鬼にかへらむ峠まで

             中井龍彦

  前登志夫の第二歌集「霊異紀」に、次の一首がある。

この父が鬼にかへらむ峠まで落揮(らっき)の坂を背負はれてゆけ

  この「峠」の所在はどこなのだろうという問いを、私は常々もち続けて来た。極めて現実的で、ややもすると白けた設問だが、その場所を知ることで、意外に知られていない前短歌の背景に出会うことができるかもしれない。

  結論を先に言えば、この「峠」はおそらく広橋峠である。前登志夫の生家は、この広橋峠をすこし下り、一キロほど行った所から、急坂を上り詰めた清水という山上の集落である。その間に、広瀬川という小川が流れ、わりと最近まで田んぼが作られていたが、今は車道になっている。それまでは車一台が、かろうじて通れるほどの牛車道で、すぐ脇に昔の火葬場跡地であることを示す墓碑が立てられていた。その辺りから急坂になり、まるで異界への入り口のように、うっそうとした木立の闇をくぐり、清水集落にいたる。

  当時、近鉄下市口駅から黒滝、天川に通う路線バスが広橋峠のバス停で止まり、そこから2キロほどの山坂道を、前登志夫はとぼとぼと歩いて登ったことであろう。その記述と作品があるので、少し長くなるが引用してみよう。

「麦の秋のころ、バスを降りて、川沿いの谷間の村を歩いて帰ると、山田の蛙の声とともに蛍がわたしの歩行に連れて戯れるようにしばらくついてくるようなことが再三あった。 

 わたしの帰郷を拒んでいるのか、それとも歓迎してくれるしるしなのであるか。あるいは、わたしの歩みを河だと錯覚しているのか。わたしが河だとすれば、夜のほうへ、そして山の頂の方へ逆に流れている時間の河だ。」(吉野紀行より)

広橋峠でバスを降り、前登志夫は異界におもむく帰郷者となって村をめざす。山の頂きに向かって逆流する時間の河を、若き日の詩人は、暗い星空を見上げながら様々な思いとともに遡行したのであろう。

暗道のわれにまとはる蛍ありわれはいかなる河か

帰るとは幻ならむ麦の香の熟れる谷間にいくたびか問ふ

ゆふやみにまぎれて村に近づけば盗賊のごとくわれは華やぐ

  峠は川を分かつ頂きであるとともに時空と文化を分かつ分水嶺でもある。広橋峠は、まさしくそのような位置にあった。峠に立つと大和国原が広がり、二上、葛城、金剛連山が梅林の向こうに見渡せる。 その向こうの都市・大阪。町の「縞」と「感情」を身に持ちながら、前登志夫はこの峠を文明から「異境」への通路として登り続けた。自分が鬼に変ずるであろう峠、夕日に傾く坂道も、おぶわれた子供たちも、この峠から始まる村の原風景であり、短歌のメタファーに昇華されるまでの実在の峠であった。

  だがしかし、この峠から先は、ほとんど大和国原や都市の時間にはない村の時間におよぶ。「時間の河」をさかのぼるにつれ、都市の時間も国原の時間にもない「村と森の時間」にテンポを変え、最後には「非在の峠」「どこにも存在しない峠」になっていった。

最晩年、前登志夫は次の歌を詠んでいる。冒頭に紹介した「鬼にかへらむ峠まで」の歌から、40年の隔たりがあった。

  餓鬼阿弥もよみがへりなば百合峠越えたかりけむどこにもあらねば

  花折りの峠を行けば生きかはり死にかはりこしわれかとおもふ

      

  吉本隆明は「異境歌小論」のなかで「前登志夫が実現している時間のテンポは、ほんとは農耕社会と都市の系列にはなく、山人の異系列に属する特異なもの」と述べている。その小論にすこし触れてみたい。

  すぐれた評論は、それまで自分の中で、気体か液体でしかなかったものが、はっきりと固体化してゆくような得心を与える。俗な言い方をすれば、すとんと心にオチるのだ。

  それは単に文章の節まわしだけで決まるのではなく、背景に重層な知見と感性の蓄積があるからだと感じさせられる。この小論は、まさしくそのような文章であろう。

   前短歌の晦渋(かいじゅう)さや、特異性の風土について、吉本隆明は次のように言う。「故郷の吉野の山里は、前登志夫にとって焦慮をいやし挫折を慰めてくれるような場所でもなければ、文明の疲労を忘れさせてくれ、それで終わりという場所でもなかった。異土的でもあり、異族的でもあるまったく別種の文明の原郷として開花しきれないまま、わが国の都市と農村を原流とする文明に対して、異文明として対峙するにたるような由緒を、歴史と地誌のなかに潜ませている場所であった。」

  この文章のなかで、吉野に暮らす私が妙に納得するのは、「異土的、異族的」でもある「まったく別種の文明」としての吉野という視座である。そしてまた、たとえば広橋峠から見渡せる国原文明と都市文明に対峙する異文明としての吉野であり、「最後まで開花しきれない」ままに過ぎていった山里の時間が累積する古国という視座である。

  吉本はその時間の変質を「無時間のテンポ」という言葉で語る。峠を越え、谷間をゆき、吉野に棲む祖先は、農耕社会や都市社会にない時間の川を歩みつづけた。そしてまた、前登志夫も、前回にも述べたように、無時間の川を遡ることで異境である「村」にたどり着くのである。吉本はさらに他の数多の歌人と比べ「前登志夫の歌はこれと似ているようで、まったく違う。歌はわが山里に固有な縄文期以来の無時間のテンポだし、そのテンポの発見なのだ。このテンポのまえには、農耕社会の四季をめぐる時間のテンポも都市の休息のないす早い時間の推移もまったく異質な世界だ。」と語る。

  帰郷者としての前登志夫は、自己の歩みを逆流する川になぞらえ、その上流の村に現実の時間の静止を視た。「村」とはいわば、都市、国原の時間の及ばない異土であり、吉本流に言えば「無時間のテンポ」で括られた「最後まで開花する」ことのない原始画像なのであった。

   時代は変わったといえ、 私たちは未だ、この原始画像の中で生きている。それは、都市や国原の時間と本質的に異質な時間の脈絡のなかで生き継いできた地誌をもつからである。

   吉本は言う。「わたしたちの神話や伝承いらいの歴史や地誌は、まったく系列を異にしたふたつの異文化を、現在でも創造の原泉にしている。そのことを前登志夫の生きざまも、ためらいも、やさしさも、また作品の無時間のテンポも、そしてときに泡だつような現代の無声のおらびも、象徴してやまないのだ。」

 

百合峠越え来しまひるどの地図もその空間をいまだに知らず       
    歌集,鳥総立より

 

付記

  幼いころ、母の里帰りに連れられて、広橋峠バス停よりひとつ向こうの、「大杉茶屋」と言うところでバスを降りた。

  そこから母の実家まで、1.5キロほどの坂道を、私は母の手に引かれ、妹はおぶわれて石ころだらけの道のりを歩いた記憶がある。

  広橋峠から見渡せる景色は、広々と明るく、奥山から抜け出てきた私の目にはずいぶん明るく写った。

  ただ遠くが見えるという、それだけのことなのだが、私にとってもこの峠は、別界への(入り口)でもあり、また(出口)でもあった。

「鬼にかへらむ峠まで」の風景に半世紀むかしの私たち親子の姿を思い出す。