50年前の山火事          中井龍彦

人里遠くはなれた山の尾根道を歩いていた。集落から2時間あまりもかかるところである。すると歯の1本欠けた3本鍬が落ちている。私は手に取って、赤錆びたその鍬をしばらく眺めていた。山で稗や粟を作っていた話しは聞くが、このような奥山で農作業をしていたはずもない。それに昔、鍬といえばたいそう貴重な農具の一つであった。不思議なこともあるものだと思いながら、私はまたその鍬を元の位置に置いた。

さらに尾根道を下り、ようやく自分の山にたどり着いた。しばらく来なかったので林内はすっかり暗くなっている。間伐をしなくてはならない。

私は隣の山との境界に書き付けを入れながら、潰れた小屋跡まで来て、煙草をふかした。かつて木小屋を覆っていたトタン板をなにげなくめくると、20本以上もの一升瓶が置かれている。割れているのもあるが、その多くは元の形をとどめている。昔によく見かけた薄水色の美しい一升瓶だ。さて、なぜこのような山中の小屋に一升瓶が集まっているのだろう?、私は想像をめぐらせた。そして、一つの忘れかけていた記憶とともに、落ちていた鍬の謎も解けたのである。

私が十歳の時のこと、夕食を終えた父は玄関先に立って、長い間むこうの山を眺めている日が続いた。何を見ているのだろうと思い、尋ねたところ、夜の山並みの中腹に、小さな灯りが点っているのを指差した。見えるか見えないかの灯りだが、風が吹くとボーッと大きくなる。たしかに―火―だ。

昔は皆伐した後に、林地残材を全て燃やしたのである。1ヘクタールに1万本も植林したというその頃は、冬になると伐採跡の山焼きが、毎年いたる所で行われた。さながら冬の風物詩のように、薄雪の山から狼煙のように煙が立ち登り、山火事もまた頻繁に起きた。

 作業員が消したつもりで山を下りてからも、木の株の中や、土に埋もれていた残り火がくすぶり続ける。そして、仕事も完了して何日か経ったある夜、けたたましくサイレンが鳴った。作業員は自分たちが出した火ではなく、隣で仕事をしていた人たちの火だと言い張ったが、父は「いや、うちの火だ」といって、あわてて出かけて行った。

校庭に老人や子供が集まり、近くて遠い山火事を見ていた。隊列を成して登ってゆく大人たちの懐中電灯の灯りも見えた。大人たちの中には、水を入れた一升瓶を「ウチガイ」という布でできた筒に入れて登った人もいたという。父もその内の一人だった。

なにせ消火器などなかった50年も前の話しである。

で、鍬は・・・・・というと、これもまた60年も前のことになる。私はまだ母親の腹の中にいた。この年の山火事の話は、多くの村人に口伝されている。ある一人の山人の火の不始末が原因であったらしいが、二日二晩にわたり燃え続けたという。

当時の人たちの話しを再現してみると、消防団の若者らは延焼を防ぐため、ところかまわずに木を伐ったという。女性は大量のおにぎりを山の麓まで届けた。山の向こう側からは、隣村の消防団が駆けつけて来て防火帯を張った。年寄りたちも駆り出され、3本鍬で残り火に土をかけたと語った。火を出した当人は、何日後かに里に現れ、みんなの前で殺してくれと言って泣きわめいたという。

愚問と知りつつ言うのだが、なぜそのような苦労をしてまで森づくりをしたのであろう。半世紀経っても価値の見えない木を、父も含め、当時の人たちはどのような思いで植え続けたのであろう。

薄水色の一升瓶を前にしながら、私は50年も昔の溜め息をついた。



                       2011.01.14  奈良新聞