被災者に掛ける言葉

                                               中井龍彦

  東日本大震災は、被災した人ばかりではなく、テレビを見ていた多くの日本人の心にも奇妙な精神的障害をもたらした。たとえばある婦人は、数日間テレビを見続けて「頭が変になった」と言う。ある人は怒りっぽくなり、必要以上に他人を批判するようになった。またひどい不眠症に陥った人もいるし、感情が判らなくなったと言う人もいる。

 このような症状はいったい何なのだろう。感情移入というのは、他人の喜怒哀楽を自分の心に取り込んでしまうことである。辞書には「他人のうちに自己の感情を投射し、それを対象固有のものとみなす」とあるが、しかし、かならずしもそういうものでもない。「頭が変になった」「怒りっぽくなった」「感情が判らなくなった」というのは感情が潰(つい)えた状態であって、感情移入ではなく一種の情緒障害である。

  押し寄せる津波がことごとく町を呑み込んでゆくすさまじい光景に、私たちは計り知れない現実の恐怖を見ていた。その夜は、一時間おきに目が覚め、その度に私は睡眠剤を飲んだ。  何が起きているのか判らないほど、恐れ昂ぶり、そしてその後、不思議なほど無感動になった。そうすることで、数日経ってから、私は自分自身を取り戻したようである。精神的な衝撃が大きければ大きいほど、人間は無感動になれるものだ。しかしそれも、一時的な感情崩壊である。

  それにしても、被災した人たちの感情崩壊はいつまで続くのだろう。テレビのなかで、ある老人は「家も家族もお金も何もかも無くしてしまいました。これからはうつむいて生きてゆくだけです。」と語っていた。「うつむいて生きてゆく」というのは「前を向いて生きてゆく」という表現の反語である。悲しみきわまる余生を、無感動に生きてゆこうというのである。

  しかしそれでも、前を向いて生きてゆこうとする人は多くいることだろう。感情崩壊からも、いち早く立ち直ることのできる人もいることだろう。忘れることのできない記憶を、歳月のなかに、徐々に徐々に脱ぎ捨てていってほしい。

 このような時に、非当事者である私たちが何を言っても言葉はむなしくひびく。「がんばって」という呼びかけですら不愉快にひびくのだそうだ。私たちは何をどのように、どのような言葉を被災地の人たちに届けたらいいのだろう。

   現地の避難所で診療している医師は、最初は生きていて良かったと手を取り合っていた人たちも、今ではほとんど言葉を交わすことがなくなったと語っていた。肉親や友人、知人をなくしたことの悲しみと、悪夢のような恐怖心がぐちゃぐちゃに入り混じり、感情崩壊は今なお続いている。被災した人々同士でも、心は「てんでんこ」に孤立してしまっているのではないか。感情崩壊のケアは、この「無言」の状態から「言葉」を見つけ出すことではないか。私たちにできることは、たとえむなしくひびく言葉にせよ、誠心誠意、伝え続けることではないか。

  もう一度、がんばって下さい、と。

                                2011.04.27