赤膚焼について 小川二楽
1、古代
大和の焼きものとしては、縄文土器、弥生式土器、埴輪、須恵器などの窯がみられます。
正倉院三彩はどこで焼かれたか分かりませんが、<カドマ>の土が使われた事がわかっています。飛鳥時代、奈良時代の都、寺院の造営の瓦や什器の大量生産が行われ、大和以外からも流入されています。
2、中世
室町時代には、興福寺、春日大社などの社寺の什器製作などに従事する、職人集団が生まれ土器生産を西ノ京周辺で行われていました。これが、赤膚焼のルーツとなります。
3、近世・秀長時代
豊臣秀吉の天下平定で、慶長13年(1585)秀吉の弟である豊臣秀長が大和、紀伊、和泉をかかえる100万石の大名として郡山城に入ります。そして、奈良の商売を禁じて、郡山の城下繁栄策をはかることになります。秀長が常滑から陶工・与九郎を招いて窯を開かせたのが赤膚焼の始まりだといわれています。秀長の重臣、小堀正次の子である小堀遠州は子ども時代に郡山城ですごし、後の文献で赤膚焼が小堀遠州好みの焼物ということで、遠州七窯の一つにもあげられています。赤膚焼では「遠州印」の押されたものもあります。
3−2柳澤時代
享保9年(1724)柳澤吉里が甲府から郡山に移ってきますと、いろいろ資料が残っており、明和5年(1785)2月に郡山の商人、住吉屋平蔵が二月堂で信楽の瀬戸物職人弥衛門に会い、郡山藩内の五条山の土を見せて開窯の要請をし、翌天明6年弥衛門が引っ越してきて、五条山の窯が完成するまで、郡山大職冠の内野六郎左衛門宅で小登り窯を築き生産し、寛政元年(1789)に五条山の窯が完成して、寛政2年(1790)弥衛門亡くなり、京都五条坂から丸屋冶兵衛を呼んで窯を継続させています。
嘉永2年(1849)当時には三窯が活動していて、この頃五条山の年間の窯焚きは20回ほど焼いていた事がわかります。
寛政12年(1800)に赤膚焼の中興の祖とよばれる奥田木白が生まれます。柏屋を号とする荒物商を家業とし、郡山藩の御用商もつとめました。天保6年(1835)にはじめた楽焼で翌年から西大寺に大茶碗を寄進しています。「写し物」を得意として自ら「模物類 瀬戸 松本萩 唐津 高取 青磁人形手 御本半使 南蛮ならび楽焼類 木白」という木製の看板を自宅に掲げていました。
能人形は奈良人形の影響を受けていますが香合、人形を巧みに作っています。
奈良絵は木白から描かれるようになりました。