小水力発電の灯(あか)り
中井龍彦
電気にたよるライフスタイルが恒常化したのは、遠い昔のことではない。テレビ、洗濯機、冷蔵庫、いわゆる三種の神器と呼ばれた家電製品が一般家庭に普及し始めた1950年代後半からであろう。
ところで、日本人が初めて電気を「見た」のは明治22年、1882年のことである。アーク灯と呼ばれる外灯が銀座に出現し、多くの見物人が押し寄せたという。その後、エジソンの発明による白熱電球の灯りが都市部の各家庭にゆきわたるまで30年の月日を要し、さらにそれから、三種の神器の発明にいたる1953年までには、40年の月日を要した。アーク灯が灯ってから、およそ70年の間、電気インフラのコンセントが、ー般家庭に広く届くことはなかった。むろん、電気製品が少なかったこともあるが、火力発電は石炭の高騰、水力発電は旱魃による水不足などから、現在のように安定した供給システムは確立していなかったと言える。そして、三種の神器が発明された同年、原子力発電の蓋が開けられる。アメリカでは「原子力の平和利用」がアイゼンハワーによって提示され、日本ではその翌年の1954年、原子力発電の開発研究費が国家予算に組み入れられた。その十年後、東海村に初めての原発が稼働することになる。
前置きが長くなってしまったが、私の村に灯りが灯ったのは大正 10 年、1921年のことである。出力は毎時48kWという小さな水力発電の光であった。当初は村内の850戸に供給し、余剰電力は村外に売電していたという。ただ、「一戸一灯契約」つまり一戸にひとつのプラグしか許されず、蝋燭を5本並べたほどのとぼしい白熱電球の光であった。部屋にひとすじ赤い糸が垂れているようなイメージから「赤糸電気」とも呼ばれていたという。鳴り物入りで登場した水力発電であったが、水不足や料金の滞納、盗電、水路の破損などから、しだいに宇治川電気からの送電に依存するようになり、その宇治川電気も今の関電(関西配電株式会社)に合併、吸収され、昭和17年、村営電気事業は跡形もなく終焉した。
この小水力発電の歴史から見えてくるものがある。それは多種多様化した電気機器とそれに伴う便利さへの過剰依存、小発電システムを駆逐して原発により巨大化した国内10電力会社の奢りである。別の見方をすれば、電気により成し遂げられた高度経済成長の奢りでもある。その小発電システムが原発の停止によって、ふたたびよみがえろうとしている。太陽光、風力、地熱、小水力、バイオマス。しかし、問題は多い。この9月から、大手5電力会社は過剰になり過ぎた太陽光発電の電力買い取りをつぎつぎに中断し始めた。国が定めたエネルギー買い取り価格にもいいかげんなところがあった。再生可能エネルギーの普及は、ここに来て行き詰まった感が否めない。
発電の歴史は、もともと自然エネルギーが元祖で、石炭・石油火力へと繋がれ、原子力科学エネルギーへと推移しようとしていた。その矢先、3・11の悲劇が起きる。民主党政権下での「原子力エネルギー50%に」の標語はまだ記憶に新しい。だが、原発が停止した現在、自然エネルギーへの回帰は、米粒を拾うような小さな作業から始めねばならないだろう。そこには経済成長至上主義や科学万能主義と対峙する、自然を自然としてとらえる感性が必要だ。