見捨てられた森林     中井龍彦


日本の森林は67%もの高い森林率を維持し、安定的な成長とともに二酸化炭素の削減に寄与しているという。果たしてそうだろうか。『木を見て森を見ず』という言葉があるが、飛行機のような上空から日本列島を見下ろすと、確かに国土に占める緑の割合は多い。

では日本の森林を『木を見て森を見る』という視点から捉えてみよう。つまり森に入り一本一本の木を見ることで森林を捉え、安定的な成長期にあるかどうか、二酸化炭素の削減に寄与しているかどうかを確かめてみたい。

日本の森林の44%が人工林である。それも戦後に植えられた六〇年生までのスギ、ヒノキ林が殆どだ。スギ59%、ヒノキ20%の蓄積率である。五十年生から六〇年生のスギ丸太の市場価格は、1立方m当たり一万五千円から二万円で、伐り出しの経費も同額程度である。(1立方mは長さ3m、直径18pの丸太が10本。1本単価は千五百円から二千円にしかならない。)

つまり、しかるべき営業利益もなく、半世紀間育てた様々な形での出費は無駄であったということだ。ちなみに1本の木を育てるのに五千円から七千円の費用が掛かっている。(吉野林業での試算)  

しかしまだこの齢級の森林は、わずかであるが収益を上げてきた。二度か三度の間伐の際、足場丸太や磨き丸太として出材経費以上の売上げがあったからだ。それ以下の齢級になると殆どお金は見ていない。主に拡大造林で植えられた森林だが、所有者が居るのか居ないのかも分からず、立ち枯れた木とともにヒョロヒョロと影絵のように揺れている。太りもしなければ枝を伸ばすことも出来ない、そのような森林が際立って多くなって来たと感じる。

またそのような森林の所有者も様々である。100%手をかけておきながら間伐を放棄した人、植林だけして後はそのままの人、名義が変わり所在が分からなくなった人、面積十aから何十haもの所有者、ともに不在村所有者が多い。 境界木に新しく書付(木に自分の名前や屋号を書く)が記されていたり、赤や青のペンキが塗られていたり、プラスチックの境界杭が打たれている森林は、所有者が明確であり、管理が行き届いている。しかし、時が経つにしたがって書付やペンキは消え、境界杭は朽ち果て、林相は大きく変化する。管理の行届いた森林はより立派になり、見捨てられた森林は内部から腐ってゆくような印象を与える。立枯木が多くなり、燃えやすい状態になっていることも確かだ。

このような森林が増加傾向にあると感じるのに、一方では<安定的な成長量>が机の上で試算されている。樹木は太ることや茂ることで二酸化炭素を取り入れ、枝、幹、根に蓄積して固定化する。また建築材、家具材として利用されることで、さらに何十年の間、固定化を継続させる。焼却される頃には、また次世代の森林が育っているという循環のサイクルに従えば、二酸化炭素濃度は計算上、確実に下がってゆくはずだ。

しかしそれを誰がするのか。国産材の利用率20%、五十年間育てても1本につき五千円から七千円の育林費は戻ってこない。親が植えた森林が子や孫の代に負債として残されるのであれば、当然の事ながら、ますます森林は見捨てられ、日本の国土からも忘れられてゆく。  

平成13年度に新たに策定された[森林、林業基本法]第26条に、次の記述がある。

「国は、林産物につき森林の有する多面的機能の持続的な発揮に配慮しつつ適正な輸入を確保するための国際的な連携に努めるとともに、林産物の輸入によってこれと競争関係にある林産物の生産に重大な支障を与え、または与えるおそれがある場合において、緊急に必要があるときは、関税率の調整、輸入の制限その他必要な施策を講ずるものとする」

林産物の輸入を「確保」したいのか「制限」したいのか、どちらとも分かりにくい文章である。ただ「緊急の必要」性に林産業界がおかれてしまったことは間違いない。