風船
中井龍彦
娘が3歳の頃だったと思う。
桜井の「アールボール」という所に立ち寄った際、それまでどこかのデパートでもらって来た銀色の風船がよほど気に入ったらしく、娘はホール内を得意そうに走り廻っていた。
風船は頭上2メートルぐらいの所でふわふわと揺れ、その糸を離さない限りそれは自分のものなのだという、何やら(信頼)めいたものを感じていたのであろう。
ところが、である。
「ワァー」という、かきむしるような大声をあげて泣き出したので、あわててそちらを振り返ると、ホール内の20丈ほどの吹き抜けの下で、運悪くその(信頼)の糸を離してしまったようだ。「お父さん、取ってよー取ってよー。」と言って泣き叫ぶのであるが、とうてい無理な話しである。風船は10メートル、20メートル、娘が泣けば泣くほどその距離を遠くしながら、ぐんぐん空に登っていった。
あまりの大声に、近くの展示室にいた人たちもあわてた様子で駆けよって来た。
「なんや、なんや、あっ、風船飛ばしたんやなぁ。かわいそうー」と言って、本当に気の毒そうな顔をしてくれる。
娘はそれでもまだ大声で泣いている。
「風船取ってぇ、お父さん風船取ってよぉ」
何度も言うが無理な話しである。
その日は雲切れひとつない快晴で、空を吹き抜ける風もないじつに穏やかな日だった。風船は、空に打ち戻されてゆく銀色の星のように、静かに静かに舞い登っていった。
後ろの喫茶室から一組みの男女が出てきて、「あっ、風船よ。きれいね。」と言った。
風船は、もうどれくらい登りつめていたろうか?。今まで、娘の泣き声にばかり気をとられていた展示室の数人も、「きれいね」というその言葉に目が覚めたように上を見上げた。
「麻由ちゃん、ほら、まだあそこに見えるよ。」と私は指をさした。娘は泣きじゃくりながらも、ようやく上を見上げた。淡い秋の日差しをぴかりぴかり反射しながら、風船は登りつめてゆく。空からの何か微かな信号のように、それは一分、二分と続いた。
展示室の数人も、一組の男女も、ポカンと空を見上げながら、「ほら、まだあそこ。あそこにあるよ。」と風船のゆくえを追っている。
私たちの間に奇妙なコミュニケーションが生まれた。誰かが「あそこ」と言えばそちらを見て、「 ほら、あそこですよ。」と聞けば皆がそちらを見る。娘もキョロキョロしながら、くしゃくしゃの顔で空を見上げている。
やがて風船はすっかり見えなくなった。展示室の数人は展示室に戻り、一組の男女もどこかに立ち去ったようだ。娘は泣くことをやめ、風船のゆくえをまだ悔しそうにさがしている。
さて、この話しはこれまでなのだが、私には気にかかる一つのことがあった。それは、なぜ娘があれほどすさまじいいきおいで泣かねばならなかったか?、ということだ。
風船のあの細い糸を離した瞬間、何かが起こり、変な言い方だが、娘の心にほんの少しの(空虚)のようなものができて、そこにフッと、ある小さな何かが棲みついたのである。ちょうど真新しい巣箱に、ある朝とつぜん鳥以外の何かが棲みついたように、娘の心の巣箱にも、ある何者かが確かに棲みついたのである。
私はそれを、名づけよう、名づけようと思いながら、未だ名づけられぬまま数年を経た。
あえていま名づけるなら、その何者かは(かなしみ)というようなものではなかったろうか?。これもまた変な言い方だが、どうしようもない(かなしみ)が、ひょいと娘の心に飛び込んだのである。
別の言い方をすれば(かなしみ)というものが始まった、と言ってもいい。
食べて寝て、おしっこをして、けんかをして、叱られて、はしゃいで、いちびって、ずるをして、そして涙をこぼす。人間として生きてゆくための、あるいは生きてゆかねばならない(かなしみ)が始まったのである。
娘はまだ、風船の消えた空を見上げている。
「きれいやったね。」と私が言うと、彼女は小さく「うん。」と応えた。