明治5年・改暦と留守内閣

      中井龍彦        

 

歴史上、一度だけ12月が2日しかなかった年がある。明治5年、太陰暦から太陽暦に改暦された年である。「ためしてガッテン」でおなじみの立川志の輔に「質屋暦」という自作落語があり、12月がなくなった当時の庶民のあわてぶりを面白おかしく語っている。改暦にいたるまでの政局のいきさつやその立役者(大隈重信と福沢諭吉)、月暦と陽暦の違いを明確にし、一組の夫婦のドタバタ劇につながる展開は落語ながら見事である。もともと、明治改暦のやりかたが無茶苦茶であっただけに、庶民生活の混乱は、そのまま笑い話になるようなストーリーであった。

  その明治5年、あらゆる意味でこの年は異様な年であり、現在の政治動向とつながるものがある。消費税、相続税などの税制改革にみる地租改正、マイナンバー制度にみる戸籍調査、安保関連法にみる徴兵令発布。そのほかにも現在と似たような社会変化が起きている。鉄道の開通、朝鮮の反日感情に呼応した征韓論、学制改革、郵便・電信の開始。ほかにも新紙幣発行、田畑永代売買禁止令解除、気象観測の開始、修験道禁止令など。いくら文明開化とはいえ、歴史上これだけの政治改革や諸制度が一気に断行された年はなかった。しかも不思議なことに、これらが「留守内閣」あるいは「留守政府」と呼ばれた政治空白の状況下でおこなわれていることだ。

  明治411月から明治6年9月までの約2年間、岩倉具視を正使として木戸孝允、伊藤博文、大久保利通ら政府要人を含む107名の岩倉使節団はアメリカからヨーロッパ諸国を歴訪。一方、日本に残った西郷隆盛、大隈重信、板垣退助、後藤象二郎らの居残り組が「留守内閣」の立役者であった。                                                                                                                                                                                                            岩倉らは、われわれの留守中に新規の改革や人事など勝手な事をしてはならない、と釘を刺すと同時にわずか4カ月前に発布した「廃藩置県」の処理だけはやっておけ、というような難題を与えて渡米した。それをなんなくこなしたのは、西郷隆盛であったと伝えられる。廃藩置県は諸大名から土地と人とを取りあげる権益収奪の大改革であり、西郷ならではの親分的な威勢により、諸大名は不満を残したまま沈黙した。その後も「留守内閣」は岩倉ら上層部との取り決めを無視し、様々な政治改変に着手する。なかでも、地租改正、壬申戸籍の編成、新紙幣の発行(明治通宝)、田畑永代売買の解禁、明治改暦などは明治維新の深刻な台所事情に起因するものである。それは一説によると13千万という当時の莫大な借金であり、にっちもさっちもならない文明開化のツケであった。13千万という額は、そのころの1円を仮に2万円とすれば26千億円にのぼる。人口3300万人、資産もなく内部留保もない空っけつの明治政府にすれば、その額は現在の日本の債務、1千兆円に匹敵する額かもしれない。その意味でも、明治5年と現在は似ている。

    維新、富国、文明、殖産という華々しい言葉におされ、そのころの国家債務を危機意識として捉えた記述はあまりない。苗字の許可や断髪令、僧侶の肉食・妻帯許可、女人禁制の廃止などのゴシップ令の背後で、いくつもの目くらましのような金融改革が「留守内閣」のもとで進められようとしていた。当然のことながら、こののち帰国した使節団の面々と「留守内閣」との間に軋轢が生じ、西南戦争にまでおよぶ。

明治5年と現在、「留守内閣」と野党の不在、および膨大な借金。ただひとつ大きな違いは、明治の人口は1年に50万人のペースで増え、40年後には2000万人増加の5200万人になる。ところが、これから40年後の日本は3000万人の減少、1億人を割るとされる。人口の増加とともに、明治の台所事情はわりとすみやかに解消されていった。

