初雪・・・雪鳥 が飛んだ

                                       中井龍彦

  雪鳥(ゆきどり)という言葉は、辞書にはない。雪鳥という種類の鳥がいるわけでもない。初雪が降り始めるころ、群れ飛ぶ鳥の集団のことを、この地方では雪鳥と呼んでいる。まるで水中の鰯の群れのように、ひとつの意思を持って、山の間の空にウエーブを繰り返す。しかしそれは、巨大魚の魚影を演じる鰯の生態とも明らかに違う。

  山神祭りの頃だった。山上でひとりの老人と、空が黒くなるほどの雪鳥を見た。老人は「もう雪鳥が飛び始めたな。」と言った。私はその個々の鳥を雪鳥と呼ぶのか、と思って見ていたのだが、老人はその鳥の「集団」を雪鳥と呼んだのであった。

  雪鳥の一匹一匹の姿は、どのような鳥なのか、小さくて捉えられない。眼の前をかすめたと思えば、瞬く間に遠くの山並みに消え、ふたたび大きな固まりになって現れる。南に帰る鳥なのか、北国に向かおうとする鳥なのか、生態はわからないが、この鳥が飛び始めると、まもなく雪がくる。

  かって、老人と見た雪鳥の大群を、近ごろはめったに見ることもなくなった。あの鳥の集団はどこに消えたのだろう?。真っ先に思い浮かぶのは、年ごとに顕著になる異常気象。雪鳥たちは絶滅寸前なのかもしれない。

   あとひとつは・・・雪鳥の群れは確かに飛んでいるのに、視ることができなくなった私の感性。日常を何気なくやり過ごしているうちに、徐々に風化していった心の風景・・・ そのひとつが、わが心のー雪鳥ーなのではないか。

  最後に雪鳥を見たのは、7年前の12月9日の朝であった。外に出てみると、分厚い雲の下に何百羽もの雪鳥が飛んでいる。一瞬、その鳥の集団が庭先の木々に羽根を休めた。体長は10センチほどで、ヒヨドリとも違う。鳥たちはまたいっせいに飛び立った。そして、何度も何度も雪を乞うように、静かな黒いウエーブを繰り返すのだった。やがて、雪鳥の群れはどこかに消え、携帯電話が鳴った。その電話で、前日、友人が木の下敷きになって亡くなったことを私は知った。

山の友山にて逝けり寒空に雪鳥いとも静かに舞へり 

 山の神の日に山に入ると、木に数えられ、還らぬ人になるという。この村では昔から12月7日がその日に当たり、餅を搗き、鯛、野菜、米などの神饌を供える。これほど意味深い禁断の日が、地方によってまちまちであるのが不思議でならない。東北や北海道では12月と1月の12日が山の神祀りだそうである。女神である山の神は1年に12人の子を産むので、12の数にちなむという。柳田国男は、「山の人生」の中で「正月と霜月(陰暦11月)初めの或る日を、山の神の樹かぞえの日」としているが、明確にその日を記していない。山神の正体もまちまちで、イザナミ、オオヤマツミ、イワナガヒメ、その他もろもろの説があり、確たる山神像があるわけではない。あえて言えば、ヤマという異界への畏怖そのものがヤマのカミであったのではなかろうか。

  ともあれ、まもなく雪がくる。山の神の祠にも、1年ぶりに火が灯される。師走の空に、果たして雪鳥は飛ぶのだろうか。

 

(2015年12月24日 「明風清音」)