巨大ダムの建設には、多くの利権がつきまとう。国策という怪物が公共事業の名のもとに動くのだから、ありきたりといえばありきたりだが、問題はダム本来の目的と機能を違う方向にゆがめてしまうことだ。水環境の整備、治水利水という大まかな論拠は一つでも、長年かかって出来上がったダムの目的と機能は、大きく時代の要請からずれていたり、なかば喪失していたり、また特殊な例を挙げると水が溜まらなかったケースも珍しくはない。
巨費を投じ犠牲を強いたその見返りがわずかであったり、大迫、大滝両ダムのように『地すべり』という思わぬ副作用が派生したりもする。
 
そのような経験と歴史を踏まえながら、もしくは無視しながら、日本中に作られたダムの数は三千五百基(建築中、計画中のものを含む)、世界中のダムの約一割に相当するという。大河川でダムがないのは長良川、釧路川と四万十川だけで、日本の大小の河川は大小のダムにより寸断されている。
治水利水が目的ではなく、コンクリートの塊を作ることが本来の目的ではなかったのかと思えるほど、ダムは戦後の公共事業の花形であった。そこに多くの利権が働き、盛りだくさんの機能が求められ、つづまるところ、ダムは往々にして『多目的』でなければならなくなった。
 
しかしダムの機能より、さらに多面的な機能を持つ森林と林業への配慮はどこからも示されなかった。むしろ林業適地、里山や里川などの水源地を犠牲にすることで造られたのがダムであり、生き物としての水環境の思想は採り入れられず、もっぱら水をいかに利用するかという経済性のみが優先された。

昭和三十年前後を境に、筏流しが終わりを告げる。川そのものの利用から水の利用へ、時代はまさしくダムラッシュの時代を迎え、多くの湖水の誕生とともに、豊かな川の文化もまた衰亡した。今思えば『ダムはダムのみでは機能しない』という認識は、作る側の懐に封印されて来たのではなかったろうか。でなければ、耐用年数二十年から四十年というわずかな寿命設定のもとに造られた事が不可思議ですらある。

先に述べたように、大滝ダムの計画は伊勢湾台風での被災によって浮上したものだが、あの台風での災禍が、戦中、戦後を通じての森林伐採、乱伐に一因が在ったことはあまり取りざたされない。

当時の吉野地方も、皆伐によるハダカ山や、弱齢山林が多くを占め、保水力や土を留め置く森林の機能も最低の条件下にあった。渇水期の川の流量は減少し、一方で、少しの雨でも洪水が頻発した。一般に山くずれの起こりやすい時期は、伐採跡地の根株が腐り始める十五年前後とされているが、伊勢湾台風の襲来はまさしくその時期に当たる。大量の土砂と流木に埋め尽くされた河川、寸断された道路、山津波に襲われた村々。いくら大型台風であったとはいえ、森林の機能が万全であったならあのような大災害にはつながらなかったであろう。また仮に、大迫、大滝ダムができていたとしても、大量の土砂と水を受け止めるためには、何ヶ月も前からダムを空にしておかねばならない。さらに言えば、ダムは一夜のうちに土砂の溜まり場と化してしまう。

要するに、ダムはダムのみでは機能しない。なぜなら水を造り、土を貼り付け、大雨を吸い取り、水質を浄化するのは背景に控える生態としての森林であるからだ。 窒素やリンの流入(富栄養化)によりダム湖の水質が悪くなる一方、放置山林から流出する土砂もまたダムの寿命を短くしてゆく。

良質な飲み水がいっそう求められるようになった昨今、山村においてはそれを保全する人的機能も経済的活力もいつの間にか無くなろうとしている。かつて筏師や杣師、木地師と呼ばれた人たち、ダム開発によって村を追われた人たち、林業の衰退により職を失くした人たち、都会に夢を求めて出て行った人たち、立場は様々であったが、高度経済成長という甲高い槌音ともに山村の過疎化は始まった。

そして今になってまた住み慣れた故郷を後にしなければならない三七戸の住民がいる。川上村白屋地区、巨大ダムの出現とともに行く末の定まらなくなった人たち。

水環境の問題は、さらに結論を後に残した。