下 宿 屋           中井龍彦

 
  奈良市には8年住んだ。ちょうど40年前のこと、私が暮らした下宿屋は、二間間口がふたつ並んだ二世帯住宅のような建物だった。その2階の15丈ほどもある広い板の間を借り、私の学生生活が始まった。壁に大きな姿見が取り付けられ、長らく日本舞踊の稽古場として使われていたらしい。もとの所有者は坂本さんという有名な舞踊家で、下宿屋のおばさんはその人の弟子であったことから、住宅を安く譲ってもらったと話していた。

  おばさんは元林院町の検番に身をよせ、坂本春雛(ひな)という名で芸者をしていた。そのころの花街はすたれたとはいうものの、まだ客足がそろっていたようだ。昼の3時ごろから着物に着替え、夜11時ごろに帰宅する。「今日はどこどこのだんさん来るから遅うなるで。」と言って出かけた時は、必ずと言っていいほど上機嫌で帰宅した。高校生の私は、その「だんさん」たちが気前よく、三味線や太鼓の鳴り物に合わせ、いわゆる「芸者あそび」をしている姿を楽しく想像するようになった。

  下宿屋にはひと月に1度、泊まりに来る客がいた。70歳ぐらい、初老のおとなしい男性で、いわゆるおばさんのパトロンである。おばさんはその人が来る日は仕事を休み、手料理をこしらえ、夫婦以上の関係のように私には思えた。テレビの前の自分の席をその人に譲り、私と二人、さし向かいの状態で夕食を食べる。自分の父よりも年配の、それもたいそうお金持ちであろうと思える人と、会話のない食事をするのだった。

  じつは、このIさんが 下宿屋の家主であることを知ったのは、その人が亡くなってからのことである。私が身をおくようになって2年後、Iさんは亡くなった。おばさんは葬式に行くこともなく、その夜は遅くまで泣いていたようだ。ともかくそれをきっかけに、坂本さんから買い取った家の名義人がIさんであることが分かった。何年もの間、名義の書き替えをして来なかったのであろう。おばさんは「だんさん死んだんでこの家、とり上げられるかもわからん。」としょげていたが、Iさんの親族が現れることは、一度も無かった。小さな仏壇にはおばさんの母親とともに、Iさんの写真が新たに祀られていた。

    私が下宿屋を去って十数年も経ってからであろうか、うらぶれたおばさんの様子を知らせてくれる人がいた。餅飯殿通りを行き倒れそうな様子で歩いていたとか、徘徊しているところを警察に保護されていたという報告であった。私は何年かぶりにおばさんを訪ね、「民生委員に相談した?」「市役所の福祉課には?」「お金はある?」とか聞いたが、応えは朦朧としていた。そのわずか数日後、おばさんは火を出し、下宿屋は全焼した。

  おばさんは明くる日、隠されるように大阪の姪に引き取られ、阪大病院に入院した。その後も病院を渡り歩き、回復することもなく、最後は奈良市内の老人ホームで亡くなった。     半年経っても、おばさんが出した火事場はそのままでの状態で放置され続けた。居住者のおばさんの所在も、地権者も分からず、近所の人が騒ぎ始めているということを聞いて、私はこっそり、あまり見たくない火事場跡を訪れたのだった。べったりと崩れ落ちた黒焦げの瓦礫の下に、おばさんが飼っていた猫が、子猫を産み落としていた。

 その後、地権者であるIさんの親族の所在がわかり、市が跡地を片付け、隣の寺院がその土地を買い上げたということを、私は近所の人に聞いた。さらに1年経って、私はまたその場を訪れた。するとそこには、真新しい納骨堂が建てられていた。私は手を合わせた。世話になったおばさんと、私の二十歳前後の青春と、そして、、、、。

 さまざまな感慨が、頭をよぎった。 

                     平成23年8月31日