生尾




物売りのマイク途絶えし高山に登り来つれば雪深く凍む


寒の水とくとく飲みて咽喉つたふ山のおろちを呑みしごとくに


まむかえる森の神話を見つむれど井光の
(すゑ)に尾はなかりけり


望郷の想ひも持てず山川にへばりつき棲む苔のごとしも


とろとろと眠りさしくる雪の日は雪の言葉をもちて
昼寝(ひるゐ)


(そら)に焚く火はなけれども地の(ほし)にちひさく明き火に手をかざす


そのかみは尾を持つ人も住みしとふ千人の村に雪降りしかも


限界の
集落(むら)と呼ばれしふるさとの山はひたひた朝日を浴ぶる




いつの間にか、山と樹と村のことしか歌えなくなってしまった。それでもいいと私自身は思っている。

 イワレヒコ(神武天皇)が、この吉野にやって来た折りも、山中の集落から煙が立ち昇り、川で漁労をしている人や、けものの皮を尻にぶら下げて歩いている生尾人のような木樵の姿を眼にしたのであろう。今でも、川向こうの箸を作る小屋から、終日煙が立ち昇り、日暮れになると風呂を焚く煙があちらこちらの家庭から立ち昇る。一年中、アマゴやウナギを獲っている贄持(ニエモツ)のような郵便局員もいる。

 ムラの<姿>を詠むことは、変わりようが無いムラの<有り様>と<伝承>を伝えることなのだと考えるようになった。例えば、いつの時代も、雪の日には雪景色の中のムラがあり、夏はセミ時雨のなかのムラがある。記紀の時代、イワレヒコが見たという同じ風景がムラの<有り様>として連綿と残され、一方で変わりゆくことを念じながら、ついに変わることのできなかった、たった千人のムラのなかで私は暮らしている。

         

                                         2009年7月19日




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