文明の向かう先
中井龍彦
極端な言い方をすれば、人間が文明に求めたものは、便利さと快適さと清潔さの三つであったような気がする。その三つを満たすことこそが生活や人生の豊かさなのだと信じてきた。いわば、文明は人間の〈豊かさ〉を満たすために日々進化してきたのである。
それが今になって、文明の盲点をつくように急速に浮上してきたのが、地球温暖化問題をはじめとするさまざまな環境問題であろう。可燃ごみから出るダイオキシン、産業廃棄物、環境ホルモン、温室効果ガス、核廃棄物、などは、地球上の資源が文明の排泄物となって、形を変え有害化したものである。作る側も、使い消費する側も、あまりそのことには関心を払わなかった。
同じことは、住環境についてもいえる。家に満ちている家電製品や、システムキッチン、バス、トイレなど、身の回りの文明の利器は、便利さ、快適さ、清潔さの三つのファクターを追求し、売り物にしたものだが、それらと共に、今ようやく「環境配慮」という新たな認識が加わった。これには、人間にとっての真の〈豊かさ〉とは何か、というテーゼと、〈文明の限界〉というアンチテーゼが含まれている。
化石資源文明の終息、温暖化防止という前提のもとに、代替エネルギーの開発や,更なる省エネ製品の実用化、環境負荷の低減やゼロエミッション、エコマテリアル、リサイクル社会と言葉は躍る。多くの企業は、環境に配慮すれば「儲かる」、配慮がなければ「取り残される」という新たな競合の図式に敏感である。
しかし、究極の環境配慮であるはずの『地産地消』の問題は置き去りにされたままだ。外国の土と水に60%もの食料を頼り、国産の木材には目もくれず、82%もの輸入材を買いあさる日本独自の文明のあり方が、厳しく問われなければならない。食料品、木材も自国で産するものは輸入に頼らず、農林業の再生を図り、地方経済を自立に導くことこそ、新しい文明の姿ではなかろうか。
原油価格の歴史的な高騰の中、化石エネルギーに変わる新エネルギーの開発と利用は,緊急の課題となった。しかも持続可能、循環可能なエネルギー転換が理想であり必要であるとされる。そのようなものがあるかどうかはともかく、人類の未来は最終的には生物資源に頼らねばならないのではあるまいか。いわゆるバイオマスエネルギーである。地球に眠る遺産を食い潰すやり方ではなく、人間が自ら化石資源に代わるものを作り出すには、生態系に頼るより他に途がないように思われる。
原油価格の高騰につれ、バイオマス燃料が各国で急速に需要を伸ばし始めた、と新聞は報じている。バイオディーゼル燃料やアルコール燃料、日本では菜種油から作られるBDFなど、いずれも軽油やガソリンにそのまま混ぜて使用することができる。
案外、文明の向かう先は、畑や土や森の中なのかもしれない。