月)
 和歌山駅前の風景。
 停まっている電車は右が321形、左は1000形か?
 和歌山電気軌道が購入した車と南海電鉄和歌山軌道線が購入した車の塗色の違いがお分かりでしょうか?

 蛇足ですが、背後の国鉄和歌山駅は1968年に改名したもので、それまでは東和歌山駅でした。

(南海電鉄和歌山軌道線 和歌山駅前 1970年3月)

山陽電鉄 

  私の若い頃の山陽電鉄には他私鉄との連絡駅がなく、神戸側の起点の兵庫付近には
  併用軌道区間も残っていて、B級私鉄という印象は否めませんでした。

  それが今のように姫路〜梅田間に直通列車が走るようになるとは、変ったものです。
  もっとも、この直通はJRとの競合上やむをえず・・・といった観もありますが。

 元々は兵庫〜姫路の直通運転用に投入された小型車 100形。

 撮影した頃の山陽電鉄には、国鉄63形に準ずる700形のような大型車もある一面、このような小型車もたくさん残っていました。

(山陽電鉄 飾磨 1958年3月)
 こちらは小型車ではありながら独特の流線型が売りだった200形。

 1957年ごろだったか、須磨付近で初めてこの車を見たときは小柄ながら中々のスピードに感心しました。

(山陽電鉄 飾磨 1958年3月)
 火災に遭った700形の足回りなどを流用して、当時の新鋭車2000形に準じる車体にに生まれ変わった2700形。

 このスタイルは撮影当時の山陽電鉄のエース格のものでした。

(山陽電鉄 飾磨 1958年3月)
 山陽電鉄の西側の起点、電鉄姫路駅。

 真ん中に見えるのは国鉄63形の配給を受けた700形。
 この車輛が入線できるように路線を改良したことが、山陽電鉄の後日の発展に寄与しています

(山陽電鉄 電鉄姫路 1958年3月)
 神戸市電との平面交差を行く700形。

 おおよそは国鉄63形のままですが、細部は山陽独自のスタイルです。第一、ゲージが1435ミリですから。

 この平面交差は、京都市電と京阪電鉄の交差に並んで、関西での鉄道名所でした。

(山陽電鉄 長田 1963年3月)
 山陽電鉄最初の高性能車2000形。

 2000形はいろいろなバリエーションがありました。
 写真の2013編成は3ドアで貫通スタイルにロングシートですが、何といってもこの編成の特徴はアルミ製と言う点だったでしょう。

(山陽電鉄 山陽須磨 1963年3月)
 こちらは同じ2000形でも特急用で、非貫通2ドアの車体に転換クロスシートのNo2009他の3連。

 このバリエーションは1958年の山陽本線姫路電化に対抗するための車輛だったと言われていました。

(山陽電鉄 長田 1963年3月)
 1948年、私鉄車両で戦後初の転換クロスシート車としてデビューしたことで名高い820形。

 この車のお蔭で、それまで知名度の低かった山陽電鉄の名が高くなりました。

(山陽電鉄 兵庫 1968年3月)
 100形の部品を流用して造られた250形。
 こじんまりしていますが、好感のもてるスタイルの車輛でした。

 こうして見ると、15メートル級のこの形式から20メートル級の700形まで、山陽電鉄の車は大小様々だったことに驚きます。

(山陽電鉄 長田 1968年3月)
 山陽電鉄の東側の起点だった兵庫駅。
 姫路行の820形が出て来ました。

 兵庫〜西代間の併用軌道区間が、神戸高速鉄道の開通に伴い廃止される一ヶ月前の光景です。

(山陽電鉄 兵庫 1968年3月)

西鉄 北九州線、北方線 

  西鉄北九州線は豪快な走行と頻繁な運転で、オールドファンの間で人気がありました。

  今回は寸見ではありますが、ありし日の西鉄北九州線とその支線だった北方線の車輛を
  ご覧いただこうと思います。
  最大規模の頃は約45キロの路線があった北九州線ですから、ほんのつまみ食いですが。

 初めて北九州線を見たとき、目をひいたのはこの66形でした。

 いかにも昭和初期に作られたらしい広い幕板にリベットだらけの車体で、重苦しげなスタイルではありましたが、意外に俊足だったことが印象に残っています。

(西鉄北九州線 致津車庫前 1959年3月)
 こちらは戦争前に増備された100形。
 上の写真の66形とそっくりですが、側面の窓が一枚少なくなっています。

 全長12メートルでドアが両端に寄っているとドア付近が混んで、車掌さんは客扱いに大変だったろうと思います。

(西鉄北九州線 魚町 1963年7月)
 100形は50両以上が作られたため、いくつかのバージョンがありました。

 こちらは1936年のデビュー当時流行の、流線型を取り入れたスタイルです。
 屋根も張り上げになって近代的な感じです。

(西鉄北九州線 魚町 1963年7月)
 これも100形です。

 私の記憶では100形の内、No138以降は前照灯がこの車のように屋根の上にあって、京都市電600形と似ていたはずでしたが、何時の間にか窓の下に移設されたようです。

(西鉄北九州線 魚町 1959年3月)
 門司駅に近い桟橋通から広石への勾配を登るNo142。
 100形の晩期の姿です。

 国道3号線を通るこの区間は勾配や曲線が続く特徴のある景観でした。
 100形はこの区間の廃止に合わせたように姿を消しました。

(西鉄北九州線 桟橋通 1979年5月)
 連接車というのは京阪電鉄の60形や名古屋市電の2600形のように、戦前からもありました。
 しかし、大量に使い始めたのは西鉄が最初でしょう。

 次々とやって来る連接車には圧倒される感じでした。

(西鉄北九州線 魚町 1963年7月)
 この写真のNo2012の素姓がよくわかりません。
 北九州線に2000形というのはあったのでしょうか?

 今なら筑豊電鉄の車輛に2000形がありますが、1959年当時の筑豊電鉄は自前の車輛は無かったはずです。

(西鉄北九州線 黒崎車庫前 1959年3月)
 以下は北九州線の支線的な存在だった北方線の話です。
 北方線は西鉄とは別の企業だった路線で、ゲージも1067ミリと北九州線の1435ミリとは違いました。

 写真のNo302は北方線の前身、小倉電気軌道から引き継いだものです。

(西鉄北方線 魚町 1959年3月)
 これも小倉電気軌道からの引き継ぎで、元は米子電車軌道の車輛だったという話です。

 情報の少なかった時代は、意外な所で意外な車輛に出会う事がよくあり、それが探訪の楽しみでもありました。

(西鉄北方線 旦過橋? 1959年3月)
 2輌しかなかった323形。
 狭い車両限界に対応するための前面の絞り方が独特で、一度見ると忘れられないスタイルでした。

 この形のNo324は土佐電鉄に移り、廃車後北九州に里帰りして保存されています。

(西鉄北方線 魚町 1963年7月)
 北方線の輸送力アップのため、ボギー車の323形を連接車化したようなデザインで作られた331形は、晩年の北方線の主力でした。

 北方線は1980年に廃止されましたが、北九州モノレールが北方線の路線を辿るように作られています。

(西鉄北方線 魚町 1963年7月)


仙台市電 

  杜の都仙台の市電が廃止されたのは1976年。当時を知る方はもう中年の筈ですね。

  私が始めて仙台市電に出会ったのは1960年11月でした。
  以来、何回か訪問していたのですが、これといった写真もありません。
  それでも厚かましく、何枚かを拾い出してお目に入れましょう。
   (本項は以前にPCの故障で消滅した写真を主にした再アップです)

 1960年11月、初めて訪ねた仙台市電には、まだ単車も多く使われていました。
 写真はその中で開業時からの古豪 1形。

 1形は木造だったはずですが、この写真では鋼体化されている様にも見えます。

(仙台市電 仙台駅前付近 1960年11月)
上の写真と同じ場所で撮ったもの。この日は雨模様で撮影場所を探すのにウロウロした覚えがあります。

 この30形は昭和初期に増備された半鋼車で、上の1型とは似たようなサイズですが、シングルルーフで一段窓に変っています。

(仙台市電 仙台駅前付近 1960年11月)
 43型は仙台市電独特の流線型。
 私は仙台市電と言うとこの車輛が思い浮かぶのは、このスタイルの印象がよほど強かったからでしょう。

 これがボギー車で車体がもう少し長ければ・・・とも思ったものですが。

(仙台市電 東五番町 1960年11月?)
 センターポールだった仙台駅前付近の風景
 市電100型とオート三輪との顔合わせが面白くて撮ったように覚えています。

 窓の大きな100形は戦後生まれで仙台市電最初のボギー車でした。
 写真はワンマン化改造前の姿です。

(仙台市電 仙台駅前付近 1963年5月?)
 秋保電鉄前停留場に到着した100形。

 画面左に見えるカーブしている線路は秋保電鉄への連絡線ではないでしょうか。
 仙台市電と秋保電鉄は一時期貨物電車の乗入れがあったという話からの想像ですが。

(仙台市電 秋保電鉄前 1960年11月?)
 ワンマン化のため前面が2枚窓化され、ドア配置も塗分も変った後の100型。

 100型の内1輌が長崎電軌1050形として残っているのは御承知の通りです。

(仙台市電 交通局 1972年5月)
 全金属車でスマートだった200型。

 デビュー当時の前面は左右対称の2枚窓だったはずでしたが、写真はワンマン化改造後で前面のスタイルが変っています。
 こうして見ると何処となく函館市電600形と似ているように感じます。

(仙台市電 八幡一丁目? 1972年5月)
 400形は前面中央の大窓あたりが都電8000型に似ていると思うのは私だけでしょうか?

 400形の一部は直角カルダン駆動でマキシマム台車という、仙台市電独自の台車を履いているということは、この日交通局の方に教えらるまで気が付きませんでした。

(仙台市電 交通局前 1972年5月)
 呉市電の廃止後、仙台市電に引き取られてきた3000型。

 この車輛は大型車ですが車体の端を絞ってないため、カーブで離合するときは注意を要したとか。
 同様な話は京都市電伏見線でも聞いたことがあります。

(仙台市電 大町西公園 1972年5月)
 これは秋保電気鉄道のモハ402。
 仙台市電ではありませんが、仙台市電秋保電鉄前付近で線路が繋がっていた誼で、アップしました。

 1961年に廃止された秋保電鉄は、雰囲気が静岡鉄道秋葉線と似ていました。
 車庫内に見える電気機関車など、他の秋保電鉄の車輛をほとんど写していないのは残念です。

(秋保電気鉄道 長町 1960年11月)

阪急 京都本線

  1955年頃の阪急京都本線には、まだ新京阪鉄道の雰囲気が色濃く残っていました。

  車輛の主力は新京阪から引き継いだデイ100形で、そこに阪急スタイルの710形等が混じった
  いた頃です。

  以来幾星霜、今の京都線と神宝線は一見しただけでは区別が出来無くなりました。
  

 デイ121を先頭にした梅田行急行。
 デイ100形の大型貫通幌が独特の風貌です。

 惜しむらくは、この時代のデイ100はベンチレーターがグローブ形に更新されています。
 これは少々目障りで、元のガーランド形の方が良かったと思うのですが。

(阪急電鉄 桂 1957年11月)
 これはデイ100系の幌無し側。

 こうして見ると、デイ100の前面は貫通幌がある方が重厚感があって、好ましく感じます。

 デイ100はメーカーや製造時期によって、形状や機器に微妙な違いがあったはずですが、私にはその辺の知識がありません。

(阪急電鉄 桂 1963年1月)
 新京阪鉄道として建設されたこの線は、カーブも少なく高速運転向きの線形で、その線路の上を50トンを超えるデイ100が走ってくると迫力がありました。

 軽量化などという言葉はあまり聞かなかった時代の話です。

(阪急電鉄 東向日町付近 1961年10月)
 春秋の観光シーズン以外の嵐山線は、北大阪線から移ってきたデロ10形など小型車の舞台でした。
 デロ10形は能勢電鉄に譲渡された車が沢山ありましたが、写真のデロ16は最後まで嵐山線で働いていました。

 写真の場所は今では住宅街となり、特定が困難です。

(阪急電鉄 上桂付近 1961年3月)
 これは阪急の希少車に入る車輛 210形。

 千里山線用に電動貨車を改造したものですが、1編成だけでは使いにくかったからか嵐山線に廻され、さらにその後は広島電鉄宮島線に譲渡されています。

(阪急電鉄 桂 1963年7月)
 これも希少車の仲間の200型。
 阪急でただ1本の流線型車輛として、有名ではありました。

 今では6300系が走る嵐山線も、1960年頃には古い車や半端な車の溜り場という感じでした。

(阪急電鉄 松尾付近 1962年3月)
 特急の2枚看板が名物だった京都線。
 これは宝塚線と線路を共用していた当時の梅田・十三間で、誤乗を防ぐためだったという話を聞いたことがありますが。

 撮影場所の辺りは竹藪が多く筍が名産で、今でもこの辺で採れた筍は高い値が付いています。

(阪急電鉄 西向日町付近 1957年5月)
 桂を発車した710系の梅田行特急。

 この頃になると、京都線向けの新造車輛も神戸線や宝塚線との共通化が進んでおり、この710系などは神戸線の810形とそっくりでした。

(阪急電鉄 桂 1957年11月)
 特急に活躍していた頃の1300形、1301編成。
 窓から見えるクロスシートが特急用車輛らしい雰囲気です。

 写真の編成はデビュー当初は3連でしたが、写真は4連化されてからのものです。

(阪急電鉄 桂 1962年12月)
 2307を先頭にした梅田行急行。
 1960年に生まれた2300形は、その後の阪急の車輛のスタイルを固めた形式です。

 今回、この写真をチェックするまで、この車が第一回ローレル賞を受賞していたことを忘れていました。

(阪急電鉄 桂 1962年12月)

中国 落ち穂拾い  (7月21日追加)

  今回は中国地方にあった小私鉄、船木鉄道、防石鉄道、日ノ丸自動車法勝寺電鉄線の話。

  どれも、比較的早くに廃止された小私鉄で、現在なら「こんな所にまで私鉄が・・・」と驚かれる
  ような存在でした。

  どの鉄道にも乗っただけで、お恥ずかしい写真しかありませんが、ご笑覧下さい。
  

 防石鉄道とは、旧国名の周防と石見から付けられた名称でしたが、山陽本線防府から堀まで18.8キロの路線しか開通しないままに、1964年に消えた鉄道です。

 この鉄道の晩年の名物は、動けなくなった蒸気機関車を先頭にした写真の編成でした。

(防石鉄道 周防宮市 1961年9月)
 この機関車は川越鉄道のクラウスとして知られていたもの。
 小型ながらも使いやすい機関車だったようで、同形機をあちこちで見ました。

 この機関車は現在も保存されているようですが、私が見たのはこの日だけでした。

(防石鉄道 周防宮市 1961年9月)
 こうして見ると、この機関車の動輪は中々大きいので、力はともかく、スピードはかなり出そうです。

 一度、こんな列車に乗ってみたかったと思ったものでした。

(防石鉄道 周防宮市 1961年9月)
 蒸機列車と気動車の列車交換かと思わせる光景。

 左のキハ103は元は中国鉄道の車輛で、国鉄になった後、長門鉄道を経由して防石鉄道に来たものです。

(防石鉄道 周防宮市 1961年9月)
 当時の防石鉄道は気動車で運転されていました。

 写真の右はキハニ103、左は中国鉄道の出身キハニ102だったと思います。
 あとの1両は庫内にいたものか、写真がありません。

(防石鉄道 周防宮市 1961年9月)
 所変わって、山陰は米子の郊外に12キロ余の路線があった法勝寺鉄道。

 紆余曲折の末、バス会社の日ノ丸自動車に合併され、ノ丸自動車法勝寺電鉄線という長い名前になりましたが、地元では法勝寺鉄道で通っていました。  
 この線は1967年に廃止されています。

(日ノ丸自動車法勝寺電鉄線 米子市 1957年9月)
 この鉄道の起点の米子市駅は、国鉄米子駅から少し離れた所にありました。

 車輛は木造車か、木造車に鉄板を張った簡易鋼体化車で、写真のデハ6は元名古屋鉄道の車輛だったそうです。

(日ノ丸自動車法勝寺電鉄線 米子市 1957年9月)
 車庫で整備中のデハ7とデハ203。
 奥の方のデハ7は、元は東急の前身、目蒲電鉄からの車でした。

 この頃、この鉄道に何輌の電車が在籍していたか覚えていませんが、1時間に1往復運転で往復に1時間かからない程度の路線では、そんなに多くの車輛は必要なかったでしょう。

(日ノ丸自動車法勝寺電鉄線 米子市 1957年9月)
 また、山陽地方に戻って船木鉄道の話。
 この会社はバス会社としては存続しているようですが、鉄道会社としては影の薄い存在でした。

 私が訪問したのは廃止の2ヶ月前で、路線も西宇部から万倉間9.7キロに短縮され、全線通しの列車は日に7往復しかありませんでした。

 写真は車庫ノあった船木町でのキハニ51です。

(船木鉄道 船木町 1961年9月)
 カビの生えた写真ですが、上のキハニ51をカラーで写していましたので、色見本としてご覧ください。

 このキハニ51は芸備鉄道から国鉄を経て船木鉄道に来たものですが、船木鉄道廃止後は加悦鉄道に転じていました。

(船木鉄道 船木町 1961年9月)
 こちらのキハニ50は佐久鉄道の車輛が国有化された後船木鉄道に来たものだとか。
 そういえば、この角ばった前面2枚窓の車の兄弟らしい車を上田丸子電鉄でも見たような気がします。もっとも日本車両の規格形気動車ですから、あちこちに同類はいたと思いますが。

(船木鉄道 船木町 1961年9月)

土佐電鉄

  土佐電鉄は1904年開業と、非常に古い歴史のある鉄道です。

  私が初めて乗ったのは1962年5月。当時は市内線から安芸線への直通運転があって、
  播磨屋橋から安芸行に乗ったように思うのですが、その辺の記憶が曖昧です。

  土佐電鉄の安芸線がLRTになって残っていたら・・・・と思いながら、古い写真を並べて
  みました。

 この武骨なボギー車は1963年に廃止された琴平参宮電鉄の車輛だったと思うのですが、あまり自信はありません。

 私の写真も車庫内でのこの姿しかないので、朝夕の時間帯しか使われていなかったのかもしれません。

(土佐電鉄 知寄町 1974年8月)
 初めて訪ねた時代の土佐電鉄には、まだ多くの単車がいました。

 その中で、この150形は流行の金太郎の腹掛け式に塗分けていますが、車体は少々古い感じだったのは、更新してなかったからかも知れません。

(土佐電鉄 知寄町 1962年5月)
 都電6000形のコピーのような200形は、土佐電鉄で最初のボギー車でした。

 通っているのは高知の中心、播磨屋橋交差点。

 ここは土佐電鉄でただ一つの交差点ですが、このような十文字にクロスする交差点は全国的にも珍しくなりました。

(土佐電鉄 播磨屋橋 1962年5月)
 この200形はパンタ集電なので、鉄道線との直通運転に使われていた車輛だったのかな?・・・と想像しています。
 そう言うと、何故か私は連結運転の姿を写していません。

 私の写真の撮影地に知寄町というのが多いのは、当時の車庫が知寄町にあったからですが、1987年だったかに今の桟橋通に移転しています。

(土佐電鉄 知寄町 1962年5月)
 この300形は古い木造車を自社工場で更新した車です。

 この電車は単車にしては車体は大型で、足元を見ず前面だけを見ていると200形とそっくりの、中々ユニークなスタイルではありました。

(土佐電鉄 知寄町 1962年5月)
 土佐電鉄で1輌だけの存在だった500形。
 外見は200形そっくりですが、直角カルダン駆動に間接制御の高性能車でした。

 しかし、せっかくの高性能車も少数派では使いにくかったのでしょう。
 後に吊り掛け式に改造されています。

(土佐電鉄 播磨屋橋 1962年5月)
 複線を走ってきた伊野行の電車も、鏡川橋を渡って単線の狭い道に入ると、にわかに足が遅くなります。

 私のような変人はこうした景観を見て喜んでいますが、土佐電鉄にとっては走りにくくて厄介な場所でしょうね。

(土佐電鉄 朝倉付近 1962年5月)
 この朝倉電停付近の景色は、今でもこの写真とあまり変わっていないようです。

 車輛の600形も塗色こそ変っていますが、大部分が健在なのは嬉しいことです。
 しかし、この車輛もそろそろ交代の時期ではないでしょうか?

(土佐電鉄 朝倉付近 1962年5月)
 元気動車のクハ2002など3連の鉄道線(安芸線)の列車。
 土佐電鉄の鉄道線は1974年4月に廃止されたので、私が乗ったのはこの元気動車クハニ2002を撮った日だけでした。

 当時の鉄道線には元阪神電鉄の小型車などもいたのに、それらの写真がありません。
 終点まで行ったことに満足して帰ったのか、我ながら記憶がいい加減です。

(土佐電鉄 安芸 1962年5月)
 鉄道線には貨物列車も走っていて、牽引は写真のED2001が担当していました。
 この沿線からは野菜類の出荷が多く、それが貨物列車のお客だったようです。

 ところで、この車輛のメーカーは中日本重工となっていましたが、これは三菱重工三原製作所のことです。

(土佐電鉄 安芸 1962年5月)

弘南と津軽の昔

 先日、念願だった東北新幹線八戸〜新青森の乗車が出来ました。

 その際、弘南鉄道各線と津軽鉄道も超駆け足で回って来ましたので、その時のスナップを
 「最近の話」のコーナーにアップしました。

 その関連で、このコーナーには弘南鉄道と津軽鉄道の昔の写真を並べて見ました。
 過去と現在を合わせてご覧いただければ幸いです。

 半世紀前の弘南鉄道の車両基地 平賀。

 この頃の弘南線は1500Vに昇圧して間もない時期で、昇圧のため買い集めた中古車がたくさん在籍していました。

この電車も西武鉄道から譲り受けた、モハ2332だったと思います。

(弘南鉄道 弘南線 平賀 1963年5月)
 こちらは元身延鉄道の買収国電だった、クハニ1282ではなかったかしら?

 この頃の弘南線は、こうしたセコハン車が多いことでは、西の琴電と並ぶと言われていましたが、急行も走っていて、中々活気のある鉄道でした。

(弘南鉄道 弘南線 平賀 1963年5月)
 木造の車体で頑張っていた除雪車キ4。

 今の弘南鉄道や津軽鉄道では除雪車にファンの目が集まっているようですが、この写真を写した頃には特に注目されている車輛でもなかったと思います。

(弘南鉄道 弘南線 黒石 1963年5月)
 この電気機関車も西武鉄道から弘南鉄道にやってきて50年以上経ちますが、2012年の現在も平賀の構内で健在です。

 しかし、冬季の除雪列車用といっても、高齢車なので何時まで使われることやら、心配になります。

(弘南鉄道 弘南線 平賀 1963年5月)
 ここから2枚は、大鰐線が弘前電気鉄道として弘南鉄道に吸収される前の写真です。

 車輛は1952年の開業時に用意された100形。
 秩父鉄道の木造車を簡易鋼体化したもので、いかに手入れしたとは言ってもぱっとしない車輛でした。

(弘南鉄道 大鰐線 大鰐 1963年5月)
 上の車輛と塗色が違いますが、これも弘前電気鉄道の車輛で、モハ106だったはず。

 経営難が続いた弘前電気鉄道は、1970年に弘南鉄道に吸収されるまで新車の投入は無いままに、短い歴史を閉じました。

(弘南鉄道 大鰐線  1963年5月)
 弘南鉄道黒石線は廃線となった国鉄黒石線を引き継いだ線で、非電化だったため、国鉄から譲り受けたキハ22などが使われていました。

 JRに乗入れて、弘前〜川部〜黒石〜弘前と循環運転出来たら?などと、夢想していたのですが、1998年に消えたのは惜しまれます。

(弘南鉄道 黒石線 黒石 1991年8月)
 津軽半島を南下する津軽鉄道の終点、津軽中里に停まる木造客車と気動車の混成列車。
 牽引するディーゼル機関車は機廻し中だったのか、姿が見えません。

 この木造客車ナハ12002の車窓から見た、落花盛んな芦野公園駅の光景は今でも印象に残っています。

(津軽鉄道 津軽中里 1963年5月)
 金木で列車交換するキハ24000形。

 客車に替って登場したキハ24000形でしたが全列車が気動車化されず、車両不足を補うため客車列車が残りました。

 それがストーブ列車として人気を得たのは皮肉なことです。

(津軽鉄道 金木 1991年8月)
 地方私鉄にはよく見られたスタイルのキハ2405。
 この車の出身は三岐鉄道のキハ1形だったと思います。

 津軽鉄道を初めて訪問した1963年にはこの車も現役でしたが、その後すぐにキハ24000形と置換えられたようです。

(津軽鉄道 津軽五所川原 1963年5月)

長野電鉄 

  先日、長野電鉄屋代線が河東鉄道以来90年の歴史を閉じました。

  私が初めて長野電鉄に乗ったのは1958年5月。屋代から須坂を経て長野に出たのですが、
  その時、屋代線の運転士さんから長野電鉄の車輛の話を伺い、須坂では撮影の案内まで
  していただいた事は忘れられない思い出です。

 長野電鉄生え抜きの電気機関車ED5001。
 仲間が3輌もあったということは、長野電鉄の昔の貨物輸送の盛大さを物語っています。

 この機関車は国鉄ED15と同形機ということですが、ED15を見たことが無いのでよくわかりません。

(長野電鉄 須坂 1958年5月)
 戦後の運輸省規格形車輛の仲間 クハ1052。

 運輸省規格形といっても中々スマートで、好感のもてる車輛でした。
 ただ、類似の車輛があちらこちらにあって、この車が長野電鉄の代表的なスタイルだとは言えませんが。

(長野電鉄 須坂 1958年5月)
 元は東武鉄道の車輛だったモハ400形。

 戦後の車両不足時代、大手私鉄がロクサン形の配給を受ける代償に、自社の車輛を地方私鉄へ提供させられた中の一つです。

 長野に来て約10年経った撮影時でも、東武車の独特の雰囲気が残っていました。

(長野電鉄 須坂 1958年5月)
 この古典的な面構えの木造車クハ51は元信濃鉄道(現 大糸線)の車輛が、国有化後に長野電鉄へ払い下げられてきたもの。

 つい先日廃止された河東線(屋代線)で働いていた時の姿です。

(長野電鉄 松代 1958年5月)
 山ノ内線の勾配区間を下るモハ1003。
 長野市内の地下化までは、長野電鉄の主力はこの1000形や1500形だったように思います。

