曽爾の歴史

曽爾村の黎明    
条が本遺跡から発見された爪型文土器の破片
私たちの祖先である先史時代の人々にとって漁労のできる河川の大地や狩猟が可能な高原などは格好の居住地であった。
この曽爾地方は相当の期間とどまっていても生活ができる恵まれた自然条件であったと考えられる。
曽爾村は至る所で先人が残した遺物が発見されている。中でも大字今井字丈が本遺跡からは前期縄文土器、大字伊賀見字弁天遺跡からは縄文早期の押し型文土器が出土している。

曽爾の地名
そにという地名が古に始めて出てくるのは「古事記」下巻、大雀命(おおささきの)〔仁徳天皇〕の條である。そこには次のような説話を述べている。
仁徳天皇が八田若郎女の弟、速總別(はやぶさわけ)の王のなかだちとして、女鳥(めとり)の女王をめとろうとした。しかし、女鳥の女王は、仁徳皇后、磐之姫(いわのひめ)の心が強いのを恐れて承諾しなかった。それのみか、かえって速總別王の妻になってしまった。天皇は怒って、軍を興して、二人を殺そうとした。二人は始め、倉橋山に隠れ、更に東方に逃れ、宇陀の蘇邇(そに)に至った時、軍に追いつかれ殺された。
同じような話は「日本書紀」にもあります。
本居宣長は、古事記伝で、「蘇邇は、大和国宇陀郡の東の極の山中にて、今の世、八村(長野、掛、小長尾、今井、塩井、葛、太良路、伊賀見の八ヶ村)ありて、曽爾谷という。古の塗部(ぬるべ)の郷なりとぞ、伊賀、伊勢の近きところなり。」と云っている。
大字今井に速總別(はやぶさわけ)の王と女鳥の女王のものといわれている古墳がある。

ぬるべの郷
「大和史」に「長野(以下、現在の曽爾村の八ヶ大字名を列挙)の八村、塗部郷(ぬるべのさと)、曽爾谷と呼ぶ」といっている。本居宣長の「古事記伝」でも、曽爾のことを「古の塗る部の郷なりとぞ」とこれを認めている。
「日本書紀」用明天皇2年の條に、塗部造(ぬるべのみやっこ)という者の名がみえ、塗部とは「ウルシ」の技術を持つ部民のことで、塗部造とはそのような部民を統括する役人のことである。古代、この曽爾にウルシの技術を持つ人々が居住し、これを統括する役所が置かれ役人が住んでいた。今でも曽爾のことを「ぬるべの郷」と呼んでいる。

ぬるべの仙女 平安朝、9世紀の初めに書かれた「日本霊異記」に「大和国宇太郡塗部の里」に、風流な女があった。この女は、塗部の郷の塗部造麿の妾であったが、天性風流な行を好み、7人の子供を持っており、極貧で、食を得るてだてもなく、野草を食し、その上、衣もなく、藤を綴って着ている始末であった。それにもかかわらず、毎日沐浴をして身を清め、家を浄め、人には親しみをもって対応していた。また仙食を食して、風流を事としていたため、神仙、これに感じて、飛行の力を与えたので、天に飛び去った。」
役場の横に「ぬるべ橋」がありそこから通じる塩井に仙女の塚があったが現在は開墾されその痕跡はとどめない。