中井龍彦

                                                                                                      
 十人に一人が花粉症だと言われる。花粉症が増えた原因の一位として、杉や桧が戦後いたる所で植林されたことが挙げられ、続いて排気ガスなどによる大気汚染がそれに加わったものだと説明される。ではどうして杉や桧がいたる所で植林されたか、また今になってなぜ花粉が大量に飛散するようになったか、林業に携わる者として多少後ろめたさを感じながら説明を加えてみたい。

 戦後の復興のスピードは、あらゆる面で性急であり過ぎたと言える。荒れはてた都市部の復旧、食糧事情を回復するための農地と農業の建て直しのスローガンのもと、何でもよいから作れ、建てろ、売れの時代となる。そのような中、戦中の強制伐採の名のもとに皆伐された山々にも手が差し伸べられた。終戦とともに帰還した兵士、あるいはシベリアや中国に抑留されていた人々等、いわゆる「団塊の世代」の親達の手によって、山は元どおり、いやそれ以上に急速に緑を回復していった。
そして、植林された木の多くは、花粉症の首謀者とされる「杉」であったと思う。当時、軍用材として手っ取り早く伐採されたのは、搬出に便利な道路のそばの山林であり、おおむねそのような所は杉の適正地である。木馬(きうま)や修羅が唯一の搬出手段であったその当時、道路に面した山林は委細かまわずに伐り開けられたのである。

 植林ブームに並行して都市の復旧にも大量の木材を要し、山村は今までにないほどに活況を呈した。建築用材をはじめ、足場丸太やパルプ材、桶や樽用材、薪や木炭にいたるまで木材の需要は大量に広がり、皆伐された跡地には更に杉・桧の植林が成された。
昭和三十年代に入っても、広葉樹林を伐採して杉・桧などの針葉樹を植林する「拡大造林」が各地で行われ、ますます花粉列島としての下地をこしらえてゆく。―京都の京北町では、昭和三十年から二十年間、杉ばかり二三〇〇ヘクタールの拡大造林が行われたという。―
また期を一にして米の減反政策がとられるようになり、陽当たりの悪い山村の棚田が真っ先に減反と補助金の対象になった。ここに来て、またしても杉・桧が植林されたのである。

 ところで、どのような樹にも生育にふさわしい適性地というものがある。一般に桧や松・高野槙などは、水が逃げてゆく所、つまり山の尾根がふさわしく、杉は水と土とが集まる所、つまり谷や川べりを好む。山に尾と谷がある限り、杉・桧の適性地はあらかじめ決まっていると言ってもいい。桧の適性地に杉を植えても生育は悪く、その逆も同じことである。極端に老成したり、桧らしくない桧になったり、杉らしくない杉になったりして、実をつけ始める。無論、杉・桧どちらにも適さない土壌の山もある。
戦後の復旧造林、また拡大造林は、この土地の選択を見極めた上で行われたのであろうか?私には到底そうは思えない。今日の夥しい花粉の飛散状況が、そのことを如実に物語っている。

 五十年生前後のいわば青年木が実をつけるようになった原因は、おそらくそればかりではない。ふつう、杉・桧の種子は立派に生長した百年以上もの大木から採取されていた。「タカスギ開発」のコマーシャルでよく知られるように、選ばれた木の種子だけが実生苗として育てられ、山に植えられた。しかし、年を重ねる毎の造林ブーム、林家からの注文に応じ切れなくなった種苗の出自は、次第に不詳のものとなってゆく。老成して仕方なく実をつけた若木から採取された種子。それを知らずに育てた苗木屋、販売の窓口となった森林組合、わずか三〇a余りの苗から、何十年後かの木の姿が想定できないのを良いことに、このような悪い苗が大量に植林されたことが今になって想像される。

 むろんそのような苗が全てであったわけではないし、同じ木の種子からでも様々な遺伝子や、違う形状をもった木が生育する。しかし先にも書いたように「土地に合わない」ことと相まって、劣性化した木は早くから実をつけ、花粉を飛散させるに至るのである。
かつて、そのような劣性木は間伐材として早いうちに抜き切られた。そして林内に放置されるのではなく、薪にもなり杭にもなり、足場丸太にもなった。稲を干すはせにもなり、養殖筏にもなり、磨丸太や垂木にもなった。
山はいつも人の目の届く所にあり、人々の生活を支え、価値を生み出す代わりに下刈や間伐などの労力を要求したのである。

 しかし今日の現状は……。
足場丸太はスチールパイプが取って代わった。薪炭はガスや石油が、樽や日用品はプラスチックが取って代わった。建築用材は外材や集成材が取って代わったのである。(現在、国産材のシェアはわずか二五lである。)
大げさに言えば、縄文文化が弥生文化に席を譲ったように、石油文明は今や木の文化を駆逐しつつある。
当然、山林の価値は激減し、次第に放置されるようになった。間伐されることもなく、戦後に植林された膨大な山林の杉・桧は伐期を迎えても、なお薄暗い林床にひしめいている。小径木の利用が言われるようになって久しいが、すでに小径木の使い道は絶たれ、五十年生前後の柱になるような間伐木の利用も低価格ゆえに絶たれようとしている。「もったいないな」と思われながら、仕方なく山に捨てられるのである。

 間引かれずに放置された山林は、どのようになるであろうか。まず優性木と劣性木、明瞭に分かれる場合があり、全て劣性木になってしまう場合もある。そして周辺の多くの木が成長不良になることは、密接率が高くそれぞれの木が共生できないような状況下にあること[日当たりや養分の問題]、その土地に不向きであること、或いはもとより植えられた苗木が悪かったかのいずれかだ。林内の表土は流され、立ち枯れの木や倒れ木が多くなり、山林は日ごとに疲弊し始める。動植物の環境条件も悪くなり、ついには木の墓場のような薄暗い林相を作り上げてゆく。

 間伐はこれらの諸条件を解消する必要不可欠な手段であり、これからの林業の根幹の問題でもあろう。曲がった木や腐った木と共に、早々に実をつけるような劣性木も、何度かの間伐の際に抜き伐られることによって、花粉の飛散量も少しはましになるに違いない。

 間伐を終えた山は、生き生きとしている。林床は明るく、様々な草や木が生え、土壌にはみみずや微生物が生息して、ねずみや鳥などの小動物を呼び寄せる。光合成、保水性が高められ、水質浄化のサイクルができあがる。山が健康になることは、ひいては私達の環境そのものが良くなるということでもある。

 ともあれ、戦後植えられた夥しい数の杉や桧は、春になると花粉を飛ばし、自分達の窮状を嘆いていることを分かって欲しい
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花粉症と林業