 撮影した時、沿線の林檎の木々はまだ芽吹いていません。

(長野電鉄 夜間瀬付近? 1970年5月)
 須坂で待機中のモハ601。
 リベットだらけの車体に重たそうな深い屋根は、昭和初期の川崎造船所製独特のスタイルです。

 関西育ちの私には、このスタイルは阪急や奈良電で見慣れたものでした。

(長野電鉄 須坂 1958年5月)
 大正末期の汽車会社製 モハニ511。
 荷物室は写真の左端ですが、客室との仕切りは無かったように覚えています。

 このモハニ511は上の写真のモハ601と連結して運用されていました。
 511と601の2輌は製造時期が近くても、メーカーの違いでずいぶん印象が違います。

(長野電鉄 須坂 1958年5月)
 二色塗分けになった時代の600型です。
 2枚上の写真と同じ600形ですが、塗分けたことで印象が変りました。

 この写真は木島線に乗った時の撮影です。
 場所に自信がなかったのですが、画面端に信州中野の駅名板が見えたので安心しました。

(長野電鉄 信州中野 1970年5月)
 対向列車の窓から写したモハニ531。
 撮影場所は例によって?付きですが、島式ホームの外側に側線もあり、私鉄としては大きな駅です。

 写っているモハニ531は2枚上の写真のモハニ511が改番されたものだとか。

(長野電鉄 桜沢? 1970年5月)
 塗分け時代の2002編成。

 この車はあまりにも有名で、私などが何も言うことはありません。
 「名車だった」とだけ言わせて戴きます。

(長野電鉄 信濃竹原 1970年5月)

伊予鉄道 鉄道線 

  伊予鉄道は四国最初の鉄道であるだけでなく、地方私鉄としても有数の存在です。
  それなのに、このコーナーに伊予鉄道鉄道線を漏らしていました。

  今回は遅ればせながら伊予鉄道鉄道線(郊外線)の昔話をさせて頂きます。

 坊っちゃん列車のイメージを残す客車ハ32です。

 現在、市内線を走っている復元坊っちゃん列車の客車はこの車をモデルだという事ですが、50年前には現役の客車でした。

(伊予鉄道 古町 1962年5月)
 この木造客車ハフ551は単車2両を改造して1輌のボギー車にしたというものだそうで、1967年に横河原線が電化されるまで使われていた客車です。

 小さなディーゼル機関車に牽かれたこの客車がゆっくり松山市駅を出て行く姿は、中々の見ものでした。

(伊予鉄道 松山市 1962年5月)
 上の写真の客車を牽いていたディーゼル機関車DB3。

 この機関車は瀬戸内海の対岸、新三菱重工三原製作所で作られたもので、横河原線、森松線で活躍していたのですが、横河原線の電化、森松線の廃止などで姿を消しました。

(伊予鉄道 古町 1962年5月
 1931年の高浜線改軌、電化の際に新造されたモハ100形。
 作られた時代を考えると、ずいぶん立派な車輛ではありませんか。

 100形の元の姿は両運だったそうですが、写真で見ると片運に改造されています。

(伊予鉄道 古町 1962年5月
 このNo106は上の写真と同じ100形を名乗っていますが、形状は随分違います。

 この車輛は戦後生まれの制御車だったものを電動車化して、100形に編入したようです。

(伊予鉄道 松山市 1962年5月
 こちらは西武鉄道から譲渡されたモハ110形。
 1967年の横河原線電化に当って増備した車輛です。

 今の横河原線沿線は住宅地が多くなっていますが、写真を写した当時は長閑な所でした。

(伊予鉄道 石手川公園 1974年8月
 本来のモハニ200形は高浜線電化時に作られたものですが、この203は荷物室もなく、スタイルも戦前製とは見えない車輛です。

 それというのも、この車は戦災を受けた車を戦後に復旧したからだという話でした。
 戦後間もない1950年頃には、各地の鉄道で戦災復旧車と言う名目の新車を見掛けたものです。

(伊予鉄道 古町 1962年5月
 モハニ200形の元の形。
 運転台のすぐ後ろのドアは荷物室用でしたが、撮影した頃は使ってなかったような記憶があります。

 撮影地の梅津寺は海に近い景勝地で、伊予鉄道が経営する遊園地があったのですが、何時の間にか廃園になったようです。

(伊予鉄道 梅津寺 1974年8月
 西衣山に到着した松山市行。
 モハ200+クハ400+モハ100の3連はこの頃の高浜線の代表的な編成です。

 この駅の東方で予讃本線が高浜線をオーバークロスしていて、この地域では伊予鉄道の方が鉄道としては先輩だということを示しています。

(伊予鉄道 西衣山 1974年8月
 張殻構造の車体にWNドライブの600形。
 メーカーはナニワ工機という懐かしい名前です。

 この車が作られた1958年前後には、長野電鉄2000形、富山地方鉄道10020など、各地の私鉄に高性能新車が登場していますが、この600形もそれらの仲間と言えるのではないでしょうか。

(伊予鉄道 古町 1962年5月
 このコーナーでただ一つの現存する車輛。
 初めてこの姿を見た時、ここはドコ?と思いました。

 伊予鉄道が京王電鉄5000系を譲り受けて700系としてから、もう20年以上になるそうですが、このパノラミックウィンドウを今でも新鮮です。

(伊予鉄道 松山市 2002年8月

静岡鉄道駿遠線

  前回の更新で静岡鉄道秋葉線を紹介しましたが、今回はその続きで同じ静岡鉄道の駿遠線を。

  もっとも、同じ静岡鉄道と言ってもこの二つの路線は沿革などが全く違いますが、私にとっては
  同じ日に乗った忘れがたい鉄道と言う点で、セットになって思い浮かんできます。

  なお、撮影地については資料を失くしため不確かな点をお許しください。

  静岡鉄道駿遠線については ぜひこちらもご覧ください。

 国鉄袋井駅に隣接していた、駿遠線袋井駅で発車を待つキハD9。

 当時の時刻表を見ると、駿遠線の袋井発は新藤枝行が11本、途中駅までが13本もあり、国鉄ローカル線など足元にも寄れない運転回数でした。

(静岡鉄道駿遠線 袋井 1961年4月)
 前面2枚窓、金太郎の腹掛けの塗分けと、当時の流行スタイルのキハD17。

 ニブロクでこの車に似たスタイルの車は仙北鉄道や井笠鉄道などにもありましたが、駿遠線のこの車両は自社製という点で独自のものでした。

(静岡鉄道駿遠線  1961年4月)
 交換待ちの車輛はダブルルーフで客車のように見えることから、キハC2だと思います。

 キハC2は木造の気動車という点が珍しかった車輛なので、もう少しマシな写真がないかと探したのですが、残念ながら見当たりません。

(静岡鉄道駿遠  1961年4月)
 いかにも戦前型の気動車らしいスタイルのキハD5。
 バスケットの柵まで塗分けてある細かい細工が愉快です。

 この日駿遠線に乗っていて感心したのは、交換する列車それぞれの乗車率が良いことで、数年後には部分廃止が始まるなど思いもよりませんでした。

(静岡鉄道駿遠線 榛原町? 1961年4月)
 客車1両だけを曳いてやってきたのはDB606?

 気が付かない間に画面におじさんが入ってしまい、朝顔式の連結器が隠れてしまいました。

(静岡鉄道駿遠線  1961年4月)
 赤穂鉄道から譲り受けた車輛として知られていたキハD10。

 がっちりしたスタイルはニブロクとは思えないほどの貫録がありましたが、連結器の周りを見るとやはりナローの雰囲気です。

(静岡鉄道駿遠 新藤枝 1961年4月)
 こちらは駿遠線の前身、藤相鉄道から引き継いだキハD8。

 正面の2枚窓や目深な庇など、一番上の写真のキハD9とよく似たスタイルですが、側面の窓配置が少し違いました。

(静岡鉄道駿遠線 大手 1961年4月)
 構内で入替中のDB604。
 いわゆる「蒙古の戦車」の仲間ですが、この機関車がそう呼ばれたのは何故でしょうか?

 古代中国やローマの戦車については書物や映画で見たことはありますが、蒙古軍というと騎馬兵という印象なのですが?

(静岡鉄道駿遠線 大手 1961年4月)
 B形のディーゼル機関車は意外に力持ちで、4両の客車を曳いて入替しています。

 当時の駿遠線の新藤枝発は袋井行が11本、途中駅までの列車が17本という盛況でしたから、客車4連の列車にも違和感はありませんでした。

(静岡鉄道駿遠線 大手 1961年4月)
 こちらは三重交通から譲り受けた木造客車 ハ27。

 ニブロクの車輛は意外に広い範囲に移動していたもので、駿遠線には鞆鉄道から来た気動車もいました。

(静岡鉄道駿遠線 大手 1961年4月)

静岡鉄道秋葉線

  ”旅ゆけば 駿河の国に茶の香り・・・”浪曲森の石松の一節です。
  その石松の故郷 遠州森町を目指して、東海道本線袋井の駅前から走る軌道がありました。

  この静岡鉄道秋葉線は後にも先にも一度乗っただけで、公開するほどの写真も無いのですが、
  独特の雰囲気には忘れがたいものがありましたので、厚かましくもアップさせていただきます。

 ダブルルーフの客車 ハ2。

 下の写真のハ3と共に天野工場製と聞いていたのですが、何故かハ3とは屋根やステップなどの形状が違いました。

(静岡鉄道秋葉線 ハ2 新袋井? 1961年4月)
 トレーラーとしてモ7に連結されていた客車 ハ3。

 上の写真のハ2と違って、シングルルーフで車体の塗分けも金太郎の腹掛けです。

 小柄な車体に対して、連結器のバッファが目立っていました。

(静岡鉄道秋葉線 ハ3 新袋井 1961年4月)
 途中駅 山梨に停車中のモハ1。

 このモハ1は静岡市内線から移ってきた車だそうでしたが、集電装置は阪堺電軌や阪神電鉄国道線のようなボウコレクター状のものを付けていました。

(静岡鉄道秋葉線 モハ1 山梨 1961年4月)
 上の写真と同じく、山梨でのモハ1。
 山梨は全線の半ばにあり、交換設備やホームもある駅らしい駅で、車庫もありました。

 余談ですが、秋葉線は新袋井〜遠州森町間12.1キロに43分かかっていました。

(静岡鉄道秋葉線 モハ1 山梨 1961年4月)
 車庫で点検中のモハ3。

 古い写真などを見ると、以前は救助網を付けていたはずですが、この写真の頃はフェンダーに取り換えられていました。

(静岡鉄道秋葉線 モハ3 山梨 1964年1月)
 モハ7やモハ8の集電装置はシングルアームパンタグラフを2ヶ組み合わせたような、他の鉄道では見たことのない、日本離れした独特の形状でした。

(静岡鉄道秋葉線 モハ7 新袋井? 1961年4月)
 新袋井に停車中のモハ7。

 こうして見るとモハ7はしっかりした電車に見えますが、この愛すべき軌道線は撮影後一年余りの1962年9月に廃止されました。
 全国各地で消えた小私鉄の中では早い部類でした。

(静岡鉄道秋葉線 モハ7 新袋井 1961年4月)
 モハ7の独特の形状の台車。
 線路状態が悪いのか、台車が悪いのか、乗り心地はイマイチでした。

 ドアの下には運転士の操作で上下する補助ステップが付いていました。

(静岡鉄道秋葉線 モハ7 新袋井 1961年4月)
 モハ8とモハ1の列車交換風景。

 この写真で見ると右側のモハ1はダブルルーフのように見えます。
 しかし、静岡市内線からの移ってきた仲間だというモハ3はどう見てもシングルルーフで、その辺の事情は分りません。

(静岡鉄道秋葉線 モハ8、1 山梨 1961年4月)



熊本市電

  冷房化やVVVF車の導入をさきがけ、路面電車の復権に努力してきた熊本市電の功績は大き
  かったと思います。

  その熊本市電を初めて見たのは、まだ開業当時からの単車が幅を利かせている時代でした。
  ここではそんな昔の熊本市電の姿を並べてみました。

 1924年開業当時からの古参だった10形。

 熊本市電は1435ミリゲージなので、この車は幅も広く単車としては大きいものでしたが、上下動が激しくて乗り心地は今ひとつだったような記憶があります。

(熊本市電 南熊本駅前 1959年3月)
 熊本市電は南熊本駅前で国鉄と熊延鉄道の南熊本駅に連絡していて、相互に乗換る利用者がかなりいたようでした。

 モータリゼーションが進展する前の、古い話です。

(熊本市電 南熊本駅前 1959年3月)
 写真の時代、10形は川尻線や南熊本線での運転が多かったようですが、ときには町の中心部へも顔を出していました。

 背後の熊本城は単車が走る昔も超低床車が走る現在も、変りなく聳えています。

(熊本市電 市役所前 1959年3月)
 大きく1と書かれた系統板を付けた、独特の前面スタイルの60形。

 1系統は田崎橋と子飼橋間の運転で、この系統の線路が残っていれば熊本電鉄と熊本市電の接続が容易だったはずです。
 今になってみると惜しいことをしました。

(熊本市電 辛島町 1959年3月)
 ここは熊本市電撮影の定番の場所で、たくさんのファンがここで何枚も写しています。

 写っている2系統の70形は単車にしては大きな半鋼車で、ボギー車にしてもよさそうな車でした。

(熊本市電 市役所前 1959年3月)
 昔の熊本市電のカラー写真は手持ちが少ないのですが、80形を写したこんな写真がありました。

 九州新幹線が開業した現在、この付近の街並みは写真と大きく変わっています。

(熊本市電 熊本駅前 1963年8月)
 1949年、熊本市電で最初のボギー車として誕生した120形。
 3ドアで中央扉が両開きの車輛は大阪や横浜にも似たものがあって、いわゆる運輸省規格形のように見えます。

 この車は熊本市電ではそれまでの車輛に比べると随分大きかったため、登場時には入線出来ない区間もあったようでした。

(熊本市電 交通局前 1959年3月)
 熊本城を仰いで走る130形。
 これも上の写真の120形と同じ1949年に作られたもので、形式は違っていてもよく似ています。

 現在では、この付近の軌道敷には芝が敷かれ、自動車の乗入れは規制されて、美しい景観になっています。

(熊本市電 市役所前 1959年3月)
 スマートな全金製車体にパンタグラフと、従来の熊本市電スタイルからガラリと変った188形。
 後にワンマン化されて1090形に変身しています。

 つまらない話ですが、私はこの電車の側面の「三つ首塔」という映画広告が妙に印象に残っています。

(熊本市電 水前寺駅前通 1959年3月)
 大きな窓が軽快な感じの200形は後にワンマン化改造されて1200形となった車輛で、メーカーは東洋工機です。

 昭和30年代の熊本市電は何故かこのメーカーがお気に入りだったようで、諸元表を見ると東洋工機という文字がやたらと目につきます。

(熊本市電 市役所前 1959年3月)

大阪市電

  大阪市電は近くにありながら、あまり乗ってもいず、撮ってもいませんでした。

  それというのは、1969年と比較的早くに廃止されたこともありました。また、車輛のスタイルが私に
  馴染めない点が多かったからかも知れません。

  広島電鉄900形として残る車輛に往時を偲ぶばかりの今となっては、もっと撮っておくべきだったと
  悔やむばかりです。

 大手前停留場付近の坂を登る868形。

 この880号は大きな窓は阪神電鉄国道線の71形に似ています。
 大きな窓や傾けた前面などのこのスタイルは、下の写真の901形とも共通するものでした。

(大阪市電 大手前 1961年7月)
 傾斜した前面に左右非対象の2枚窓、側面は前と中央部の2ドアと、戦前の大阪市電形の傑作と言われた901形。

 ただ、ポール集電の車輛で度々ポールが離線するシーンを見た私には、この901形のように車掌が後部にいなくても問題が無かったのか、疑問に思っています。

(大阪市電 天満橋 1961年7月)
 木造車としては非常に大きな車体で、どことなく野暮ったい感じの1001形。

 運転台の上だけ切り取ったような段付き屋根、上段は嵌めころしの飾り窓風の窓など、大阪市電独特のデザインが目立っていました。

(大阪市電 天満橋 1961年7月)
 永年、私はこの1501形を鋼製車だと思いこんでいましたが、今回調べてみたら半鋼製車だったようです。
 1001形のような強い個性はない車輛でした。

 撮影地の大手前辺りは官庁街で、なぜこんな所に行ったのか今となると自分でもわかりません。京阪電鉄の天満橋から近くではありますが。

(大阪市電 大手前 1961年7月)
 大阪市電で最初の鋼製車だった1601形。
 写真は後部ドアを締め切って2ドア化された後のものです。

 背後は阪急梅田駅。
 撮影から50年以上を経た今では、この付近の景観はすっかり変わっています。

(大阪市電 阪急東口 1957年2月)
 戦後の運輸省規格形電車のためか、大阪市電らしさが薄い1711形。
 横浜や名古屋にも似たような車輛があったように思います。

 ビルが林立して空が狭くなる前の大阪駅前付近には、意外にのんびりした空間が広がっていたものです。

(大阪市電 大阪駅前 1957年2月)
 上の写真 1701形の増備車 1801形です。

 この写真を現像して頂いた先輩ファンの「京阪神3都市の市電はそれぞれに、電気、車輛、線路と力を入れる点が違っているようだ」という言葉が頭に残っています。
 不勉強な私にはどこの市電は何に力を入れていたのか、よく分りませんが。

(大阪市電 大手前 1961年7月)
 1801形の次期車だった2001形。

 2ドアの中型車で、ヘッドライトが頭の上に付き、窓周りはノーシルノーヘッダーと、スタイルもそれまでの車と変っていました。

(大阪市電 天満橋 1961年7月)
 高性能試作車3000形の量産形として登場した2201形。

 2ドアの中型車であることは上の写真の2001形と変りませんが、スタイルはがらりと変わりました。
 ただ、この形式の車輛は数少なく、増備は3001形に替っています。

(大阪市電 北浜2丁目 1968年3月)
 大阪市電の戦後の代表的車輛というと、この3001形が思い浮かびます。

 この車の影響は阪堺電軌501形や南海電鉄和歌山軌道線321形などにも見られました。
 そのうち阪堺電軌501形は作られた5両がそろって現役なのは嬉しい限りです。

 なお、この写真と下の写真の撮影地はメモを紛失していて、五里霧中です。

(大阪市電 淀屋橋? 1968年3月)
 木造車の置換えのため大量に作られた2601形は木造車を鋼製化更新したもので、性能的には旧型車でした。
 しかし、車体は3001形並であったため、鉄道に関心のない普通の市民からは新車と思われていたようです。

 この車の一部は今も広島電鉄の900形として残っているのは、御承知の通りです。

(大阪市電 淀屋橋? 1968年3月)

京阪電鉄 本線 

  京阪沿線に親戚が多かったためか、京阪電鉄とは小学校4年生頃からの長い付き合いです。

  初めて見た京阪電鉄の印象は、四条駅の看板が京阪神急行四条駅と長たらしい名前だったこと、
  流線型の電車が四条通りを横切るのに驚いたこと、などでした。

  以来65年、大手私鉄にはあまり興味のない私ですが、京阪電鉄には親近感を持っています。

 大正末期に生まれた300形は、半円形五枚窓の前面、トラスバー付きの台枠、濃緑色のボディと古典的な所と、丸屋根という組合せが面白い車輛でした。

 写真は三条〜宇治間の各駅停車に使われていた姿ですが、この303は後に京津線に転用されたはずです。

(京阪電鉄 藤ノ森 1961年2月
 昭和初期に転換クロスシートを装備してデビューし、ロマンスカーという名前の元祖だった600形でしたが、写真の頃は各駅停車の区間運転列車と冴えない仕事に付いていました。

 この撮影場所は鴨川と琵琶湖疏水を隔てる堤の上だったのですが、今の線路はこの疏水の下を通っています。

(京阪電鉄 五条 1958年11月)
 戦前生まれの流線型1000形も、この頃は急行の運用から退いていました。

 写真は宇治線から本線に直通する三条・宇治間各駅停車が、中書島を発車し下り線をクロスして上り線に合流し、三条へ向おうとするところです。

 この下り本線との交差が嫌がられ、今の宇治線列車は線内運転に閉じ込められています。

(京阪電鉄 中書島 1969年9月)
 特急マークが誇らしげな1700系の特急。
 ただ、写真の頃には後継の高性能車1800系が登場していたはずで、新型車とは言えませんでしたが。

 この写真の撮影地は藤ノ森とメモしていますが、50年前の藤ノ森はこんな田舎だったのかと、今の風景と比べると不思議になります。

(京阪電鉄 藤ノ森 1961年2月)
 淀を通過する1800系特急。
 左に見えるのは淀城の石垣です。この駅は最近高架に変り、車内から石垣を見下ろすようになりました。

 この近くにはお馬の好きな方の聖地があり、大きなレースの日には臨時列車が増発されていたようですが、ギャンブルに弱い私は乗った経験がありません。

(京阪電鉄 淀 1962年12月)
 五条通を横切る1800系。
 特急の座を1900系に譲って3ドア化改造された後の姿で、写真に見える中央ドアが両開きなのが改造の痕跡です。

 この道は国道1号線で大型車の通行が多く、遮断機の上下の際は大きな音の警報が鳴り響いていました。

(京阪電鉄 五条 1970年7月)
 鴨川に沿い、三条へ向かう1900系特急。

 先日他界された鉄道写真家 高橋弘さんは、この付近が地下化される前に数々の素晴らしい写真を撮っていらっしゃいました。

 中でも、特急と河原を飛び交うユリカモメを写した作品は実に美しく、それを思い出すとこんな写真は汗顔の至りです。

(京阪電鉄 五条 1970年7月)
 京都市電四条線が廃止される直前の四条通りを横断する京阪電鉄2000系。

 バックの右の南座と左のレストラン菊水は、今も変わらぬ姿を見せていますが、京阪電鉄は地下にもぐり、市電の線路は消えてしまいました。

 この踏切は警報機と整理員だけで永年よく大きな事故も無くて済んだものだと、今も通るたびに感心しています。

(京阪電鉄 四条 1971年12月)
 三条〜天満橋間各駅停車に働く2000系。

 この車両を見ると、この形式で京阪電鉄の一般型車輛の基本的なスタイルは決まったようです。

 写真右奥に見える三角屋根は、高架化で消えた淀駅の駅舎です。

(京阪電鉄 淀 1962年12月)
 五条駅を通過した2200系急行。
 2200系は今も現役の形式ですが、今ではいろいろと更新されています。

 ところで、この列車に付いているヘッドマークは「ひらかた菊人形」のPRですが、ネガケースにメモしてある撮影年月は1977年7月で、菊人形にはちょっと早すぎます。
 ズボラでそそっかしい私のこと、何か間違えているようです。

(京阪電鉄 五条 1977年7月?)

