天啓の歌人・明石海人

                          中井龍彦


  30数年前のことだったと思う。奈良新聞の「この一冊」というコラムに、「白描」という歌集を紹介したことがある。作者、明石海人は25歳の時にハンセン病を発病させ、隔離された離島の療養所で珠玉のような短歌を詠んだ。「癩(らい)は天刑である」という書き出しで始まる「この一冊」は、苦しみと慟哭の淵より、「一縷のひかり」を探し求めた歌集であった。

 残念ながら、明石海人の名を知る人はあまりいない。それを知りつつ紹介したのであったが、数日後、一本の電話がかかって来て、「私たちといっしょに、岡山県の長嶋愛生園に行ってみませんか。」と言うのである。
 
電話はTさんという喫茶店の店主で、明石海人がいた長嶋愛生園を定期的に慰問しているのだと言う。私は躊躇なくTさんの誘いに応じた。同行者はかけ出しの落語家とフォーク歌手のKさんだった。

  国立らい療養所、長嶋愛生園の建つ離島は瀬戸の霞んだ空の下にポッカリと浮かんでいた。当時は「ちどり」というポンポン船が、死出の旅路への移送船として、らい病患者を送り届けていたという。

 患者達はどのような思いで、二度と戻ることのないこの海を渡ったのであろう。じっさい、明石海人もこの島を出ることはなく37歳の生涯を終え、三人の妻子もこの島を訪れることはなかった。ひとつの物語が完結したように、歌集の末尾は次の一首で終わっている。


かたゐ我三十七年をながらへぬ三十七年の久しくもありし


「かたゐ」つまり、らい病とも呼ばれ、レプラとも呼ばれたハンセン病は、戦後プロミンという特効薬の開発によって、日本での発病者はゼロである。忘れられた病気と言えばそれまでだか、この病気への偏見は言葉や想像を絶するものがあった。たとえ遺骨になっても、家族はその遺骨を引き取ろうとしなかった。長嶋愛生園にはまだそのような患者が570人もいる。

  愛生園の人たちは、思いのほか社交的で陽気であった。生で聴く落語に、かすれた笑い声をあげ、フォークライブに指のない空拍子を打つ人もいた。畳の大広間には、Tさんの点(た)てたコーヒーの香りが立ちのぼり、私は座の末席で、ひそかに自分の芸のなさを恥じていた。

  愛生園の中央にある納骨堂には、3200余りの遺骨が引き取られずに眠っている。納骨堂と鐘楼堂、いわば死と祈りがシンボルのような島、私たちはその白い建物を遠目にしながら、次の日のフェリーで帰途についた。 ともあれ、ひとつの投稿文をきっかけに、私は思いもよらぬ人々と知り合うことができた。

 3名の同行者、愛生園で出会った奈良県人会の人々。そして、島の歌人であり、明石海人の信奉者であるOさんからは、後日一冊の歌集が届けられた。Oさんは明石海人が死去した一年前の昭和12年に入園しているので、面識はなかったようだが、「明石海人 遺品の机いくたりの手をへて古りていまわれのもの」という短歌を詠んでいる。彼もハンセン病特有の症状から、光と声と十指を失っていた。彼はまた、病気が完治した感慨を次のように詠んでいる。

  癒えたりとわが告ぐるべき親はなし帰りゆくべきあてすらもなし


  今、愛生園に暮らす570人の人々もOさんと同じ立場に置かれ、この瀬戸の小島を終(つい)の住処と決めた人たちである。「白描」より3首、掲出する。


  父母のえらび給ひし名をすててこの島の院に棲むべくは来ぬ


  人の世の涯(はたて)とおもふ昼ふかき癩者の島にもの音絶えぬ


  死にかはり生まれかはりて見し夢の幾夜を風の吹きやまざりし


 明石海人、本名野田勝太郎、ハンセン病の病苦から「天啓」を得た、たぐいまれな歌人であった。なお、文中の「落語家」というのは露の新冶さんである。


                                                   

                                                                                                 

                                           2013年2月