谷行(たにこう)の墓碑
中井龍彦
村人の屍を焼くわがつとめ無くなりしより何亡びしか
前登志夫歌集「野生の聲」より
私の集落では、まだ手づくりの葬儀が行われている。というのは、斎場も祭壇も焼却炉も自前、人手も炊き出しも僧侶も、司会者以外は総て地区の人たちのボランティアによって執り行われている。
まず焼却施設、いわゆる「焼き場」があることで穏亡(おんぼう)と呼ばれている役割りが割り当てられる。賄いをする女性陣は、むかし「女中」と呼ばれていた。今は「女子手伝」という呼び方に変わり、ちらし寿司やら味噌汁を作ってくれる。面白いのは野道具(のどぐ)という係りで、青竹を削った骨壷や、骨を拾うための竹箸、鶴を模った燭台、四十九個の団子を刺す竹串が七本、(一本に七個の団子を刺す。)また何を意味するのか分からないが、半紙を短く切ってそれを線香花火のように竹の棒に散りばめる紙細工。「死花」と呼ぶそうだ。竹箸はなぜ五本なのかと古老に問うと、二人が拾い残りの一本は骨の部位を指し示すものなのだと言う。
ともあれ、私の集落での葬送の準備は、誰ひとり文句も言わず、かと言って詳しい意味も分からぬまま、じつに和やかに進められてゆくのである。
穏亡は「式場係」と呼ばれ、区長である葬儀委員長につづく要職とされているが、この係りを好む者はいない。順番制で一軒に一人、四名が割り当てられる。私もさかのぼること七回、七人の死者を火にかけた。
村人が村人の死体を処分する。冒頭の一首は、この体験がベースになっている。昔はどの集落でもこのような葬送の儀式があった。穏亡の役目は残された村人たちの逃れることの出来ない「つとめ」であり、今から思えばそれが前登志夫の『谷行』であったとも言える。
前登志夫の村、下市町清水からこの集落葬の慣わしがなくなって久しい。三十年以上も前、私が前登志夫邸を訪ねた折、村の玄関とも言える車道のすぐ脇に火葬場跡地であったことを示す墓碑が立っていた。「こんな所に」と私は思った。どの集落でも火葬場は村のはずれか、人家の無い高台にある。
前登志夫は著書、「山河慟哭」の中で「谷行の意味が私に重たいのは、戦後も山中に自らを閉じこめなければならなかった来歴によるもの」とし、修験道の石子詰による谷行の掟と自分の来歴を重ね、さらに「集団から離脱した個の運命」、つまり生者と死者の分離が谷行の掟なのだという。火にかける生者と火をあびる死者。
小さな村の入り口をふさぐ石の碑を、私はひそかに『谷行の墓碑』と呼んでいる。
※谷行=山中の行で、病気になったり動けなくなった者は、谷底に突き落とされ石子詰めにされるという修験道の掟。