北陸鉄道 金沢市内線

  1967年に廃止された北陸鉄道金沢市内線は廃止が早かったため、一度訪問しただけでした。

  戦災に会わなかった金沢の町ですが、そのためか道路事情は良くなく、それが市内線を早目の
  廃止に追い込む一因になったようです。本来は自動車を規制すべきだったと思うのですが。

  堅い話はさておき下手な写真ですが、金沢の町を走っていた電車の面々を紹介いたしましょう。
 

 北陸鉄道金沢市内線の前身、金沢電気軌道から引き継いだ木造車60形。
 ダブルルーフとビューゲルの取り合わせが見慣れない感じでした。

 この車は写した時は休止状態のようでした。
 撮影場所は市内線の公園下車庫でなく、石川線の新西金沢だったと思うのですが。

(北陸鉄道金沢市内線 新西金沢? 1962年8月
 市内線の路線は、現在も石川線のターミナルとして存在する、野町駅の向いまで来ていました。

 発車を待つ写真の電車は200形。
 開業当初の木造車の増備として、昭和初期に作られた半鋼車です。

(北陸鉄道金沢市内線 野町駅前 1962年8月
 金沢市内線の名所の一つに、金沢駅前付近のループ線が上げられます。
 初めて見た時は「金沢市内線というのは単線なのか?」と勘違いしました。

 昔々京都市電に京都駅前のループ線がありましたが、あれは終点での小さなループで、金沢市内線のようにループ区間の中間に停留所がある路線は珍しいものでした。

(北陸鉄道金沢市内線 金沢駅前 1962年8月
 開業当初の木造車を鋼体化更新した300形。

 撮影地は兼六園下から小立野に向かう坂道を登ったあたりだったと思います。

 昔の京都にも相通じる雰囲気のこの街並みに、緑色の小型車は良く似合っていました。

(北陸鉄道金沢市内線 出羽町付近 1962年8月
 金沢城と兼六園の間の百間堀を行くあたりは、金沢市内線で一番印象が深かった場所です。

 橋にからまる蔦の緑と電車の塗色が良く似ていて、よい感じでした。

(北陸鉄道金沢市内線 兼六園下付近 1962年8月
 石川門に通じる橋をくぐる2000形。

 この付近は金沢市内線の名所ではありましたが、線路が道の片側に寄って敷設されていて、バスなどとの離合が厄介でした。

 こうしたことも廃止への一つの要因ともなったようです。

(北陸鉄道金沢市内線 兼六園下付近 1962年8月
 金沢市内線で初めてのボギー車2000形。
 車体の両端を絞っていたので、中々の馬面に見えます。

 この車端を絞ったスタイルが役に立って、金沢市内線廃止後、急カーブのある名鉄岐阜市内線の初のボギー車として、転用されたことは御存じのとおりです。

(北陸鉄道金沢市内線 兼六園下付近 1962年8月
 1950年、2000形の後を追って誕生した2100形。
 2000形とはドア配置が変わり、パンタグラフを載せてました。

 この写真の撮影場所は公園下停留所だとメモがあるのですが、書籍などを参照するとそんな停留所名は見当たりません。車庫の名前と間違えていたのでしょう。

(北陸鉄道金沢市内線 兼六園下 1962年8月
 1956年から作られた2200形。
 というより、金沢市内線廃止後、名鉄岐阜市内線での560形としての活躍の方が見られていた車両ではないでしょうか。

 金沢市内線のボギー車の塗分けはこうして見ると、JRの気動車に似た色でしたね。

(北陸鉄道金沢市内線 兼六園下 1962年8月
 金沢市内線最後の新車となった2300形。
 間接制御にオイルダンパー付き台車など、他都市の新車にひけをとらない車輛でした。

 1961年に登場してから市内線廃止まで金沢で活躍した期間は短く、他社に移ってからの方が永い生涯でした。

(北陸鉄道金沢市内線 金沢駅前 1962年8月

高松琴平電鉄 

 古典電車の宝庫、動く電車博物館などと言われた琴電ですが、これは好んでの事ではなく、
 経営環境が厳しい中での止むをえない結果だったようにと思います。
 元来、高松琴平電鉄が自社発注した車輛はそれぞれに特色のあるものだったのですが。

 ということで、今回は1962年当時に見た、琴電オリジナルの古い車輛の写真集です。

 次回更新では、同じ頃の他社からの転入した車輛を見ていただきましょう。

 琴電志度線の前身である東讃電気軌道が、明治末の開業当時に作ったNo2。
 単車にしては大きな車でしたが、撮影した時には電装は解除され、トレーラーになっていたようです。

 なお、写真のNo2には乗客扉がありますが、原形は後方にチラと見える車のようなオープンデッキだったかと思います。
 今思えば、後方の車も撮っておくべきでした。

(高松琴平電鉄 1962年5月 今橋)
 志度線で働いていたこの車輛は琴電に市内線があった時代の名残りで、いかにも路面電車らしいスタイルです。
 戸袋窓の丸窓が1928年製という時代の流行を感じさせます。

 撮影当時の志度線は車両不足が大変だったようで、こうした古い車両も大事に使っていたようでした。

(高松琴平電鉄 1962年5月 瓦町)
 1926年の琴平線開業時に造られた1000形。メーカーは汽車会社。
 上田丸子電鉄、名鉄などと並んで、丸い戸袋窓で名高い車輛です。

 この車はのちに志度線や長尾線に転じ、今ではNo120が近代化産業遺産とかいう大層な肩書きが付いて保存されています。

(高松琴平電鉄 1962年5月 瓦町)
 上の写真と同じ1000形の仲間、No140をパンタ側から見たところです。
 この車は志度線に転じた後に事故で廃車になったはずです。

 この頃の瓦町駅は運転頻度も多く写真も撮りやすいファン向きの場所でしたが、現在はビルの下になり撮影は難しくなりました。

(高松琴平電鉄 1962年5月 瓦町)
 この3000形も1輌が近代化産業遺産になっているようです。

 こちらのメーカーは日本車両ですが、機器の違いなどは別として、私などには窓の形など僅かな外観の差しか違いが分りません。

 いずれにしても、開業時の琴平電鉄の車両は大手メーカー製で揃えていたのでした。

(高松琴平電鉄 1962年5月 瓦町)
 はるかに五剣山を望む房前付近を行くNo325。
 海沿いのこの撮影名所は日照りで暑い所でした。

 このNo325は長命のためか、私のアルバムに何回も登場しています。
 カラーで撮っていたら、車輛の色の変遷がよく分ったのですが。

(高松琴平電鉄 房前 1974年8月)
 開通直後の琴平線が1928年に増備した5000形。
 開業時からの1000形、3000形と比べると戸袋窓が丸くないのが目に付きました。

 写真ではパンタを上げていますが、元は制御車だったのが改造された結果です。
 この形式も1輌が保存車輛として残っています。

(高松琴平電鉄 1962年5月 瓦町)
 1962年当時、色もスタイルもピカ一だった10000型。
 こんぴら号と書いたヘッドマークを付けて、1010形と共に急行として働いていた頃の姿です。

 台車が中古品のイコライザータイプなのは残念ですが、1957年製の車輛としては上等の車輛だったのではないでしょうか。

(高松琴平電鉄 1962年5月 仏生山)
 こちらは急行のヘッドマークが誇らしげな1010型。
 車体は1955年に完成していたのに1960年まで仏生山車庫で寝たままだったことで有名?だった車輛でした。

 のちに貫通化、ロングシート化などの改造を行い一般車輛に格下げされ、保存されることもなく廃車になったのは、琴電で最後のオリジナル車輛だっただけに残念です。

(高松琴平電鉄 1962年5月 瓦町)
 今も残っているデカ1形。
 公衆電話BOXのような運転室がユニークで、昔からファンには意外に人気がありました。

 自社製の車両で、当時の路線に1500ボルト区間と600ボルト区間があったのに対応出来る車輛です。

(高松琴平電鉄 1962年5月 仏生山)

銚子電鉄

 ほととぎす 銚子は国のとっぱずれ とか申しますが、銚子電鉄は国鉄銚子駅のとっぱずれ
 から発車します。

 私が初めて銚子電鉄に乗ったのは1963年11月、当時からいかにも経営が苦しそうに見えた
 この鉄道が今日まで継続するには、大変な苦労があったことでしょう。

 今回は僅かしかない写真ですが、銚子電鉄の昔を偲んで見ました。

 銚子駅に停車中のデハ301。
 銚子電鉄の電車は国鉄に遠慮するかのように、銚子駅のホームの端の方に停まっていました。

 当時は国鉄総武本線が未電化だったので、もう少し本屋の近くに停まってもよさそうに思ったものです。

(銚子電鉄 1963年11月 銚子)
 今では社寶的な存在のデキ3ですが、当時はまだ現役で入替え作業に励んでいました。

 もっと前にはデキ3が牽く列車もあったとのことです。
 小柄なデキ3が自分の何倍もある客車を牽くシーンが見たかったものです。

(銚子電鉄 1963年11月 仲ノ町)
 元は木造ダブルルーフ車から改造されたハフ1形。

 撮影した頃にも出番があったものか疑問ですが、ハフ1と2がひっそりと仲ノ町の構内に停まっていました。

(銚子電鉄 1963年11月 仲ノ町)
 入替作業も一段落して一服しているデキ3。
 こうして見ると縦寸法の方が横寸法よりも大きいように見えます。

 今のデキ3は集電装置にビューゲルを付けていますが、ポールの方が小型機には似合っている感じでした。

(銚子電鉄 1963年11月 仲ノ町)
 仲ノ町で休む小型車デハ101。
 銚子電鉄にはこの位の車輛がふさわしいように思いました。

 この101の台車は鋼板をボルト締めしたような変った形のものでした。

(銚子電鉄 1963年11月 仲ノ町)
 こんなっ写真があったのを忘れていました。
 上の写真の反対側から見たデハ101です。

 この車はNHKの連続テレビ小説「澪つくし」にも出ていたそうですが。

(銚子電鉄 1963年11月 仲ノ町)
 切通しから顔を出したデハ301。

 元は鶴見臨港鉄道の買収国電ということで中々人気があった車両です。
 撮影した当時の銚子電鉄では一番しっかりした車輛のようでした。

(銚子電鉄 1963年11月 観音付近)
 笠上黒生付近で見た貨車を牽くデハ301。

 この写真を写しているとき、11月と言うのにイヤに蠅が多いと思ったら、近所でたくさんの魚が干してあり、そこに蠅が集まっていたのも思い出の一つです。

(銚子電鉄 1963年11月 笠上黒生付近)
 デハ301と並ぶ大型車だったデハ201。

 床下のトラス棒が木造車のようであり、鋼板を張った半鋼車のようにも見える車両です。

(銚子電鉄 1963年11月 外川?)


名鉄 揖斐、谷汲線 

  今回はまたまた名鉄の600ボルト路線の話です。
  
  名鉄の揖斐線と谷汲線は、600ボルト区間としては岐阜市内線、美濃町線と並ぶ存在でした。
  ただ、揖斐線と谷汲線には併用軌道区間が無かったためか、美濃町線ほどの強烈なムードは
  感じられませんでした。

  それでも、昔は幹線で活躍した車両がローカル線で働く姿には、独特の風情がありましたが。

 岐阜駅前で折り返し運転準備中の揖斐行急行。
 モ510形とモ520形がそろって揖斐線に移り、市内線に直通し始めた時代の姿です。

 この頃は揖斐線では2連、忠節から岐阜駅前までの市内線では単行で運転していたと思います。

(名鉄岐阜市内線 岐阜駅前 1970年9月)
 揖斐線の名所 伊自良川鉄橋を渡る510形+520形の急行。

 偶然か計画的だったのか、私が見た市内線直通列車は510形と520形の2連ばかりで、510形か520形同志の連結は見たことがありません。

 この付近の駅名は尻毛、又丸など妙な名前が続いていたことを思い出します。

(名鉄揖斐線 伊自良川鉄橋 1973年5月)
 黒野駅は揖斐線の起点忠節から約13キロ、谷汲線との分岐駅でした。
 写真に見えるのは発車したばかりの忠節行急行です。

 幼い子連れの御婦人は和服の晴れ着姿。こうした光景は何時の間にか見られなくなりました。

(名鉄揖斐線 黒野 1973年5月)
 上り列車と下り列車が並んだ黒野駅のひととき。
 上の写真と構図は違いますが、奥の方が忠節側という点は変わりありません。

 黒野は揖斐線から谷汲線が分岐するだけでなく、車庫もあってローカル線にしては広い構内の駅でした。

(名鉄揖斐線 黒野 1973年5月)
 のどかな黒野車庫の午後。
 右の車両は元は各務原鉄道からの、左は四国の琴平急行電鉄からの転入車でしたが、どちらも塗色のグリーンがいい感じでした。

 車庫の建物沿いに奥へ延びるのが谷汲線、左側で左へカーブして行くのが揖斐線です。

(名鉄揖斐線 黒野 1973年5月)
 元は瀬戸電の車両だったモ570形。

 撮影した頃の揖斐線や谷汲線は、この車両や上の写真の車両などを含めて、古い600ボルト車の吹き溜まりでした。

(名鉄揖斐線 黒野 1964年4月)
 上の写真の570形が760形に改番された後の写真です。

 1967年に岐阜市内線へ北陸鉄道から560形が転入してきたとき、重複ナンバーが出ないように改番したとのことでした。

 私は最近までこの写真の760形が元の570形と気が付いていませんでした。
 2枚の写真をゆっくり見比べたら分る事なのですが。

(名鉄揖斐線 黒野 1973年5月)
 昔々、名鉄の前身の名古屋電鉄が名古屋市電柳橋まで乗入れていた時代には、本線の主役だったモ750形。

 そんな時代は過ぎ去って久しく、この頃の750形は黒野と本揖斐や谷汲の間をひっそりと往復する余生を送っていました。

(名鉄揖斐線 黒野 2000年11月)
 根尾川に沿う難所に差し掛かったク2182。
 名古屋本線で使われていた時には小型車に見えたこの電車も、谷汲線では大型車に見えました。

 撮影場所は川の対岸を樽見鉄道が走る辺り、ウロ覚えで赤石付近だと思っているのですが、自信がありません。

(名鉄谷汲線 赤石付近? 1973年5月)
 谷汲線で一つだけの交換駅北野畑の風景。周りの緑の中に赤い電車が映えています。

 訪れた頃の谷汲線は1時間ごとの運転で途中駅での列車交換は無いはずでしたが、この日は臨時列車が増発されていて、北野畑で交換していました。

(名鉄谷汲線 北野畑 2000年11月)

伊予鉄道 市内線 

  伊予鉄道松山市内線は坊っちゃん列車以来の伝統がある鉄道と言えるでしょう。

  松山市内線と称される路線は、鉄道法が適用される区間を含めても10キロ足らずですが、私が
  初めて訪問した1962年以後に路線の廃止が無いのは、路面電車としては嬉しい存在です

 私の写した伊予鉄道松山市内線の車両で、一番の古顔はこのモハ21。

 この車は1926年製で撮影当時すでに車齢36年とのことでしたが、撮影後間もなく下の写真の車両と入れ替わりに、廃車になったはずです。

(伊予鉄道市内線 古町 1962年5月)
 軽量化設計でそれまでのモハ50形とスタイルが大きく変ったモハ65。

 メーカーのナニワ工機は阪急系の企業で、阪急の車両だけでなくあちこちの路面電車も数多く手がけていた、懐かしい名前です。

(伊予鉄道市内線 南堀端 1962年5月)
 松山市駅前でのモハ69。上の写真と同時期に作られた車両で、下に掲載した元呉市電1000形とよく似ています。
 この車で目立つ車体側面のリブは、後継車では無くなっています。

 余談ですが、電車の右後方に「どぶろくの辰」という映画の看板が見えます。
 この映画は三船敏郎と淡島千景が主演の映画だったことだけを覚えています。

(伊予鉄道市内線 松山市駅前 1962年5月)
 元呉市電だった1000形。
 呉市電のときの形式を引き続いて、呉市電が廃止後松山に譲渡されても1000形を名乗っていました。

 上の写真のモハ69など伊予鉄道の同形車が50形なので、呉の車も50形にまとめても良かったのではないかと思いますが、ナンバープレートなどに手を加えずに済ませたのでしょうか?

(伊予鉄道市内線 南堀端 1974年8月)
 大手町の鉄道線と軌道線の平面交差は伊予鉄道の名所ですが、もう一か所、ここ古町にも平面交差があります。

 古町での平面交差は駅構内にあるので景色に特徴がなく、あまり鉄道線と軌道線が交差しているという感じはありません。

(伊予鉄道市内線 古町 1974年8月)
 城北線の沿線は専用軌道のため独特の雰囲気があり、私の好きな区間です。
 ただ、似たような景色の写真が多く、撮影地の同定に困っていますが。
 
 城北線は法規上は「鉄道」区間だそうですが、運転系統は市内線と一体になっていて、乗っていると何時の間にか専用軌道になったという感じです。

(伊予鉄道市内線 鉄砲町? 1974年8月)
 市内線最初のボギー車で永年市内線の主力だったモハ50形も、最近では低床車の増加に合わせて、減少しつつあるとのことです。

 初期のモハ50形は京都市電800形とよく似ており、京都育ちの私には親近感がある電車なのですが。

(伊予鉄道市内線 松山市駅前? 1974年8月)
 撮影地はお濠に沿った城南線の、西堀端〜本町3丁目付近だと思います。

 松山市内線のボギー車は一貫して50形とされていて、この68も50形の仲間になっていますが、形態から見ると元呉市電だった1000形とそっくりです。

(伊予鉄道市内線 本町3丁目 1974年8月)
 西堀端〜本町6丁目間の城南線は単線ですが、写真の頃は運転回数もかなりあって、待つほどもなく次の電車が来ました。

 しかし、数年前に乗った時は運転頻度も乗客も減っていましたので、個人的な感想ですが存続を懸念している路線です。

(伊予鉄道市内線 本町3丁目 1974年8月)
 城南線の終点本町6丁目。

 電車の停まっている向う側数メートル先を城北線の線路が横切っていて、相互に乗換えることも出来ますが、この時にはそうした乗客は見掛けませんでした。

(伊予鉄道市内線 本町6丁目 1974年8月)

名鉄美濃町線 

  前回、名鉄岐阜市内線をアップしておいて、今度は美濃町線とは変わり映えがしませんね。
  これは、私の記憶に岐阜市内線と揖斐線、そして美濃町線がセットで残っているためです。

  岐阜市内の徹明町〜美濃まで約25キロのこのトロリーラインは、沿線人口があまり多くない事が
  原因してか、1911年に開通した長い歴史を持ちながら、高速鉄道に発展できず、廃止のころでも
  開通時代からの雰囲気が残っていました。

 各務原線経由で新岐阜駅に乗入れるようになる前の、「美濃、徹明町」の方向板を付けたNo513。

 徹明町には切符売場と待合室のある駅舎があったのですが、その写真が見つかりません。車両以外にそうした写真も大事にしておくべきでした。

(名鉄美濃町線 徹明町 1964年4月)
 美濃町線のエース格だった880形。
 後に冷房化されましたが、写真の頃は非冷房です。

 この電車は美濃町線廃止後、福井鉄道に働く場所を得られたのは幸せなことでした。

(名鉄美濃町線 競輪場前 1990年5月)
 この写真の撮影地は、徹明町からの区間運転の電車が折り返す場所だったので、日野橋だと思っていたのですが、野一色だったかもしれません。

 右の電車No584は、580形の中ではパンタ集電である点が異色でした。

(名鉄美濃町線 日野橋? 1970年8月)
 併用軌道とも専用軌道ともつかない区間と、専用軌道の境界に差しかかったモ502。
 撮影当時ですでに50年に近い車齢でした。

 なお、以下の写真で撮影地が上芥見とありますが、これはおおよそのは話です。
 私が美濃町線沿線を歩いたのは上芥見と下芥見の付近だけなので、大きな間違いはないと思うのですが。

(名鉄美濃町線 上芥見付近 1968年3月)
 道端をゆっくりやって来るモ500を待っていたご婦人。

 この電車や上芥見停留所付近の風景が醸し出す雰囲気は、すでに新幹線が走っていた時代のものとは思えませんでした。

(名鉄美濃町線 上芥見 1968年3月)
 美濃町線は何度も乗ったり写したりしましたが、上の写真と見比べるとこんなに同じ場所で同じような写真を撮っていたとは智恵のない話で、我ながら少々恥ずかしくなります。

 写真のNo593は廃線後の美濃駅に保存されているそうで、再会したいものです。

(名鉄美濃町線 上芥見 1970年8月)
 雪のちらつく中をやってきたNo503。
 この写真を写した日は3月というのに寒い日でした。
 
 同じ日に他の500形も写しているので、この頃の美濃町線では500形が愛用されていたようです。

(名鉄美濃町線 上芥見付近 1968年3月)
 上の写真の後追い撮影です。

 500形が作られた時はオープンデッキだったと言いますから、1920年製の割には古い感じの車だったことでしょう。

 この写真を見ると、現存する長崎電軌のNo168と似ているような感じもします。

(名鉄美濃町線 上芥見付近 1968年3月)
 専用軌道区間を行く590形。

 撮影した頃の美濃町線は新関までは15分ヘッド運転だったはずですが、それでも座席が埋まる程度の乗客はいたような記憶があります。
 しかし、その先の美濃までは客が少なく、運転間隔も開いてました。

(名鉄美濃町線 上芥見付近 1970年8月)
 複電圧車 モ600形のサイドビュー。
 撮影時期は600形が登場し、美濃町線が田神線経由、新岐阜発着と変った直後だと思います。

 こうして見ると、600形は床下から屋根上まで機器がギッシリで、冷房装置の搭載は無理だったはずだと改めて認識しました。

(名鉄美濃町線 上芥見付近 1970年8月)
 1999年、残存区間の一足先に廃止された末端区間の終点、美濃駅に停まるモ590形。
 この電車は岐阜市内線用だったはずなのが、岐阜市内線では大きすぎて使いにくかったのか、美濃町線に転用されていました。

 この写真では見えませんが、美濃の駅舎は趣のある建物でした。

(名鉄美濃町線 美濃 1998年8月)

名鉄岐阜市内線

  岐阜市内線というと、初めて訪ねた頃の木造単車や大正生まれの510形の印象が強く残って
  います。
  ただ、残念なのは1960年に廃止となった高富線に乗れなかったことです。

  2005年に廃止されるまで何度か訪れたこの線は、沿線の風物も車両も、何かしらファンを惹き
  つけるものがありました。

 1988年に廃止された長良北町に至る路線の景色。遠くに薄ぼんやりと見えるのは金華山です。

 この付近は急カーブがある上に道幅も狭く、それがボギー車の入線を遅らせ、廃止にもつながった一因でもあると言われています。

(名鉄岐阜市内線 材木町付近 1964年3月) 
 岐阜市内線の車両は美濃電気軌道時代からの形式も経歴も複雑で、形態も更新工事のやり方によって多種多様でした。

 ほとんどが元はオープンデッキの車を改造したものだったはずですが、写真のNo12などは扉廻りもすっきり更新されているようです。

(名鉄岐阜市内線 材木町付近 1964年3月)
 この一帯は戦災を免れたためか、古い構えの家々が連なっていました。

 そんな街並みを美濃電軌以来の古い単車が行き交うありさまは、中々趣があったのですが、1967年に北陸鉄道金沢市内線の廃止で小型ボギー車が大量に転入し、これらの単車は最期を迎えました。

(名鉄岐阜市内線 材木町付近 1964年3月)
 岐阜駅前で折返すNo71。
 岐阜市内線のカラー写真の手持ちはあまり無くて残念です。

 末期の岐阜市内線は、運行が遅れた時は終点の岐阜駅前まで来ず、隣の新岐阜駅前で折返すという乱暴な事をやっていて、新岐阜駅前と岐阜駅前の間は廃止に等しい状態でした。

(名鉄岐阜市内線 岐阜駅前 1961年5月)
 岐阜の名物だった510形。
 本来は岐阜市内線の車両ではないのですが、撮影当時は揖斐線との直通運転用の車両として、市内を闊歩していました。

 背後に見える特異な形の忠節橋とこの電車の組合せは多くのファンの写材となっています。

(名鉄岐阜市内線 早田付近 1970年5月)
 鏡島線と言っても、若い鉄道ファンにはピンとこないでしょう。

 1964年に廃止されたこの線は忠節橋に行く途中の千手堂から分離する線で、岐阜市内線の一部ではありましたが、単線で何故か鉄道法による路線でした。

 写真の540形は元三重交通神都線の車両を譲り受けたものです。

(名鉄鏡島線 森屋 1964年3月)
 北陸鉄道金沢市内線廃止で、1967年に金沢から岐阜に移ってきた、元北陸鉄道2000形が前身の550形。

 幅が狭く面長なこの車から長良北町方面へのボギー車の乗入れが始まり、木造単車を置き換えています。
 結局この電車は生まれ故郷の金沢時代よりも、岐阜暮らしの方がずっと長く続きました。

(名鉄岐阜市内線 徹明町付近 1973年5月)
 岐阜駅前〜忠節の区間運転に入っていたNo565。
 この560形も元北陸鉄道金沢市内線から移ってきたものです。

 この頃の岐阜市内線には市内線区間だけの運転もあったのですが、その後は揖斐線直通列車が走るだけになり、市内交通機関の役目を放棄してしまいました。

(名鉄岐阜市内線 早田付近 1970年5月)
 ヘッドライトの位置が違うくらいで、都電6000形とそっくりの570形。
 岐阜市内線初のボギー車でしたが、急カーブの多い長良北町方面には入れなかったはずです。

 写真は鏡島線森屋停留所で交換待ちのところです。

(名鉄鏡島線 森屋 1964年3月)
 パンタグラフに大きな窓と中々スマートな590形。

 撮影した頃は岐阜市内線で使われていましたが、車両が大き過ぎて急カーブの多い長良北町方面には使えなかったからか、後には美濃町線用に変わりました。

 そのため、この車は美濃町線のアルバムにはやたらと顔を出してきます。

(名鉄岐阜市内線 岐阜駅前 1961年5月)

長崎電気軌道

  長崎は1959年以来何回か訪れています。
  その大きな目的は長崎電気軌道見物で、観光目的は家族連れで出掛けた時の一度だけでした。

  始めて訪問した時の長崎は原爆の被害跡も残り、長崎電軌も未だ復興途上という感じでした。
  以来50年余、最近の長崎電気軌道では超低床車の増備が続られているのは嬉しいことです。

 今も動態保存として?残っているNo168の兄弟車、No167。
 160形は元来は西鉄北九州線の車両でしたが、どういう縁か長崎に姿を残しています。

 160形は長崎電軌に6,7輌あって、屋根や出入り口付近などの形状が少しづつ違っていたような記憶があります。

(長崎電気軌道 長崎駅前 1964年3月)
 長崎駅前を行く木造単車No26。
 ただし、このNo26の車体は戦後に更新したもののようです。

 1964年頃の長崎電軌には、まだボギー車は少なく、このような単車が沢山残っていました。

(長崎電気軌道 長崎駅前 1964年3月)
 三角屋根が懐かしい長崎駅を背にしたNo53。
 背後の黒煙は火事ではなく、長崎駅内の蒸機の排煙です。

 写真のNo53も上のNo26と同様に木造単車ですが、No26とは屋根の形や窓割りが違います。

(長崎電気軌道 長崎駅前 1964年3月)
 長崎電軌道で初めてのボギー車は1950年製の200形ですが、写真はその次代車の300形。

 元々似た車両で、その後に冷房化などの改造が加わり、なおさら見分けが付き難くなりました。

(長崎電気軌道 長崎駅前 1964年3月)
 蛍茶屋に向かうNo302。撮影当時はツーマン運転でした。

 ところで、日本の路面電車のパワーはほとんどが38kwモーター2ヶ位で、力不足の感じは否めません。
 この300形も蛍茶屋への緩い登りで、モーターがかなり喘いでいたことから思い出した余談です。

(長崎電気軌道 蛍茶屋付近 1968年4月) 
 市内を乗り歩いていたら、5系統の終点の石橋で上の写真のNo302に再会しました。

 石橋と大浦海岸通の間の約1`は単線で、終点に着いた電車は慌ただしく折返して行きます。

(長崎電気軌道 石橋 1968年4月) 
 蛍茶屋支線の終点を目指すNo377。
 この370形は下の写真の360形の増備車で、メーカーが違うものの形状も非常によく似ています。

 坂を登ってきた電車はこれ以上登るのはムリです・・・と言わんばかりに終点に停車しますが、線路はその先のささやかな車庫に続いています。

(長崎電気軌道 蛍茶屋 1968年4月)
 長崎電軌の車両は1961年製のこの360形から張り上げ屋根になります。
 
 この電車を見たのはまだ全面広告車が珍しかった時代で、ここまでやるか・・・と感心した覚えがあります。

(長崎電気軌道 桜町 1968年4月)
 カビの生えた写真ですが、色見本のつもりでアップしました。
 上の写真と同じ360形ですが、色が違うだけでかなり印象が変ります。

 路面電車には緑とクリームの組合せが多いよう・・・と言うよりも広告電車が多い現在では・・・多かった・・・でしょうか?

