木と文化 中井龍彦
ある木材シンポジウムの席で、一人の林業家が、「林業の衰退や木材産業の冷え込みは、日本の木の文化が忘れられかけているからだ」というようなことを発言した。そのとき、会場から拍手も起こらなかったし、司会者もきょとんとしてその発言を取り上げようとしなかったが、私はその通りだと思っていた。
では、その忘れられかけている(木の文化)とは何を指すのだろうかと考えてみると、根底のところで「そもそも文化とは何か」という設問に突き当たってしまう。文化住宅、文化なべ、コピー文化など、一面でいかにも安っぽい意味を付与されてきた(文化)そのものの意味を、この場で整理することは不可能に近いが、日本の(木の文化)という様式や精神的産物は確かに存在したし、現在も存在する。それらをひとくくりにして言えば、人と木の関わりによって作られた伝統、生活様式、精神性、これを一応日本の(木の文化)と定義づけることが出来る。
ところで、日本の木の文化には二つの捉え方があるように思う。一つは木を利用し活用する(都の文化)であり、一つは木を生産し商品化する( 森の文化)である。一方は消費の文化 、一方 は労働の文化、と言うこともできよう。都の文化は社寺建築を始めに絢爛たる木造様式美を造りあげた。また、和舟と桶樽の組み合わせによって物資の大量流通を可能にし、身近には什器や家具などの日用品、工芸品も、都市生活を支えてきた(木の文化)であった。
それらの木製品が利用された背景には、木を育て、木によって暮らしを立てていこうとする(森の文化)があった。深い山のあちこちでは、炭焼きの煙が立ち上り、木地師やクレ師と呼ばれた集団は、山中での木製品作りを生業にして来たのである。また、木材の流通を図った筏流しも、その風土に見合った川と森の文化であった。都の文化と森の文化、言い換えれば集約化された都市文化と散在した地方の文化は、ともに木と食の文化によって、車の両輪のように日本の歴史に関わってきたのである。
それが今、木そのものの価値観が揺るぎ始めている。森の文化によって生み出された木製品の多くは、石油製品にとって代えられ、建築様式に組み込まれた木の役割も、コンクリートやアルミ、疑似木材や加工木材など、およそ文化とはほど遠い新様式によって様変わりを見せつつある。仮にもし、アルミ文化、プラスチック文化というものがあるとすれば、(木の文化)と呼ばれてきたものとどこかが違っているはずだ。木と同様に、アルミやプラスチックも現代人の生活様式に深く根ざしていることに変わりはないが、何かが違う。それは、その素材が人間と関わってきた(時間)の違い、人間からすれば(相性)の違いなのだと私は思う。伝統文化と併称されるように、文化も伝統もながい時間の蓄積の上に花開くものである。とするなら、木の文化は木の時間を、鉄の文化は鉄の時間を、土器の文化は土の時間をそれぞれ蓄えてきたはずだ。その記憶が文化と呼びうるものの(ねうち)なのだと思う。
先ごろ、吉野杉で作られる(樽丸)の技術が重要無形民俗文化財の指定を受けた。もともと吉野林業は、酒を入れるための樽丸林業として栄え、以来、四百五十年の歴史をもつ。今では建築材としての利用が主流になっているが、むかしは貯蔵、流通を可能にしたオケやタルなどの容器は生活の主力品であった。樽丸生産に関わった労働量も裾野が広く、木を伐る人(キリ師)、寸断する人(サキヤマ師)、それを割る人(クレ師)と流れ、一尺八寸の板(クレ)が作られる。それを山から里に持ち帰る仕事は、女性や子供が請け負った。クレは酒の本場である灘でタル酒に仕立てられ、多くは江戸に運ばれた。元禄時代には一年に五万石、一升瓶にすれば五百万本の酒が消費されたという。
指定を受けた樽丸の技術は、まさしく忘れられかけようとしていた木の文化であり、その技術にスポットが当てられ、文化としての記憶がふたたび呼びさまされたのである。
2008年5月