言葉なく消えゆく村

                           中井龍彦         

村は【群】であったということを民族学者の宮本常一氏が書いている。

それはもともと、羊の群とか人の群というように「移動をこととするグループ」を指す言葉であり、稲作農耕文化による定住の始まりと共に、「村」いわゆる〈集落〉が形成され始めたと語る。これらの小単位の集落は移動してどこかに消えたり、また後世には、分村という形で新たに作られた村など、形成・離散を繰り返しながら、多様な成り立ちの歴史と共に今日の姿をとどめている。

ところで、村それぞれの成立の歴史は、大体見当がつくが、消滅・解体の成り行きはあまり伝えられる事がない。それは現代のような情報化社会においても、情報を発信するすべもないままに幕引きされるのが常だからである。国交省のアンケート調査では、「消滅する可能性がある」とされる集落が二千六百もあり(前回九九年の調査では二千百) 、このようなデーターが唯一の情報発信源でしかない。昨年二月、住民がたった八人になり、やむなく産廃の最終処分場をみずから誘致した石川県輪島市大釜地区や、ダムによる地すべりのために無人化した吉野郡川上村白屋地区は、特殊な例としてマスコミにより伝えられた。

だが、高齢化率が五十%を超える「限界集落」と呼ばれる共同体は、何の発信力も持たないまま、無言のうちに消滅への経過を辿りつつある。永い〈時間の蓄積〉や伝統を持ちながら消えて行く村々。どの場合も過疎、少子高齢化問題が背景にあるのだが、さらにその背景にあるのが産業の空洞化である。平たく言えば、農山村から農林業が消えつつあるのだ。都市が必要とする〈木の文化〉〈食農の文化〉を送り続けてきた〈村〉であったが、石油文明の発展と流通のグローバル化によって、都市はもはや〈村〉を必要としなくなったとも言える。それと同時に林業の役割も環境と水源、また景観維持のための保全産業として位置づけられるようになった。木を利用し、木の皮を利用し、そのために木を植えて育てることの意味が、われわれにも分からなくなって来ている。

このたびの平成の大合併により、三百四十二もの村が消えた。ほとんどの村は、中山間地と呼ばれる、山や田畑に囲まれた小さな村々である。またそれらの村の多くは、市になり村人は「市民」と呼ばれることになった。しかし、だからと言って村が豊かになり人が戻ってきたわけではなく、やはり小さな集落、【群】の集まりであることに変りがない。

話を最初に戻せば、「村」のもともとの意味は戸数五十戸以下の小さな〈集落〉をさす言葉であった。最小単位のそれらの集落から消滅、解体が始まり、村や、かつて村であった地域、共同体が消えてゆくという暗い危機意識を、村に住むわれわれは、いつもいだき続けている。

また反面、いまや百人に一人にまでなった【むらびと】であることを、少し誇らしくも思うのだが……。
 
     

                            2007年9月