父と短歌

中井龍彦

 父が死んで十三年目の春を迎えた。

 父は文学などには無関心な人であったが、死ぬ一年ほど前、私に「龍彦、短歌はどういうふうに創るんや?」と聞いてきたことがある。私は「5・7・5・7・7と創るんや」と、ただそれだけ教えたのだが、後日、父の手帳に27首の短歌が書かれているのを見て、「へえっ」と思ったものである。それほど父と文学とは、かけ離れたものと思い込んでいたからだ。

 父の死の告示を最初に耳にしたのは私一人であった。天理病院の一室にて、父の肝臓が写ったフイルムを前に、「お父さんの寿命は長くて5年です。」と、女医が言った。私はそのとき、父が死んだとき以上のショックを受けたようでもあるし、「あとまだ5年もある」と自分に言い聞かせたようでもあった。医師は続けた。『これを見てください。がん細胞が点在しています。とりあえず、この大きいのを次の血管造影で・・・・・・・でも、これらの小さなものが次々に大きく・・・・・・・』

 私は医師が指す棒の先を、見知らぬ虫を追うように見ていたと思う。

 三年後、父は死んだ。その間、私たちは何度となく天理の病院と家とを行き来した。入院しても一週間ぐらいで出てくるので、誰も父がそのような重病だと気づかない。本人も気がつかず、知っている私とは母は、隠し通すことが父を永らえさせる秘儀のように思い込んでいた。



 彼岸花咲く明日香路をありがたく憩いの部屋を出でて帰らむ

 外泊でよろずを出でて家路へと山また山の秋の冷たさ

            (天理病院はよろづ病院憩いの家とも言う)



 しかし、入院する日数は次第に長くなっていった。母は父のとなりのポンポンベッドに寝て、私は病院横の車中で寝た。空が白み始める頃、天理教の大太鼓が時を知らせる。私は車中にて、寝不足の頭にづんづんと響くその音を聞いた。父もその音を、心待ちに聞いていたようだ。



 教会の朝のみ太鼓 御親(おや)さまが今日も生きよとのお声なりけり

 夜明け告ぐ太鼓の響き正座してじっと聴き入る今日のはじまり

 朝もやにむかうの病棟とほくみゆやがて晴れ来るさはやかな朝



 父は死と向き合うと同時に、正座して一日一日の『生』と向き合っていたのだろう。「今日も生きている」という実感は、普通の健康なものには分からない。と言うより、ただ何となく生きている。同じように(死ぬ)という実感も、人間は最後の最後まで分からないのではないか。極端な言い方をすれば、私達は「人間は誰でもいつかは死ぬ」ということは分かりつつ、「しかし自分だけはまだ死なない」と思い込んでいるのではないか。あるいは、そんなことすら考えないのではないか。




 病かさね入院永くわが生命あとなきことを察しはじめる

 よろずへと久しく通うこの路もかえれぬ時ぞ遠きにあらじ



 何度もモルヒネ注射を受けながら、父は自分の死を覚悟し始めたようであった。葬式はどこでしてくれとか、焼香順を間違えるなとか、会社はどのようにしろとか、母親と争うなとか、「自分はちょっといなくなるので、その間、留守を頼む」というような言い方である。

 私も母も、父に涙を見せることはなかったが、最後の日、一人の若い看護婦が父の手を握って激しく泣き出した。死ぬ前の夜のことだったと思う。父のベッドの横に膝をついて、看護婦は「中井さん、また会いましょうね。どこかで出会いましょうね。」と何度も語りかけ、父も力なく泣いて「世話になったなあ」と、長い間手を取り合っていた。そのあとも四,五人の看護婦が病室に別れを告げに来て、そっと涙を拭いて出て行った。三年の月日は、父と看護婦とを強く結びつけたようであった。



 体温をとれと差し出す看護婦のはさみたいのは白く細い手

 病棟の部屋から部屋へといそがしく白衣の天使今日もたのもしく

 うたた寝のやさしい声に起こされてかわいい天使薬さしだす

 真夜中も管理監視の白衣さんたぬきねいりで感謝の手あわせ



 最後の鎮痛剤がうたれ、父は「もう、おこさんでくれ。」と私と母に言った。そしてふたたび、目を開くことはなかった。

 葬儀から数日たって、母が枕辺にあった手帳から、走り書きのような父の短歌を見つけた。夫婦のこと、孫娘のこと、鉄平という犬のこと、病室をともにした伊藤さんという人のこと。



 われら夫婦家を納めて四十年 苦喜なつかしく責務おわらん

 通学に張り切る孫の甲高い「いってきます」の声耳底に

 入院のとなりの人の看護妻よくよく見れば地蔵の似顔



 父は眠れぬ夜を紛らわすために、五本の指を折りながら、つたない5・7・5・7・7をつづっていたのである。私は「へえっ」と思うと同時に、もう一人別の父をそこに見たような気がした。父と短歌、どうしてもそぐわない父の短歌を、私は近所の人に清書してもらって、四十九日の日、親戚一同に配布することにした。

 それから二ヶ月ほど経って、母が「あとで見つけたんや」と言って、よれよれの紙切れを一枚、私に見せた。それは日付もなく、まさしくミミズが這うように震えた字で、一首の短歌が書かれていた。亡くなる寸前に書かれた、最後の歌のようであった。




悲しみは来るものなりと思ひしに いま 目前なり  南無阿弥陀仏
 


 父は、念仏で終わるこの一首を残し、お坊さんがよく口にする『お浄土』に旅立ったのである。



 2005年(平成17年) 8月  同人誌 「ヤママユ」に記載