大正13年(棚田の森)             中井龍彦

                         

  中山間地と呼ばれる山村から水田が消え始めたのは、おそらく昭和45年(1970年))からのことであろう。この年は大阪万博の年であり、減反政策が本格的に始動し始めた年でもある。生産調整という名のもとに、転作奨励金をもらって、まだ小作制度のなごりの残る小さな棚田にもいっせいにスギ苗が植えられた。ちなみに1970年前後の10年間に、スギ丸太の価格は2倍、ヒノキ丸太の価格は3.5倍に上昇している。

  減反政策、転作奨励金、木材の高騰、などの条件が出揃い、村人は労多くして収量の少ない棚田に見切りをつけ、山林に変えた。以来、私の集落の棚田跡地には、42,3年生のスギ林が茂っている。水田はもはや一枚もない。

  10年前のこと、伐り開けられた2ヘクタール足らずの林地を買った。その一部には12枚の棚田が築かれ、陽当たりもよく、谷川も近いことから、山あいの寒村にしてみれば、恵まれた条件の棚田であったはずだ。伐り株の年輪を数えてみると78年。今から10年前のことだから、88年前にこの棚田にはスギ、ヒノキが植林されたことになる。「なぜ?」という疑問が湧いた。

   88年前といえば大正13年(1924年)、この年を期に米価の下落が始まり、逆に前年に起きた関東大震災の復興需要にともなって、木材価格が一時的な急騰を見せている。一方、米価の下落はこの5年後の世界恐慌のただなかで2分の1にまで下がり続けた。

さて、大正13年の米価下落の原因は、万博の年や今の状況とまったく同じで「コメ余り」が背景にあった。どういうことかと言うと、この年を皮きりに台湾から蓬莱米というジャポニカ米が大量に輸入されはじめた。それまで台湾の米は日本人の口に合わないインディカ米であり、台湾を植民地統治した日本は数多の品種改良を試み、ついに蓬莱米という品種に行き当たる。いわば、今で言う「開発輸入」をコメにおいて成し得たのが、大正13年だったのである。コメ余り、木材価格の高騰という現象が、時を違え、状況を違えて偶然に起こり、営々と耕されてきたこの12枚の棚田も、森に消えていったのである。

  さらにもうひとつ、想像でしか図る事のできない棚田跡地がある。先に時代の違う二カ所の棚田林を例に引いたが、そこから谷川を挟んだ向こう側、距離はわずかしか離れていない。60年生のスギが立っているが、さらに以前には(ハチマキ落とし)と呼ぶほどの見事な80年生林があったと聞いた。それを伐った人に尋ねてみると、見上げるとハチマキが落ちてしまうほどの高さだったと言う。するとこの棚田は140年も前に見捨てられたことになる。

  140年前というと、明治5年(1872年)、この年にも急激な米価の下落がおきている。明治3年に比べ約3分の1、別の資料では4分の1と異常なぐらいに急落している。調べてみると、この年に田畑の売買が自由化され、翌6年の「地租改正」という税制度の大改革により、農民はいままでコメで納めていた年貢を、金銭で納めなければならなくなった。税率はその土地に見合った金額の3%と定められ、支払うことのできる一部の金持ちに土地が集まり、地主と耕作する小作人の関係が成立する。そのこととコメ価格の下落がどのように結びつくのか定かではないが、ただ、小さな村の棚田にも地租改正が及んだのであれば、木を植えて税のかからない山林に替えてしまおうと考えた人も多くいたに違いない。

  棚田林はこのような時代背景から、仕方なく生まれた。もし、TPPに加わるようなことかあれば、コメ価格は暴落し、数少なくなった日本の棚田も、間違いなく消えてゆく、ということを、歴史は伝えている。

                


                         平成24年2月29日