私が前登志夫に出会ったのは、奈良の三条通りにある三省堂書店だった。そこに師の短編エッセイ集「存在の秋」が置かれ、立ち読みしているうちに、この著者はどうやら私の郷里のすぐ近くに住んでいる人ではなかろうかと思うようになった。私はそれまで、前登志夫の名前すら知らなかったのである。
「存在の秋」の文章は吉野を離れて、ひとり、下宿暮らしている私の心に沁みた。見覚えのある山里の暮らしと風景、山川草木、鳥獣虫魚の息吹きを捉え、短い文章のなかに詩人の研ぎ澄まされた魂魄が光っていた。一方で、この本が語っているのはすべて吉野であるのに、私は自分の生まれ故郷を、まるで見も知らぬ異郷のように感じていた。それほど、私の(ふるさと)は、遠いところになりつつあったのである。そして、その年に、師がそうであったように、私もまた家業の林業を継ぐべく、奈良の古びた下宿を後にした。
帰るとは幻ならむ麦の香の熟れる谷間にいくたびか問ふ (子午線の繭)
田舎に帰った私は、師の古巣でもある(日本歌人)に所属して短歌を創り始めた。師の歌集は「子午線の繭」と「霊異記」がすでに上梓され、近代詩、現代詩の流れを汲むこのような短歌もあるのかと改めて驚いたものだ。そのようなある日、私は村の友人と連れ立って、前登志夫邸を訪ねた。緊張している私を前に、師はひょうひょうと世間話に興じられ、その合間に歌論や歌壇時評を交えて語られた。以来、私は頻繁に前邸を訪ねることになる。村上一郎、谷川健一、中上健二、前川佐美雄、塚本邦雄、保田與重郎など、様々な分野の著名人の名が師の口からつぶさに語られ、私はそれらのエピソードを、浜辺にて真珠を拾うような高揚感をもって聞き入った。また、山人どうしの付き合いとして、師の山林を一緒に見て廻ったり、立木を売ってもらったり、林内に作業道をつける計画をともに実施したりもした。恥ずかしい話だが、仲人をしていただいたいきさつ上、離婚調停に何度か立ち会ってもらった苦い思い出もある。あのときばかりは、ずいぶんご迷惑をおかけした。
師が亡くなって、私は改めて思うのだが、若き日の師にとって(帰る)とはほんとうに(幻)であったのだろうか。吉野への帰郷は、師の当然の帰結であり、そこを始点として珠玉のようなおびただしい短歌がつむぎ出されるのである。そういう意味で、(帰る)とは(幻)などではなく、詩人前登志夫の原点であり、まごうことのない現実であったことを、いまさらに思う。
多くの場合、若き日の詩心は硬化、消失してゆくものだが、師の場合は違っていた。同人誌「ヤママユ」が再刊され始めた平成十年より十四年までの作品を集め「鳥総立」「落人の家」の二冊の歌集が刊行されている。旺盛な歌作とともに、師の感性は病魔の中ででも衰えることがなかった。今年二月に出された同誌に「すこしわれ生き過ぎたのかとおもふとき森はしづかに大寒に入る」「正月の二十日の夜に降る雪のつもれる嵩に死をなげくまじ」など、死を見据えた作品がいくつもあり、私たちも今日のような日がいずれ来ることを、うすうす察知した。そしてそれは、ついに現実のこととなってしまった。
昔の師とは、よく酒を飲んでカラオケに興じたものだ。十八番は八代亜紀の(舟歌)だった。もう一度師とともに、カラオケで(舟歌)を歌いたいと思う。はやりの歌などなくていいのだ、と・・・・・。
書きたいことはいっぱいあるが、歌集「霊異記」の次の短歌を口ずさみつつ、筆をおこう。
この父が鬼にかへらむ峠まで落暉の坂を背負はれてゆけ