上流の村から ―森林環境税への期待―

                               中井龍彦


 
                                                            
 三尺流れて水清し、という言葉がある。この論法を以って川に生活廃水や廃液・化学物質を流されたのでは、下流域の人たちはたまったものではない。中・下流域ではその水を飲み、川魚を育て、農業・工業用水として利用するなど、水にまつわる生活が日々営まれているからだ。廃水が流されている光景を辿れば、三尺流れて水清し、と感じているのは、上流に住むわれわれ一握りの者たちであろう。

 最終、川は海に至るが汚染された河川水が流れ込む海域では、魚や貝・海藻などの海産物も危険な食べ物となって人々の口に届けられる。迅速な物流とともに、汚染された魚介類は汚染水を流した当人の食卓に上らないとも限らない。

 より良質の水を作る森林の働きを水源涵養機能、あるいは水質保全機能と呼んでいる。多くの公益的機能の中でも、とりわけ大切な森林機能の一つに数えられている。

 かつて大小様々の文明は、良質な水が継続的、かつ安定的に得られるかどうかによってその栄枯盛衰が決定付けられた。そして水をあてにして生まれた文明は、水源地である森林を保全し続けたかというと必ずしもそうではない。畏れ、敬い、祀り、讃えはしたが文明の規模が大きくなるにつれ、森からの収奪も激しくなり、しだいに衰亡への途を辿った。結局、洪水や水飢饉が頻発したり、水質が悪くなり病気が蔓延することでようやく下流域の人々の目は、上流の森林地域に向けられたのだとも考えられる。しかし時すでに遅く、文明の足元にはひたひたと水が打ち寄せていたといえば、少しSFじみてはいるが、十分リアリティーをもつ現在の危機意識でもある。

 山村で暮らしながら、現代人の目が確かに森林に向けられ始めたように感じる。敬い、讃えられているようにも思う。世界遺産に登録された白神山地や屋久島、紀伊山地や春日原生林などは保全される対象の森林であると共に、水源涵養林地でもある。さらに言えば、水源涵養林としての役割から外れた林地などどこにもない。民有林であろうが国有林であろうが、人工林であろうが原生林であろうが、あるいは里山であろうが深山であろうが、人の都合によって区分、施行されて来ただけで、等しく水源涵養機能、国土保全機能を担っている。そのような見方に立てば『私達はこの川の水を飲んでいるから、この水系の森林だけが水源涵養林だ』という考え方もどこかおかしい。

 昭和60年に政府が打ち出した『水源税』の構想は、水道料金に上乗せする目的税の形が採られたため、自分たちの水源地をたどり、税の行方も同時にたどらねばならなくなった。

 その内容は、水道水1立方mあたり2,5円を全国一律に課税するというものであった。しかし、水源地は違う条件のもとに散在し、税金の使途も受益者の特定もあいまいであるということから、ついに日の目を見ることがなかった。

 そして、その頃から日本の森林は際だって荒れ始めた。木材価格の留まることのない下落、放置森林の増加、水源涵養機能も徐々に低下して、利水ダムの富栄養化や水質汚染が問題化した。これからもさらに森林への期待と関心が高まる反面、林業の衰退、農山村の荒廃、過疎化が進み、なすすべなく水環境への問題意識は空転してしまうのだろうか。

 そのようにならないためにも下流の人々の声が上流に届き、上流から流れ出た清涼な水が都市部の蛇口にまで届くシステム作りを、もう一度『水源税』を通じて呼び戻す時期に来ているように思う。上流に住む私が言うのも気が引けるが、森林機能の回復、一方で河川を大切にする意識啓発への投資と考えていただきたい。

 岡山県、高知県に続いて、奈良県でも『森林環境税』が06年の四月から導入される見とうしとなった。アンケートの結果『反対』と答えた人はわずか6%であった。

 議論の余地は残されそうだが、ようやく上流の村にも少し光が届けられたように思う。
                                                            
                                          2005年1月1日