(長崎電気軌道 西浜町 1968年4月)
 電車と並んで、自動車も多い西浜町界隈。

 こうして1960年代の写真を見ていると、1960年代後半を境に自動車が急に増えているように感じていました。

 調べてみると、カローラやサニーの発売が1966年。やはりこの頃に都市交通の変化があったようですね。

(長崎電気軌道 西浜町 1968年4月)

関東私鉄あれこれ

  小私鉄、路面電車ファンの私にとって、関東の大手私鉄は少々縁が遠い存在でした。

  これらの鉄道には乗り廻るだけで、あまり写真を写してなかったのは、今となると残念です。

  今回はそんな僅かな、関東大手私鉄の1960年代の写真を拾い集めた第1集です。

 新宿付近の路面区間を行く電車。(2600形でしょうか?)
 この付近の景色の今昔対比が出来れば面白いと思います。

 50年前の京王電鉄は井の頭線と京王線との間に、路線の生まれの違いから来る雰囲気の相違が残っていたように思いました。

(京王電鉄 新宿付近 1962年11月)
 周囲の緑が濃かった頃の井の頭公園駅。
 
 この1700形を初めて見た時、東急の車と似ていると思いました。
 そのはずで、大東急時代に造られた車両だったとは、後になって知ったことです。

(京王電鉄 井の頭公園 1962年11月)
 都営地下鉄に乗入れを始めて間もない時代の京成電鉄。

 人形町行の行先板を掛けた、真新しい3063などの2連には時代を感じさせます。

(京成電鉄 京成曳船 1962年11月)
 先日高架工事が終わったばかりの、西武鉄道武蔵境駅の50年前の風景です。

 何気なくこの写真を見て、一瞬、近江鉄道の写真かと思いました。

 この車両のナンバーは良くわかりませんが、いわゆる川崎造船形の車両です。

(西武鉄道 武蔵境 1962年11月)
 ブラウンボベリー製のE51が国分寺に出てきて働いていた姿。

 内部の構造はさておき、車端を絞った車体や出入り口の付いたデッキ、突き出した庇など、実に印象的なスタイルの電気機関車でした。、

(西武鉄道 国分寺 1962年11月)
 跨線橋あたりから無理に写した見苦しい写真で失礼しますが、西武鉄道国分寺線の昔の姿です。

 この時代の国分寺あたりはまだ武蔵野の名残があり、電車も昭和初期の面影がある車が活躍していました。

(西武鉄道 国分寺 1962年11月)
 浅草に停車中のモハ3234などの準快速。
 準快速とはどんな列車種別だったのか、よく存じません。

 戦前の東武鉄道の電車と言うと、私にはこの系列の車を連想します。
 腰高で小さな一段窓に深い屋根、良く言えば重厚、悪く言えば鈍重なスタイルは、北関東の土の香りがするような気がしました。

(東武鉄道 浅草 1962年11月)
 都電を写しに来たついでに撮ったお恥ずかしい写真。

 電車よりも鉄橋の形状が珍しくて、光線の状態が悪いのに無理に写したものです。

 鉄橋も変ってますが、よく見ると上部が弧を描いた架線柱も凝った造りですね。

(東武鉄道 浅草付近 1972年05月)
 写真の頃の東武鉄道は貨物輸送も多く、業平橋構内では電機から蒸機までが見られました。

 ところで、「業平橋」駅は「とうきょうスカイツリー」と改称されるそうです。
 しかし、大きなタワーが駅の傍に立っていれば、駅名を知らなくてもここがツリーへの下車駅と分るはずだと思いますが。

(東武鉄道 業平橋 1962年11月)
 東武鉄道の気動車として名高い?妻沼線のキハ2000形。
 東武鉄道の他線とは孤立した妻沼線で、廃線まで黙々と走っていた車です。

 この車、晩年は電車と同じ白っぽい塗色に替りましたが、写真の頃はブルーとクリームのツートーンカラーだったと思います。

(東武鉄道 熊谷 1962年11月)

都電 荒川線

  都電の写真は以前にアップしたことがありますが、その中に荒川線は1点しかありませんでした。

  現存している路線だから、と思って省いたのですが、私の好きな路線ですので、今回は荒川線だけを

  アップさせていただきました。ご笑覧ください。

 荒川線の起点は三ノ輪橋かと思いますが、私の気まぐれで、ここでは早稲田から並べてみました。

 ローカル私鉄の終点という風情だった早稲田も、今では屋根つきの乗降場が整備されているようですが、撮影した時は工事中でした。

(都電 荒川線 早稲田 1972年5月
 この付近の起伏のある景色は中々面白いのですが、本来の荒川線らしさは下町のゴチャゴチャした地域にあるのではないでしょうか。

 そんなことを思いながら写していて、撮影地があいまいになってしまいました。鬼子母神前とは教えて下さる方があって分った次第です。
 御礼申し上げます。

(都電 荒川線 鬼子母神前 1972年5月
 大塚駅前のガード付近は私の好きなところです。
 しかし、都電と国電のツーショットを写そうとしても、そうはタイミング良く出会ってくれませんでした。

 ここから先、向原へのカーブと勾配が続く辺りの景色も撮影には面白そうな所です。

(都電 荒川線 大塚駅前 1972年5月
 慌ただしい旅行者には都電と国電のツーショットを写すのは無理か・・・と諦めかけていたら、やっとこの一齣だけが写せました。

 いつも反省だけはしているのですが、私は根気がなくてすぐに撮影を諦めてしまいます。それが碌な写真が撮れない一因のようです。

(都電 荒川線 大塚駅前 1972年5月
 ここも都電と国電のツーショットを写すつもりだった場所。
 国電をアンダークロスする点は大塚と同じですが、雰囲気はかなり違います。

 この写真を写した時期には、ガードの向うで荒川線と分岐して赤羽に向かう27系統が走っていました。

(都電 荒川線 王子駅前付近 1972年5月
 27系統の赤羽行が到着した王子駅前。
 路面電車らしからぬ雰囲気の停留所です。

 王子駅前〜赤羽間が廃止されたのはこの6カ月後だったはずです。この区間の利用者はずいぶんいたのですが。

(都電 荒川線 王子駅前 1972年5月
 車中から見た小台停留所付近。

 鉄道誌などで最近のこの付近の景色を見ると、何時の間にかセンターリザヴェ―ション化されて、すっかり変わっているようです。

(都電 荒川線 小台 1972年5月
 この付近の狭い道と雑然とした雰囲気はいかにも下町で、荒川線らしい、という感じでした。

 しかし、2年ほど前に舎人ライナーの初乗りに訪れた時に降りてみた熊野前付近には、昔の面影は何もありませんでした。

(都電 荒川線 熊野前 1972年5月
 京成電鉄とアンダークロスする付近。
 ここも京成とのツーショットが撮りたい所です。

 今年の6月にこの辺りに立ち寄ったのですが、写っている渡り線は今も使われているようですね。

(都電 荒川線 町屋駅前 1972年5月
 ターミナルの三ノ輪橋。
 当時は降車場と乗車場が分れていたようでしたが、今はどうなっているのでしょうか。

 電車を降りるとすぐ前に店がある・・・と言う景色は私が若いころ利用した嵐電太秦でも見られたもので、懐かしく感じました。

(都電 荒川線 三ノ輪橋 1972年5月
 電車の発着が慌ただしい三ノ輪停留所。
 手をつなぐ親子連れやエプロン姿の女性と、昭和の香が一杯の光景です。

 停まっている電車は全部27系統赤羽行で、27系統があった時代には32系統早稲田行は荒川車庫前から出ていたと思います。

(都電 荒川線 三ノ輪橋 1972年5月



 名古屋市電あれこれ

  今回は名古屋市電のアルバムから。中には再掲載の写真もありますがお許し下さい。

  初めて名古屋市電をカメラに納めたのは1957年でしたから、半世紀以上の付き合いになります。

  最盛期には100キロ以上の路線と、400両を越える車両があった名古屋市電。
  名古屋の地下鉄も今では約90キロの路線がありますが、きめ細かく延びていた市電路線網には
  遠く及びません。

 森進一の歌「盛り場ブルース」にも地名が出てくるのに似合わず、ひっそりとした今池界隈。

 電車は1400形に似ていますが、戦中から戦後に作られた1150形。
 作られたときは高床車だったものを、1400形に似た形に改造したものだそうです。

(名古屋市電 今池 1973.5)
 名古屋市電で最大級の車両だった1300形ですが、ワンマン化されず、早くに姿を消してしまいました。

 撮影地は金山橋とメモしてますが?マークが付きます。しかし、今では確認は困難です。
 写真の頃は国鉄中央本線に金山駅が出来たばかりで、地下鉄名城線は未完でした。

(名古屋市電 金山橋? 1964.3)
 沢上町で見た1400形の51系統。
 1400形は名古屋市電の戦前形の代表車で数も多く、名古屋市内のいたる所で見かけものです。

 撮影地の沢上町には車庫がありました。
 名古屋市電の車庫というと沢上、池下、浄心、高辻、稲葉地、港など、懐かしく思い出されます。

(名古屋市電 沢上町 1973.5)
 こちらは角ばったスタイルの1500形。
 1500形は1400形と違い、武骨なスタイルで張り上げ屋根でもないため、1400形よりも古い車両のような印象を受けますが、実は1400形よりも新しい戦後生まれ。

 私は窓の大きなこの1500形は案外気に入っていました。

(名古屋市電 高辻 1973.5)
 下之一色線の専用区間を走る1600形は、1954年に閑散線区の下之一色線用として、日本最初のワンマンカーに改造された車両です。

 下之一色線の沿線は独特のムードがあって面白い所だったのですが、駆け足旅行ばかりの私はあまり写真を撮る間がありませんでした。

(名古屋市電 大宮司 1967.11)
 下の写真の1800形に続いて現れた1900形。足元を隠したスカートが優雅に見えます。
 この電車はスカートの効果か直角カルダン駆動の効果か、走行音が静かで無音電車と言う唄い文句通りでした。

 この1900形や2000形は日本の路面電車の中でも、優秀な車として記憶されるべきものだと思っています。

(名古屋市電 金山橋 1964.3)
 以下の写真は1957年11月、名古屋〜栄間で開業した名古屋市営地下鉄の初乗りに来たついでに写したものです。

 新線が開業すると乗りに行来たくなるのは今も治らない私の病気です。
 この時は京都から名古屋まで夜行の普通列車で、4時間掛けた行ったことを覚えています。
 
 写真の軽量化電車 1800形は名古屋市電初の間接制御車、ブレーキドラムがクルクル廻る台車が印象的でした。

(名古屋市電 名古屋駅前 1957.11)
 名古屋市電としては最期の形式となった2000形。
 前に作られた1900形を洗練したようなスタイルでした。

 軽量で4ヶモーターとあって加速なども良かったように記憶していますが、夏季の車内は非常に暑かったことも覚えています。
 もっとも、その時代の乗客は夏はこんなものだと我慢していましたが。

(名古屋市電 名古屋駅前 1957.11)
 日本では京阪電鉄60形に次ぐ連接車、昭和15年生まれの2600形。
 私の年代の人間には昭和15年は皇紀2600年で、それを形式にしたのだとすぐ分ります。

 この電車は全長18メートル、自重20トンと堂々とした体躯に対して、モーターは50馬力2ヶではいかにも非力で、鈍足のそしりは免れられませんでした。
 モーターは連接部の台車に懸架されていたようです。

(名古屋市電 名古屋駅前 1957.11)
 3000形、2600形などの連接車が離合する名古屋駅前。

 連接車が行き交う景色は今日では広島、富山など各地で見られ、特に珍しくもありませんが、撮影した時代には目を見張らせる光景でした。

 左手のビルは看板は見えませんが、出来たばかりの名鉄百貨店だと思います。

(名古屋市電 名古屋駅前 1957.11)

 上毛電鉄と上信電鉄 

   群馬県の二つの私鉄、上毛電鉄と上信電鉄は生い立ちや沿線の条件等に違いはあるものの、
   厳しい経営環境にあるなど、共通している点も多いようです。

   今回はその2社の古い写真を取り出して見ました。
   例によって、乗り鉄の合間の駅撮りや車庫撮りの写真ばかりで、お恥ずかしいものですが。

 上毛電鉄の代表的車両 デハ100形。
 この車は幕板が広く窓が小さいので、いささか重苦しい感じがします。

 このNo101は1928年の開業以来80余年を経た今も車籍があり、イベントなどにしばしば登場しているのは御承知の通りですが、撮影当時は貫通化されていませんでした。

(上毛電鉄 大胡 1961年5月)
 上の写真のデハ100形とそっくりの顔のデハニ51。
 生まれた時期もデハ100形と同じ、メーカーも同じ川崎車両です。

 戦前にはほとんどの私鉄がこうした荷物合造車を持っていましたが、本当のところ、どれ位の取り扱い量があったのでしょうか?

(上毛電鉄 大胡 1961年5月)   
 デハ161は元西武の車で、西武所沢工場で鋼体化更新されたものだとか。

 この時代、所沢工場はたくさんの鋼体化更新車両を各地の中小私鉄に供給していて、この車両に似たスタイルの車を他所でも見た覚えがあるのですが、どこだったか思い出せません。

(上毛電鉄 大胡 1961年5月)
 元は鶴見臨港鉄道からの買収国電だったクハ701。

 手元の資料では、鶴見臨港鉄道が1930年の開業時に作った車両だったという事ですが、国鉄時代に改造されていたものか、あまり特徴のないおとなしいスタイルに見えた電車でした。

(上毛電鉄 大胡 1961年5月)
 以下は上信電鉄の話。

 高崎線の下り列車で高崎に着くと、上信電鉄の車両が隣に見えるのが楽しみでした。
 中でも目を引いたのは木造車体に大きなパンタグラフを乗せたデハ1形でした。

 1924年の電化の時に造られたこの車両は、いかにもローカル私鉄の木造車と言う雰囲気いっぱいです。

(上信電鉄 高崎 1961年5月)
 昭和30年代の上信電鉄は、自社の車両だけでなく、他社の木造車なども買い集めて鋼体化していました。

 このデハ12も元信濃鉄道(現 大糸線)からの木造の買収国電を鋼体化したもの。
 もっとも、どこまで種車の部品を転用したのかは疑問ですが。

(上信電鉄 高崎 1961年5月)
 このデハニ30は1924年の電化時に造られた木造車デハ1形を鋼体化したもので、上の写真のデハ12と良く似たスタイルです。

 モノクロの写真なので色が分りませんが、このデハニ30は何故か他の車両と色が違うようです。

(上信電鉄 高崎 1961年5月)
 このクハニ14も電化時に作った木造車を鋼体化したものですが、上のデハニ30とは窓廻りなどが少し異なっていました。

 それにしても、この頃の上信電鉄にはデハニ、クハニなどと、手荷物合造車がたくさんあったようです。
 上毛電鉄の欄でも書きましたが、地方私鉄でどれ位の荷物の取り扱いがあったのでしょうか?

(上信電鉄 高崎 1961年5月)
 1924年に1067ミリに改軌、電化した際に入ったデキ3。、ジーメンス製の電機にマン製の車体と、ドイツ生まれが特徴です。

 私が上信電鉄乗りつぶしを目指していた約30年前、乗った電車が吉井の先で事故に会って動けなくなり、この機関車で高崎まで牽引されて戻った思い出があります。

(上信電鉄 高崎 1961年5月)
 元は伊那電鉄からの買収電気機関車だったED316。

 近江鉄道に移った仲間がほぼ原形を保ったのと違って、この車は無機質な箱形ボディに改造され、伊那電鉄時代の面影は消えてしまいました。

(上信電鉄 高崎 1958年5月?)

 蒲原鉄道と長岡鉄道 

   前回の更新で新潟交通を取り上げたときに、1958年5月に同時に訪ねた蒲原鉄道も合せて…と
   考えました。ところが、新潟交通の写真が意外に多く、蒲原鉄道の紹介は止めました。

   そこで、今回は同じ新潟県で、同じ時に初訪問していた長岡鉄道(後の越後交通)と蒲原鉄道を
   合わせて紹介いたします。

   蒲原鉄道も長岡鉄道も1990年代後半まで残っていたのですが、私が思い出すのは50年以上前
   始めて訪ねた時の姿です。

 村松車庫の前に佇むモハ11。
 検査が終わったばかりだったらしく、ツヤツヤしていました。

 モハ11〜13は1930年の村松から加茂への延長のときに増備した車とのこと。

 この日案内していただいた蒲原鉄道の方から、加茂への延長の際には、新潟へ延長しようと言う意見もあったのだが・・・、との話を聞きました。
 歴史にIFは禁物といいますが、もし新潟に路線が延びていたら・・・と思います。

(蒲原鉄道 村松 1958年5月)
 上の写真の兄弟車 モハ12。

 このモハ12の車体と、車体に巻いた帯の色は何だったか?
 50年以上前の事で、私の記憶は消えております。

 この車は後年にワンマン化されましたが、そのときには乗務員扉が追設されていたと思います。

(蒲原鉄道 村松 1958年5月)
 元は名古屋鉄道(さらに前は各務原鉄道)の車両モ455だった、モハ21。

 終戦直後の車両不足の時代に、大手私鉄がロクサンの配給を受ける代替に地方私鉄へ供出した車両の一つです。

 モハ21は、写真の時期には台車を蒲原鉄道生え抜きの電車デ1からのものと交換していたと思いますが、ボディは名鉄時代の姿を残していました。

(蒲原鉄道 村松 1958年5月)
 開業時の電車デ1の改造名義だったモハ31。

 ”改造”といいますが、実質的にはデ1の足回りなど一部の部品を流用しただけで、実質的には新車でした。
 実際、案内してくれた蒲原鉄道の方も”新車”と言ってました。

(蒲原鉄道 村松? 1958年5月)
 これもモハ13を改造したというモハ51。
 改造と言ってもデ2から台車を譲られただけですが。

 蒲原鉄道の車両は、開業時のデ1形と加茂延長時に増備したモハ11形の間で名義上の改造を行ったり、モハ31などのように改造名義で実質的な新車を造ったりと、複雑に変遷しています。

 そのためか、竣工図と現車とには相違点がいろいろあり、公式記録もあまり信用できないものだと感じさせられました。

(蒲原鉄道 村松 1958年5月)
 以下は長岡鉄道の写真です。(私にはこの名の方が越後交通よりもピンときます)

 始めて訪問した長岡鉄道の西長岡駅は、長岡の町から信濃川を渡った町外れの不便な所で、車庫も併設された広い構内でした。
 この頃の長岡鉄道の社長は後に首相となった田中角栄だったはずです。

 写真のモハ3002は元は気動車で、電化時に電車に改造したものですが、この日は入替機関車代りに働いていました。

(長岡鉄道 西長岡 1958年5月)
 西長岡と信越本線来迎寺間7.5キロの来迎寺線は貨物輸送が主で、旅客列車は日に数本だけでした。

 その来迎寺線の列車に使われていたのが、このハニフ21などの客車。
 この車両の経歴は知りませんが、妻面の真四角な窓がちょっと変わった印象です。

 車体を塗分けてなければ、もっと古い時代の車両に感じそうですね。
 
(長岡鉄道 西長岡 1958年5月)
 長岡鉄道は西長岡付近にある化学製品関係の工場の貨物輸送があったので、電気機関車も数両在籍していたはずですが、私が写したのはこのED211だけでした。

 このED211は以前を言えば京王帝都デワ2915。長岡鉄道に来て電気機関車化されたものでした。
 側面の引き戸が前身がデワの印です。

(長岡鉄道 西長岡 1958年5月)
 寺泊線の途中駅での列車交換風景。
 やってきたのは元小田急の1401だと思いますが、それ以上の事は分りません。

 1975年の旅客営業廃止が近付いていたこの頃、越後交通の線路状態はかなり悪化していました。

(越後交通 大河津? 1972年4月)
 寺泊終点での元小田急クハ1453。

 寺泊駅の位置は長岡鉄道の盛衰につれて転々としています。
 写真の寺泊は元の「寺泊新道」駅で、本来の「寺泊」はもっと先の海岸に近い所でした。

 そして、今ではJR越後線の旧大河津駅が寺泊駅を名乗っています。
 この駅は寺泊駅として開業し、長岡鉄道の開業時に大河津に改名していたもので、今では”昔の名前で出ています”というわけです。

(越後交通 寺泊 1972年4月)
 長岡鉄道と国鉄越後線は平面交差していました。
 左手前から右奥へが長岡鉄道、右手前〜左奥に延びるのが越後線です。

 国鉄と私鉄が平面交差するのは珍しいことで、越後線も元は私鉄だったためにこんな状況が出来たのでしょう。

(越後交通 大河津 1972年4月)

 新潟交通

   早いもので、新潟交通が全線廃止となってから11年あまりになります。

   私が始めて新潟交通に乗ったのは1958年。当時は利用者も多く、小田急等からの車両も入って
   中々の盛況だったように覚えています。

   しかし、1992年に併用軌道区間を廃止し、1993年に月潟から先を廃止した後は、何時全線が廃止
   されても不思議でないような状態でした。

   隣県の富山ライトレールの現況を見ると、新潟交通も何とか出来たのでは・・・と残念に思います。
  

 長い間、県庁前駅として親しまれてきたこの駅も、1985年に県庁の移転に伴って、白山前駅に改名していました。

 丸味を帯びたタイル貼りの独特のスタイルの駅舎が、懐かしく思い出されます。
 それにしても側線が一本もないこの駅で、運転間隔が短い時間帯にダイヤを維持するのは大変だったろうと思います。

(新潟交通 白山前 1991.3)
 「県庁前」時代のターミナルと電車。

 車両の知識に乏しい私でも、このモハ18は独特の5枚窓の前面スタイルと木造ダブルルーフから、元は東武鉄道の電化当初の車だと分りました。

(新潟交通 県庁前 1958.5)
 併用区間を白山前に向かう列車。

 大きからず小さからず、好感のもてるスタイルのモハ21の車体は、日本車両が地方私鉄向け標準形として供給していたもの。

 新潟交通では全線廃止までこのスタイルの車両たちが働き続けたので、マスコミなどで新潟交通の車両写真が出てくるときは、たいていこの車両です。

(新潟交通 白山前・東関屋間 1991.3)
 信濃川に沿う東関屋駅の構内でのモハ16。
 この車の出身は伊那電鉄の買収国電でした。 写真では半鋼車に見えますが、鉄板を張っていただけかも知れません。

 新潟交通では路面区間があるため、武骨なこの車が路面電車なみの排障器を付けていたのが、ご愛嬌でした。

(新潟交通 東関屋 1958.5)
 これも東関屋構内での風景です。

 車両はモハ18。元をただせば東武鉄道デハ9。
 上の方に写真を掲載したモハ19と違って、半鋼、シングルルーフ車ですが、面構えはモハ19と同じく、独特の5枚窓です。

(新潟交通 東関屋 1958.5)
 今回アップした写真の中で、生え抜きの新潟交通の車両と言うとこのモワ51くらいでしょうか。しかも、全線廃止まで生き残っています。

 新潟交通には電気機関車はなく、このモワ51が電気機関車の代役を務め、時にはラッセル車の推進もしていました。

(新潟交通 東関屋 1958.5)
 中ノ口川に沿うカーブを過ぎるモワ51。 
 初対面から十数年後にもモワ51は健在で、数輌の貨車を曳いていました。

 今となって見ると、1972年頃にも新潟交通にはまだこれだけの貨物輸送があったのかと、、不思議な気もします。

(新潟交通 新大野付近 1972.4)
 カーブから顔を出した列車。

 カーブの多い中ノ口川の堤防沿いの区間があり、併用軌道区間もあること等から無理もないことですが、新潟交通は速くはありませんでした。
 私が乗った電車も、全線35.8キロを75分ほど掛かったように思います。

 軌道の強化、改良などを行えば・・・と言っても、この国の交通政策は昔から道路建設一辺倒で、地方鉄道の支援などは無いも同然ですものね。

(新潟交通 新大野付近 1972.4)
 郊外の集落を行く新潟交通。

 新潟交通の沿線を歩いてみると、家数も多く沿線人口もありそうに見えました。
 それなのに廃止に追い込まれたのは、結局はモータリゼーションの波に逆らえなかったのでしょうか。

 雪の多い土地柄を考えると、地域のために何とか存続させる方法はなかったのか、疑問は残るのですが。

(新潟交通 新大野付近 1972.4)
 終着駅 燕駅。 この電車は留置車だったように思います。
 右に見える線路は国鉄弥彦線。

 燕〜新潟間は国鉄でも移動出来ますが、距離の短い新潟交通の方が少しは早かったようです。早いと言っても10分か20分だったはずですが。
 今の上越新幹線なら新潟〜燕三条は12、3分ですから、比較にもなりませんが。

(新潟交通 燕 1972.4)

  一畑電鉄 

   一畑電鉄(現在では一畑電車)は最近、映画「RAILWAYS]の舞台となり、にわかに注目されています。

   そこで、ずっと以前に一度発表した写真を、映画に便乗して? もう一度アップいたします。

   私が初めて一畑電鉄を訪ねたのは1957年9月でしたが、自社発注の車両や他社から譲り受け車など、

   バリエーション豊かな車両たちに目を奪われたのが、ついこの間のようです。

 昔の木造省線電車に似たスタイルのデハ103。
 この車は一畑電鉄には戦前から転入していた、元は吉野鉄道の客車でした。

 私はこの車の角ばった面構えが気に入ってます。

 この駅、今は「松江しんじ湖温泉」と長い名前に改称されています。
 「北松江」で十分だったのに。

(一畑電鉄 北松江 1957.9)
 「臨急」の札を付けたデハ11。

 外観からも推測されるように、このデハ11は元は西武鉄道の車両です。ただ、なぜか後に西武に返却されたとのこと。
 このころの西武鉄道は地方私鉄向け車両の大供給元で、地方私鉄に乗ると西武所沢工場の銘板を良く見かけました。

 自社発注の車両を改造したデハ11もありましたが、それは2代目です。

(一畑電鉄 川跡? 1957.9)
 シングルルーフの角ばった車体に広い幕板、2ヶづつ並んだ窓、と、一風変わったスタイルのクハ111。
 元をただせばは明治時代の木造客車だったという変わり種です。

 電車が客車になる例はたくさんありますが、客車が電車になった話は阪和や阪急にあったくらいで、数少ない例ではないでしょうか。

(一畑電鉄 出雲市 1957.9)
 これはやや近代的な外観のデハニ31。
 ただし、前身は木造国電モハ1057だったデハ31で、それを鋼体化更新してデハニ31とし、さらに後年になってデハ31に改造と、何度も変化してきた車両です。

 この車は写真を写した当時には機関車代用として使っていたようでした。

(一畑電鉄 雲州平田 1957.9)
 写真のデハ20形は3扉車のデハ1形を2扉化改造した車両です。
 ドアが両端に寄り、その間に小窓がずらりと並び、屋根の上にはお椀形ベンチレータが並ぶ、独特のスタイルでした。

 撮影地の雲州平田は北松江線の沿線で随一の町で、今も車両基地などがあります。

(一畑電鉄 雲州平田 1957.9)
 こちらは1927年に電化した時に投入されたデハ1形のデハ6。
 このデハ6は生まれた時はデハ4だったのを、4という字を嫌って改番したものだとか。

 この列車はこの日が秋分の日の休日だったので増発したものか、「臨急」の札を掛けています。

 右手の信号扱い所の壁には「一畑薬師までバス10分」という文言があります。そのとおり、ここから徒歩での一畑薬師参詣は大変です。

(一畑電鉄 一畑口 1957.9)
 今では一面二線の高架駅になった出雲市駅が地平駅時代の景色。
 左側の電車は西武から譲り受けたデハ61です。

 この駅が「出雲市」と改称したのは1957年4月で、その前は「出雲今市」。
 私が中学生のころ、近くの山陰本線を通る客車の所属区に「米イモ」とあったのが印象的でした。

(一畑電鉄 出雲市 1975.5)
 一畑電鉄の中で非電化路線だった立久恵線の終点 出雲須佐の風景。
 写真のハ11は見るからに元ガソリンカーというスタイルの車です。

 この線は大社宮島鉄道という名で、芸備鉄道と三次で連絡する山陰〜山陽連絡線を夢見て、1932年に出雲出雲今市〜出雲須佐18,7キロを開業した鉄道でした。

 その後、陰陽連絡はあきらめて出雲鉄道と改称、1954年に一畑電鉄と合併、1965年に水害により廃止、と、ローカル私鉄の見本のような変遷をたどっています。

(一畑電鉄立久恵線 出雲須佐 1957.9)
 一畑電鉄では離れ島の路線だった広瀬線は、1928年、広瀬鉄道として山陰本線荒島から出雲広瀬まで8.7キロを開業し、山陰中央鉄道、さらに島根鉄道と改名の後、1954年に一畑電鉄に吸収されています。

 しかし、一畑電鉄広瀬線となっても乗客が増えるわけもなく、結局は1960年に廃止となった薄命の鉄道でした。

 写真のデハ6は元名鉄(さらに以前は尾西鉄道)の車両で、終戦直後に名鉄が新車の配分を得る代償に地方私鉄へ供出されたものです。

(一畑電鉄広瀬線 飯梨 1957.9)

  阪堺電軌 (南海電鉄大阪軌道線) 

   現在でも僅かながら昔の雰囲気が残る阪堺電軌は、写真の時代は南海電鉄の一部でした。

   上町線、阪堺線、平野線など、路面電車が頻繁に駆け回っていた姿が目に浮かびます。

   今回は、前に南海電鉄高野線をアップしたとき一緒に出てきた 現 阪堺電軌の思い出を。

 私の写真の中では数少ないモ101形。

 モ101形は車長約14メートルと路面電車としてはしては大きな車体にダブルルーフ、トルペート形ベンチレータ、前面真ん中の窓だけが背が高い、などなどスタイルが独特でした。

(阪堺電軌 天王寺駅前付近 1961.7)
 こちらはシングルルーフのモ151形。

 この写真で見えるように、阪堺電軌は阪神電鉄国道線とともに、集電装置のボウコレクタに特徴がありました。

 また、このころの南海電鉄は緑色のボディに、茶色のドアが印象的でした。カラー写真で写していないのが残念です。

(阪堺電軌 阿倍野 1958.3)
 阿倍野交差点を行くモ161形。
 と言っても、私は151形と161形の違いが分らないのですが。

 記憶があやしいのですが、この電車は恵比須町からの平野線のはずで、画面を左右に横切る線路が上町線のようです。

(阪堺電軌 阿倍野 1958.3)
 この写真はプリントの裏面に昔の私の字で「平野線」と書いてあるのですが、場所が不明です。

 大阪市営地下鉄谷町線の開通に合わせて平野線が廃止されてから30年。
 記憶が薄れるのもやむを得ないことで、記録を残して置かなかった事を反省するばかりです。

(阪堺電軌平野線   1971.5)
 現役として今も残る161形が行く上町線。
 写真のころの161形はまだツーマン運転でした。

 上町線のこの辺りには女子高があり、朝夕には大勢の女学生で賑やかでしたが、最近はどうでしょうか?

