赤瀧梶屋の反魂丹

                                   中井龍彦

  7月のこのコラム(※ 奈良新聞「明風清音」)で、渡辺誠彌氏が「越中富山の反魂丹」について述べられている。

 「反魂」の言葉の由来は中国の故事(魂を反す)から生じたものらしいが、反魂丹にまつわる効能が、死んだ人間でも蘇えさせるドラマチックな効能から、ただの腹痛薬に堕ちるまで、時代とともに推移しているのが面白い。

  落語にも反魂丹という題名のパロディがある。愛人を亡くした出家浪人、重三郎が反魂香というお香を夜な夜な焚くと、亡き愛人・高尾が黄泉の国から姿を顕わす。それを知った近所の男が、自分も先立たれた女房に一目会いたいと思い、薬屋に駆け込み反魂香と反魂丹を間違えて買ってしまう。男は最初、少しずつくすべていたのだが、なかなか女房が顕われないので、ありったけの反魂丹を火にくべ入れる。すると、もうもうと立ち昇る煙のなかに一人の女が現れ、男は思わず女房の名・お梅をを呼ぶ。返ってきた返事は「なに言ってんだよ!ハっつぁん、あたしゃ隣のおさきだよ。」あまりにけむいので、裏長屋の女房が文句を言いに出てきた、という落ちで終わる。  この落語が創られた江戸時代中期、反魂丹はすでに人を蘇生させる妙薬でもなく、万能薬でもない、ただの腹薬にすぎなかった。

  ところで、この反魂丹が、私の集落・黒滝村赤滝で作られていたという伝えがある。そればかりか反魂丹の起源は、この地に自生していた多種多様な薬草に由来するものであり、往時の豪商「赤瀧屋・梶屋」が没落時にその権益を越中富山に売り渡した、というのである。真偽のほどは定かではないが、この地において反魂丹が作られていたことは、村史をはじめ様々な資料からも伺い知ることができる。もともと吉野は陀羅尼助発祥の地であり、陀羅尼助も反魂丹もこの地方に豊富に自生していたキハダという樹皮のエキスを主成分にしていた。ともに「同じような腹薬」と思って間違いない。

  そこで謎として浮かぶのが、「梶屋」なる家系の盛衰の歴史である。そのルーツは下市にあり、大火で離散した一族が、赤滝の地に移り住み、富の素地を築いていったものだろうと黒滝村史は伝えている。梶家屋敷跡と伝えられる現在の善龍寺庭園。穴太衆が造ったとされる洞穴を組み入れた石組みは、反魂丹を作るための導水路でもあったらしい。 梶家歴代の墓地もあり、天和(1681)から明治27(1894)まで、約200年におよぶ墓碑が14基立てられている。

  梶家の子孫である梶元英氏の調査によると、下市の大火(寛永10年、1634年?)以前の梶家の足跡は、川上村高原や天川村、初瀬などにおよび、そこから木地師集落としての村々の成り立ちを知ることができる。「赤瀧屋・梶屋」も反魂丹ばかり作っていたのではなく、樽、桶に薪炭、様々な木地製品を作り、雇用を生み出し、地域に貢献していたという。また、人が通う峠には茶屋を建て、反魂丹や陀羅尼助を売り、商人としての活躍も語り継がれている。

   明治の終わりから大正はじめにかけて、忽然と消えてしまった梶家。その血をひく梶元英氏は、反魂丹を焚く男のように、懸命に過去の幻を呼びさまそうとしている。

   梶さんに感化された私も、「越中富山の反魂丹」ではなく「赤瀧梶屋の反魂丹」と呼ばれた時代が確かにあった、と思いながら、、、、。



(2014年9月23日 「明風清音」)