環境と林業 中井龍彦
一本百円かけて作った大根が、どうしても五十円にしか売れなかったとしたら、大根作りという生業(なりわい)はすでに破綻しているとみなされるだろう。 今の林業がそれである。しかも五十年、百年のスパンで、年輪を数えるように、植栽から伐採までの労力と歳月の積み重ねを計算することができたら、そしてそれを今日の木材価格と照らし合わせて見ることができたら、、思わずフッと大きなため息が漏れるに違いない。 今のところ、このため息は私たち木材関係者だけのものだが、いつか必ず環境全体の大きなため息となって、吐き出される日が来ることと思う。大きな矛盾を抱えた林業、森林という地球の財産を背負った林業、その林業と環境との関わりの一端をかいつまんでみたいと思う。
林業は今ふたつの大きな岐路に立たされている。木を作りその価値に拠るところの今までどおりの林業か、あるいはもっぱら、水資源涵養、国土保全、二酸化炭素削減等、環境造りに貢献する林業か。前者、木づくりの林業は先にも書いたようにすでに破綻を来たしつつある。一方で、『生業』を廃した環境保全型の偏った林業を行政が根付かせたとしても、それは所詮わが国だけの環境であり、外材への依存度はさらに高くなるのが当然である。ひいては国産材を供給できなくなった分だけ,熱帯地方の残りの緑は、一枚一枚薄皮をはぐように地表から消されていくに違いない。
日本での林業の破綻、崩壊が新たに熱帯地方の森林破壊を招くという表裏一体の矛盾も見落とすことができない。
思えば、国産材価格の低迷は、外国産材を持ち込んだことによって始まったといっても過言ではない。自国の木材の蓄積を増やすために、昭和三十一年、輸入丸太の関税を全面撤廃して以来、外材は堰をきったように流れ込んだ。
これは非常に安価で、大量に供給することができ、戦後の復旧需要にわき上がる国産材とともに、不足した住宅需給を満たすことができた。もし外材輸入が厳しく制限されていたとしたら、日本の国土、山林は手がつけられないくらい荒れていたであろう。
このように当初、外材の日本上陸は住宅事情を改善し、日本の国土と山々の緑を回復させ、一時は国産材との共存、共栄が可能であるかに見えた。しかし現実はそうではなかったのである。その間に、様々な近代化の波が押し寄せる。製材機械の大型化、それに伴う合板、集成材の大量流通、一本の丸太の四面を切り一丁の柱角を作るような国産材の製材方法とは異なり、長尺の体系材を大型機械によっていっきに柱角や板材にする。合板は主にラワン材をトイレットペーパーをほどくようにくるくると剥き、それを何枚も張り合わせて薄板にする。年輪が無いので容易に剥くことができ、思い通りのすべすべとした広い一枚板ができあがる。柱などの角材にはアメリカ産のトガが人気を集めた。家具にはタイ産のチーク材、化粧用構造材には台湾ヒノキ、という風に外材は種類や用途も豊富で規格通りの量産、流通が確保できた。
この一連の製材近代化と量販の流れは、一方で国産材,並びに日本の林材業が外材との競合に負けてゆくプロセスでもあった。徐々に、徐々に国産材の利用率は低下し、家の木質系部材は外材によって凌駕されていったのである。
現在、木材、食料品の輸入が世界一を占める日本においては、建築用木材の75%が外材、食料品においては60%が外国の土と水で育ったものと思って間違いがない。『地産地消』の言葉とはほど遠い現実がそこにある。
さて一方で、木材輸出国である熱帯地方に眼を転じてみると、そこではさながら『宴の後』のような惨状が展開している。
例えばフィリピンのラワン材については、日本がその全土において、ほぼ枯渇するまでに伐りつくした。そして国土の70%もあった森林率は、今では22%だそうである。日本向けラワン材の半分以上はミンダナオ島から伐り出されたものだが、樹木の消えたこの島の奥地では、少数民族が痩せ地にトウモロコシや根菜類を植え、日々水を求めて暮らしている姿が痛ましい。
日本は戦中の一時期、この国を支配したが、戦後たちまちの内にフィリピンの森林からラワンという植栽不可能な樹種を葬ることで、戦争まがいの国土破壊を行ったのである。森林の消失にともない、フィリピンはインドについで世界第二の災害大国になったと言われている。その後、フィリピン国土の緑化植樹に手を差しのべ『宴の後』の地にユーカリなどのパルプ材を植林して一応の成果を得た。実に皮肉な経緯をへて日本の林業技術が海を渡ったのであった。
しかしラワン材への木材商社の執着は、フィリピン一国にとどまらず、次はインドネシア、ボルネオ島へと飛び火する。ここでもまた大量伐採が1970年代から始まり、過度の森林消失に気づいたインドネシア政府は、原木輸出の禁止、合板加工業者等、企業の選定をより厳しいものにした。それでもボルネオ島、カリマンタンの地では、かっての熱帯雨林の多くは消え、原野と化している。現在、ラワン材の輸入は、もっぱらマレーシアのサラワク、サバ両州(ボルネオ島北部)から45センチ以上の大径材に制限されおこなわれているが、この地方の熱帯雨林がなくなるのも、もはや時間の問題といわれている。
駆け足で、熱帯林破壊の現状をラワンを通じて見てきた。そして、その主軸として、日本が関与した事実は、しばしば『蛮行』という言葉で表現される。直接的には、アジア熱帯材のめぼしいところを輸入しただけだ、という言い分は通らない。間接的に、伐採地への入り口となった林道をたどり、奥地にまで入植した原住民による焼畑、また焼畑がもたらした大規模な山火事は、1983年、1997年の二度に渡り、エルニーニョの異常気象も加わって、想像を超えるような大面積を焦土と化した。ボルネオ島では、300万ヘクタール、およそ九州一個分が二度に渡り焼失した計算になる。
これがおおむね、自国の木材資源の温存、住宅需給の改善を図るために、日本が行った結論としての『蛮行』であった。
その背景で日本の林業は衰微し、木材の蓄積量は増えたものの、『伐られないこと』による放置、あるいは伐られたまま「放置されること』による新しい形の森林破壊が言われるようになった。市場に出しても採算が取れない、またそれをしてくれる人もいない、ということでますます山林および林業への無関心をつのらせ、山村からの人口流出、放置面積の拡大、里山風景の無機化、山地土壌の流失等、数えればきりがないくらい複合的な国土破壊が露見して来ている。いずれも、林業の破綻がもたらした『日本国土の無価値化』が、環境を蝕んでゆく姿と捉えられよう。
林業が環境の守り手として機能するためには、多くのコンセンサスを必要とする。それは水の問題であり、治山治水の問題であり、生態系や植生の問題であり、温暖化の問題であり、小さくは目の前の風景から、大きくは地球規模の海洋、森林破壊、異常気象へとつながり、点から面へと広がってゆく性質のものだ。
しかし私達はまず、自分が飲んでいる水、食べている食物、川と森の風景、そのようなものを的確に視野に入れてほしい。
そこには、あまりにも肩身の狭くなったー林業―の姿が浮かび上がるはずだ。