(阪堺電軌 帝塚山3丁目 1971.5)
 燈籠が並ぶ姿は今も変わりがない住吉鳥居前の景色。

 やってきた電車は205型。
 小じんまりしたこの車は古い木造車を更新したものでしたが、私は割合気にいっていました。

(阪堺電軌 住吉鳥居前 1971.5)
 住吉大社の社前を行く205形。

 205形は50両近くもあって、当時は南海電鉄大阪軌道線でシャッターを切ると、彼らの写真ばかりになると言われていました。

(阪堺電軌 住吉鳥居前 1971.5)
 阪堺線綾ノ町を発車した浜寺駅前行。

 綾ノ町は専用軌道と併用軌道の接点です。電車はここからしばらく、堺の街中のセンターリザベーション区間を走るのですが、その付近の古い写真が見辺りません。

(阪堺電軌 綾ノ町 1971.5)
 1957年生まれの501形。
 この電車が今も健在なのは嬉しいような、不思議な様な、微妙な気持ちになります。

 いかに丁寧に使っていても車齢は50年余り。最近見る501形は草臥れた感じが隠せません。
 金廻りの良い鉄道なら、もうとっくに新車に置き換えられている事でしょう。

阪堺電軌 東玉出 1971.5)

  京阪電鉄 石坂線 

   京阪電鉄の本線は4月15日に開業100周年を迎えました。

   と言っても石坂線は1913年開業の大津電車軌道から始まる、京阪本線とは別の出自です。

   それなのに京阪電鉄特集を・・・と、石坂線が出てくるのは管理人の好みによるもの。

   トラムともインターバンともつかないこの線は、昔から私の好きな鉄道の一つなのです。

 京阪電鉄といいながら、いきなり元阪急の車両だった10形が登場。

 1949年夏の京津線四宮車庫の火事で大津線は車両不足となり、当時は京阪神急行電鉄として同じ会社だった宝塚線から送り込まれた、元阪急の1形だった車です。
 
 場所は石坂線の石山寺方面ホームで、ほぼ現在の駅の辺りかと思います。

(京阪電鉄石坂線 浜大津 1957.6)
 浜大津を出て三井寺に向かう元阪急車のNo14。
 ポールを振りかざした10形は中々良いものでした。

 手前の線路は京津線で、No14の奥の方へ曲がり込んだ先に京津線用のホームがありました。

(京阪電鉄石坂線 浜大津 1962.9)
 京津線浜大津に到着する80型。
 上の写真の右手の方から見たところで、上の写真よりも少し後の時代の風景です。

 分りにくいかとは思いますが、上の写真と合わせて、浜大津の石坂線と京津線のホームが分かれていた時代を偲んでいただけないでしょうか。

(京阪電鉄石坂線 浜大津 1969.8)
 浜大津を出た坂本行がやってきた旧街道の併用軌道区間。
 このあたりは今の街並みにもなんとなく昔の雰囲気があります。

 やってきた128は京阪本線からの転入車で、連結運転は出来ない車両でした。

(京阪電鉄石坂線 浜大津付近 1962.9)
 上の写真の場所の近くで写したNo17。
 これは元阪急車ですが、阪急時代から屋根はシングルルーフだったようです。

 10形と言っていた元阪急車は11〜18の8両があり、屋根の形状や貫通戸の有無などいくつかのバリエーションがありました。

(京阪電鉄石坂線 浜大津付近 1962.9)
 石坂線の基地 錦織車庫に憩うNo13。
 
 阪急から京阪に移った電車は本家の阪急に残った仲間たちよりも長生きして、阪急の仲間が消えた後も石坂線で働き続けていました。

(京阪電鉄石坂線 錦織 1957.6)
 これも流転を重ねた車両で、北大阪電鉄から愛宕山鉄道を経て石坂線に来た、石坂線では少数派の車でした。

 いかにも大正後期生まれらしい車でした・・・と言っても、この車は朝夕だけの稼働だったのか、私が石坂線を訪ねた時に動いている所を見たことがないのですが。

(京阪電鉄石坂線 錦織 1957.6)
 京阪本線から移ってきた200型。
 京津線に来る時に66.6‰対策にブレーキを強化していたそうですが、外観では分りません。

 一般的な基準では小型車に入る200形ですが、2両連結の姿を路面区間で見ると実に大きな車体に見えました。

(京阪電鉄石坂線 錦織 1957.6)
 旧型木造車の更新という名目で造られた260形の出場後間もない時期の姿です。
 台車を見なければ新車と思われそうな車でした。

 この車は更新後約40年、京津線の地下鉄化、1500ボルト化の時まで働き続けていたはずです。

(京阪電鉄石坂線 錦織 1957.6)
 錦織車庫の昼休み。
 10形ばかりがうまく並んだもので、一見すると京阪電鉄の車庫と思えません。

 現在の錦織車庫は在籍する車両数も増えて、もっと狭苦しく見えます。

(京阪電鉄石坂線 錦織 1957.6)

  上田丸子電鉄 

   最盛期には48キロもの路線があった上田丸子電鉄も、路線縮小を繰り返して、今では別所線だけ。

   この鉄道は出自の違いから、丸子線、西丸子線、真田傍陽線などそれぞれ個性のある路線で構成

   されていましたが、そのうち真田傍陽線に乗れなかったのは今も残念に思っています。

 元は別会社だった丸子鉄道が開業時に造ったGE製の電気機関車 EB4111。

 後年は別所線の上田原車庫で使っていましたが、元 丸子鉄道だった丸子線は別所線と線路が繋がっていなかったはずなので、どうやって運んだのでしょう?

 この機関車、小型ながらも精悍な風貌で、今もモデラーに人気があるようです。

(上田丸子電鉄 丸子町 1958年5月)
 このモハ3210形の前身は、東急電鉄の目黒蒲田電鉄時代のデ1形を譲り受けたもの。
 元 目黒蒲田電鉄の車両はあちこちのローカル私鉄で見ましたが、上田丸子電鉄のこの車が一番原型を残していたのではないでしょうか。

 撮影地は西丸子線西丸子となっていますが、写真の頃から西丸子線は超閑散で1963年には廃止されています。

(上田丸子電鉄 西丸子 1958年5月)
 丸窓であまりにも有名な別所線のモハ5251が、信越本線からの乗換客を待っています。
 この電車のスタイルはいかにも昭和初期らしいものです。

 当時の上田駅のゆったりした雰囲気は、現在のせせこましい構内とは比べ物になりません。

(上田丸子電鉄 上田 1958年5月)
 大きなパンタを振りかざして、貨車を入替中のモハ5262。

 この車の前身は信濃鉄道(現 大糸線)からの買収国電で、下の写真のモハ5263も兄弟車です。また、長野電鉄や松本電鉄にも信濃鉄道にいた仲間が譲渡されていたはずです。

(上田丸子電鉄 上田 1958年5月)
 信濃鉄道からの買収国電は地方私鉄の車両というよりも、木造省線電車を思わせるスタイルでした。

 写真は別所線と西丸子線の分岐駅 下之郷で見かけた混合列車で、別所線の列車だったと思います。

(上田丸子電鉄 下之郷 1958年5月)
 これは真田傍陽線用の車両 モハ5361。
 東武鉄道から譲り受けた車両で、さらに以前は総武鉄道の車だったとか。

 真田傍陽線の電圧は600Vの別所線などと違い1500Vだったので、それぞれの線の車両は相互乗入れはできません。

(上田丸子電鉄 上田 1958年5月)
 これも真田傍陽線用の車両 モハニ4254。

 1927年に真田傍陽線が開業した時以来の古参車両で、そのためか別所線の丸窓電車モハ5251などとよく似たスタイルをしています。

(上田丸子電鉄 上田? 1958年5月)
 元は神中鉄道のガソリンカーから相模鉄道、上田丸子電鉄と転々としたクハ252。

 撮影した頃は江若鉄道のキニ9などに似通った前面でしたが、文献によると後に2枚窓に改造されていたようです。

(上田丸子電鉄 上田 1958年5月)
 いかにもガソリンカーらしいスタイルのサハ21。
 元は飯山鉄道のガソリンカーをトレーラー化したものです。

 この時代のローカル私鉄には、このような太平洋戦争前に造られた、ガソリンカー改造の付随車が良くありました。

(上田丸子電鉄 上田 1958年5月)

  名鉄の1960年代

   名鉄は何社もの鉄道が統合して生まれた企業だけに、1960年代頃までは良く言えば個性的、悪く
   言えばゲテモノ的な車両が多く、ファンとしては次に何が来るかが楽しみな鉄道でした。

   規格化され統一化が進んだ昨今の大手私鉄にはこうした面白味はありません。

   東京オリンピックの頃を名鉄沿線で暮らした私は、そんな名鉄の車両に馴染んでいました。
   といっても浅学の私のことで、写真に添えたコメントには間違いが多いと思います。お許し下さい。
   

 今はない挙母線大樹寺駅で岡崎軌道線と連絡しているモ1083。

 モ1080形は三河鉄道生え抜きの木造車。私の好きな車の一つでした。

(名古屋鉄道 挙母線大樹寺 1962年3月)
 こちらは尾西鉄道が電化の時に作ったという モ204。
 写真の頃の瀬戸線はこうした600ボルト小型車の吹き溜まりで、新車が投入されている現在とは大変なちがいでした。

 この車の晩年は名鉄の他の600ボルト車と同様、揖斐線に転じたはずです。

(名古屋鉄道 瀬戸線大津町 1964年3月)
 長い間、私はこの省形電車に似たク2121を三河鉄道生え抜きのものと思っていました。

 今回調べてみたら元は筑波鉄道が電車化を前提に作った客車だったようです。

(名古屋鉄道 瀬戸線大津町 1964年3月)
 デビュー当時は名古屋市電に乗入れる花形だったモ750形が、この頃にはまだ600ボルト区間だった小牧線で使われていました。

 小牧線が1500ボルトに昇圧したのはこの年の10月。
 600ボルト区間を転々とた750形はし、最後は揖斐線に移っています。

(名古屋鉄道 小牧線犬山 1964年3月)
 鉄道省の木造客車をシングルルーフの電車に改造したというク2131。
 こういう素姓のヤヤコシイ車両がいたのも当時の名鉄の面白いところでした。

 犬山は小牧線、広見線などが集まる駅で、この列車はどの線の列車だったか記憶があやしくなっています。

(名古屋鉄道 広見線?犬山 1964年3月)
 こちらは愛知電鉄時代に神宮前〜豊橋間で急行用に使われたモ3200形を制御車化したもの。

 犬山線はこの写真を撮影の直前に1500ボルトに昇圧された各務原線と直通運転を始めています。

(名古屋鉄道 犬山線新鵜沼 1964年3月)
 金山橋駅でのモ3503を当時の一般車の色見本に。

 戦前から2扉車が大半の名鉄で、モ3500形は戦中派のためか3扉車としてデビューしています。ただ、写真の頃には名鉄のポリシー?通り2扉化されていましたが。

(名古屋鉄道 金山橋 1967年10月)
 名鉄で戦後の一時期の主力だった3800系。

 運輸省規格形で他社にも類似した電車がありましたが、私には名鉄の緑色のこの姿が一番印象に残っています。

(名古屋鉄道 須ケ口 1964年3月)
 伊勢湾を望む新舞子の松林沿いを常滑線の準急として走る3400形。

 特急用に作られたこの電車も、晩年は常滑線など準幹線にまで入っていました。

(名古屋鉄道 常滑線新舞子付近 1964年9月)
 1955年生まれの5000形はカルダンドライヴの軽量車で、長野電鉄2000形の先輩とも言える車両でした。

 丸味に特徴のある独特の前面スタイルから、ファンの間で「ペコチャン」と呼ばれました。
 ホッペのふくらんだ不二家のペコチャン人形からの連想で、「いもむし」や「なまず」よりも良いニックネームでした。

(名古屋鉄道 常滑線新舞子付近 1964年9月)
 常滑線で時々見た貨物列車。

 愛知電鉄時代に作られたデキ401は、庇とデッキのついたボディに大きなパンタグラフと、モデル向きのスタイルです。

(名古屋鉄道 常滑線新舞子付近 1964年9月)

 西鉄大牟田線

  前回に西日本鉄道宮地岳線を取り上げたので、今回は安易ですが、同じ西鉄の大牟田線の古い写真を
  並べてみました。

  大牟田線は九州鉄道として開業した高速型路線ですが、私が初めて訪問した時代には連接車の500型、
  軽量車の200形、九州鉄道時代からの1形など、ユニークな車両がそろっていました。


 場所も車両も自信のない写真です。

 撮影場所は平尾か? 福岡の近くだったことは間違いないのですが。
 この頃の大牟田線沿線は福岡を出るとすぐに郊外の感じで、びっしりと建物が並ぶ今日とは全く違いました。

(西鉄 大牟田線平尾? 1956年3月)
 1924年の九州鉄道開業時からの古豪 モ1形。

 前面の5枚窓が独特でしたが、撮影後まもなく鋼体化されたとの話です。

 木造車だったのに、写真では鋼板張のように見えます。

(西鉄 大牟田線二日市 1959年3月)
 一見、気動車に見える戦前生まれの小型軽量車 モ200型。

 西鉄の名物電車で、晩年は甘木線で使われていましたが、写真の頃には本線の普通列車に活躍していました。

(西鉄 大牟田線二日市 1964年3月)
 2扉車で、ずいぶん長いボディに見える300形?。

 この車は戦後製の運輸省規格形かと思っていましたが、実は戦前の1939年製だったそうです。

(西鉄 大牟田線二日市 1964年3月)
 鉄道線の連接車としては日本で最初の モ500形。
 (京阪電鉄の60形は軌道線用に近い車でした)

 1942年に登場したときは2車体だったそうですが、写真の時期には3車体になっています。

(西鉄 大牟田線二日市 1964年3月)
 マルーンとクリームに塗り分けていた頃の600形。

 この車をみると国鉄モハ52系か、京阪の1000系を連想します。
 ただ、目尻が吊り上っているのは西鉄独自の表情ですが。

(西鉄 大牟田線二日市 1959年3月?)
 ブルーに黄色の帯を巻いた特急色の1300形。

 中間車2両は新車、両端の車は600形の先頭車を改造したものだったということです。

(西鉄 大牟田線二日市 1964年3月)
 西鉄最初の新性能車 1000系。

 マルーンとクリームの塗色といい、前面の2枚窓といい、名鉄5000系など同時代の他社の車にも相通じる雰囲気がありました。

(西鉄 大牟田線二日市 1964年3月)
 同じ場所で見た特急色の1000系。

 同じ車両でも、塗色が違うだけでかなり印象が違うではありませんか。

(西鉄 大牟田線二日市 1964年3月)
 九州鉄道時代から生き残った電動貨車 モワ802。

 古くには大牟田線でも貨物営業が行われていたようです。

(西鉄 大牟田線二日市 1959年3月)
 大牟田線には無蓋貨車のモト900形もありました。前面のデザインはモワ800形とちょっと似た車です。

 パンタを乗せるためのやぐらが目立ちます。

(西鉄 大牟田線二日市 1959年3月)

 秋田市電 

  秋田市電は前身の馬車鉄道の時代からするとずいぶん古い歴史があるようですが、私がはじめて訪ねた
 
  1963年当時は秋田駅前〜土崎間7.3キロ、全線単線で、土崎付近には専用軌道区間がありました。

  この線の営業終了は1965年12月31日と記録されています。

 秋田駅前に停車中の20形、No26。

 この車両は、元は1950年に廃止された旭川市街軌道のものです。

(秋田市電 秋田駅前 1963年5月)
 秋田市電の色見本として200形の写真をお目に入れます。

 200形は秋田市電最後の形式で、60形を手直ししたようなスタイルは中々感じのよい車でした。

(秋田市電 秋田駅前 1963年5月)
 列車交換風景。
 タブレットを交換していたか記憶がありません。

 御覧の通り、秋田市電はこの頃から経営が苦しかったためか、線路状況はよくありませんでした。

(秋田市電 県庁前? 1963年5月)
 新車として30形を名乗っていましたが、元は東京都電2000形の車体だとか。

 ただし秋田市電は1067ミリゲージなので、台車は他から工面した物のはずです。

(秋田市電 土崎 1963年5月)
 こちらも元は東京都電、さらにさかのぼると王子電車の150形。

 長いポールが目に付きますが、秋田市電は最後までポール集電でした。

(秋田市電 土崎 1963年5月)
 都電6000形のコピー車 60形。
 この時代には全国あちらこちらで見かけたスタイルの車輛です。

 この写真を見直して気が付いたのですが、この停留所では右側扉から降車させていたようです。

(秋田市電 大町2丁目? 1963年5月)
 分離帯で仕切られた道路の中央を行く60形。
 この車は秋田市電の廃止後、はるばると和歌山電軌に譲渡されています。

 例によって撮影場所が?マーク付きで申し訳ありません。

(秋田市電 木内前付近? 1963年5月)
 大町2丁目付近で旭川を渡る市電。

 この橋は石造の感じのいいものでしたが、今ではどうなっているでしょう?

(秋田市電 大町2丁目付近 1963年5月)

 西大寺鉄道 

  本州では唯一の3フィートゲージの鉄道だった西大寺鉄道は、1962年に国鉄赤穂線開通の陰で消えました。

  この鉄道は全線11.4キロのささやかな路線ながら単端式気動車など個性の強い車輛ぞろいでしたが、今回

  ネガを探してみても単端式の写真が出てこなかったのは遺憾であります。

 岡山側のターミナル、後楽園駅に休む開通時以来の客車 ハボ1形。
 ずいぶん重たげなモニタールーフです。

 3フィート軌間というとナローには違いありません。
 しかし、この客車を見た感じではニブロクよりもサブロク、たとえば別府鉄道にいた元神中鉄道の客車などに近い感じでした。

(西大寺鉄道 後楽園 1962.5)
 西大寺鉄道名物の単端の気動車の写真がない代わりに、川車製のボギー気動車 キハ7の姿を。

 この車、大きなバケットが無ければ、江若鉄道のキニ9に似通った感じがします。

(西大寺鉄道 財田? 1958.8?)
 こちらは非流線形の日車製ボギー気動車 キハ6。

 私の訪問した時の西大寺鉄道は30〜40分ヘッド、所要時間30分でした。表定速度23キロはいかにも遅い感じですが、当時のローカル私鉄はこんなものでした。

(西大寺鉄道 大多羅付近? 1962.5)
 ひどい写真ですみません。色見本のつもりで御覧下さい。
 白帯が一等車のようです。

 この写真の撮影地は大多羅とメモっていましたが、長利としたものもあります。50年近くも前となると記憶は怪しくなり、迷ってしまいます。

(西大寺鉄道 大多羅付近? 1962.5)
 さっきは貨車を牽いて行ったのに、今度は単行でやってきたキハ7。

 この頃の西大寺鉄道では車端のバケットに自転車を積むことが出来たようです。
 昨今のサイクルトレインの元祖ですね。

(西大寺鉄道 大多羅付近? 1962.5)
 キハ7がデッキまで乗客が溢れた客車を引いて行く。
 西大寺鉄道で気動車が2〜3両の客車を牽引するのは普通のようでした。

 もっとも、西大寺鉄道には勾配がほとんどなかったので、こんな運転形態が成り立ったのでしょうけれど。

(西大寺鉄道 大多羅付近? 1962.5)
 トコトコと行く混合列車。

 この辺りの西大寺鉄道の線路は道路に沿っていました。
 路面電車という言葉がありますが、路側鉄道とでも申しましょうか。

(西大寺鉄道 大多羅付近? 1962.5)
 西大寺市の車庫に憩う客車たち。

 西大寺鉄道は有名な西大寺の裸祭への人出対策に、平生は使わないたくさんの客車を保有していました。

(西大寺鉄道 西大寺市 1962.5)
 ヒサシが厳めしいキハ6が発車をまつ西大寺市駅。

 こうした面構えの気動車は井笠鉄道や静岡鉄道駿遠線の気動車にもありましたね。

(西大寺鉄道 西大寺市 1962.5)
 裸祭の人出に備えてか、西大寺市駅のホームは中々広く立派でした。
 しかし、写真の列車の乗客はパラパラでした。

 この写真を写したころは国鉄赤穂線の全通と、西大寺鉄道の廃止の日が近づいていました。

(西大寺鉄道 西大寺市 1962.5)

 北海道の私鉄蒸機

  今回は1957年に初めて出かけた北海道の、私鉄や専用線の蒸気機関車をいくつか御目に入れます。

  勉強不足で訪れたため目ぼしい写真はありませんが、こんな時代もあったのかと御覧くだされば幸いです。
  

 羽幌炭鉱の運炭列車に余生を送っていた8110。
 私のような素人でもボールドウィン製とわかる機関車でした。

 新製のころは東海道線で活躍した8110は1987年生れですから、撮影した時でも車齢60歳だったわけです。

(羽幌炭鉱鉄道 築別 1957.5)
 釧路臨港鉄道の1C2のタンク機関車NO8。
 日本車両製ですが、細いボイラー、大きなコールバンカーなどちょっと変わったスタイルです。

 今も太平洋石炭の専用線として残っている釧路臨港鉄道は、この時代には城山〜東釧路〜入舟町の間で旅客営業をしていました。

(釧路臨港鉄道 臨港 1957.5)
 猛煙をあげるEタンク 4144。

 4144はマッファイ製の4100形を川崎造船でコピーした元国鉄4110形ですが、ここ美唄には自社発注の同形機も含めて、たくさんのEタンク機がいました。

(三菱鉱業美唄鉄道 美唄 1957.5)
 三井芦別鉄道のC11−1。
 国鉄機と違ってハイフン入りのナンバーです。

 この鉄道は根室本線芦別から頼城まで9キロ余の炭鉱鉄道でしたが、旅客列車も20往復近くが運転されていました。

(三井芦別鉄道 頼城 1957.5)
 函館本線奈井江駅の裏にあった三井奈井江駅の朝。

 三井鉱山奈井江専用鉄道は時刻表には載っていませんでしたが、実際には客車も繋いだ混合列車が買い物の主婦や高校生などを乗せていました。

(三井鉱山奈井江専用線 三井奈井江 1957.5)
 三井奈井江で入替に働く8865。
 この機関車は東海道線の最大急行牽引機として、明治末に鉄道院がドイツのボルジッヒから輸入した8850形を川崎造船でコピー、増備したもの。

 8850形は第一動輪が主動輪のはずですが、この写真ではわかりませんね。

(三井鉱山奈井江専用線 三井奈井江 1957.5)
 日本甜菜製糖磯分内工場で使われていた、元は北海道官設鉄道のブルックス製7271。
 釧網本線磯分内と工場の間の専用線で働いていました。

 今となっては、情報の乏しい時代に何故この機関車を知っていたのか不思議です。
 誰かの話で7271の存在を聞いていたものでしょうか。

(日本甜菜製糖 磯分内工場 1957.5)
 雄別炭山鉄道の機関車1001。
 国鉄C56と同形機ですが、自社発注機です。

 小型機のC56クラスも雄別炭山鉄道で見ると、ずいぶん大きく見えました。

(雄別炭山鉄道 雄別炭山 1957.5)
 鹿ノ谷で入替仕業中のコッペル製1C1タンク機 No1。

 この機関車はC12に匹敵する重量だったはずで、日本に輸入されたコッペル機では最大クラスの機関車でした。

(夕張鉄道 鹿ノ谷 1957.5)
 夕張鉄道の名物機関車 11形。
 「8620形のボイラーに9200形の足回り」と言われた機関車です。

 この頃の夕張鉄道にはすでにキハ250形などの気動車も使われていましたが、蒸気機関車が何両もたむろしている鹿ノ谷区は私の知っている「私鉄」のイメージとはまったく違うものでした。

(夕張鉄道 鹿ノ谷 1957.5)

