丹生川上に注ぎゆく水         




 昨年9月の台風12号以来、家の下の渓流から魚の姿が消えた。川辺に生えていた植物も消え、上流の崩壊地から運ばれて来た岩や粉々の山石で河床は覆われている。この夏は、もうホタルを見ることもない。1キロほど下流に赤い岩層が露出した渓谷がある。チャートと呼ばれる岩層だが、その岸辺に歌人、前登志夫の歌碑が建てられている。この狭隘な渓谷にも、不気味に赤い濁流が流れた。

水底に赤岩敷ける恋ほしめば丹生川上に注ぎゆく水

ものみなはわれより遠しみなそこに岩炎ゆる見ゆ雪の来るまへ

 

 大天井ヶ岳に水源を発する黒滝川は、下市町丹生に入ると丹生川と名を変え、五條市の霊安寺町で吉野川に合流する。その丹生川のほとりに鎮座する丹生川上神社は、官弊大社、延喜式名神大社のひとつに挙げられ、すこぶる格式が高い。にもかかわらず、これほど記紀神話から韜晦(とうかい)した名大社もめずらしい。前登志夫は「丹生川上に注ぎゆく水」という句に、この社の名だたる由緒をひそかに想起したことであろう。

  この丹生川上神社下社は川上村の丹生川上神社上社が本社として名乗りをあげた明治29年、また東吉野村の丹生川上神社中社が当地であると主張した大正4年までは、官弊大社一社としての社格が与えられていた。そこにこれらの二社が名をあげるに及んで、真の所在地も、名神大社としての社格も曖昧模糊としたものになり、丹生川上三社がともに官弊大社として存立することになる。丹生川のほとりに建つ下社は天誅組の兵火に遇い古来の壮麗さはなく、川上村上社のひなびた社殿も大滝ダムの湖底に沈んだ。水をおさめ山を鎮める祭神ミズハノメやオカミ神の神意もおよばず、この三社が神域とする山は荒ぶり、川は狂った。いったいこれらの祭神への水神信仰は何であったかと自問するのは、山河への畏怖を忘れた私たちの驕りと、その地に暮らす人心の惑いに端を発するのではないかと思うからである。ともあれ、紀伊山地の霊場から多くの神々の霊力が、あまねく消えてしまったような後味が残る。

イワレヒコ(神武天皇)の祭祀の地を、記紀は次のように記している。天の香具山の土で平瓮(ひらか)「皿」80枚、手袂(たくじり)80枚と厳瓮(いつべ)「つぼ」を作り、それをもって丹生川の辺に天ツ神、国ツ神を祭ることにしよう。平瓮で飴を作り、酒を入れた厳瓮を丹生川に沈め、魚が浮いて来たなら国を治めることに成功するであろう、そしてそのようにしたところすべての魚が浮き、イワレヒコは丹生川の上流に生えた500本サカキを移植して、その地を祭祀の地に定めた、というのである。

謎めいた記述だが、この神話は暗に日本の建国を示唆している。丹生川上神社は、いまでは祈雨、止雨祈願の地としてクローズアップされているが、そればかりではなく元来は天ツ神、国ツ神、いわば総ての神々の祭地として発祥したのである。

それにしても、神話の時代から棲んでいた魚が消えてしまったと思っていたのだが、先日、丹生川で川遊びをしている親子に「何かいる?」と尋ねたところ「おさかな」と答えるので川辺を覗いてみると、小さなハゼが2匹泳いでいた。また、上流の入り江になった分流の淵に、ヤマメやアブラハヤ、ハゼなど多くの魚たちが逃れ棲んでいるのを見つけた。これらの魚たちが再び本流に泳ぎ出て、子孫を増やし、徐々に川らしさを取り戻してゆくことだろう。

私はふと、丹生川上の祭神が戻って来ているのだと思った。

                   平成24年5月30日

              



                        

中井龍彦