戦争がもたらした数奇な運命


                                                  中井龍彦 

郷里に帰り林業を継いでから、はや30年がたった。当初、山の職場には6人の戦争体験者がいた。そのうちの4人はロシアや中国の捕虜になり、戦争が終わってからも収容所生活を余儀なくされた。彼らはどうしてか、あまり戦争の話しを好まなかったが、仕事の休憩の折、私は一人一人からポツリポツリと、戦争体験談、収容所体験談を聞かせてもらった。

 Kさんはシベリアの収容所でロシア人の受刑者とともに3年間近く働いたという。零下20度のタイガに連れ出され、材木を搬出していたらしい。甘いものが食べたくてよく白樺の樹皮を舐めたものだ、と話していた。誰よりもおとなしい彼が収容所生活を話す時、ロシア人のことを「ロスケ」とか「あいつら」とか、にくにくしげに呼び捨てるのが印象的だった。ロシア人の看守と受刑者に混じり、日本人兵が半数以上いたという。炭鉱に出かける者、鉄道工事に携わる者、いくつかの労役があったようだ。働いたら某かのお金がもらえるらしく、看守への賄賂は当たり前のように行われていた。トイレで使う紙がなく手で拭くことが嫌だったというので、「ロシア人は拭かないのかと」問うと、「あいつらはポロポロの糞やから拭かんでもすむ」と、半ば軽蔑したように話していた。

  日本人兵の人気職は、散髪屋だと言っていた。バリカンとハサミを動かしながら、受刑者、看守、日本人捕虜ともどもに、口上手な散髪屋の世間話を聞くことが何よりの楽しみであったのだろう。針子職人、料理職人、マツサージ師、いろいろな日本人職人がいたと言う。

Jさんはビルマ、いまのミャンマーにて終戦を迎えた。捕虜にこそならなかったが、部隊がばらばらになり、ただ一人ビルマを抜けバングラデジュを抜け、インド北東部の日本の赤十字に命からがら身を寄せたという。Jさんが辿った道のりは尋常な距離ではない。地図で見ると大体このあたりだろうと見当がつくが、1ヶ月以上もさまよい歩いたというのだから、相当な距離である。その間、何を食べていたのかと問うと、犬を一匹捉え、その犬を背中に背負って、肉を千切り骨をかじりながらジャングルを歩き抜けたのだと話していた。昼のうちは銃を持った兵士がうろうろしているので、なるべく身をひそめ、夜のうちに歩いたとも話していた。どのようなところを歩いたのかと聞くと、ジャングルと言ってもいちめんの竹林で、行けども行けども太い孟宗竹の林を、月明かりを頼りにひたすら歩き続けたという。

Jさんは帰国してから、犬をペットとして飼うことはなかった。また、犬に言葉をかけたり、なぜさすったりすることもしなかった。「あのとき一匹の犬に出会わなかったら、今ごろ俺は生きてなかったやろ」と、話していた。

Hさんは中国で捕虜になり、約一年後に脱走して港に向かったと言う。善良な中国人のリヤカーの荷台に身を隠したりしながら、ようやく港にたどり着いた時には、すでに最終の引揚げ船が出た後だった。Hさんは異国に一人取り残されたと思った。数日後、何かの政治交渉が成立したのだろうか、再び日本への移送が再開され始め、彼はその船に乗って、無事に博多の港に帰還した。沖合いを見ると、ひと足先に帰路に着いたはずの引揚げ船が停泊している。船内でコレラが発生したらしく、寄港を見合わせているという事だった。当時の引揚げ船は、主に博多、浦賀、佐世保、舞鶴の四っの港に着いた。そのいずれの港でもコレラ患者が出て「コレラ船」と呼ばれ恐れられた。Hさんは「もしあのコレラ船に乗っていたら自分もどうなっていたか分からない」と話していた。

戦争は、人々に数奇な運命をもたらした。  


                                                  2007年12月