 神戸市電 

  神戸市電が1971年に消えてから38年にもなります。
  
  近くではありながら神戸市電はあまり写していなかったのですが、今回はその古写真を整理してみました。

  撮影場所もあいまいな写真もありますが、神戸市電の面影を偲んでいただければ幸いです。
 
 しょっぱなから撮影場所不明の写真で失礼します。
 多分大倉山付近だと思うのですが。

 電車は単車ではありますが、神戸市電らしいスタイルの300形。
 「マウンテンギブソンの台車が珍しい車だ」とは先輩から聞いた受け売りです。

(神戸市電  1962.7)
 この400形は上の300形の後継車ですが、前面の窓が大きくなって、より軽快な感じです。
 撮影した頃の神戸市電には、まだ単車が残っていました。

 余談ですが、この400形は函館市電の300形とよく似ています。

(神戸市電  1962.7)
 楠公前から大倉山へ向かう500形。
 大正末から昭和初期製らしい重厚なスタイルで、京都市電500形に通じるところがあります。

 500形はK車、L車など、製造時期によってグループ分けされていましたが、写真の車はL車だと思います。

(神戸市電 楠公前 1969.6)
 戦前の神戸市電のスター700形。
 転換クロスシートを装備していたことは有名です。

 阪神電鉄国道線の71形いわゆる金魚鉢ほどではありませんが、大きな側面窓と浅い屋根が印象的な車輛でした。

(神戸市電 神戸駅前 1963.3)
 和田車庫でのスナップ。
 廃止が近づいたころだったので庫内はがらんとしていました。

 右にいる800形は700形に続いて出た形式です。
 元は3扉車だったはずですが、写真はワンマン化改造で後部扉が塞がれています。

(神戸市電 和田車庫 1971.2)
 センターポールがクラシックな感じの元町界隈。
 長い間ご無沙汰のこの付近も、大震災の後では景観が変わっていることでしょう。

 通り過ぎる電車は900形。戦後生まれですが、700形以来の神戸市電スタイルには変わりありません。

(神戸市電 元町6丁目 1971.2)
 これも戦後生まれの1000形ですが、700形以来の神戸市電スタイルを引き継いでいます。

 神戸市電の車輛は700形でスタイルを完成させた感じで、以後の車輛は見分けがつきにくいというのが実感でした。

(神戸市電 元町6丁目 1971.2)
 この写真には撮影地を大田町と書いてありますが、まったく記憶がありません。
 この電車が1系統なのとは矛盾しないのですが。

 電車は戦後生まれの1100形。
 この車は最初から後部扉はなかったそうです。

(神戸市電 太田町? 1971.2)
 楠公前を往く1150形。
 木々の緑と電車の緑がよく合っていました。

 1150形は全国各地に高性能車が出現した1955年ごろ、神戸市電の高性能車として間接制御、カルダンドライブの車輛で、川崎車輛の工場見学会で製造中の姿を見た記憶があります。

(神戸市電 楠公前 1969.6)
 単車追放のためという理由で、1963年に大阪市電で余剰となった801形を購入した100形。
 大阪から神戸まで、当時は健在だった阪神電鉄国道線を通って来た話は有名です。

 写真の場所は山陽電鉄との交差点です。

(神戸市電 長田 1968.3)

 十勝の私鉄 

  初めて北海道へ出かけた1957年5月、十勝地方には北海道拓殖鉄道と十勝鉄道が健在でした。
  
  駆け足旅行の上、6×4.5p16枚撮りのフィルムを節約しながらの撮影だったため、あまり珍しい写真は

  撮っていませんが、今回は北海道拓殖鉄道と十勝鉄道のスナップをご覧ください。

 南新得付近を往く8621。
 この機関車は自社発注のものです。なぜ、ローカル私鉄に不相応なテンダー機を2両も発注したのか、不思議でした。

 国鉄根室本線の新得から上士幌まで約54キロの路線があったこの鉄道も、私が乗った時は東瓜幕まで35.4キロに短縮されていました。

(北海道拓殖鉄道 南新得 1957.5)
 国鉄払下げの8722と自社発注の8622が並ぶ南新得庫。

 8722はノースブリテッシュ製の機関車を汽車製造でコピー生産した機関車でしたが、幸運にも保存機として残っているようです。

(北海道拓殖鉄道 南新得 1957.5)
 古いファンならご存じの気動車キハ111。

 佐久鉄道から西武鉄道、さらに北海道拓殖鉄道に転じてきた車輛です。
 暖房の貧弱なこの車では、冬場の車内はさぞ寒かったことでしょう。

(北海道拓殖鉄道 南新得 1957.5)
 十勝鉄道は企業としては現存していますが、私がここに並べた写真は1959年に旅客営業を止めた、帯広近郊にあった路線のものです。

 国鉄帯広から工場前までは日本甜菜製糖の貨物扱いがあり、約4キロの1067ミリ区間がありました。
 写真はその区間で使われていたCタンク機 No2。メーカーはコッペルだったと思います。
 十勝鉄道の新帯広〜工場前の間はサブロクとニブロクの4線区間でした。

(十勝鉄道 工場前 1957.5)
 こちらは762ミリ区間で使われていた日車製のNo5。

 1957年当時の762ミリの路線長は48キロほどもあり、運転回数も少なく時間もかかったため、いかに乗り鐡の私も一部分しか乗れませんでした。

(十勝鉄道 工場前 1957.5)
 このころ投入されたディーゼル機関車 DC2。

 この機関車は十勝鉄道廃止後、頚城鉄道に売却されていて、私は後年、頚城鉄道でこの機関車に再会しました。

(十勝鉄道 工場前 1957.5)
 十勝鉄道の旅客営業は762ミリ区間の帯広大通から戸蔦と八千代の間約48キロ。

 日車製らしいこの気動車が可愛らしい客車を牽いて十勝平野を往く姿を撮れなかったのは、今も残念でなりません。

(十勝鉄道 帯広大通 1957.5)
 半分休車のような姿で側線にいたコハ10など。
 
 この客車の由緒や来歴は知りませんが、木曽森林鉄道を思わせる姿です。

(十勝鉄道 帯広大通 1957.5)
 こちらはオープンデッキの木造車 コハ23。
 この車両は上のキハ2に牽かれて到着したもので、確かに現役でした。

 この車は今でも、かっての帯広大通駅の付近に保存されているようです。

(十勝鉄道 帯広大通 1957.5)
 こちらはやや新しい形態で、鋼製車と思われる コホハ41。
 コホハのホはボギー車を表していたようです。

 それにしても、キハ2などの小型気動車でこれらのトレーラーをよく牽引できたものです。

(十勝鉄道 帯広大通 1957.5)
 冬場の仕事も終わり、側線で休養中のロタ1。

 寒さは厳しいといっても、十勝平野にはさほど積雪はないと思っていたのですが、十勝鉄道の人の話では時々はこのロタ1にも出番があったようでした。

(十勝鉄道 帯広大通 1957.5)
 十勝鉄道の起点帯広大通駅で見た、ニブロクの貨車 ワフ3。

 撮影地の帯広大通駅は頭端式で小さいながらも整った駅でした。

 ここで写真を写していたら「十勝鉄道を写す人がいる」と、非常に珍しがられたのも懐かしい思い出です。

(十勝鉄道 帯広大通 1957.5)


 別府鉄道 

  別府鉄道は全線8キロに足りない小私鉄でしたが、1984年まで存続し山陽本線土山で国鉄と接続していた
  ことから、知名度は高い鉄道でした。

  この鉄道はディーゼル機関車の導入がかなりおそく、蒸気機関車の姿が晩年まで見られた点でも、ファンに
  人気があったようです。

  しかし、親会社の多木化学の製品輸送が主な目的の鉄道だったため旅客列車の運転回数は少なく、乗り鉄
  には不便な鉄道でした。

  鮎川哲也のミステリー「黒いトランク」の中に、この別府と温泉の別府の地名を使った小トリックがあります。

 いかにも古典的なスタイルの客車 ハフ1。

 奈良鉄道から関西鉄道、鉄道院、別府鉄道へと変遷を重ねた、明治時代からの生き残りです。

(別府鉄道 別府港 1963.3)
 上のハフ1の兄弟車 ハフ2。
 ただ、窓配置がハフ1と違うようです。
 これらの客車は蒸気機関車の消えた1966年頃まであったようです。

 別府鉄道の社紋は独特のもので、最初に見たときは箒かと思いました。
 これは親会社 多木化学の社紋をそのまま使ったもので、神鋤とか言うそうです。

(別府鉄道 別府港 1963.3)
 ハフ5は相模鉄道の前身、神中鉄道からやってきた気動車が前身。
 現在の大手私鉄、相鉄からは想像もつかない車輛です。

 神中鉄道という名を初めて聞いたときは、どこにある鉄道か理解できませんでした。

(別府鉄道 別府港 1963.3)
 このハフ6も神中鉄道からの元気動車。

 この車輛は「別府港ー土山」のサボを付けていましたが、写真を写した頃にはあまり動いた様子はないようでした。

(別府鉄道 別府港 1963.3)
 オープンデッキのハフ7。これも神中鉄道からの来た客車でした。
 ダブルルーフを防水シートですっぽりとカバーしたため、頭でっかちに感じます。

 私はこの車輛に乗って土山まで行ったはずですが、車内の様子などの記憶がありません。

(別府鉄道 別府港 1963.3)
 このキハ1は昭和初期に日本車両が一種の規格品としてローカル私鉄に売り込んだガソリンカーの一つ。
 レールバスの元祖ともいえるスタイルは模型向きです。

 別府港ー野口間の野口線に使われていました。

(別府鉄道 別府港 1963.3)
 これも昭和初期に日本車両が多くの私鉄に売り込んでいた、一種の規格型のガソリンカー。

 佐久鉄道、三岐鉄道と転々として別府鉄道に来た履歴の車です。

 私が野口線で乗ったのはこの車だったと思うのですが、野口での高砂線との接続が良すぎて、そこでは写真を撮っていません。

(別府鉄道 別府港 1963.3)
 別府鉄道生え抜きの機関車No1が土山線の貨物列車を牽く。
 別府鉄道の典型的なシーンです。

 別府鉄道はなんとも開放的な鉄道で、私のような風来坊が構内をウロウロしていてもまったく無視されていました。

(別府鉄道 別府港 1963.3)
 入替運転中のNo1。

 No1は小型機関車のメーカーとして知られる雨宮製作所製のBタンク機。
 ずいぶんクラシックなスタイルですが、大正末期の製造で古典ロコというほど古くはなかったと思います。

(別府鉄道 別府港 1963.3)
 ずらりと並ぶリベットのために厳めしい顔付きに見えるNo5は日立製のCタンク。

 この機関車も大正末期の製造だそうですが、国鉄のC51など同時期に作られた機関車と比べると、もっと古いものように見えます。

(別府鉄道 別府港 1963.3)
 庫内での撮影で姿がよくわかりませんが、元は飯山鉄道のCタンク No6。

 別府鉄道は基地のある別府港と中心に国鉄高砂線の野口に至る野口線と、山陽本線土山に至る土山線で成り立っていました。

 当時は、気動車の野口線よりも、蒸気機関車牽引の混合列車が走る土山線に興味があったのですが、今となるとどちらももっと写しておくべきでした。

(別府鉄道 別府港 1963.3)


 岡山電気軌道 

  1912年に開業した岡山電気軌道は創業以来社名が変わってない点では珍しい鉄道です。

  また、現在の路線長4.7キロは軌道では豊橋鉄道市内線を抜いて日本最短のはず。もっとも、豊橋鉄道も
  運動公園まで延長する前は4.7キロだったはずですが。

  初めて訪問したときに岡山電軌の応対していただいた方に「短距離の路線での経営はたいへんでしょう」と
  言ったら、「犠牲線がないから、短距離でも好いんです」と応じられたのが印象に残っています。

 1968年に廃止された番町線を行く102。
 場所は後楽園前と思うのですが、はっきりしません

 番町線は本線がまだツーマン時代の1956年からワンマン化されていて、車両は木造車の形態を残す100形の一部が、ワンマンカーを示す赤帯を巻いて使われていました。

(岡山電軌 番町線 1958年8月)
 こちらは車体を自社で更新した100形。
 ちょっと垢抜けした可愛らしいスタイルで、ショーティの模型にありそうです。

 岡山電軌名物の重錘式のパンタグラフは広告板の蔭になってよく見えません。

(岡山電軌 岡山駅前 1958年8月)
 形態だけを見ると上の100形とそっくりの350形。
 これも自社で更新したもの。

 この頃の岡山電軌は単車ばかりで、岡山駅前で見ているとよく似た電車が次々とやってくるのが印象的でした。

(岡山電軌 岡山駅前 1958年8月)
 昭和30年代には電車通りでも未舗装の区間があり、土ぼこりを抑えレールを洗う散水車は方々で見かけました。

 写真の車は車体やタンクが更新された後の姿だということです。

(岡山電軌 岡山駅前 1958年8月)
 はるばる東北は秋田市電からやってきた1000形。
 この車輛あたりから岡電もボギー車の時代になります。

 この車は秋田ではポール集電でしたが、「郷に入っては郷に従え」でちゃんと岡電スタイルのパンタを付けています。

 撮影場所の京橋付近はセンターポールがクラシックな感じです。

(岡山電軌 京橋 1970年7月)
 こちらは同じ中国地方、呉市電800形だった2000形。
 呉市電の車輛は廃止後、仙台、松山、岡山と散らばっています。

 この車は岡電風に手直しされ塗り替えられて、元のイメージとは変わって見えました。

(岡山電軌 柳川 1970年7月)
 旭川を渡る2500形。これも元呉市電の700形です。

 元 呉市電の車輛が岡電スタイルになるとイメージが変わって見えたのは、ヘッドライトがヘソライトになったせいでしょうか。
 呉市電時代はおでこに埋め込んだヘッドライトでした。

(岡山電軌 京橋 1970年7月)
 清輝橋終点の風景。
 車両は元 東武日光軌道線100形だった3000形で、写真の3007は真黒に変身して健在です。

 撮影当時は歩道橋を渡らないと安全地帯へ行けない清輝橋停留所したが、今はバリヤフリー化されています。

(岡山電軌 清輝橋 1970年7月)
 こちらは3000形のラストナンバー 3010。
 この車両もまだ在籍しているはずです。

 それにしても東武日光軌道線の100形は、岡電に10両が引き取られ今だに一部が在籍している、運のいい車輛です。

(岡山電軌 西大寺町 1970年7月)
 1980年から古い車輛の改造名義で7000系とも言うべきシリーズが生まれましたが、この7401は新車だったはず。

 この車の形式は1984年生まれなので7400形となったそうですが、いささか難しい計算ですね。

(岡山電軌 柳川 1999年1月)


 
山形交通

  今回は前回の羽後交通に続いて、隣県の山形交通の話です。

  山形交通もご多分にもれず、1943年に戦時統合で生まれた企業で、三山線、高畠線、尾花沢線が
  ありました。

  ここに並べたのは、そのうちの三山線と高畠線の写真です
  尾花沢線も乗ったはずなのですが写真が見当たりません。無視された尾花沢線に怒られそうです。

 山形交通の中で路線長12キロ余と最長だった三山線が、1926年に三山電気鉄道として開業した時からの木造単車モハ101。

 撮影した頃は入換か機関車代用くらいしか動いていないようでしが、1974年の廃業後も同形車が保存されているようです。

 「三山」とは古くから修験道で信仰の厚い、羽黒山、月山、湯殿山、を言います。

(山形交通 三山線 間沢? 1963.5)
 すっきりした車体に更新されたモハ106。
 このスタイルはこの時代のローカル鉄道の標準的車両と言ってもいいでしょう。

 種車は名鉄から供出された元各務ヶ原鉄道の小型車だったようです。

(山形交通三山線 間沢 1963.5)
 形態から見て、元 南海電鉄の車と見てとれる105。

 現地でこうした車に出会い、車庫で竣工図などを見せてもらうのが、旅の楽しみでした。ただ、コピー機など無い時代で、メモは大変でしたが。

 三山線の車庫は間沢でしたが、羽前高松にも留置線があり、この写真はそちらで写したものだったかも?

(山形交通三山線 間沢 1963.5)
 朝夕だけが出番だった104。
 形態から見ると電車のようにも見えますが、客車として扱われていました。

 三山線の朝夕の列車には今日では信じられないほどの乗客があり、それも学生などで片輸送だったようでした。
 そのため、こうしたトレーラーも必要だったようです。

(山形交通三山線 間沢 1963.5)
 三山線で一番大型車だったモハ111。
 もとは西武鉄道の車で、更新も所沢工場で行われていたはずです。

 三山線のピカイチで、EH10や近鉄モ800形に似た、引っ込んだ前面ガラスがしゃれていました。

(山形交通三山線 間沢 1963.5)
 ホームの屋根に「高畠線のりば」と大書した看板が見えますが、ホームには人影がありません。

 山形交通高畠線は奥羽本線糠ノ目〜二井宿間10.6キロ、1922年から1974年まで存続した、ささやかな鉄道でした。

(山形交通高畠線 糠ノ目 1963.5)
 1922年開業の高畠鉄道が1929年に電化した時に入れたというED1。
 各地の小私鉄でよく見かけたスタイルの機関車です。

 高畠線は短い区間の鉄道でしたが、国鉄貨車の乗り入れもあり、ED1の出番もかなりありそうでした。

(山形交通高畠線 高畠 1963.5)
 このハフ2は高畠鉄道開業時からの車とのこと。

 ただ、深い丸屋根はダブルルーフを改修したもののようで、小さな窓との組み合わせが重たげな感じを与えます。

(山形交通高畠線 高畠 1963.5)
 こちらは木造ボギー客車ハフ3。
 元は鉄道省の車輛だと思いますが、詳しいことは知りません。
 
 私が見た当時の高畠線の列車は、これらの客車をモハ1等の電車で牽くのが普通の姿のようでした。

(山形交通高畠線 高畠 1963.5)
 高畠線電化時に自社発注した電車 モハ1。
 写真を写す前に更新工事を受けていたのか、扉がプレス鋼板製になっています。

 この車が1929年の電化から1974年の廃止まで、高畠線で働き続けたはずです。

(山形交通高畠線 糠ノ目 1963.5)
 銀行かホテルと見間違えそうな、堂々とした石造建築の高畠駅。
 昭和初期の高畠鉄道はこんな立派な駅舎を立てるほど繁盛していたのでしょうか?

 高畠線の名所だったこの駅舎は今も残っているようです。

(山形交通高畠線 高畠 1963.5)


 羽後交通 

   1963年5月、東北地方の私鉄を訪ねた時に一番インパクトが強かったのは羽後交通です。
   
   羽後交通の鉄道線は横荘線が1971年、雄勝線が1973年に相次いで廃止されました。

   一鉄道ファンにすぎない私ですが、このような鉄道が廃止されたことで沿線の地域社会が

   どう変わっただろうかと、気になっています。

 沼館に停車中の横荘線の混合列車。

 元来の横荘線は横手〜老方38.2キロでしたが、この頃の横荘線は老方〜二井山が廃止後で、横手〜二井山間26.1キロでした。

 平坦な横手盆地の区間では写真のディーゼル機関車DC2でも牽引できたでしょうけれど、この先には山間部があるったので、このDLで行けたのかなと今も疑問に思っています。

(羽後交通横荘線 沼館 1963.5)
 DLによる貨車の入換風景。
 1960年代には、横荘線のようなローカル私鉄でも国鉄線からの貨車の入線は多く、こうした情景もよく見たものです。

 雪の多いこの地方では、冬季にはこのDLが除雪もするという話でした。

(羽後交通横荘線 沼館 1963.5)
 朝の仕事が終わったホハニ3。

 ダブルルーフやトラス棒、台車など、ローカル私鉄の古い客車ならではのスタイルで、凸凹が多い車体は模型を作る人には工作が楽しめそうです。
 人間なら「彫りの深い顔」という言葉がありますが、彫りの深い車輛でした。

(羽後交通横荘線 沼館 1963.5)
 横荘線のピカイチだった気動車キハ2。
 昭和28年製らしく液圧式で当時流行の湘南顔ですが、前面のバスケットがいささかアンバランスです。 

 この車は横荘線廃止後、雄勝線に転じました。

(羽後交通横荘線 沼館 1963.5)
 こちらは国鉄から譲り受けたキハ4。
 元はキハ41000だと思うのですが。

 私は国鉄の機械式気動車は07系以外はあまり写しておらず、04系の写真は私鉄に移籍されてからの車輛ばかりです。

(羽後交通横荘線 横手 1963.5)
 ここからの写真は雄勝線のもの。

 雄勝線は奥羽本線湯沢から梺まで11.7キロのトロリーラインでしたが、私の乗った時は乗客が意外に多いのに驚きました。

 写真のデハ4は木造車体を更新したものだったようで、どこか路面電車のような雰囲気がする車輛です。

(羽後交通雄勝線 湯沢 1963.5)
 西馬音内車庫に留置されていたデハ1形のNo3。

 1928年に雄勝線が雄勝鉄道として開通した時からの古参車ですが、可愛らしいスタイルのために今でも模型では人気があるようです。

(羽後交通雄勝線 西馬音内 1963.5)
 西武所沢工場製と書かれていたデハ7。種車は何だったのでしょう?

 この時期、西武所沢工場ではいろいろな古車両を改造して、あちこちの小私鉄に売り込んでいたものです。
 敗戦直後から被災車両を叩き直してきた所沢工場の腕前は中々のものでした。

(羽後交通雄勝線 西馬音内 1963.5)
 側線で夕方の出番を待っている省形木造客車ホハフ2。
 
 この車を小さな電動車が牽くのですから、雄勝線の足の遅いことは相当なもので、最高速度は30キロも出ていたか? 表定速度は20キロにもならないのですから。
 それでも、地元の人たちには大切な足ではありましたが。

(羽後交通雄勝線 湯沢 1963.5)
 対向列車を待つ雄勝線の列車。
 雄勝線のダイヤは羽後三輪で列車交換するのが原則だったようです。

 こうした混合列車や長閑な列車交換風景は、あちこちのローカル線で珍しくないものでしたが。

(羽後交通雄勝線 羽後三輪 1963.5)
 列車の後尾に連結していた木造貨車 ワフ1。
 国鉄から譲り受けた古典貨車です。

 写真を見て気がついたのですが、妻面の下方に見える穴はピンリンク連結器だった時代に、バッファーが付いていた跡ではないでしょうか。

(羽後交通雄勝線 西馬音内 1963.5)
 雄勝線の典型的な編成、電動車+客車+貨車。オープンデッキの客車はハフ11だと思います。
 
 雄勝線の列車には直通ブレーキはなく、電動車の制動だけで止めていたようで、これでは速度も出せなかったはずです。

 向こうに見える煙は奥羽本線の蒸気機関車のものです。

(羽後交通雄勝線 湯沢 1963.5)


 鹿児島市電 

   今回はトップページが旭川電軌なので、このページでは南の鹿児島市電を取り上げました。

   私の手元に鹿児島市電の写真が意外に多いのは、日豊本線と鹿児島本線の接続待ちの間に途中下車
   することが多かったからです。

   そのため、撮影場所は鹿児島駅前ばかりがやたらと多くて恐縮です。

 これは、昭和31年に初めて九州に旅行した時に写した写真。

 このオープンデッキの車両の前身は東京市電最後の単車、400形だったと思います。

 (鹿児島市電 鹿児島駅前 1956.4)
 上野写真と同じ時に写したNo26(おそらく1形)
 この時代の鹿児島市電は単車が沢山残っていました。

 この時のカメラは借り物の二眼レフでした。
 二眼レフというのはおよそ動体撮影には不向きな代物です。

 (鹿児島市電 鹿児島駅前 1956.4)
 上のNo26と窓配置などがよく似たNo125。

 1形と100形は幕板から屋根の辺りの形状以外にどこが違うのか不勉強でよく知りませんが、熊本市電にも似たような形態の車輛があったと思います。

 (鹿児島市電 鹿児島駅前 1959.3)
 こちらのNo25は特異な形状のダブルルーフです。

 当時の鹿児島市電はこのようなバラエティに富んだ単車で賑やかでした。


 (鹿児島市電 鹿児島駅前 1959.3)
 元東京市電4000形から転じた400形。

 東京では見られなくなった木造大型ボギー車が、昭和30年代の鹿児島では未だ健在でした。

 (鹿児島市電 鹿児島駅前 1959.3)
 こちらは上の400形を鋼体化更新したもの。

 都電7000形に似たスマートなスタイルに生まれ変わりました。

(鹿児島市電 鹿児島駅前 1959.3)
 この300形も元は東京市電3000形の車体更新車だったはず。

 鹿児島市電はスタンダードゲージ、東京市電はシブロクとゲージは違うので、転入に当たっては、足回りの改修が面倒だった事でしょう。

(鹿児島市電 鹿児島駅前 1959.3)
 400形の更新前を写したカラーポジがあったので、色褪せていますがお目にかけます。

 クラシックなスタイルの400型にこの塗分けは少し浮き上がって見えました。

(鹿児島市電 高見馬場? 1963.3?)
 専用軌道の谷山線
 この付近は1914年に鹿児島電気軌道として開業した区間で、鹿児島市電の最古参の路線です。

 この付近の運転は中々頻繁で、平日の朝は4分ヘッドのようです。

(鹿児島市電 南鹿児島駅前付近 1979.4)
 このような専用軌道を路面電車が走る区間は、今も各地で見られます。

 私はこうした景色を見ると、失われた京都市電伏見線が懐かしく連想されます。

(鹿児島市電 南鹿児島駅前付近 1979.4)

 広島電鉄 

   現在の日本の路面電車で最大の路線をもつ広島電鉄を取り上げるのは大変で、これまで掲載でき
   ませんでした。

   しかし、路面電車ファンの私のことですから、広島電鉄は何度も訪ねています。
   そこで、今回はとりあえず昭和30年代の古い写真をピックアップしてお目に掛けることとしました。

   原爆の惨禍から復興しつつあった時代の広島電鉄の様子をご覧ください。

 何もないだだっ広い広島駅前に停車中の157。

 150形は広島電鉄最初の半鋼車だそうですが、写真の姿は被爆後更新されてのものです。
 京都住まいの私には京都市電800形を単車にしたような印象を受けました。

(広島電鉄 広島駅前 1957年9月)
 千田車庫で憩う209。
 この200形も被爆し、復旧工事を受けたはずですが、昭和初期生まれらしいスタイルを留めています。