話は戻るが、12月がなくなった改暦の年、「女郎の誠と四角い卵、晦日の月」はありえないことの常套句であった。しかし、その年の大晦日、糸のような月が出た。月歴から陽暦へ、月が主役であった時代はその年で終わったのである。

 

太陰暦の正式な名称は太陰太陽暦である。月の満ち欠けをもとに作られた暦ではあるが、太陽の運行を背景においている。明治5年まで、日本はこの暦により1ケ月、1ケ年を数えていた。

  月の存在は太陽暦(グレゴリオ暦)が採用されたことによって、いちじるしく希薄になったが、地球上の生命は月の満ち欠けとともに、わずかな月の引力に影響を受けていることは今でも変わりない。海の潮汐、女性の生理、生物たちの満月の夜の産卵、大地震との関係、月と地球の関係は神秘と謎に満ちたものである。

  月は29.5日で地球を1周する。したがって太陰暦ではひと月を29日の月と30日の月に分けて12ヶ月にしていた。しかし、それでは1年は354日にしかならず1年を365日とする地球の公転周期との間に11日間の誤差が生じる。そこで3年に一度「閏月」(うるう月)を組み入れ「閏3月」とか「閏6月」というふうな呼び方をしていた。ともあれ、3年に一度13ヶ月の年がめぐってくることに当時の人々は何の違和感も持たなかった。地球の公転周期は365日と約6時間で、太陽暦では今年のように4年に一度366日の「閏年」が加えられる。

  改暦の議論は明治2年ごろからあったものの、発布されたのは年の瀬も押し迫ろうとする明治5年の119日であった。「来月、123日をもって明治6年11日とする」この唐突な改暦の発布に人々は驚いたであろうが、何のことかわからなかった人も多々いたであろう。その明治6年は旧暦の「閏月」に当たっていた。すでに来年度の暦はできていたらしく、暦の製造業者は大変な損害を被ったという。

  ところで、文明開化という大きな時代のうねりから仕方なく改暦が行われたのかというと、実はそうではない。「留守内閣」の中心にいた大隈重信が明治改暦の立役者だが、大隈は後日次のように語っている。要約して書くが「維新後のこれからは年棒制から給料制になる。陰暦においては13ヶ月の年が3年に1度巡り来るため1ケ月分の給料を多く支払わねばならない 。だが国の税収は同じだ。その閏月が来年来る。」「正に近く、明年に迫れり。この閏月を除き、もって財政の困難を救わんには、断然暦制を変更するの外なし。」という大隈重信の決断によって明治改暦が断行される。つまり、すでに予定されていた12月分の俸給と、明治6年閏月13ケ月を新暦12ケ月とすることで計2ケ月分の給料を煙に巻いたのである。明治維新の財政がいかに困窮していたかが、このことからも伺える。

  改暦の影響は都市部と地方では、ずいぶんと違っていた。まず農山漁村においては、旧暦は生活上、必要不可欠なものであり、高度経済成長期に入る昭和の30年代まで永く残り続けた。都市部ではわりに早く新暦を取り入れたものの、給料制で暮らす人々と職人や農民などの家業人との間で暦の選択は違っていた。つまり、地域により、職業によってふたつの暦が同居し、混交していったのである。

    このような話もある。花嫁が婚礼の日取りを決め、嫁いで行ったところ、婿は高いびきで寝ている。よくよく聞いてみると「婿は旧暦のつもりで約し、花嫁は新暦にて来たりしならん。」というようなことが新聞ネタにもなった。そして、旧暦で暮らす人、新暦で暮らす人、あるいは新旧両暦の祝祭日を取り入れる人、というふうな二重暦が改暦後の日本に不安定に定着した。

  明治改暦にかかわらず、明治維新の様々な改変は日本人のこれまでの精神文化に西欧の慣習文化を塗り重ね、うまく交わらぬうちに固形化していった。欧米システムへの傾斜と同化と対峙。日本が選ばねばならなかった「近代化のシナリオ」はこののち大きな矛盾へと繋がってゆく。

2016.08.19 更新