流れ地蔵と対馬観音

                         中井龍彦  

  通称「石ぼとけ」と呼ばれているお地蔵さんが、このたび日本遺産に登録された。私の地区の数百メートル上流に祠がある。特段のご利益をもたらしてくれるわけではないが、遠くから訪れる参拝者も多くいる。

   じつはこの地蔵、2度も同じところまで流されている。20キロほど下流の西吉野町城戸、ふたつの川が交わるところで、名のとおり「河合」という地区のあぶらや宇平、いずみや文右衞門というふたりによって、川から引き上げられたという。「一度はもとの赤滝まで運び帰ったが、二度目には重くなって動かぬので、河合でお祀りすることになった。」と、謎めいたことを案内板は記している。弘化10年、とあるが弘化年間は4年までしかない。ともあれ、江戸時代後期にも石の地蔵を流すような大洪水が起きたのであろう。

   川を通じての対立は、主に筏(いかだ)流しにまつわる水利権の問題であった。下流に位置する村と上流の村とで、訴訟沙汰や仲裁沙汰にいたった経緯を黒滝村史は詳しく書いている。地蔵が流れ着いた河合地区は、ふたつの川からの材木の集積する場所であった。もしも地蔵の流された赤滝村と、行き着いた城戸村が不仲であったとすれば、やすやすと地蔵は戻されなかったであろう。ちょうど弘化10年?にあたる1850年ごろに、赤滝村は筏流し・管流しの取り決めを破り、下流域からの苦情を受け、黒滝郷全体の問題として顰蹙(ひんしゅく)を買っている。だが、推測はこれまでにしておこう。

   一方で、黒滝村史の記述は「石ぼとけ」は水の安全を祈願する地蔵であったことや、ある時代の大水害で流され、迎えに来いという夢のお告げ通りその場所に駆けつけたところ、川底から見つかり、持ち帰って元の所にお祀りした、というものである。城戸村河合に行き着いたことや、2度目は戻らなかったという記述もなく、ふたつの昔話は明らかにくい違う。もし、2度流されたのであれば、いま私たちがお祀りしている「石ぼとけ」地蔵は偽物ということになり、本物は河合地蔵尊であるということになる。だが、この憶測も不問に附すことにしよう。日本遺産であろうが偽仏であろうが、むかしの村人たちのささやかな信仰の「シンボル」であり、幸いなことにこの石地蔵に骨董的価値、あるいは文化財的な価値があるわけでもない。

   よく似た話がある長崎県対馬市にある観音寺から4年前、韓国の窃盗団により御本尊の観音菩薩像が盗まれた。すぐに犯人が捕まり、韓国政府も仏像を日本に返すつもりでいたらしい。ところが、浮石寺という韓国の寺院が「その仏像は、1330年にわが寺で造られたものであり、日本に返すべきではない。浮石寺に返すべきだ。」と主張し始めたのである。確かに仏像の出自はこの浮石寺で造られたものらしいが、当時、李氏朝鮮で起きた激しい仏教弾圧による廃仏気運なかで、多くの仏像、文物が難を逃れるために、対馬に渡る。そのひとつが観音寺の観音菩薩像だと日本側は主張している。一方、浮石寺の言いぶんは違う。仏像は「倭寇」によって14世紀に掠奪されたものだと言い張るのである。この主張により、時代が600年も昔のことに遡ってしまい、収拾がつかなくなっている。

「倭寇」には謎が多い。もしも、日本人組織による「倭寇」が掠奪したものなら、時代を超えてでも仏像は浮石寺に返すべきだという理屈は成り立つ。しかし、今に至っては証明するすべもない。

   韓国政府は、倭寇によって掠奪された「蓋然性」が高いが、証明は不可能という判断を下した。だが「蓋然性」を言うなら、廃仏気運が吹き荒れる李氏朝鮮から仏像を「救出」したという「蓋然性」のほうが、もっと高い。そのような、「救われた仏像」が対馬には数十体もあるという。

   わが地区の「流れ地蔵」は、安住の地に流れ着いたこととして、隔世の諒解を得た。だが、対馬の観音像は価値が高いということで、600年の歳月を「流れ」続けている。

 

平成28年08月24日発表

平成29年01月27日更新