 車体の広告はゲーリー・クーパーとオードリー・ヘッパーン主演の「昼下がりの情事」。  懐かしい映画だと思う方は相当の高齢者です。

(広島電鉄 千田車庫 1957年9月)
 十日市町交差点を右折してくるNo417。

 400形は昭和初期に大阪市電から譲り受けた車輛が前身。
 広島電鉄の車両には、戦前にも大阪などからの移入車があったわけです。

(広島電鉄 十日市町 1957年9月)
 450形が停車中しているのは広島駅前の乗車場。
 現在の立派なターミナルからは想像しにくい風景です。

 450型も被爆して更新されていますが、それ以前にも千田車庫の火災で被災し更新されてたという記録があります。

(広島電鉄 広島駅前 1957年9月)
 800形に続いて作られた、戦後二度目の新車500形。
 前後ドアの800形と違い、前と中央の2ドア車で、この車から戦後の広島電鉄独自のスタイルが表れてきたように見えます。

 撮影場所はフィルムの前後から判断すると己斐付近のようです。

(広島電鉄 己斐 1957年9月)
 550形は500形の増備車ですが、中でも写真の551は宮島線直通用として作られた高性能車で、制御器などが他車と違い、スタイルも洗練されていました。
 

 この551を写すため千田車庫を訪ねたのは半世紀以上前ですが、この写真を見ているとついこの間のように思えます。

(広島電鉄 千田車庫 1957年9月)
 つい最近まで被爆電車として現役だった650形の半世紀前の姿です。
 戦争中の資材不足の時代に作られたこの車が、原爆に被災しながらよく長寿を保てたものです。

 この車両は大阪市電から転入した750形と、どことなく似ています。

(広島電鉄 広島駅前 1957年9月)
 700型の元は京王電軌の23形、函館市電400形も仲間だったことは有名です。

 ただ、原爆被災後の復旧工事の結果、路面電車らしいスタイルに変わっています。

(広島電鉄 千田車庫 1957年9月)
 十日市町を右折し横川駅方面に向かう801。

 広島電鉄で戦後初めての新車800形(初代)は京都市電800形と同形の車輛で、伊予鉄にも同じスタイルの車輛があります。

(広島電鉄 十日市町 1957年9月)
 宮島線直後から働いてきた1010形。
 メーカーは懐かしい名前、梅鉢鉄工所です。

 私が見たときのこの車両は製造後30数年が立っていたのですが、美しい木造車の姿を留めていました。

(広島電鉄 西広島 1957年9月)
 1010形の増備車1020形。足回りの他は1010形と変わりありません。

 これらの車両から、私は叡山電鉄にいたデナ1を連想しました。どちらも独特のデザインの美しい木造車でした。

(広島電鉄 西広島 1957年9月)
 宮島線で最初の半鋼車1030形。
 この型式は1950年に車体延長化改造をしていたため、少々胴長に見えます。

 この写真を写した場所は、少し移動すると山陽本線の撮影も出来る鉄道ファンには便利なところです。

(広島電鉄 五日市付近 1961年9月)
 元は木造車を改造した車輛2両を改造した、広島電鉄連接車の元祖1040形。

 現在は連接車王国の広島電鉄ですが、その始まりはこの型式と言えましょう。

(広島電鉄 五日市付近 1961年9月)
 終戦直後に購入した元京阪電鉄の木造車100形を鋼体化更新した1050形。
 Hゴム支持の窓やノーヘッダーなど、いかにも昭和30年ごろらしいスタイルです。

 宮島線には元阪急500形の1070形もいたのですが、その写真が無いのは残念です。

(広島電鉄 西広島 1957年9月)

 東京都電 

   全盛期には210キロ以上の路線網と40に及ぶ系統があった東京都電は路面電車好きの私にとって
   手ごわい相手で、全線踏破は無理でした。

   結局、乗ることの出来た路線は全体の数分の一。乗れないうちに多くの路線が消えてしまいました。
   写真もあまり多くは写していないのですが、その中の一部を並べて見ました。
   
   

 王子駅前を右折する27系統赤羽行。

 三輪橋〜赤羽の27系統は現存する荒川線と同じく、王子電気軌道から引継いだ路線でした。
 いかにも昭和初期の生まれらしい重たげなスタイルの160形も王子電気軌道からの引継ぎ車です。

(東京都電 王子駅前 1963.11)
 須田町行の29系統に乗客が集まっています。
 江東のこの付近は都電が比較的遅くまで残った区間です。

 専用軌道と併用軌道が入り混じるこの辺りは、雰囲気が私の好きな京都市電伏見線とも似通っていました。

(東京都電 大島三丁目 1969.10)
 太鼓橋をドッコイショと越える29系統。
 海抜ゼロメートル地帯の都電は大変です。

 私の訪ねた当時、このあたりで見る都電は1500形ばかりでした。1500形は錦糸堀車庫に集中配備されていたのでしょうか?

(東京都電 竪川付近 1969.10)
 今日からは想像もできない、杉並線新宿駅西口の景色です。

 杉並線は4フィート半ゲージで都電の中の異端児、西武鉄道から引き継いだ3フィート半ゲージの外様路線ではありましたが、写真の当時には他の都電の路線なみに整備されていました。

(東京都電 新宿駅西口 1963.11)
 杉並区役所前とはいかにも路面電車らしい停留所名です。
 この日乗った14系統は結構利用されていました。

 いつも思うことですが、都市内交通では地下鉄などが出来て乗車時間は短くなっても、乗り降りに手間取ることで近距離の移動はかえって不便になっていないでしょうか?

(東京都電 杉並区役所前 1963.11)
 これも2000形。当時の杉並線ではこの形式ばかりでした。
 2000形にもいくつかのバリエーションがあり、写真の2018は前面がスマートに見えます。

 杉並線を3枚も並べたのは、私にこの沿線への思い入れがあるためです。
 古い話ですが、昭和16、7年頃、阿佐ヶ谷にいた私は西武鉄道の頃の杉並線を見たおぼろげな記憶があるのです。

(東京都電 荻窪駅前 1963.11)
 私の写した東京駅はこの写真だけです。
 もう少しマシな写真があればよかったのですが。

 やってきた3000形は木造車を6000形に似たスタイルに鋼体化更新したものです。

(東京都電 東京駅前 1963.11)
 両国駅前で発車時刻を待つ5000形。
 房総へのターミナルだった両国駅も、この頃はすっかり中間駅になり、駅前は閑散としていました。

 都電で最大クラスの車両だった5000型は数が少なく、私の写真でまともなものはこれだけです。

(東京都電 両国駅前 1963.11)
 和製PCCカーと言われた5500形も日本向きではなかったのか、ごく少数しか作られずに終わりました。

 この写真は輸入部品を使って作られた5001を写せなかった代りのものです。
 5500型は1系統専用だったので、品川駅前付近でかなり粘ったのですが。

(東京都電 品川駅前付近 1957.5)
 戦後の都電の代表車、290両という大所帯の6000形のトップナンバーです。
 
 やや無骨な6000形はビル街と意外に似合っていました。

(東京都電 馬場先門 1964.10)
 東武浅草駅前を横切る6000形。

 6000型は戦後の都電の代表車で、秋田市電や土佐電鉄などにも類似の車が作られています。

(東京都電 東武浅草駅前 1972.5)
 うららかな陽光を浴びて吾妻橋を渡る8000形。

 軽量車というと聞こえは良いものの、廃止が近いことを想定して作られていたのか、かなり安普請の感じの車輛ではありました。

(東京都電 吾妻橋 1972.5)

 井笠鉄道 

   山陽本線笠岡から井原、北川などの町へ、全線37キロの路線があった井笠鉄道は、ナローゲージ
   の鉄道ながら、中々立派な鉄道でした。
   
   とは言うものの、小柄な気動車がオープンデッキの木造客車を牽いて走る様子はやはり軽便鉄道で、
   その姿は1971年の廃止以来40年近く経った今も忘れられません。

 くじば車庫で旧車状態のbQ。

 いかにもニブロクの蒸気機関車らしいコッペルのこのスタイルの機関車は全国に同形機が多く、ファンも多いようです。

(井笠鉄道 くじ場 1970.7)
 井笠鉄道はナローといっても設備はしっかりして、一時は急行も運転されていたようです。

 写真でお分かりいただけるように保線もしっかり行われており、国鉄の変な区間よりしっかりしていると感じたものです。

(井笠鉄道 大井村付近? 1970.7)
  笠岡で待機中のホジ9。

 両端のがっしりしたバスケットと、前面窓の上の庇、直線的なスタイルなど、戦前からの井笠鉄道の気動車の中で代表的なものです。

(井笠鉄道 笠岡 1958.8)
 1958年には、単端式気動車ジ10がまだ健在でした。

 単端式の車両は終点で方向転換作業が必要なのですが、蒸気機関車に慣れていた時代は煩わしいとも思われなかったのでしょうか。

(井笠鉄道 井原 1958.8)
 井原で発車を待つジ15が曳く混合列車。

 初めて訪ねた1958年頃には、まだこのような混合列車があったのですが、走行写真を撮っていません。
 今となってはまことに残念です。

(井笠鉄道 井原 1958.8)
 単車のジ16が客車を牽く列車。
 こうして見ると、牽かれている客車ホハ1形は小柄な気動車よりもさらに小さいことが分かります。

 井原駅は笠岡からの本線と神辺からの神辺線が並んで入って来る行き止り駅の形状で、笠岡から神辺への直通列車はなかったように思います。

(井笠鉄道 井原 1958.8)
 くじば(字が難しいので平仮名にしておきます)車庫の様子。

 この車庫は廃止後も残っていたものが火災で焼失し、保存されていた車輛の多くが失われたのは残念です。

(井笠鉄道 くじ場 1970.7)
 湘南窓の気動車と木造客車。
 晩年の井笠鉄道の典型的なスタイルです。

 井笠鉄道の客車はオープンデッキの車輛やダブルルーフの車輛、戦前の小型気動車をトレーラー化したものなど、バラエティに富んでいました。

(井笠鉄道 大井村付近? 1970.7)
 小さな列車がやって来ると蝉時雨が止み、タブレット交換。
 いかにも長閑な風景です。

 しかし、写真の時期にも列車は1時間に1,2往復は運転され、乗降りする人も何人かはいて、廃止が近い鉄道とは思えませんでした。

(井笠鉄道 大井村? 1970.7) 
  井笠鉄道が戦後に増備した気動車はホジ1形とホジ100形があったと思いますが、この車はどちらだったか?
 当時、このスタイルの車輛は全国各地でよく見かけたものです。

 ターンテーブルをまたいでいるところから、この車が古い単端式の気動車よりかなり長いことが分かります。

(井笠鉄道 くじ場 1970.7)

 阪神電鉄国道線

   私が阪神電鉄国道線を始めて見たのは中学1年生のとき。
   国電の車窓から並走する路面電車を見て、あれっ?と思った時でした。
   60年前には東海道本線から阪神国道まで見通せる所が多かったのです。

   一口に阪神電鉄国道線と言いますが、運転上は野田〜西神戸26キロの国道線と支線の甲子園線、
   野田〜天神橋筋六丁目間の北大阪線の3線に分かれていて、まとめて国道線ということが多かった
   ようです。車両はこの3線に共通して使われていました。
  

 国道線名物 金魚鉢と呼ばれた71形。
 撮影した頃の国道線は渋滞による遅れが目立つようになり、運転回数も減ってきたため、神戸寄りの沿線で写真を撮るのは少々根気が要りました。

 写真のbV3がずいぶん汚れて見えるのはフィルムの痛みにもよります。

(阪神電鉄国道線 武庫川大橋付近? 1969.6)
 国道線野田〜東神戸間の所要時間は2時間ほどかかったようで、私も全線を通して乗ったことがありません。

 昭和の初めに開通したころは路面電車にしては高出力、高速度だった阪神国道線も、昭和40年代になると、自動車に妨げられてトロトロしか走れない時代になっていました。

(阪神電鉄国道線 武庫川大橋付近 1969.6)
 今は無くなった遊園地、阪神パークの前を行くbV1。
 bV1は1937年生まれ、金魚鉢と呼ばれた71形のトップナンバーです。

 甲子園線は3キロほどの短い支線でしたが、本線と住宅団地間の足としてけっこう利用されていました。

(阪神電鉄甲子園線 阪神パーク前 1969.6)
 浜田車庫近くを行き交う71系。

 金魚鉢の愛称で呼ばれた形式には当初作られた71形と、増備車の91形、201形がありましたが、私にはうまく見分けがつきません。
 それにしても、戦中戦後の資材不足の時期に、よくぞ71形のスタイルを守って増備車を作れたものです。

(阪神電鉄国道線 浜田車庫前付近 1969.6)
 こちらは開通時の1形のスタイルを受け継ぐ bW1。
 この車のスタイルは嵐電の101形などと似ていて、昭和初期の車両に共通する所があるなと感じます。

 国道線の集電装置はボウコレクタとかYゲルと呼ばれる独特の形状でした。
 この形の集電装置を他で見たのは阪堺線と静鉄秋葉線位でしょうか。

(阪神電鉄国道線 浜田車庫前付近 1969.6)
 末期の北大阪線と国道線のターミナル野田の光景。
 高架線は阪神電鉄本線です。

 北大阪線と国道線のホームは区分されていて、直通する運転系統はありません。

 撮影のもう少し前までは野田構内に留置線があり、昼寝している車両もいたと思いますが、廃止が近づいたこの日には見かけませんでした。

(阪神電鉄北大阪線 野田 1975.5)
 野田を発車して間もなく、北大阪線海老江付近のセンターポール区間。

 この辺りは中小企業のオフィスが並ぶ、あまり広くない道路で、ユーロピアンスタイルの71形がやってくると実に大きく見えました。

(阪神電鉄北大阪線 海老江付近 1975.5)
 北大阪線の名所、阪急と並んで梅田貨物線などを越える中津鉄橋。

 隣の阪急の鉄橋と比べても見劣りしない、路面電車にはもったいないようなトラス橋でした。

(阪神電鉄北大阪線 中津付近 1975.5)
 北大阪線が廃止される数日前の車内風景。
 画像では読めませんが、廃止を知らせる「謹告」が車内にぶら下がっています。

 今ならお別れ撮影のファンが詰めかける時期ですが、この日の沿線にはそれらしい人は見当たりませんでした。

(阪神電鉄北大阪線 71形車内 1975.5)
 北大阪線の終点、天神橋筋六丁目。

 北大阪線は阪急京都線が新京阪電鉄時代からターミナルにしていた天六と阪神電鉄の野田を結んではいたものの、もう一つ目的がはっきりしない路線でした。

(阪神電鉄北大阪線 天神橋筋六丁目 1975.5)

 奈良電鉄 

   今回は今の近鉄京都線の前身 奈良電鉄の古写真を集めて見ました。
   1928年開業の奈良電鉄は1963年10月に近鉄と合併、近鉄京都線となります。

   たまたま元奈良電鉄の沿線に暮らしている私ですが、奈良電鉄時代の写真は案外少なくて
   お恥ずかしい写真しかなくて恐縮ですが。

  

 奈良電鉄開業時に作られたデハボ1000形。
 形式のデハボは電動、三等、ボギー車を意味します。

 デハボ1000は24両あった奈良電鉄の主力で、近鉄と合併後も430形と名前を変えて残っていました。

 走っている場所は近鉄奈良線油坂〜奈良間の地表時代の線路。
 奈良電鉄は奈良に自前のターミナルはなく、近鉄の西大寺〜奈良間に乗り入れていました。

(奈良電鉄 近鉄油坂付近 1957.4)
 京阪丹波橋駅に停る単行のデハボ1019。
 当時、ナラ電はガラ電などと悪口を言われ、日中は単行でも空いていました。

 奈良電鉄の京阪丹波橋への乗入れは1945年に始まり、近鉄になった後の1968年に、近鉄の昇圧などを理由に打ち切られ、奈良電開業時の堀ノ内駅跡に近鉄丹波橋駅が作られました。

 今でも丹波橋での近鉄と京阪間の乗換え客は多く、乗入れが続いていたらよかったと思います。列車数が増えた今ではとても無理でしょうけれど。

(奈良電鉄 京阪丹波橋 1961.2)
 京都を出て次の東寺に着く、デハボ1102+クハボ652の奈良行普通。
 デハボ1100形は1948年に作られた車で、同じ年に作られた近鉄モ600形の幅を広くしたようなスタイルをしています。

 この頃の東寺駅は前後が地平で、京都市電九条線を越える部分だけが高架でした。

(奈良電鉄 東寺 1963.3)
 上の列車の後追い写真。
 写真のNo652はクハボ650形。パンタを上げていますが制御車です。

 クハボ650形は太平洋戦争中に沿線に軍需工場が出来、乗客が増えたのに対応して増備された車輛。
 メーカーが木南車両と言う小メーカーなのも戦時中の産物らしい車でした。 

(奈良電鉄 東寺 1963.3)
 1954年、突然変異のように現れたデハボ1200形。
 当時最新のシュリーレンタイプの台車にWN駆動、ドア間はクロスシート。
 京都〜奈良間を35分と今見ても中々の俊足で走る、奈良電鉄のピカイチでした。

 ただ、弱小私鉄の奈良電はこのデハボ1200を2両しか作れず、相棒には戦前生まれのクハボ600を手直しして連結していましたが。

(奈良電鉄 寸田辺 1957.6)
 上の写真と同じデハボ1200型ですが、デビューしてから少し経って、なぜかグリーンとクリームの塗分けから、地味なマルーン系に変わってしまいました。

 しかし、大きな特急のヘッドマークが誇らしげではあります

(奈良電鉄 西大寺 1962.12)
 外部は塗分け内部はクロスシート化するなど化粧直しをして、特急用に活躍していた時代のクハボ600形。
 クハボ600形は1940年に奈良電鉄初の制御車として造られた車輛です。この車も制御車ですが、パンタを装備していました。
 写真は特急運用の間合いに急行に使われていた姿です。

 撮影場所の奈良電鉄京都駅は2面3線の狭い地平駅で、国鉄京都駅の南側にあり、跨線橋で国鉄のホームとつながっていました。

(奈良電鉄 京都 1957.6)
 この写真だけは近鉄京都線になってからのもので、奈良電鉄デハボ1200形が近鉄の有料特急車モ680形に変身した姿です。

 ファンの間では、無料特急だった車輛で特急料金を取るとは近鉄もガメツイ・・・と悪評が強かったモ680でしたが、最後は一般車に戻り志摩線を走っていました。

 後方は澱川鉄橋。ワンスパン165メートルの大トラスは奈良電鉄時代からの名所で、今も健在です。

(近鉄 宇治川鉄橋 1969年頃)
 デハボ1200形のそっくりさん、デハボ1350形。
 特急増発用にデハボ1200の増備として作った車ですが、車体だけが新造で足回りなどは廃車になったデハボ1000形などの部品を使っており、性能的には旧型車です。

 電車が走っているのは京阪と奈良電鉄が共用の丹波橋駅から奈良電鉄京都方への線路。なんとも開放的な線路でした。

(奈良電鉄 丹波橋付近 1963.3)
 京阪に乗入れたデハボ1300形。
 奈良電鉄には1時間に1往復の京都〜奈良間直通列車があり、京阪はその代わりに京都〜宇治間の直通列車を運転していました。

 ガラ電と言われた奈良電鉄も1960年頃からは乗客も増えはじめ、その対応に作ったのが写真のデハボ1300。

 中々格好は良いのですが、車体だけを新造し電動貨車の足回りや電気機器を使った車輛なので、非力で鈍足でした。
 近鉄になってからも使われ、最後は生駒線にいたはずです。

(奈良電鉄 京阪五条付近 1961.3)
 奈良電鉄には開業した時から電動貨車が3両ありました。

 その内、写真のデトボ300形は遅くまで工事用に使われていましたが、有蓋電動貨車のデワボ500形は上の写真のデハボ1300形の種車になっています。

(奈良電鉄 新田辺 1957.6)
 奈良電鉄には近鉄車の乗入れもあり、京都〜橿原神宮間の急行にはもっぱら近鉄車が使われていて、木造小型車モ200形の姿も見られました。
 写真の820系は今も伊賀鉄道に残っています。

 この頃の奈良電鉄京都〜丹波橋間は、奈良電鉄車と近鉄車、さらには京阪宇治〜京都間を走る京阪車も走っていて、面白い区間でした。

(奈良電鉄 東寺 1963.3)

 豊橋鉄道 

   今回は本州中央部に戻って、豊橋鉄道の昔話です。

   現在の豊橋鉄道は豊橋市内の軌道線の東田本線と鉄道線の渥美線で構成されていますが、
   昔は飯田線本長篠から東三河の山の中に入る田口線、市内線の柳生橋支線もありました。

   ここで御覧に入れる写真はそれらが揃っていた、1961年4月のものです。
  

 豊橋鉄道東田本線は1924年に開業した豊橋電気軌道が前身ですが、1961年当時には開業時の車輛は見られず、他線からの転入車ばかりでした。

 この204形ははるばる旭川電気軌道から移ってきた車輛です。旭川電軌出身の電車は秋田市電にもありました。

(豊橋鉄道東田本線 駅前付近 1961.4)
 このオープンデッキ、ダブルルーフの300形は名古屋市電から来たもの。
 近くでもあり、豊橋鉄道はこの頃から名古屋市電の電車を譲り受けていました。

 この頃の市内線の路線は駅前を通り越して、市民病院前まで伸びていました。

(豊橋鉄道東田本線 駅前 1961.4)
 この400型も名古屋市電から来た電車ですが、さらに以前は名古屋市電に吸収された下之一色電軌の車両だったとか。

 豊橋名物といえばちくわ。駅前に掲げられたちくわの看板は懐かしい思い出です。

(豊橋鉄道東田本線 駅前 1961.4)
 この500形も名古屋市電からきたもので、豊橋鉄道の最後の単車でもありました。

 単車ではありますが軽快なデザインで、後の名古屋市電スタイルがはっきりしています。
 こうして見ると、この頃の豊橋鉄道には名古屋市電の単車達が揃っていた訳です。

(豊橋鉄道東田本線 駅前 1961.4)
 こちらは重々しいスタイルのボギー車 600形。
 元をただせばお伊勢参りの善男善女を運んでいた三重交通神都線の電車でした。

 豊橋鉄道ではこの車両が入った頃からボギー車の導入が進んできます。

(豊橋鉄道東田本線 駅前 1961.4)
 渥美線の元は渥美電鉄。
 戦中、戦後の一時期は名鉄に吸収されていて、1954年に豊橋鉄道に引き継がれた頃は田舎電車でしたが、今では15分ヘッド運転の都市近郊型鉄道です。

 渥美線の1961年当時の車両は西武鉄道や神中鉄道の古電車、それも気動車改造の怪しげな車輛が沢山ありました。
 写真のク1505も西武鉄道のお古だったと思います。

(豊橋鉄道渥美線 高師 1961.4)
 田口線の前身、田口鉄道は飯田線の前身、豊川鉄道の子会社的な存在でした。

 起点の本長篠から終点三河田口まで約23キロ、沿線は山また山。
 写真は終点 三河田口駅です。
 ここは山陰本線の保津峡駅を思わすような山間で、田口の町へはさらにバスが連絡していました。

(豊橋鉄道田口線 三河田口? 1961.4)
 田口鉄道から豊橋鉄道に引き継がれたデキ53。
 前面に見える突起物は砂箱です。 田口線は勾配も多くデキ53は中々の重装備でした。

 この機関車は田口線の廃止後、渥美線に移っています。

(豊橋鉄道田口 三河田口 1961.4)
 このモ14は元は飯田線の前身 豊川鉄道の車輛で、国有化のときに田口鉄道に移管されたようです。

 このような木造小型車では鉄道省もあまり必要を感じなかったでしょう。

(豊橋鉄道田口線 本長篠 1961.4)
 こちらのモ36は豊川鉄道にも同形車がいました。
 いかにも昭和初期らしいスタイルの3ドア半鋼車で、全国あちらこちらの私鉄に似たような車を見たものです。

 この車は一時は飯田線に乗り入れて豊橋まで顔を出していました。

(豊橋鉄道田口線 三河海老? 1961.4)

 大分交通鉄道線
   (国東線、宇佐参宮線、耶馬渓線)

   大分交通は戦時合併で生まれた企業で、私が乗った時には耶馬渓線、宇佐参宮線、国東線の
   合計 約75キロの鉄道線と、別府〜大分間の軌道線 別大線約19キロがありました。
   今回アップしたのはその内、鉄道線の古い写真です。

   私の訪ねた1960年ころの大分交通鉄道線は、気動車とディーゼル機関車牽引の客車列車が
   混じって運転されるローカル色豊かな鉄道でした。

 日豊本線杵築から国東半島の海岸沿いに国東まで、約30キロを走っていた大分交通国東線。
 今ではこの沿線に大分空港があるはずで、存続していれば空港アクセス鉄道になれたかもしれません。

 写真のキハ602は国鉄キハ10を湘南顔にしたような車で、2,3年前には紀州鉄道紀伊御坊に残っていたのですが。

(大分交通国東線 安岐 1960.4)
 元 国東鉄道時代からの給水塔が残る、国東線の車両基地。

 戦前に作られた元はガソリンカーだったキハ21などが一服しています。
 この写真には写っていませんが、庫内にはクラウスの古典蒸機もいました。

(大分交通国東線 杵築 1960.4)
 朝の一仕事を済ませて杵築のホームで休むオープンデッキの客車、ハニフ50。
 この車は元はダブルルーフだったように見えます。

 国東線の起点 杵築は国鉄のホームと並んで一面二線のささやかなものでした。

(大分交通国東線 杵築 1960.4)
 こちらは大分交通宇佐参宮線の国鉄連絡駅、宇佐の構内風景です。
 向こうにちらと見えるのは下り急行高千穂だったはず。

 宇佐参宮線は日豊本線 宇佐を真中に豊後高田〜宇佐八幡間8.8キロの短い路線ですが、運転数は日に17、8往復ありました。

(大分交通宇佐参宮線 宇佐 1960.4)
 ロッド式の小型ディーゼル機 D22。
 後ろに貨車が見えますが、その後ろに客車が繋がる混合列車でした。

 私は大分交通のうち宇佐参宮線だけは乗らなかったはずなのですが、この写真の社殿風の駅を見て「宇佐参宮線の宇佐駅はこんな立派だったかな?」・・・と今頃になって悩んでいます。

(大分交通宇佐参宮線 宇佐? 1960.4)
 国鉄DD13タイプのディーゼル機が牽く混合列車。

 私の見た宇佐参宮線の列車は混合列車だけだったように覚えています。

(大分交通宇佐参宮線 宇佐 1960.4)
 日豊本線中津から守実温泉まで約36キロの耶馬渓線は、1975年と大分交通の中で最後まで残った鉄道です。

 この線は気動車が主体の運転でしたが、ご覧のようにトレーラーを牽く列車も数多くありました。

(大分交通耶馬渓線 青洞門 1959.3)
 流線形とはいえ、あまりスマートでない気動車キハ105。
 もとは筑肥線の前身、北九州鉄道のガソリンカーだったとのことです。

 大分交通の気動車には せきれい、かじかなど可愛らしい名前が付けてありましたが、このキハ105はちどりだったと思います。

(大分交通耶馬渓線 中津 1959.3)
 凸凹編成が面白いDTD編成の列車。

 写真のキハ102には幕板にかわせみと愛称が書かれていました。(この画像では見えにくいですが)

 大分交通では各線の間でかなり頻繁に車輛の移動があったようで、このキハ102も耶馬渓線生え抜きではなかったと思います。

(大分交通耶馬渓線 中津? 1959.3)
 オープンデッキの雨宮製作所製ハニフ21。
 デッキのブレーキハンドルが愉快です。

 1960年頃の大分交通にはこうした客車や貨車が沢山在籍していました。
 もっと写しておけばよかったのですが、現在のようなデジカメ時代とは違って、フィルムが高かった当時は財布と相談しながらシャッターを切っていたのです。

(大分交通耶馬渓線 中津 1959.3)

 琴平参宮電鉄 

  今回は琴平参宮電鉄の昔話です。

  琴平参宮電鉄は多度津桟橋通と坂出駅前から、善通寺赤門前を経て琴参琴平まで、
  鉄道区間と軌道区間を合わせて27キロ弱の路線がありました。

  この路線は1963年と比較的早くに廃止されたたため(企業としては今もバス会社として
  存続いますが)一度しか訪問しておらず、見て頂くにはお恥ずかしい写真ばかりですが
  何かの話の種にして下さればと思ってアップしました。

 琴平参宮電鉄善通寺車庫の点景。

 この鉄道の車輛の1962年当時の在籍は18両あったようですが、その内容はまったく知りません。ただ、このbT4は鋼体化更新した車輛のように見えました。

(琴平参宮電鉄 善通寺車庫 1962.5) 
 ひどくブレた写真で失礼します。
 この日は曇り空で、ISO10のリバーサルフィルムで写すのは難儀したのです。

 この電車はbT5のようですが、上の写真のbT4とは形態が違います。

(琴平参宮電鉄 善通寺赤門前付近? 1962.5) 
 この写真の電車はナンバーも見分けがつかないほどブレていますが、隣のトラックはそれほどブレていない。
 ということは電車の揺れが大きいということです。
 この頃はすでに廃線の予定があったからか、保線状態は良くありませんでした。

(琴平参宮電鉄 善通寺車庫前付近? 1962.5) 
 かなり草臥れた感じのbT7。
 前面上部の弧を描いた雨樋など、細部の形状が他の車と違います。

 琴平参宮電鉄の車両は1両1両が微妙に違っていて、形式はよくわかりません。

(琴平参宮電鉄 善通寺赤門前 1962.5) 
 琴平参宮電鉄は廃止までツーマン運転だったはず。
 もっとも、廃止された1963年は、まだワンマン化されていない鉄道が多かった時代です。

(琴平参宮電鉄 善通寺赤門前付近? 1962.5) 
 私の見た琴平参宮電鉄の車両は半鋼ボギー車ばかりでしたが、創業時の車輛は木造単車だったそうです。

 また、戦後には大阪市電などからの木造ボギー車の転入があったようで、私の写真の中にはそれらの車の鋼体化された姿があるのかも知れません。

(琴平参宮電鉄 善通寺赤門前付近? 1962.5) 
 力走するbW4。
 この車両は戦後生まれの車のように見えました。

 撮影した当時の琴平参宮電鉄は琴平〜多度津間、琴平〜坂出間、それぞれ20分ヘッドの運転。
 したがって両方の系統が重なる琴平〜善通寺赤門前間では10分ヘッドとかなりの運転頻度だったと記憶しています。

(琴平参宮電鉄 善通寺赤門前付近? 1962.5) 
 停車中のbW6。
 この辺りが善通寺の街の中心だったのか、商店などが並んでいます。

 ニッカバーの看板が時代を感じさせ、トリスバーなんてのもあちことにあったと懐かしく思い出されます。ただし、私は下戸ですが。

(琴平参宮電鉄 善通寺赤門前 1962.5) 
 このbT7は上の方のカラー写真でも登場しています。

 こうした街角の情景は福島交通、山梨交通など全国各地で見かけました。
 左手にいる子供達は今もこの電車のことを覚えているでしょうか?

(琴平参宮電鉄 善通寺赤門前 1962.5) 
 讃岐富士と呼ばれる飯野山をバックに砂塵を上げて走る電車。

 撮影地は背後の山の位置から見ると善通寺車庫前と善通寺赤門前の間のように見えます。
 ただ、この頃の複線区間は善通寺赤門前と琴参琴平の間だったと思うのですが。

 (この写真は裏向きにスキャンしてしまいました。改めてアップします)

(琴平参宮電鉄 善通寺赤門前付近? 1962.5) 

 函館市電 

   今回は函館市電の話です。
   飛行機利用など頭にない私は北海道に行くとなると必ず函館に寄っていました。その割に写真は少ないのですが。

   函館市電は前にもご覧頂いたと思いますが、今回は先日「はこだての路面電車」様と相互リンクさせて頂いたのを
   機に再録しました。 車輛や路線の詳しいことは「はこだての路面電車」様のサイトをぜひご覧ください。

 初の北海道産電車として知られる300形。

 私はこの電車を見るたびに神戸市電の400形とよく似ていると感じます。
 どちらも港町というとこじつけ気味ですが。

(函館市電 函館駅前? 1957.5)
 元京王の23形を移籍した400形が闊歩する十字街の交差点。

 左に見える信号操作塔は多くの都市で見かけた懐かしい建造物です。

(函館市電 十字街 1957.5)
 総数30両と函館市電の主力だった500形も、今では動態保存的な1両を残すのみになりました。 

 このスタイルは私には運輸省規格型のように見えます。

(函館市電 十字街付近 1957.5)
 谷地頭から青柳町への坂を登る500型。

 上の写真の時期には3扉車で使われていた500形も、この写真のときにはワンマンカーになり、後部扉は閉め切られています。

(函館市電 谷地頭付近 1972.8)
 600型は500形に続く3扉の大型車。

 前面のスタイルなどは函館市電形とも言うべきスタイルになった最初の車両でした。

(函館市電 函館駅前付近 1957.5)
 この写真の700型は出場して間もなくだったと思います。

 この前に作られた600形に比べると2扉になり、塗色も明るく変わっています。

 隣のキャブオーベーバスとの対比がユーモラスです。

(函館市電 五稜郭駅前? 1957.5)
 都電8000形をモデファイしたと言われる800形。
 走っているのは今はない、ガス会社前経由で五稜郭公園に向かう線路です。

 背後の国鉄函館駅の三角屋根が懐かしい景色です。

(函館市電 函館駅前 1972.8)
 都電7000型もこうして見るとすっかり函館市電になっています。
 昔から函館市電と都電は縁の深い軌道でした。

 非常に目につく車輛ナンバーの大文字は函館市電に伝統的なものです。

(函館市電 駒場車庫 1972.8)
 坂道から港を眺めていると500形が通り過ぎる。

 ここは函館市電の沿線風景で一番好きなところでしたが、港に見えていた青函連絡船も消えて20年になるのですね。

(函館市電 末広町付近? 1972.8)
 半逆光で見た400形。
 400形は総数6両のわりに何度も見たように思うのは、それだけ印象が強かったからでしょうか。 

(函館市電 十字街付近 1957.5)

 北陸鉄道 金石線、能登線

   今の北陸鉄道は浅野川線、石川線合わせて約23キロの路線ですが、最盛期には120キロを

   超える路線があったことを思うと、実に多くの鉄路が消えています。

   ここでは、そんな路線の中から、金石線と能登線のお話です。

 金石線は国鉄金沢駅の裏にあったターミナル 中橋から金沢の外港 大野港まで7.2キロの短いトロリーラインでしたが、1971年に廃止されています。

 写真は中橋のささやかな車庫に佇むモハ3351。元は遠州鉄道の車でした。

(北陸鉄道金石線 中橋 1962.8) 
 金石線は多くの会社が合併して成り立った北陸鉄道の中でも、一番影の薄い路線に見えました。車両もくたびれたものが多かったようです。

 写真の1201は能美線から来て、のちに小松線に移ったという話です。

(北陸鉄道金石線 大野港 1962.8) 
 私の訪問したころの金石線は7.2キロに30分近くかかる鈍足で、利用状況もパッとせず、写真のサハ521も動いていないようでした。

 この線も金沢のターミナルがもっと便利な街の中にあったら、今の浅野川線のようにそれなりに利用されたと思います。

(北陸鉄道金石線 中橋 1962.8) 
 中橋の車庫で見かけた可愛らしい電気機関車。模型にしたいようなスタイルです。
 金石線は北陸本線との間に連絡線があり、この機関車で貨車の受け渡しもやっていたようです。

 この機関車、元は路面を走る貨物列車として有名だった若松市電のものだったとか。

(北陸鉄道金石線 中橋 1962.8) 
 多くの会社が合併して成り立った北陸鉄道の中で、能登線は唯一つの非電化線でした。
 松本清張の「ゼロの焦点」にこの沿線が出ていたので、どんな所かと期待?していたのですが、砂丘の多いのどかな路線でした。

 写真のキハ5212は元国鉄のキハ04、遠州鉄道を経て能登線に来た車です。

(北陸鉄道能登線 能登一宮付近 1969.7)  
 国鉄連絡駅の羽咋に停車中のキハ5301。
 羽咋には車庫があり、国鉄のホームに隣接して一面の島式ホームがありました。

 このキハ5301は中々スマートな気動車ですが、客車を改造したものだそうです。
 スタイルに比べて、荷台がアンバランスな感じでした。

(北陸鉄道能登線 羽咋 1969.7) 
 羽咋で昼休み中のキハ5212とキハ5151。

 能登線は国鉄七尾線の羽咋から三明まで25.5キロ。輪島までの延長目標があったようですが、夢物語に終わりました。
 一時は七尾線からの直通臨時列車などもあったのですが。

(北陸鉄道能登線 羽咋 1969.7) 
 このキハニ5151は国鉄キハ40000を譲受したもの。
 形式がキハニになっていますが、頑丈そうな荷台が”ニ”に相当するのでしょうか?

 荷台付きの気動車は各地の私鉄でよく見ましたが、実際に荷物を積んでいる姿はあまり見たことがありません。

(北陸鉄道能登線 羽咋 1969.7) 
 これも国鉄からの譲り受け車で、キハ04⇒遠州鉄道⇒能登線と移ってきたキハ5211。

 この車はのちに関東鉄道に行ったようです。キハ04は地方私鉄では手頃な大きさだったのか、あちこちで二度、三度の務めをしていました。

(北陸鉄道能登線 羽咋 1969.7) 
 もと国鉄キハ07のキハ5251。のちに関東鉄道に移動した車です。
 撮影場所は能登一宮だったか、交換駅から停車場に格下げになった直後で信号の×印がわびしい景色です。

 ほぼ1時間ヘッドの運転で頑張っていた能登線も、結局は1972年に廃止されました。

(北陸鉄道能登線 能登一宮?付近 1969.7)  

 山陽電気軌道

   今回は本州最西端の私鉄だった山陽電気軌道の写真を拾い上げました。

   山陽電気軌道は1926年に開業し、鉄、軌道線は1971年に消えていますが、会社としては
   サンデン交通の名で今も存続しています。

   山陽電気軌道の撮影には関門海峡沿いや、長州鉄道から引継いだ専用軌道の区間など
   もっと良い場所があったのに、私はつまらぬ場所で車輛ばかり写していたのは残念です。

 山陽電気軌道の東下関〜幡生間2.2キロは、元は長州鉄道から引継いだ区間で、線路の区分は鉄道です。
 しかし、電車は軌道線と直通していました。
 また、車庫は東駅の通称だった東下関にありました。

 写真の100形は開業時からの車輛で、当初からの半鋼車です。

(山陽電気軌道 東下関 1959.3)
 うにの看板が目を引く下関駅前での200形。

 200形は100形の増備車として作られた半鋼車です。
 山陽電気軌道はこの形式からボギー車になっています。

(山陽電気軌道 下関駅前1968.4)
 レトロな建物が並ぶ中を行く200形。

 上の写真と同じ200形のはずですが、なぜか側面の窓の配置やステップ付近の形状が違います。

(山陽電気軌道 下関駅前1968.4)
 この300形までが戦前に作られた車輛と聞いていたのですが、形態を見るともっと新しい時代の車に見えます。
 戦後に車体を更新したのかも知れません。

 記録を紛失したため、この写真の撮影地は推定です。

(山陽電気軌道 東下関付近? 1959.3)
 戦後間もない頃に増備された500形。
 当時の運輸省規格型車輛のようにも見えますが、上の写真の300形ともよく似ています。

 なお、400形は欠番だったようです。

(山陽電気軌道 下関駅前1968.4)
 戦後の復興期の車輛600形。
 この形式から、前面のスタイルなどに山陽電気軌道のカラーが出てきます。

 写真の車はこのころ行われていた博覧会の広告車。
 山陽電気軌道の本来の塗色は青緑とクリーム色の塗分けだったと記憶しています。

(山陽電気軌道 東下関 1959.3)
 写真の700形から方向幕の位置が中央に移って大きくなり、テールランプの位置も前面窓の上に変わりました。
 700形の一部は山陽電軌の廃業後、土佐電鉄に引取られました。
 生まれ故郷の下関よりも、高知での活躍が長かったはずです。

(山陽電気軌道 下関駅前 1959.3)
 山陽電機軌道最後の新車となった800形。
 張上げ屋根、うめ込みのヘッドライト、ノーシルノーヘッダーとスマートな車でした。

 ただ、トロリーレトリーバが無いので、ビューゲルを操作するロープが前面にダラリとぶら下がっているのが惜しまれました。

(山陽電気軌道 東下関付近? 1959.3)
 810形は上の写真の800形と瓜二つですが、よく見ると台車が違います。

 実はこの車、1962年に元三重交通神都線の車輛を更新して出来たもの。
 2輌だけのこの形式が山陽電軌の最後になりました。

(山陽電気軌道 下関駅前 1968.4)

 栃尾電鉄

   今回は栃尾電鉄の昔話です。

   栃尾電鉄は 1915年開業、1948年電化と地方私鉄によくあるパターンで推移してきた
   762ミリゲージの鉄道でした。1960年に近くの長岡鉄道と合併後、越後交通と名乗って
   いました。 しかし、私のような年寄りは栃尾電鉄と呼ぶ方がピンときます。

   この鉄道は快速列車が走り20分ヘッド運転の区間があるなど、ナローゲージの鉄道と
   思えない路線でしたが、1975年に消えたのは惜しまれます。

 電動車+無蓋貨車のミキスト。

 この小さいながら整った電車は元は草軽電鉄の車でした。
 草軽電鉄では新軽井沢近辺の区間列車に使われていました。

(栃尾電鉄 下長岡 1958.5)
 この電車は見かけどおり、気動車を電動車に改造したもの。
 車体はほぼ原形のままで、足回りを変えただけのようです。

 トレーラーの客車と高さがずいぶん違います。

(栃尾電鉄 下長岡 1958.5)
 パンタを架台に載せていることに目をつぶれば、762ミリゲージの車輛とは思えないモハ206.

 この電車も元は気動車で、電車化にあたって車体を改造し貫通扉を設置しています。

(栃尾電鉄 長岡 1972.4)
 モハ211を先頭にした凸凹列車。

 モハ211は自社工場で客車を改造したもの。
 この頃の鉄道はどこでもずいぶん大掛かりな改造工事をこなしていて、中には竣工図と現物がまるで違う車両も珍しくありませんでした。

(栃尾電鉄 下長岡 1958.5)
 「快速」の標識を付けたモハ212。

 この快速列車に乗った記憶があるのですが、それほど速かったようには覚えていません。

 この写真はモハ212がデビューして間もない時期のもので、オープンデッキの客車との対比が愉快でした。

(栃尾電鉄 下長岡 1958.5)
 上のモハ212を反対側から見たところ。

 東洋工機製のこの電車は台車がブリルタイプのやや古い感じのものでしたが、13メートル級のボディはスイスの登山鉄道の車輛を思わせる、なかなかスマートなものでした。

(栃尾電鉄 下長岡 1958.5)
 この写真は栃尾駅のはずですが、上見付だったかも?

 あいまいな話で申し訳ありませんが、広々とした駅前広場と立派な駅舎をご覧頂きたいと思って掲示しました。
 正しい場所をご存知の方は御教示くだされば幸いです。

(栃尾電鉄 栃尾? 1972.4)
 上見付駅はスイッチバック駅。
 終点栃尾に向かう列車は牽引してきた電動車を付け替えて出発します。
 栃尾電鉄には制御車は無かったようです。

 写真はデッキ付きの無骨なモハ209が機廻り線を通って移動中の光景です。
 この電車も自社製ですが、4ヶモーターの強力車でした。

(栃尾電鉄 上見付 1972.4)
 終点栃尾に近い田園地帯の小駅 明晶付近を行くモハ205牽引の上り列車。

 1974年のこの頃でも、栃尾電鉄の朝の通勤・通学列車はかなり混雑していて、廃止が近いようには思えませんでした。

(栃尾電鉄 上見付 1972.4)
 堂々としたスタイルでニブロクの電気機関車とは見えないED51。

 4ヶモーターで出力168KWだったそうですが、もっと大きく見える機関車でした。

(栃尾電鉄 下長岡 1972.4)

 尾道鉄道点景

   今回は1925年に開業し、1964年に消えた尾道鉄道の点景を。
   路線も短く、早くに廃線となった尾道鉄道は知名度の低い鉄道でした。

   最盛期の尾道鉄道は尾道〜市の間17.4キロの路線でしたが、私の訪問は尾道〜石畦間
   9,1キロに短縮されたのちです。

   訪問後ちょうど50年を機に、ご覧頂くにはお恥ずかしい写真ですが、アップいたします。

 尾道鉄道に初めて乗ったのは1958年8月。

 尾道から約6キロ、山を一つ越えた三成(みなり)に車庫などがあり、広い構内には廃車になってしばらくのの11が放置されていました。

(尾道鉄道 三成 1958.8)
 上の11の兄弟車12.
 こちらもこの頃にはほとんど使われていなかったようです。
 この2両は元はモニだったものを自社でモハに改造したと聞きました。

 奥に見えるbV1もこのとき改造中だったはずです。

(尾道鉄道 三成 1958.8)
 撮影地が判然としませんが、三成かと思います。

 窓が大きく、屋根が浅く、軽快な感じの車両ですが、これも他社から譲り受けた車両に自製の車体を乗せ換えたものとか。
 この鉄道では、まるでモデルを作るような感じで、次々に車体更新していたようです。

(尾道鉄道 三成? 1958.8)
 尾道鉄道の起点、尾道のホームに停まるbP6.。

 尾道鉄道の駅は山陽本線尾道駅の山側にあり、電車は山陽本線の下り側に向かって発車していました。
 現在ではここに尾道鉄道があった名残はなさそうです。

(尾道鉄道 尾道 1958.8)
 尾道の構内で入れ替え中のNo21.。
 一見立派に見えますが、この車は開業時の木造単車をボギー車に仕立て直したものだとか。

 当時の地方鉄道は手作業での車体の改造、新造なども平気でやっていました。

(尾道鉄道 尾道 1958.8)
 記憶が怪しいのですが、石畦行が尾道を発車したところだと思います。

 尾道鉄道の線路は尾道から西に向かい、すぐに右にカーブして、中国山地に向かっていました。

(尾道鉄道 尾道 1958.8)
 朝の2連の尾道行。
 このころの尾道鉄道の通勤、通学客はかなり多かったようで、夏休みにもかかわらず、2連の列車には立ち客も見えました。

 先頭に立つ35は元は宇部電気鉄道の買収国電です。

(尾道鉄道 三成 1958.8)
 上の列車の追い写しです。

 この列車、パンタグラフの車とビューゲルの車が混結されているのに目を惹かれました。
 他の鉄道にもこんな列車があったか?ちょっと覚えがありません。

(尾道鉄道 三成 1958.8)
 朝陽を浴びた尾道行。
 45は元は名鉄(各務ヶ原鉄道)の車を鋼体化したもの。同じルーツの車は蒲原鉄道などにもいました。

 地図を見ると、今ではこの辺りにも住宅が増えているようですが、50年前は山間の小盆地でした。

(尾道鉄道 三成 1958.8)

 東武鉄道日光軌道線

   1968年にやめた東武鉄道日光軌道線は、春秋の行楽シーズンの いろは坂の渋滞をテレビで

   見るたびに、残っていたら・・・と惜しまれてなりません。

   私が日光軌道線を写したのは1963年11月の一度だけですが、その時の姿をご覧ください。

 馬返しに向かう連接車200形。

 ほとんどが併用軌道だった日光軌道線ですが、荒沢川鉄橋の前後では専用軌道でした。

(東武鉄道日光軌道線 安良沢付近 1963.11)
 国道側から見た荒沢川鉄橋を100形が渡ります。

 ここはいかにも山深い所に見えますが、この先に古川電工の工場などもあり、それほど寂しいところではありませんでした。

(東武鉄道日光軌道線 安良沢付近 1963.11)
 こちらは連接車200型が鉄橋を渡るシーン。
 アーチ橋というのかトラス橋というのか、よく知りませんが独特の構造の鉄橋です。

 この写真でははっきり見えませんが、200型はビューゲルを前後の車体それぞれに一個づつ上げていました。

(東武鉄道日光軌道線 安良沢付近 1963.11)
荒沢川を過ぎて道路沿いに戻ったあたりの200形。

 撮影した日は11月初めの連休で、紅葉にはやや遅かったかもしれませんが、今なら道路は大混雑する時期でしょう。しかし、当時はご覧の程度でした。

(東武鉄道日光軌道線 安良沢付近 1963.11)
 例によって撮影地が怪しい写真です。たぶん安良沢停留所と思います。

 この辺りの地名、停留所名は書物によって「荒沢」「安良沢」と表記が違います。地形から来た「荒沢」が後になって佳字の「安良沢」になったのでしょうか?

(東武鉄道日光軌道線 安良沢? 1963.11)
 100形登場前はトレーラーを曳いて活躍したテ10形のうち1両だけが何に使うのか残っていました。

 この電車のできた時の日光軌道線は東武鉄道ではなかったはずですが、この車のスタイルはどことなく東武鉄道3210形などを連想させます。

(東武鉄道日光軌道線 安良沢車庫 1963.11) 
 安良沢車庫での連接車200形。
 約10年ほどしか稼働せず、他社にも引き取られなかった、悲運の電車です。

 この車庫は軌道線の規模に似合わない、ずいぶん広い構内と立派な工場でした。

(東武鉄道日光軌道線 安良沢車庫 1963.11) 
 観光名所 杉木立と朱塗りの神橋をかすめて専用橋を渡る100形。

 古川電工の貨物輸送があったとはいえ、こんな場所への鉄橋建設がよく認められたものです。

(東武鉄道日光軌道線 神橋付近 1963.11) 
 東武日光駅前で時間待ちの100形。
 1両が岡山電軌でのこっているのは同慶至極。

 ここは駅前と言うより駅横の感じで、線路は国鉄日光駅前から東武日光駅前へとループになっていました。

(東武鉄道日光軌道線 東武日光駅前 1963.11) 
 観光客にとっての日光軌道線は馬返〜明智平間のケーブルカーとセットのものでした。

 馬返駅は軌道線とケーブルカーの駅が大屋根で覆われ一体になっていて、乗継に便利でした。

(日光ケーブル 馬返付近 1963.11) 

 頚城鉄道

   頚城鉄道は信越本線黒井で連絡する、新黒井から浦川原まで約15`のささやかなナロー

   ゲージの鉄道でしたが、その車両は個性豊かなものばかりでした。

   豪雪地帯のこの鉄道を冬に訪ねてみたかったのですが、その思いは叶いませんでした。

 頚城鉄道で特に有名だったホジ3。

 昔々の鉄道模型趣味誌で「下駄箱、傘立、畳敷き」と紹介された、畳敷きの木造特等客車を気動車に改造した名車?です。

 車内に入ると床面にエンジンカバーが飛び出していつのがユニークでした。

(頚城鉄道 百闥ャ 1961.5)
 DC92の曳く混合列車が到着。
 この機関車は蒸気機関車の足回りを使ってディーゼル機関車に仕立てたもの。

 向こうに走ってゆくのは女性の車掌さん。後部の貨車を側線に入れる作業のためでした。

(頚城鉄道 百闥ャ 1961.5)
 ナローゲージにしては大きくしっかりした作りの木造客車ホハ2。
 さすがに日本車両製だけの事はあると感心しました。

 訪問した日の機関車牽引列車にはこの客車ばかりが使われていました。

(頚城鉄道 百闥ャ 1961.5)
 頚城鉄道には数両の貨車が現役で働いていました。
 このワ8は頚城鉄道開業時からの貨車。

 ナロー鉄道の貨車にはボギー車が多いのですが、私の見た頚城鉄道の貨車は2軸車ばかりでした。

(頚城鉄道 百闥ャ 1961.5)
 単端式気動車 ジ1。
 撮影した時には休車状態で、この後間もなく廃車になったようです。

 この車は現在もモデラーには人気があるようで、よく模型の広告を見かけます。

(頚城鉄道 百闥ャ 1961.5)
 ラッセル社 ラキ1。
 春になって除雪ウィングを外した姿です。

 リンクさせていただいている「旧型貨車保存図鑑」様のご調査では、この車は魚沼鉄道の車で、国鉄魚沼線になった後、頚城鉄道に来て改造されたものだそうです。

(頚城鉄道 百闥ャ 1961.5)
 豪雪地帯の頚城鉄道には自社製のロータリー車もありました。

 このロキ1は有蓋貨車の姿を残すボディと、シールドマシンのような除雪部の対比がユーモラスです。
 車内にはロータリー駆動用と思われるエンジンを搭載していました。

(頚城鉄道 百闥ャ 1961.5)
 対抗列車も到着し、入替も終わって、発車を待つホジ3。

 ホームの真ん中に立つ二方向を兼ねた信号柱が長閑です。
 こんあ信号を見ると宮沢賢治の掌編「シグナルとシグナレス」だったかが思い浮かびます。

(頚城鉄道 百闥ャ 1961.5)
 このDC123は北海道の十勝鉄道から来たものだそうです。
 そうした情報は現地で聞かないと耳に入らない時代でした。

 見た時には昼寝状態でしたが、職員の話では冬季の除雪にラッセル車を押していたとのことでした。

(頚城鉄道 百闥ャ 1961.5)



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